什一献金(十分の一献金)について思うこと

2014年6月29日日曜日

「什一献金」問題

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 什一献金、つまり十分の一献金を制度化(義務化)している教団教派や教会はどれくらいあるのだろうか。
 私はほとんど福音派方面の事情しか知らないけれど、これを制度化していない教会というのは全然聞かない。多くの教会は教会員に専用の(氏名入りの)献金袋を渡し、マラキ書を開き、理路整然と説明して、什一献金を始めさせている。
 
 それが当然かどうか、良いか悪いかという話でなく、それはすでにシステム化されている。教会員が捧げる什一献金が、教会会計の主要な部分、あるいは無視できない部分を占めているという教会は少なくない。何かの収益事業をしていれば別だろうけれど、日曜礼拝や祈祷会を主な活動としている教会には、他に収入の当てもない。
 知人とそれについて話した時、「もしも什一献金がなかったら」と仮定したところ、「やってけないでしょ」という結論になった。そしてそれは、少なくとも私が知る教会では、まったく疑う余地のない事実であった。
 
 什一献金の根拠となる聖句は、マラキ書3章8~10節だ。つまり人の収入の十分の一は神のものであり、それを返さない者は盗人としてのろいを受け、返す者はあふれるばかりの祝福を受ける、という。
 それに対するもっともな反証もある。けれど、什一献金を制度化している教会では、そういう話はそもそも話題に上らない。当然すべきこと、自然なこと、皆がしていることとして話が進むからだ。言われた方は、盗人になりたくない、のろわれたくない、という気持ちが少なからずあって、それに応じることになる。
 
 什一献金云々の前に、その話の進め方は一方的ではないかと思う。けれどその辺はとりあえず譲る。私がもっと疑問に思うのは、什一献金なしに運営できない教会を、当たり前と考えていいのかどうか、という点だ。
 もちろん什一献金信奉者は、「そんなの当たり前でしょ、信徒は聖書の言う義務を果たして祝福を受けるのだし、教会はそれでさらに豊かになるのだから」というようなwin-win関係を持ち出すだろう。けれど収入、たとえば毎月の給料の、税金等が引かれる前の額(給与総額)の十分の一を献金し、それ以外にも礼拝献金とか、会堂維持献金とか、宣教献金とか、〇〇献金とかイロイロ捧げることが多いのだ(もちろん強制ではないはずだけれど)。そういうのを真面目にやろうとしたら、一体いくら捧げることになるだろうか。
 
 たとえば月給30万円の場合、什一献金で3万円、礼拝献金等で数千円から~数万円、それに税金等が引かれ、手元に残るのは20万円弱くらいだろう。若者の一人暮らしならまだ可能かもしれないけれど、それで家族を持ったらやっていけるのだろうか。仮にやっていけるとして、貯蓄まで手が回るだろうか。
 もちろん自ら進んで、喜んで捧げて満足しているならいいかもしれない。精神的満足を献金することで得た、とも言えるだろう。けれど、それにしても大きな代償のような気がする。そういう信徒らの決して小さくない代償の上に教会が成り立っているとしたら、それを当たり前と言っていいのだろうか。
 
 とは言うものの、それはすでに多くの教会でシステムと化している。什一献金をしていない教会の話を知人にしたら、「いったいどうやって運営してるんですか?」と聞かれたくらいだ。
 そういう什一献金で教会が成り立つのが当たり前のことなのか、あるいは実は異常なことなのか、なんとも判断しかねる。

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