本物と偽物の共存。「人民寺院」の集団自殺について・その2

2014年6月15日日曜日

カルト問題

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 前回の記事で、「人民寺院」の集団自殺の背景には「肯定のスパイラル」があると書いた。教祖ジム・ジョーンズの慈善事業を「肯定」した信徒らは、同様に彼の教理や言行の「ズレ」を肯定し続け、最後は集団自殺までも肯定することになった。
 それと同じ構造が現在のカルト化教会にも見られる。素晴らしいと思って始めたことに、次第に苦しめられていく。
 
 この構図を見て、「そんなバカな」と思う人がいるかもしれない。けれど、オレオレ詐欺のニュースを見て「私は騙されない」と豪語する人が被害に遭ってしまうことがある。つまり自分がそれを実際に体験するまで、人は何とでも言える。
 
 このスパイラルに陥ってしまうのは、そこに罠があるからだ。「本物と偽物の共存」という罠だ。「正と不正の混在」と言い換えてもいい。
 
 人民寺院で言えば、当初の目的であった人種差別撤廃運動そのものは、多くの人にとって良いこと、必要なこと、正しいことであった。救われた(入信したという意味でなく)人が大勢いた。その運動は良いものだった。
 しかしそのプロセスにおいては、不正が混じっていた。立場を利用した暴力、不当な扱い、「神のために」という大義名分にカモフラージュされた数々の搾取。それは悪いものだった。
 多くの良いものの陰に隠れた、悪いもの。
 その運動が発展していく過程で、いつしか両者の比率が逆転した。最後は大部分が悪いものになってしまった。
 
 こうした「本物と偽物の共存」は、カルト化教会にも共通している。そこには良いもの、喜ばしいもの、人のためになるもの、感動、美談が溢れている。不自然なくらいに。少なくとも初めのうち、悪いものが全然見えない。
 けれどそこに所属し、長くいることで、違う景色が見えてくる。それは「ちょっとした違和感」として始まる。これでいいのかと考えることもある。けれど確かに溢れている数々の良いもの、もともとあったリーダーへの尊敬と信頼、仲間との連帯感などがそれを妨げる。
 これが、「肯定し続けることで最後はとんでもないものまで肯定してしまう」現象につながる。
 
「カルト化教会にひっかかるなんてバカだ」と言う人もいるだろう。それは結果だけ見ているからだ。しかしそういう教会がはじめから明らかに悪ければ、誰も近づかない。すごく良いもの(他者への善行など)が沢山あるから、近づくのだ。意地汚く金儲けに走って騙されたのとは違う。
 
 こういう話で引き合いに出される聖句に、ピリピ1章18節がある。「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます」(新改訳・抜粋)
 つまり動機が悪くても、やり方が悪くても、福音の真髄は変わらず、それが伝えられるのは良いことだ、プロセスでなく結果を喜ぶ、ということだ。
 しかしそれは伝道に関する話であって、長期に渡る教会形成には適用しかねるだろう。次第に福音が歪められ、信徒らが疲弊し追いつめられていくのを喜ぶべきとは思えない。それを喜ばねばならないとしたら、教会は生き地獄と同じだ。
 
 もちろん何にでも本物と偽物は共存している。完璧に正しい、あるいは完璧に悪いというものはない。
 だから私たちが警戒すべきは、それらが共存していることに対してでなく、あたかも悪いものなど何もない、すべてが良いものだと見せかけている姿に対してだ。

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