什一献金について思うこと・その2

2014年6月30日月曜日

「什一献金」問題

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 前回に続き、什一献金について考えてみたい。
 
 什一献金とは、全収入の十分の一を神に返す、という趣旨の献金だ。その聖書的根拠は、マラキ書その他の旧約聖書にある(新約にはない)。
 これを捧げる先は多くの場合、所属する教会だ。つまり「神に返す」とは現在、「教会に捧げる」とイコールになっている。
 
 全収入の一割というのは、決して小さな負担ではない。特に小さな子どもがいる家庭や、介護を要する家庭などには、重い負担ではないかと思う。しかし同時に、それは教会にとって重要な収入源となっている。什一献金なしには教会会計が成り立たない、という教会は決して少なくない。
 と、いうようなことを前回書いた。
 
 ここで、献金の本質について考えてみたい。献金とは何だろうか。それはクリスチャンにとって神への感謝であり、善意であり、「信仰の測り」に応じたものであり、それぞれにできる範囲で(時にはそれ以上に)捧げる「心」であろう。「やもめの献金」からわかる通り、金額の大小は問題ではない。捧げたい、感謝を表したい、という心の行為である。どの教会でも「献金の勧め」で同じようなことが言われる。つまり、捧げたいと思う範囲で捧げるのが献金、ということだ。嫌々ながら捧げるのは祝福にならない、というのも背景にある。
 
 そういう本質から考えてみると、毎月必ず収入の一割を捧げることが決められているというのは、「捧げたい」から「捧げなければならない」への転換だと言える。個人の自由でなく、義務となっている。そしてそこには、「聖書を根拠にそう決められているから、払う以外にない」みたいな、若干「後ろ向き」な動機が生まれ得るだろう。
 
 ところで、クリスチャンの義務とは何だろうか。
 他者を愛することとか許すこととか、イロイロありそうだ。けれど、究極的な、絶対にこれだけはしなければ救われない、という意味での義務は、イエス・キリストを神と信じることであろう。教会員にならなければ救われないとか、伝道しなければ滅ぶとか、一定量の奉仕をしなければ地獄に落ちるとか、そういうことはない。その意味で、現代を生きるクリスチャンに課せられた義務は少ない。
 その点、旧約の時代は大変だった。律法というのがあって、その細かい規定を全て正しく行わなければダメだったからだ。つまり、山のような義務で「がんじがらめ」だった訳だ。
 
 そうやって旧約時代、新約時代と分けて考えてみると、なぜ旧約の什一献金の義務だけが現在も残っているのだろうかと、疑問に感じなくもない。逆に言うと、それならなぜ他の律法の義務は守らなくていいのだろうか、という疑問だ。
 
 それに、旧約聖書から什一献金を補強する箇所ばかりが取り上げられるのは、なんだかproof textingな気がする。なぜ新約の時代にふさわしく、新約聖書を使わないのだろうか。
 もっとも、什一献金について新約聖書は一切書いていないから、使いようがないけれど。
 
追記)
 ちなみに私個人は什一献金を否定するつもりはない。また献金自体はすべきだと思っている。新約聖書もそれを勧めている(命じていはいない)。捧げられるなら十分の一でも十分の二でも捧げたらいい。パウロも「心で決めたとおりにしなさい」と言っている(第2コリント9章7節・新改訳)。

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