前回に続き、什一献金について考えてみたい。
什一献金とは、全収入の十分の一を神に返す、という趣旨の献金だ。その聖書的根拠は、マラキ書その他の旧約聖書にある(新約にはない)。
これを捧げる先は多くの場合、所属する教会だ。つまり「神に返す」とは現在、「教会に捧げる」とイコールになっている。
これを捧げる先は多くの場合、所属する教会だ。つまり「神に返す」とは現在、「教会に捧げる」とイコールになっている。
全収入の一割というのは、決して小さな負担ではない。特に小さな子どもがいる家庭や、介護を要する家庭などには、重い負担ではないかと思う。しかし同時に、それは教会にとって重要な収入源となっている。什一献金なしには教会会計が成り立たない、という教会は決して少なくない。
と、いうようなことを前回書いた。
と、いうようなことを前回書いた。
ここで、献金の本質について考えてみたい。献金とは何だろうか。それはクリスチャンにとって神への感謝であり、善意であり、「信仰の測り」に応じたものであり、それぞれにできる範囲で(時にはそれ以上に)捧げる「心」であろう。「やもめの献金」からわかる通り、金額の大小は問題ではない。捧げたい、感謝を表したい、という心の行為である。どの教会でも「献金の勧め」で同じようなことが言われる。つまり、捧げたいと思う範囲で捧げるのが献金、ということだ。嫌々ながら捧げるのは祝福にならない、というのも背景にある。
そういう本質から考えてみると、毎月必ず収入の一割を捧げることが決められているというのは、「捧げたい」から「捧げなければならない」への転換だと言える。個人の自由でなく、義務となっている。そしてそこには、「聖書を根拠にそう決められているから、払う以外にない」みたいな、若干「後ろ向き」な動機が生まれ得るだろう。
ところで、クリスチャンの義務とは何だろうか。
他者を愛することとか許すこととか、イロイロありそうだ。けれど、究極的な、絶対にこれだけはしなければ救われない、という意味での義務は、イエス・キリストを神と信じることであろう。教会員にならなければ救われないとか、伝道しなければ滅ぶとか、一定量の奉仕をしなければ地獄に落ちるとか、そういうことはない。その意味で、現代を生きるクリスチャンに課せられた義務は少ない。
その点、旧約の時代は大変だった。律法というのがあって、その細かい規定を全て正しく行わなければダメだったからだ。つまり、山のような義務で「がんじがらめ」だった訳だ。
他者を愛することとか許すこととか、イロイロありそうだ。けれど、究極的な、絶対にこれだけはしなければ救われない、という意味での義務は、イエス・キリストを神と信じることであろう。教会員にならなければ救われないとか、伝道しなければ滅ぶとか、一定量の奉仕をしなければ地獄に落ちるとか、そういうことはない。その意味で、現代を生きるクリスチャンに課せられた義務は少ない。
その点、旧約の時代は大変だった。律法というのがあって、その細かい規定を全て正しく行わなければダメだったからだ。つまり、山のような義務で「がんじがらめ」だった訳だ。
そうやって旧約時代、新約時代と分けて考えてみると、なぜ旧約の什一献金の義務だけが現在も残っているのだろうかと、疑問に感じなくもない。逆に言うと、それならなぜ他の律法の義務は守らなくていいのだろうか、という疑問だ。
それに、旧約聖書から什一献金を補強する箇所ばかりが取り上げられるのは、なんだかproof textingな気がする。なぜ新約の時代にふさわしく、新約聖書を使わないのだろうか。
もっとも、什一献金について新約聖書は一切書いていないから、使いようがないけれど。
もっとも、什一献金について新約聖書は一切書いていないから、使いようがないけれど。
追記)
ちなみに私個人は什一献金を否定するつもりはない。また献金自体はすべきだと思っている。新約聖書もそれを勧めている(命じていはいない)。捧げられるなら十分の一でも十分の二でも捧げたらいい。パウロも「心で決めたとおりにしなさい」と言っている(第2コリント9章7節・新改訳)。
|ちなみに私個人は什一献金を否定するつもりはない。また献金自体はすべきだと思っている。新約聖書もそれを勧めている(命じていはいない)。捧げられるなら十分の一でも十分の二でも捧げたらいい。
返信削除そうして、許しちゃうのですよね。
そりゃ、そうも書いてあるけどさ。
だから、十一献金欲しい、なければ困る、しないやつは肉的だ、etcetc
って言い方をするひとが後を絶たないのです。
什一の厄介なところは、マラキ書にハッキリ書いてあることだ。実は、当時の風習を丁寧にフォローすればそうでないのは、ここを読んでる人なら分かってるでしょうけど。自発的な意思の信仰心があるなら十分の九でも全然構わないw
削除初めまして。いつも考えさせられる記事をありがとうございます。
返信削除最初のコメントの方に意見をしているようで恐縮なのですが、
十一献金を薦めているわけではないが、それを否定しない人に対して拒否反応を起こすのも、
「十一献金をしないなんてとんでもない。神のものを盗んでいる」と断罪するのも
基本的には変わらないのではないのでしょうか。
それぞれ神様にあって確信があって実行すればよいのであって、人に押し付けるものではないと思います。
ローマの14章で、食べる人は食べない人を、食べない人は食べる人を裁いてはいけませんとありますが、献金の話についてもここが当てはまるような気がします。
だから私は、筆者さんの追記にアーメンといいたいです。
什一献金の問題は、したくない人が無理やりさせられるとか、したい人がするぶんには構わないとか、そういうことではないと思います。
返信削除本当に考えなくてはならないのは、什一献金をいうのであれば、それを教会のホームページの冒頭に大きくはっきりと「うちは税引き前の総収入の一割を献金してもらいます。」と出しておかないことなのです。これこそが重要な問題なのではありませんか?
そうなんです。心で決めた通り、で良い筈です。しかし、十一は神のものとしれっと言う牧師は、聖書を組織の運営のために都合良く使っているだけで、どこからその教理が来たのか?
返信削除私達は長い間ずっとそれが真理だと考えて来ましたから。
はあっっ?( ・∇・)
本当にご都合主義!
イエスの誕生日しかり。復活日しかり。
新約聖書の献金の箇所は、
義援金の事だと。
まさしく、現代のパリサイ人でないの?( ・∇・)
と言って差し上げたいです。
ある大伝道者の若かりし頃、経済的に苦しい頃のお話。
返信削除集会で献金袋が回ってきて、彼は10ドル紙幣のつもりで、100ドル紙幣を入れてしまいました。後で気づいて、奥さんに『ごめん、10ドルのつもりが間違って100ドル捧げてしまった』すると奥さん、「大丈夫よ。神様は10ドルだと思って下さってるわよ。」
私たちには、完成された啓示である聖書が与えられています。聖書の正しい読み方についても、情報が与えられています。
真理を求めている人には、異言のことであれ、献金のことであれ、神様は時が来たら、必ず教えて下さいます。そのために一時的に、カルト的な教えの中で苦しむ時期を通る人もあるでしょう(私たち家族がそうでした)。神様は間違いを教える教師さえ用いて私たち信者を強くされます。彼らが許容されていいわけではありません。偽りの教えをする教師たちには、厳しい取り扱いが必ずあります。
しかし、聖書を正しく学ぶ責任は、信者一人ひとりにあることを、今の時代、もっと自覚していいのではないかな~と思います。
3年くらい前の、記事みたいですしコメントも当時のものみたいですね。
削除什一を忖度して、洗礼を渋り続けて、教会をいくつか周り最後にはエキュメニカル派の教会で洗礼受けました。献金は雀の涙程度しかできなくて申し訳ないです。
厄介なのは、善意から無理難題を勧めてくる聖職者です。
悪気は、なく。それを信仰だと信じてます。
人間的には、良い人だと、ある意味「悪徳牧師」より対応に困ります。
全く、善意で、什一を一種の生命保険代わりに勧めてくる人がいます。
その聖職者が本当にいい人かどうかを見極める方法があるとしたらこれでしょうかね。
削除笑顔でこういうのです「献金でビッグイシューを買いました。聖書には最も小さきものにしたのは私にしたのであると書いてあるからです」
これでどういう反応をするかみものですよ。もしその聖職者が本当にいい人なら、きっと「それはよいことをした」と」ほめてくれるでしょう(笑)。