「祈り」について

2014年6月3日火曜日

「祈り」に関する問題

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「祈り」について。
 
 クリスチャンが神様に「祈る」のは、日常的なことであろう。
 祈りには最低限のルールみたいなもの(『イエス・キリストの御名によって~』とか)はあるけれど、基本的には何をどう祈っても自由だし、何も気負うことはない。何も要らないし、ちょっとした隙間時間でもできる。もちろんじっくり時間をかけて祈ってもいい。自分の為にも他人の為にも祈れる。何なら全人類の為に祈ってもいい。
 
 そのように自由な「祈り」だけれど、案外自由でない時がある。人前で、代表して祈るような時だ。
 もちろん、まわりに誰がいようが関係なく、自由に自分らしく祈れるという人はいるだろう。けれど多くの人(私も含めて)は、そうではないと思う。どうしても、「どう聞かれるか」「どう思われるか」「内容が十分かどうか」等が気になってしまう。だからギコチない、借り物みたいな祈りになってしまうことがある(そういう経験がある人は少なくないだろう)。
 
 そして、そういうことが気になるのは、自分が祈る時だけではない。他人が祈っている時も、私たちは意識的にか無意識的にか、同じような基準でそれを聞いていることがある。だから人の祈りの流暢さとか、力強さとか、的確さとか、御言葉を引用しているかどうかとか、そういう基準で「あの人の祈りはすごい」とか、「あの人は祈りの人だ」とかいう評価を私たちは自然にしているのではないだろうか。
 
 どれだけ祈れるかには、もちろんクリスチャン歴も関係するだろう。他にも聖書をどれだけ読み込んでいるか、どれだけ暗唱しているか、そしてその祈る内容についてどれだけ知っているか、どれだけ思い入れがあるか、といったことも関係すると思われる。けれどそういう経験や姿勢の差がどれだけあったとしても、人目を気にしないで祈ることとは直接的には関係がない。というか経験的には、何年クリスチャンをやっていてもその辺は変わらない気がする。
 
 そしてそういう評価は、やはり能力主義的な基準に基づいている。「どれだけできたか」とか、「これだけできれば十分だろう」とか、「あの人よりはマシだろう」とか、そういう「行い」に視点がズレてしまっていると言わざるを得ない。いわゆる律法主義だ。
 
 しかし、人はもともと表面的なものに左右される存在だ。かくいう私もそうだから、何もエラそうなことは言えない。
 時々「就職活動に顔採用はあるのか」というテーマがテレビなどで取り上げられる。それを検証する実験も複数あるけれど、どれも「顔採用はある」という結論に達しているようだ。
 ある実験では、本物の就活生の中に、同年代の男女の現役モデルを混ぜていた。そして経歴的にはほとんど変わらない就活生群をつくり、そのうち2割はモデル、という構成にした。そして実験の趣旨を教えていない採用担当者らに模擬面接をさせたところ、2割しかいないモデル群の採用率が、明らかに高かったという。
 その実験の再現性がわからないから断言できないけれど、そういう結果になるのは、想像に難しくない。それだけ人は、見えたり聞こえたりする情報に左右される、という傾向があるのだと思う。だから祈りにおいても、「どれだけ上手に祈れたか」が、自分を含むクリスチャンに対する評価になりやすいのだろう。

 繰り返すが、それはある程度は仕方のないことである。しかしそういう能力主義的な視点のズレに気づかず、あるいはそれが正しいと思い込むことによって、どんどん能力主義に傾いていくのは問題ありだ。なぜならその最終形態は、「どれだけ素晴らしい祈りを披露できるか」だからだ。そしてそれは、「人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈る」偽善者たちの姿だ(マタイ6章5節・新改訳)。

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