什一献金、つまり十分の一献金を制度化(義務化)している教団教派や教会はどれくらいあるのだろうか。
私はほとんど福音派方面の事情しか知らないけれど、これを制度化していない教会というのは全然聞かない。多くの教会は教会員に専用の(氏名入りの)献金袋を渡し、マラキ書を開き、理路整然と説明して、什一献金を始めさせている。
それが当然かどうか、良いか悪いかという話でなく、それはすでにシステム化されている。教会員が捧げる什一献金が、教会会計の主要な部分、あるいは無視できない部分を占めているという教会は少なくない。何かの収益事業をしていれば別だろうけれど、日曜礼拝や祈祷会を主な活動としている教会には、他に収入の当てもない。
知人とそれについて話した時、「もしも什一献金がなかったら」と仮定したところ、「やってけないでしょ」という結論になった。そしてそれは、少なくとも私が知る教会では、まったく疑う余地のない事実であった。
什一献金の根拠となる聖句は、マラキ書3章8~10節だ。つまり人の収入の十分の一は神のものであり、それを返さない者は盗人としてのろいを受け、返す者はあふれるばかりの祝福を受ける、という。
それに対するもっともな反証もある。けれど、什一献金を制度化している教会では、そういう話はそもそも話題に上らない。当然すべきこと、自然なこと、皆がしていることとして話が進むからだ。言われた方は、盗人になりたくない、のろわれたくない、という気持ちが少なからずあって、それに応じることになる。
什一献金云々の前に、その話の進め方は一方的ではないかと思う。けれどその辺はとりあえず譲る。私がもっと疑問に思うのは、什一献金なしに運営できない教会を、当たり前と考えていいのかどうか、という点だ。
もちろん什一献金信奉者は、「そんなの当たり前でしょ、信徒は聖書の言う義務を果たして祝福を受けるのだし、教会はそれでさらに豊かになるのだから」というようなwin-win関係を持ち出すだろう。けれど収入、たとえば毎月の給料の、税金等が引かれる前の額(給与総額)の十分の一を献金し、それ以外にも礼拝献金とか、会堂維持献金とか、宣教献金とか、〇〇献金とかイロイロ捧げることが多いのだ(もちろん強制ではないはずだけれど)。そういうのを真面目にやろうとしたら、一体いくら捧げることになるだろうか。
たとえば月給30万円の場合、什一献金で3万円、礼拝献金等で数千円から~数万円、それに税金等が引かれ、手元に残るのは20万円弱くらいだろう。若者の一人暮らしならまだ可能かもしれないけれど、それで家族を持ったらやっていけるのだろうか。仮にやっていけるとして、貯蓄まで手が回るだろうか。
もちろん自ら進んで、喜んで捧げて満足しているならいいかもしれない。精神的満足を献金することで得た、とも言えるだろう。けれど、それにしても大きな代償のような気がする。そういう信徒らの決して小さくない代償の上に教会が成り立っているとしたら、それを当たり前と言っていいのだろうか。
とは言うものの、それはすでに多くの教会でシステムと化している。什一献金をしていない教会の話を知人にしたら、「いったいどうやって運営してるんですか?」と聞かれたくらいだ。
そういう什一献金で教会が成り立つのが当たり前のことなのか、あるいは実は異常なことなのか、なんとも判断しかねる。
要は献金しただけの返しを教会=牧師がしたかどうかだと思います。
返信削除3万円という数字に見合うだけの働きを献金者(世帯)に対してしたかどうか。
所得税(国)がそれだけ取れば高っかいなぁと皮肉るし、住民税(県・市町村)と健保、年金、介護保険、雇用保険と総ていっしょくたにして、ぜんぶお上が抜き取ったのだといわれても仕方はないのに。それでもそれぞれの天引きには理由も法的根拠もあるけど、十一献金はどうだろう?
こんなにもらって、申し訳ない!と受け取った側が意識して考えるようになれば一歩前進ですが藁
私が不思議なのは、什一屋と呼ばれるこういったカルト新興宗教の教会の主張です。什一献金は神聖にして侵すべからずなのでしょうが、掲示板でよくいわれているのが、「そんなに什一献金制度が正しいと主張するのなら、教会のホームページの最初に大きく堂々と「うちは正しいお教会様ですので税引き前の総収入の一割を献金していただきます。」となぜ書かないのか?ということです。什一献金制度の正統性を声高に主張してはいますが、ホームページの最初に一切書かないということは、実は什一献金制度は間違っていると、カルト新興宗教側は認めている証拠であるといえます。
返信削除私は、以前何とも思わずに感謝して十一を捧げた口です。
返信削除しかしある時に、聖書全体から解き明かした説を聴きました。
ハッキリと十一は、聖書の一部を抜き出して都合良く編み出した教理であり、全くの搾取制度であると考えています。
所謂税金の事であり、もしも教会が、献金と言う(いや。寄付と言うべき。)制度でやって行くのならば、会費制とすべきです!
十一献金から解放された 今、思う事。
返信削除以前所属していた教会は 十一・感謝・約束・教会献堂・宣教献金・牧師サポート献金・牧師誕生日献金・訓練学校献金・韓国献金・おみやげ献金・寝具献金・などありとあらゆる献金を募っていた。その度に信徒はへとへとになっていた。
もう、こうなったら十一ではすまないのである。十一だけでも大変であった我が家のように、やもめが一人の給料で3人の子供を育てての十一と、独身一人の十一を考えてみたことがある。
神のものを盗んでると言われて、しないわけにはいかなかったが、ほとんど、喜べない時もあった。むしろ、不安との戦いでしかなかった。神様に返したし、その他もろもろの献金もしたから、絶対足りないということが無いように祈っていたと思う。
教会を移ってみて、献金の強制がないこと、十一の封筒も置いてないこと、新約では、心に決めた通りにと言った神の御言葉の意味が分かりつつある事など、十一でも十二でも例え十一にみたなかったとしても、喜んで捧げる心だと言う事を今教えられている気がする。
ちなみに、旧約は、なしと言う教会があるけど、そんなことはありません。と以前の教会牧師に言われ鵜呑みにしていたので、その事について戸惑っていると、親しい姉妹に じゃあ、あなたは罪をおかしたら、動物を殺してあがないのための捧げものをするの?って聞かれたときハっとした。
何故、神様は聖書を旧約と新約に分けたのか、キリストが来た意味をもう一度考えさせられる思いだった。十一は今はしてないけれど、躊躇しないで決めた分を心から捧げる事ができる。また、もっと その都度、その都度捧げたい気持ちが湧いてきた。
ちなみに十一献金をしなくなったからといって 何か祝福とられた感もなく、しいていえば、私も子供たちも少しゆとりができたし、家族旅行も連れて行ってあげれた。
何より、今が平安に思う。
よかったですね。神様は人間のお金を当てにするようなスケールの小さい方ではありませんよ。
削除「お金様」を拝むのは守銭奴牧師です。
アーメン (ニッコ)
削除「献金」等と言うより「寄付」だと言う事です。
返信削除寄付と言えば語弊があるし、みっともない。だから「神にささげる物なのです」と言えば格好良いし、義務だから!と言える!
全くばかばかしい事です。汗水たらして身体に鞭打って稼いだ金を、みすみす何で他人の生活のために、ひいては宗教家の贅沢のために、くれてやらなければならないのでしょう?!
私たちは「よーく考える」必要があります。講壇からえっらそうに宣う説教に頷かないで、自分の頭でよ~く考えて、違うと思う物は徹底的に排除!
やる必要のない事・物はやらない!
ちなみに、十一献金?もう数ヶ月前にやめました!!二度と、する事も無いでしょう!!!
ちなみにうちの二代目牧師、「忘れていた十一献金も思い起こさせて下さい」って祈るんだよね。神様のものを何故お前が催促する?って思わず突っ込みたくなったよ。
返信削除許しの神が〇〇〇円未徴収って催促するんかい?自分の里帰りの為に信徒の金 当てにするなや。ちなみにその牧師、その前に僕の給料は神様が与えたものだから、神には感謝するが、信徒には感謝しない。ってこれまた礼拝でメッセージしていたな。それなら、神様にたのめよ。自分の里帰り費用ぐらい。その後、すぐにそこを出たのは言うまでもあるまい。
今や、福音主義的・聖霊派的新興宗教系統のプロテスタント教会は、ほとんど十一献金を正当化しています。
削除何でも神。神にささげるのだから当たり前。捧げないのは盗んでいるとか。
宗教家の商売です。それ以外にはありません。
罪ある人間が一生懸命働いた浄財を奪わないと、全能の生ける創造主「神」なる物は、生きてはいけないようです。
神の名を借りた、あくどい商売に他なりません!
皆さん!目を覚まして脱会しましょう!