「祈り」について・その2

2014年6月4日水曜日

「祈り」に関する問題

t f B! P L
「祈り」について2回目。

 前回の内容をまとめと、
 人前で祈る(人に祈りを聞かせる)ことによって、「祈り」を能力主義的に評価する傾向が現れる。そしてその評価はクリスチャンとしての上下関係(?)を形成し、挙句には「素晴らしい祈りを人前で披露する」という偽善を正当化するに至る。
 というようなことになる。
 今回は、もう少し具体的に突っ込んで書きたい。

 前回「祈りは自由だ」と書いたけれど、人前で祈る時点で、その自由はかなり阻害される。神様と一対一でなら気にしなくていい諸々、たとえば順序とか整然さとか簡潔さとかを、気にしなければならないからだ。そしてそれ自体はごく自然なことだ。けれど、どこまで気にするかについては注意しないと、上記のような問題にもなり得る。

 その教会の雰囲気というか文化によっても違うと思うけれど、ある種の教会では、その祈りが教理的に正しいかどうかが重視される。たとえば「○○については天の父なる神様に」「△△については御子イエス様に」「××については助け主なる聖霊様に」、それぞれ相手を使い分けなければならなかったりする(それが本当に教理的に正しいかどうかは別問題だけれど)。
 また、「癒し」についてもある。たとえば病人のために祈るとき、「癒して下さい」と祈るのはNGとなる。なぜなら「聖書にはそのような祈りはない。癒しは命じるものだ」からだ。だから癒しを願う時は、「癒されよ!」と命じなければならない。

 もちろん、間違えたからといってその都度注意されたり叱責されたりする訳ではない。けれどそれを聞いている牧師が「アーメン」と言うか言わないかを、信徒らはかなり気にしている。教理的におかしい、あるいは意に沿わない祈りの場合、牧師は「アーメン」と言わないからだ(そしてそれは「不信仰」とか「失格」とかを意味する)。

 しかしそういう雰囲気は当然ながら、祈りをより不自由なものにする。まるで地雷だらけの危険地帯を恐る恐る進むかのようだ。

 たとえば誰かの癒しを願う時、「癒して下さい」という言葉が出てくるのは、ごく自然なことではないか。たとえそれが教理的でなくても、それを聞く神様には私たちの気持ちや意図がわかるはずだ。私たちが多少間違えたからといって、その祈りを無視したり無効にしたりするとしたら、その神様とはどれだけ器量が狭いのだろうか。まるで融通の効かない審判のようではないか。

 またその発想は、神様を道具のように使うのと同じだ。「こういう場合はこう祈れば聞かれる」というような、ハウツーとして祈るからだ。そこにあるのは使用者(私)と被使用者(神)の関係であって、心の通い合う関係ではない。神様はそんな関係を願っておられるだろうか。

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