「インナーヒーリング」について3回目。
私が考えるインナーヒーリングの問題点の3つ目は、いわゆる精神疾患にはまったく対応できない点だ。
何らかの精神疾患を抱えた人が教会に来ると、遅かれ早かれ、周囲はそれを認識する。統合失調症やうつ病の人を前にして、どうにも対応に困る場面が出てくるからだ。それで牧師がどう対応するかというと、大抵は「専門的な援助が必要だ」と判断する。その判断自体は間違っていない。けれどインナーヒーリングの有用性を主張し、「聖霊の洞察によって過去の傷を癒す」と豪語する割には、ずいぶん弱腰だ。
そういう牧師らは普段から、一般の心理療法やカウンセリングを軽視する傾向にある。「彼らには霊的な視点がない」とか、「彼らが扱えるのは魂の表層だけだ」とか言うのを実際に聞いたことがある。つまり自分のカウンセリングやインナーヒーリングの方が、一般のそれより優れている、と言う訳だ。
であるなら、一般の専門家でも苦慮するような精神疾患を堂々と扱ったらいい。けれどそうしないのは、できないとわかっているからだ。
もちろん特別な精神疾患のない人間相手のカウンセリングも重要だ。精神的健康を維持するために行われるカウンセリングもある。けれど、より危急かつ深刻なニーズを抱えた人々に手を差し伸べられない「ヒーリング」は、本当に有用なのだろうか。
それに「聖霊の洞察を得て、イエス・キリストの御名によって過去の傷を癒す」のであれば、どんな病でも癒されなければおかしい。そうでないと神様は無能だということになってしまう。一般のクリスチャンにはインナーヒーリングを大々的に売り込む割に、専門的な精神疾患には指一本触れようとしないのは、全知全能の神様が、精神疾患に対しては何もできないと言っているのと同じではないか。
現在、日本で臨床心理士になろうとしたら、大学院まで卒業しなければならない。そこまで専門的な学習を長期間しなければ、人の心は扱えないという訳だ。けれど、このキリスト教界のインナーヒーリングはどうだろうか。その「治療者」はどんな学習を、どれだけしたのだろうか。ちなみに私が知っている「インナーヒーリング牧師」で言えば、専門的な学習など一切していない。
もちろん学習や学歴が全てと言うつもりはない。けれど、それらをバカにしてはいけない。たとえば、インナーヒーリングを受けたら余計にバランスを崩した、より悪い状態になった、という人も少なくない。私の友人にもいる。そういうケースの場合、治療者は「より深く大きい傷があって、それが痛み出したのだ」とか言う。ものは言いようだ。そういう精神療法の危険性を知らない素人が、不用意に手を出してしまったとしか、私には思えない。そしてそれは「勉強不足でした」では済まされないレベルだ。
そういうインナーヒーリングの「安易さ」が、いろいろな弊害を生み出していると思う。たとえば以前取り上げた同性愛嗜好の人をつかまえて、「過去の傷があなたをそうしたのだ」とか言う。それは異性愛嗜好者に対して、「過去の傷があなたをそうしてしまったのだ。あなたは本当は同性愛嗜好だ」と言うのと変わらない。全然的外れな話だ。
しかしそういう的外れを、いかにも真剣な顔で、もっもとらしく話す。だから真に受けてしまう人がいる。そうなるとインナーヒーリングはもはや、百害あって一利なしだ。
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