2015年5月31日日曜日

【雑記】地震・癒しの祈り・復興支援詐欺・セミナー案内

 最近気になったこと、考えさせられたこと、など小ネタを羅列する。

■都内で震度5強の強い地震

 昨日の20:24頃、小笠原諸島を震源とする地震が発生した。都内では震度5強という強い揺れだった。交通機関は一時ストップし、負傷者や帰宅困難者もあり、深夜まで混乱が続いた。影響は全国規模だったようである。
 このところ小さくない地震が続いており、先の箱根山噴火兆候の件もあって、一部の聖霊派クリスチャンらを浮足立たせている。
「終末の兆候が出ている。これは本当に近い」
 という訳で祈れ、歌え、踊れ、献金しろ、献品しろ、という終末詐欺的行為が一部で行われているようである。

 終末詐欺とは、
「終末が来る」
「持っていても仕方がない」
「それより捧げて徳を積みなさい」
 ということで信徒にいろいろ捧げさせる類のものだけれど、結局「終末は来なかった」というオチになる。けれどそれだと詐欺だとバレるので、彼らはこう言う。「来るはずだったけれど、主の憐れみによってギリギリで回避された」

 だから終末詐欺は繰り返される。毎回危機を煽られて、いつもギリギリのところでセーフだった、ってことになる。ハリウッドで大量生産されるSFパニック映画と同じ。皆さん気を付けましょうねー。

■癒しの祈りの件

 信徒の家族が末期ガンで、牧師がお供を連れて祈りに行った。癒しのためである。
 その方はもうターミナルで、体は沢山の管につながれ、意識もあるかないかの状態。辛うじて返事をする程度。しかし「牧師が祈りに来た」のは理解しているようで、頭を下げるようなしぐさが時折見られた。

 それで牧師と連れが「異言」で祈ること数時間。何の変化もなく経過した。「また来ます」と言って牧師らは帰った。
 けれど牧師の再訪はなかった。数日後にその方が亡くなったからだ。
 牧師は言う。「力を尽くして祈ったのですが残念です。しかしあの祈りが少しでも励ましになれば幸いです」
「祈ってあげた感」満載な言いっぷりであった。

 その言い分そのものにケチをつける気はないけれど、一つ大事な視点を忘れている。つまり牧師からしたら「祈ってあげた」のだろうけれど、故人からしたら「祈らせてあげた」のである。最期までガンと闘いながら、数時間に及ぶ牧師の祈りに「付き合ってくれた」のである。

 そういう視点がないと、「祈ってあげた」という上目線から離れられない。
 それ、いったい誰のための祈りなんだって話。

■復興支援詐欺

 昨日の地震と、このところ続いている地震の影響で、また311がクローズアップされている。最近「あの時何が起こったか」が個人レベルで語られる番組をよく目にする。

 それで思い出すのが「復興支援詐欺」だ。当時、復興支援のため、被災地のため、被災者のため、という名目の義援金があちこちの教会に集まった。それで実際に支援活動をした教会も沢山あったけれど、ものすごく怪しい、何をしたのかまったく把握できない団体もあった。また活動した教会であっても、義援金会計を公開しないところが複数あった。結局教会の備品のために一部が使われた、という話も複数あった。

 もう何年も経っている話だし、そういうのを監査する機関もない訳だから今更どうしようもない。けれど特にお金に関してクリーンでなければならない教会が、そういうグレーなことをしてはいけない。たとえブラックでなくとも、ホワイトだと証明できなければグレーなのだ。そしてそのグレーは限りなくブラックに近い、と思われても仕方がない。

 だから教会会計は厳密に管理され、公開され、公正さと透明性を保たねばならない。
 そういう意味で、会計係が牧師の家族とか親族とかのところは例外なく怪しい。よくよく注意して見ることをお勧めする。

■都内でカルト化対策セミナー

 6月5日(金)、珍しく村上密先生の「カルト化対策セミナー」が都内で開かれる。
 題して「教会のカルト化 ―神のことばに混ぜ物をして売る危険―」
 都合が合うので、私は参加させていただこうと思っている。
 近くの方で教会のカルト化に興味がある方で都合の合う方がいらしたら、ぜひどうぞ。入場無料みたいです。

セミナー詳細はこちら

2015年5月29日金曜日

(一部の)クリスチャンが使うおかしな言い訳

■ある教会が地域でせっせと伝道しても、全然信徒が増えない。
 その理由は。

→悪霊が地域の人々を縛っているから(マジすか)
→伝道スタッフらに隠れた罪があるから(マ、マジすか)
→毎日4時間以上祈っていないから(いやいやちょっと待ってよ)
→歴史的な呪いに地域が縛られているから(そんなこと言ったらキリがないよ)

 あのー、自分たちの伝道方法についてもっと考えてみません?

■ある教会の慈善事業がなかなかうまくいかない。
 その理由は。

→悪霊が邪魔しているから(またそれですか)
→事業スタッフらに隠れた罪があるから(はいはい)
→毎日4時間以上祈っていないから(その方が仕事が進まない気がする)
→「神の時」でないから(なら始めるな)

 あのー、やる前に事業計画ちゃんと立てました?

■あるクリスチャンの病が癒されない。
 その理由は。

→悪霊が邪魔しているから(もはや定番)
→その人に隠れた罪があるから(そんなこと書いてある?)
→誰かを許していないから(だから、そんなこと書いてある?)
→家系の呪いがあるから(そんなこと言ったら健康な人なんかいません)
→毎日4時間以上祈っていないから(もはや苦行)

 あのー、病院行きました?

■あるクリスチャンが受験に失敗。
 その理由は。

→悪霊に邪魔された(金縛りにでもなりましたか)
→その学校が御心でなかった(じゃあなんで受験した)
→さらに優れた道が示されるため(負け惜しみですか)
→隠れた罪があったから(じゃあ誰も合格できないのでは)

 あのー、ちゃんと勉強しました?

■ある教会の礼拝が盛り上がらない。
 その理由は。

→悪霊が天を覆っているから(絶望的ですね)
→「打ち破り」が起こるまで祈っていないから(何を打ち破るんですか礼拝で)
→全てを捧げていないから(全てって具体的に何ですか)
→会衆の中に隠れた罪があるから(なんか魔女狩りが始まりそう)

 あのー。そもそも礼拝って盛り上がらなきゃダメですか?

解説
 という訳で、一部の教会やクリスチャンらは、何かうまくいかないことがあると決まって悪霊のせいにする。あるいは家系的な呪いとか、地域の縛りとか、隠れた罪とか、そういうもののせいにする。
 それらが100%間違いとも言い切れないかもしれない。けれど徹底的に「他人のせい」「何かのせい」にするその姿勢は、もはや性善説の域である。

 聖書が示す人間像は、性善説よりむしろ性悪説だ。「原罪」という言葉があるけれど、人間は皆いろいろと罪を犯してしまう。例外はない。今後罪をいっさい犯さない人などいない。誰もが心のうちに悪を孕んでいる。

 だから彼らのように「悪霊のせい」「○○のせい」と自分以外の何かのせいにするのは、そういう自分自身の闇に蓋をして、表面的な「正しさ」を繕っているに過ぎない。悪いものなど何もない振りして、ピエロを演じているに過ぎない。と私は思う。

2015年5月26日火曜日

「ハリーポッター」と悪魔崇拝の関係(あるいは無関係)について

 昨年オープンしたユニバーサルスタジオジャパンの新アトラクションが関係あると思うけれど、「ハリーポッター」がまた盛り上がりを見せている。テレビで映画が続けて放送されているし、SNSでもその手の書き込みが増えている。私は全然詳しくないけれど、人気は根強いようだ。

 そこでまた注目されるのが「ハリーポッターは悪魔崇拝」みたいな一部のクリスチャンの言動である。「霊の戦い」「異言」「預言」「悪霊断ち切り」なんかを強調する人々がそれだ。

 彼らに言わせると、「ハリーポッター」だけでなく映画も音楽もゲームもファッションもガシェットも全て「悪魔崇拝に繋がっている」ことになる。もちろん全部が全部とは言わないだろうけれど、彼らが良しとするのはほんのわずかしかない。

 一つ呆れた例を紹介すると、「ベイブレード」という昔流行ったコマ遊び。ある自称クリスチャンに言わせると、コマの対決が始まると悪霊が召喚されて、コマの上で悪霊どうしが戦うそうだ。
「私のようにジーザスと繋がっていると見えるんです」とか自信満々に言っている。けれどその人が繋がっているのは神様以外のものだろう。なぜなら悪霊どうしが争うことはないと聖書がハッキリ言っているからだ。それにコマが回るだけで悪霊が召喚されるなら、その世代の子供たちは皆悪魔憑きになってしまう。

 仮に「ハリーポッター」が悪魔崇拝をベースにしているとしよう(あくまで仮の話)。
 すると視聴者は、気づかないうちに悪魔の影響を受ける(というのが彼らの主張)。
 じゃあ聞くけど、影響を受けた後はどうなるの?
 悪魔に憑りつかれるの?
 自動的に悪魔崇拝したくなるの?
 観た罰として救いから漏れるの?

 どれも聖書的ではない。
 崇拝は自ら意識して自主的にするものだ。気づかないうちにコントロールされてするものではない。仮に騙されて崇拝したとして、それはあくまで騙されてのことであって本人の過失ではない。

 そういうおかしなルール、たとえば「ハリーポッターを見ると悪霊の影響を受ける」みたいなものは、多くの場合人々の恐怖に訴えかけている。「これを見たら悪魔にやられる」「神様に怒られる」みたいな恐怖。

 でも「ハリーポッター」を例に言えば、それはエンターテイメントであり、フィクションであり、人をいろいろな意味で楽しませる創作物である。それを楽しむのは何も悪いことではない。むしろ人に充足を与え、夢を与え、束の間のやすらぎを与え、あるいは活力を与えるだろう。「魔法」をテーマにしているから「悪魔崇拝」と短絡的に繋げられているだけであって、NHKの大河ドラマなんかと性質は同じだ。「あまちゃん」を観て「悪魔崇拝だ」なんて言う人は誰もいない。

 だからそういう恐怖を煽る一部のクリスチャンの方が、よっぽど「悪魔的」だと私は思う。

 彼らは言う。
「一般の人は目が開かれていないから、悪魔にいいようにやられてしまっている」
 いやいや、悪魔にやられてるのはあんたたちでしょ。

2015年5月25日月曜日

「寛容さ」と「不寛容さ」について考えさせられた、という話

 少し前に個人的にいただいた意見に、「いつも他人の文句ばっかりですね」というのがある。

 私は当ブログで、昨今のクリスチャンや教会や牧師(主に牧師だけど)の問題点を指摘してばかりいるから、まあ「いつも他人の文句」と映るのかもしれない。
 頷けるところもある。けれど、なかなか心外であった。

 でもおそらくそういう意見の人は、昨今のカルト化教会の実態を知らないんじゃないかと思う。たぶん幸せな教会生活を送っているだろうから、信仰や聖書や神の名がいいように利用されている現状を知らないのだと思う。でないとそういう意見にならない気がする。

 カルト化教会やカルト化牧師が信徒に与えるダメージは計り知れない。人生を台無しにされてしまう人も大勢いる。結果的に信仰を捨ててしまう人も大勢いる。
 そういう危険性に対して警鐘を鳴らすのは、むしろ絶対的に必要だと私は思う。だから「いつも文句ばかり」と言われたところで、やめる訳にはいかない。

 まだ成熟できていない私は、その意見にちょっと皮肉っぽく答えてしまった。けれど、べつにそういう意見があっても構わないと思っている。だから無視しようとか、ブロックしようとか、反撃しようとか、そういう選択はしなかった。けれど先方が私を一方的に「ニセモノ」扱いして、ブロックしたようである。

 正直残念だった。もう少し対話姿勢だあってもいいんじゃないかなと思う。自分を義と堅く認め、他者(私)を不義と一方的に決めつけるのはどうなのだろうか。キリスト教的に言うとその姿勢は「不寛容」なのではないだろうか。
 まあもう遅いのだけれど。

 当然ながら、私は自分が正しいとは思っていない。もちろん正しくありたいとは思っている。ただ自分がどんな点でも正しいとは言えない。正しくないところが沢山あるし、たぶん自分で気づいていない不義も沢山ある。だから自分の正当性など主張できない。

 けれどそれは皆が皆同じ訳で、クリスチャン、ノンクリスチャン問わず誰も自分が絶対的に正しいとは言えないはずだ。

「十字架で罪を赦されたのだから、私に罪はない」と言う人がいて、それは根本的に間違っていない。けれど、単に罪を赦されただけであって、根本的に罪人であるのは変わらない。私たちはいつまた罪を犯してしまうかわからないし、未来永劫罪を犯さないなどあり得ない。

 その意味で、自分を義とし他者を不義とする姿勢はあまり感心できないと私は思う。皆それぞれ不義な部分がある。「他者を自分より優れたものと思え」とも聖書は言っている。
 そういうことを考えるなら、「寛容さ」はクリスチャンにとってなかなか重要な性質ではないかと思う。

 さてその視点でキリスト教界を見てみると、「寛容さ」と「不寛容さ」、どちらが多いだろうか。大変興味深い。誰か調べてくれないだろうか。

2015年5月22日金曜日

【雑記】聖なる渇き・マイナンバー

 またまた、最近気になった小ネタをいくつか。

・「聖なる渇き」って何

「聖なる渇き」なる言葉がある。
 聖書にそういう表現は(たしか)ないと思う。だからキリスト教専門用語である。教会によって「霊的渇き」とか、単に「飢え渇き」とか表現するかもしれない。まあどれでも一緒である。

 その言葉に細かい定義があるのかどうか知らないし興味もないけれど、要は「神様を求める心」みたいなものだと思う。

 この言葉は本質的に二元論を含んでいる。つまり神を求めるか、あるいは「この世」を求めるか、という二元論。「聖なる渇き」が神を求める崇高なものであるなら、「俗なる渇き」はいわゆる物欲とか色欲とか、そういう「低俗な」もの。

 そしてクリスチャンなら「聖なる渇き」を持つべきだ、みたいな話になる。「私たちは聖でなければならない」という聖書箇所を引用したりして。
 それはべつに間違っていないけれど、極端な二元論に走るとおかしくなる。

「私は聖なる渇きだけで生きていきます。神様がいてくれたら他に何もいりません」とか自信満々に言うクリスチャンを時々見るけれど、そういう人だって食べたり着たり住んだり、嫌ったり憎んだり悪意を持ったりする訳で、話はそんな単純じゃない。なのに「自分には俗なる渇きなんてありません」みたいに振る舞う。そんなの単なる偽善であろう。

 またそこまで二元論でなくても、「聖なる渇き」とか仰々しく言うのは私は好きじゃない。なんかいかにも自分の「きよさ」をアピールしているように思える。単に「神様を求めます」じゃダメなのかね。

 それに、「神様を求める心」自体が「聖なる渇き」なのはいいとして、その心を持っている人自身が「きよい」ということにはならない。
 人間、そんなにきよくないですよね?
 それ、自分自身が一番よくわかってますよね?
 と言いたくなる。イジワルだろうか。

・マイナンバー制度導入

 政府が準備を進めている「マイナンバー」なる制度がある。「社会保障・税番号制度」というのが正式名称。国民一人一人に番号を割り振り、社会保障や税金の事務手続きを一元化して効率化を図る、というのが目的らしい。

 この制度、個人情報保護の観点で考えなければならない点があるとは思うけれど、事務手続きの効率化という点では良いのかもしれない。そもそも人間に番号を付けるというのは小学校で既に常態化しているのだから、今さら目くじら立てることもない気がする。

 けれどこういう話題になると必ず口を挟む自称クリスチャンたちがいる。主に終末論かぶれの人たちだ。個人に番号が振られるという現象だけ見て、
「獣の刻印だ」
「666のしるしだ」
 とか大袈裟にのたまう。そしてありもしない陰謀論を展開し、思考停止型クリスチャンらを翻弄する。

 彼らはマイナンバー制度みたいな仕組みを取り上げては「人間を管理する方法だ」と過度に警戒し非難するけれど、マイナンバーはそもそも人間を管理するためのものだ。社会保障とか税金とかいう分野で、効率よく人口を管理する方法に過ぎない。

 私たちは常に何かに管理されているし、私たちもいつも何かを管理している。いろいろなレベルのいろいろな種類の管理があり、どれも必然性があって存在している。

 そのうちの1つを取り上げて「悪魔の仕業だ」とかのたまうのは至極バカな話で、「井の中の蛙」っぷりを見事に露呈している。

 やっぱりそのへんのクリスチャンって浅はかなんだな、と思わずにいられない。

2015年5月19日火曜日

【雑記】箱根山噴火兆候・病のいやし

 今回は小ネタを少々書く。

・箱根山の噴火の兆候

 箱根山に噴火の兆候があると報じられている。
 実際に噴火するかどうか誰にもわからないし、今の科学技術だと完璧な噴火予告はできない。

 けれど一部の自称クリスチャンはちょっと前から「関東で噴火が起こる」みたいなことを言っていて、だから今回の報道を受けて「ほらやっぱり」みたいな自慢に走っている。

 いやいや、まだ噴火してませんけど? それに本当に噴火して犠牲者が沢山出たとして、それでもまだ「預言が当たった」みたいなこと言って喜ぶ気ですか?  自分たちだけ避難して助かったとして、それを偉そうに語るのって違うんじゃありませんか?

 ということを考えると、預言大好きな聖霊派クリスチャンの浅ましさにウンザリすることこの上ない。

・病のいやし

「病のいやし」が現在もあるか? というのはキリスト教界内でも意見の別れるところだ。その論議に口を挟むつもりはない。

 けれど上記の聖霊派の皆さんに言わせれば「今もいやしは起こる」ということで、眉唾ものの「いやし体験」があれこれ出てくる。べつにそれらにイチャモンつける気もない。

 しかし深刻な病気に悩んでいる人の立場に立つならば、「淡い期待など持たせてほしくない」というのが本音だと思う。

 死を覚悟しなければならない病気に悩む人は少なくない。その中にはまだ若い人も少なくない。まだ何もできていない、まだまだしたいことがある、あれもしたいこれもしたい、そんな願いがあっても叶えられない人々に向かって、「いやしが起こりますよ」と言うのはものすごい希望を与えることになる(信じられればの話だけれど)。深刻に悩んでいる人は、藁でも何でもすがりたいと願っているからだ。

 けれどそうやって希望を与えるのはいいけれど、結局いやしが起こらないとなったら、希望を持たせた分だけ余計に絶望させることになる。その悲劇を考えて、聖霊派の皆さんにはモノを言ってほしい。

 ある教会の信徒の母親が、末期ガンだった。信徒は「奇跡的ないやし」を求めて、母親を教会に連れてきた。いやし系のイベントがある時とか、有名講師がゲストに来る時とかは特に熱心に参加していた。

 それで母親は毎回「いやし」を祈られるのだけれど、全くいやされなかった。そして数年のうちに亡くなられた。結局「いやし」は起こらなかった訳である。

 骨盤の歪みが治ったとか、骨折が早く治ったとか、アレルギー症状が改善した気がするとか、そういう「いやし」は沢山起こっても、本当にそれを必要としている人々には何も起こらない。ガンを治すことはできない。
 としたら、その「いやし」にはいったい何の意味があるのだろうか。

 ここで熱心な聖霊派の皆さんは、きっとこう言う。「いやされなかったのは○○のせいだ」
 この○○には悪魔とか、罪とか、他者を許さない心とか、まあそんなようなことが入る。

 けれどその考え方はご利益主義だ。行いによって奇跡を見ようとするからだ。つまり神様と取引関係にあるということ。そんなの恵みでも何でもない。

 それに何より腹立たしいのは、深刻に悩んでいる人々を食い物にするその下劣な根性だ。

 もっと生きたい、死にたくない、愛する人を置いて逝きたくない、と深刻に考えている人々が実際にいる。泣いても叫んでもどうにもならない、心に苦しみを負って残り少ない命を生きている人たちがいる。彼らの気持ちを考えたことがあるだろうか。考えたことなどないだろう。もし少しでもそういう想像ができるなら、「祈ればいやされます」などと簡単に言うことはできないはずだ。

 という訳でやはり、一部のクリスチャンたちの浅ましさにほとほとウンザリさせられている。

2015年5月15日金曜日

信仰っていう名のイジメ。あるいは聖書の意図的誤解釈。

 カルト的教会では今日も信徒の虐待が行われている。

 虐待の程度も種類も様々である。わかりやすい暴力もあれば言葉の暴力もあり、セクハラ、パワハラ的なものもある。過剰な奉仕で心身ともに疲弊させるというのもある。教会によって様々だ。
 
 なぜ、そんな虐待がまかり通るのか。
 多くの場合、それは「信仰」とか「試練」とかと思い込まされている。耐えるのが美徳であり、神に喜ばれることとされている。だから信じる人はひたすら虐待に耐え続けることになる。非常に理不尽。そこでは「信じる者は救われない」。
 
 その理不尽を正当化するため、そして補強するため、聖書の言葉が使われている。カルト的教会での聖書の立ち位置はそんなものだ。
 むろん聖書が虐待を支持しているのではない。カルト的牧師が聖書の言葉を意図的に誤解釈し、都合のいいように意味付けて、信徒に突きつけているだけ。
 
 今回はそのように意図的に解釈を曲げられた聖書の言葉を、いくつか挙げてみたい。
 
・耐えられない試練は与えられない
 
 第一コリント10章13節。(主に誘惑を試練と表現していて)耐えられない試練は与えられない、すべての試練には逃れる道が用意されている、というのはクリスチャンにとって励ましだろう。けれどカルト的教会ではこう言い換えられる。
 
「だから今ある試練(多くは牧師が課したもの)も乗り越えられます」
「乗り越えられないのはあなたの信仰の問題です」
「だからしっかり信仰に立ってこの試練(くどいけど牧師が課したもの。あくまで)を乗り越えなさい」
 
 つまり牧師が課したミッションを遂行させるため、信徒を焚きつけるために利用されているに過ぎない。その証拠に、神様は「脱出の道を用意しておられる」けれど、牧師は決して信徒を逃がさない。脱出させない。その方が「耐えられない試練」じゃないですか?
 
・疑う者は何も得られない
 
 ヤコブの手紙1章6~7節。少しでも疑う人は主から何もいただけない、という話。
 カルト的教会では「だから100%信じなさい」「決して疑ってはいけません」という話になる。それで牧師の要望・願望・野望が100%受け入れられていく。
 牧師としてはさぞ気分がいいでしょうよ。信徒が何でも自分の言う通りに動いてくれるんだから。
 
・神様は祝福を用意しておられる
 
 上記につながるけれど、試練や困難、苦しみを乗り越えた後にはすごい祝福が待っている、という話。聖書箇所は沢山あるけれど、たとえば詩篇23篇の「敵の前でも食事を整えて下さる」みたいな箇所を取り上げて、「さあこの試練を乗り越えれば・・・」とエサをちらつかせる。
 でも実際にはいくら乗り越えても乗り越えても、次なる試練が待っているだけ。
 
 ある教会の会計係が、牧師から一方的に突き付けられる費用請求に毎月泣かされていた。
「今月はこれこれの必要があるから」
「これだけはどうしても必要で」
「この集会は主が願っておられることだから」
 みたいなことをいつも言われて、会計係は(そんな責任ないのに)いつもお金のやり繰りに苦労していた。時には自分で献金して穴埋めしていたようである。
 その会計係が度々言われたのがこれ。
「今の困難な時期を乗り越えれば、主の大いなる祝福が注がれる。そのためにも今はこの試練を通る必要があるのです」
 
 けれど乗り越えても乗り越えても出費は多くなる一方だった。最終的にその教会会計は破綻したのだけれど(←牧師バカでしょ)、哀れなのは会計係。最後の最後まで「きっと主の祝福が・・・」と夢を見させられていた。目の前にニンジンをぶら下げられた馬みたいに。

・キリストの弟子に休む暇などない

 たとえばマルコの福音書6章を引用し、キリストの弟子たちがどれだけ忙しかったかを取り上げる。それで、「あなたも弟子でしょ? だったら休む暇なんてあるわけないでしょ」という話になる。

 ある教会に外国人宣教師がきて、英語でメッセージした。通訳はそこのカルト的牧師。宣教師が「ちゃんと休むことも必要です」みたいなことを言うと、牧師はこんなふうに通訳した。
「休むことも必要って言ってますけど、まあこれは欧米文化での話ですね。日本人には当てはまりません」
 おいおい、ちゃんと通訳しろよ。

 以上、意図的に誤解釈され利用される聖書箇所を挙げてみた。まだまだ他にもあると思うけれど。こういうことを言う牧師にはご用心。

2015年5月13日水曜日

検索ワードに見るクリスチャン(?)の関心事

 当ブログを訪れて下さる方のうち、ネット検索で来られる方が一定数おられる。
 その検索ワードを見るのが実は楽しい。
 どんなワードで当ブログが検索されるのか単純に興味があるし、来られた方々(主にクリスチャン?)の関心事にも興味がある。検索ワードを見ていると、そういう動向が少し見えてくる気がして、気づくと毎日のように見ている。

 検索ワードは1日単位とか1週間単位とか1ヶ月単位とかでまとめることができるけれど、この1週間分のワードはなかなかの粒揃い(?)で笑えたので、紹介してみることにする。

 以下、5月5日~5月12日の当ブログに来られた方の検索ワード(順不同)。

・クリスチャン 恋愛

 あー。やっぱり恋愛って関心事なのね。
 もちろんいいんですよ。人は人を好きになるものだし、同じくらい人を嫌いになるものですから。
「恋愛禁止」を公然と、あるいは暗に課している教会ってありますね。そういう教会って他のいろいろも禁止していて、たとえば日曜勤務のある仕事はダメ、親戚の法事なんか行っちゃダメ、寄留者なんだから家買っちゃダメ、みたいなこととか言ってます。
 そういう教会、何て言うか知ってますか? ダメダメ教会って言います。あ、それだと違う意味に聞こえるか。
 ちなみに恋愛についてどうこう書き出すと長くなるのでここではやめておきます。

・クリスチャン 疲れた

 あー。お疲れ様です。何があったか知りませんがいろいろ大変だったと思います。詳しい状況は知りませんが、ゆっくり休めることを願っています。

 人生に疲れ、生きる気力をなくし、藁にもすがる思いで教会の門を叩いた人が、福音を信じてクリスチャンになる。そしてそこに存在価値を見出だして一生懸命教会に(牧師に)仕えるのだけれど、やがて疲弊し、結局人生に疲れている、いったい何のための努力だったのかわからない、みたいなケースは多い。

 牧師はいろいろ言うだろうけれど、休みを得るはずの教会で結果的に疲れているとしたら、それはどこか間違っているのである。その間違いが何かはケースバイケースだけれど、少なくとも信徒の側だけの問題とか、牧師に何の問題もないとか、そういうことは考えにくい。むしろ教会の長である牧師の責任から考えた方が話が早いくらいである。

・クリスチャン 結婚

 これは常に検索ワードに出てくる言葉ですね。やっぱりクリスチャンにも結婚は関心事なのでしょうね。
 先日も「つりあわないくびき」の箇所だけ取り上げて「未信者との結婚なんかあり得ない」みたいなことを声高に主張する人がいましたけど、さてさて聖書をどんなふうに読んでいるのかすごく不思議です。

・クリスチャンになって変わったこと

 要するにクリスチャンって何なの、どんなメリットがあるの、って話だと思います。
 そうですね。クリスチャンになると、まず毎週日曜が潰れるようになります。あと金銭的にも厳しくなるでしょう。交遊関係がグッと狭まるかもしれません。それと、職場の飲み会とか毎回キャンセルする羽目にもなります。趣味なんか持てないかもしれません。
 それで逆にメリットはと言うと・・・偉いクリスチャンの方々に是非とも聞いてみて下さい。

・ハリーポッター 悪魔崇拝

 きましたね、わかりやすいオカルト批判的な話。
 ハリーポッターに限らずですけれど、これを見たら悪魔の影響を受けるから良くない、みたいな話に共通するのは、「十字架の無効化」「救いの無効化
」という点です。救われたはずの人たちに、あんたらまだ救われてないよ、これこれをしなければダメだよ、と余計な律法を押し付けている訳です。

 また、「見なければいい」「避けていれば大丈夫」という点で、場当たり的な信仰の姿勢と言えます。その場しのぎ、あるいは問題の先延ばしに過ぎません。根本的な解決から目を反らし、「見なきゃいいんだよ、見なきゃ」と自分と他人に言い聞かせているだけです。

・生涯未婚

 これはまた珍しいワードですね。パウロのように生涯独身を貫こうと言うのでしょうか。

 結婚するもしないも個人の自由だと私は思います。そもそも結婚はしようと思ってできることでもないので、まあ人生の成り行きというか、巡り合わせというか、そういう要素も大きく絡んでくることでしょう。
「これ」という明確な答えはどこにもありません。聖書には結婚に関するアドバイスは載っていますけれど、個人レベルでどうするかはやはり個人が考えて決めなければなりません。

 結婚を「神に語られて」決めるというムーブメントがありますけれど、それは限りなく他力本願な人生に他なりません。
 それよりは、「神が定められたルールにのっとって」自分で決める、というのが自立したクリスチャンの姿ではないかと私は思っています。

・酒辞めたくない クリスチャン

 何か切実な気持ちが伝わってきますね。
「クリスチャンとして酒をやめるべきだと思う。でもできない」みたいな話でしょうか。
 前提の部分から覆してしまうので恐縮ですが、まずは「クリスチャンは飲酒してはいけない」という部分から疑ってかかったらいかがでしょうか。明確に飲酒を禁じている聖書箇所があるなら、教えていただきたいと思います。

 以上、昨今の検索ワードに見るクリスチャンの関心事。また面白いのがあればやる予定。

2015年5月10日日曜日

「義憤」とか自分で言うなって話

 ある教会が福祉系の事業を始めて、10年ちょっと続いた。
 後半はけっこう発展して、顧客数60~70名くらいの安定的な運営ができていた。

 その活動がせまいせまいキリスト教界内ではけっこう有名になり、せまいせまいキリスト教系メディアにも取り上げられ、そのせいか牧師は鼻高々。しかしそこで油断したのか、大失敗をやらかしてしまって結局全部オジャンとなった。教会を閉じることにまでなった。

 その後、運営母体をなくして宙ぶらりんになったのがその事業である。教会は閉じられても、事業は顧客がいるから簡単には終わらせられない。特に福祉系事業だったから、顧客の新たな受け入れ先まで考えなければならない。それが最低限の社会的責任である。けれど責任者は次々消えてゆき、結局、事業は何人かの有志の手に委ねられることになった。

 そこへ複数の教会から助けの手が伸びた。正確に言うと教会でなくクリスチャンたちである。いくつかの教会の信徒たちが集まって、その事業のために一肌脱いでくれた訳である。つまり超教派的なクリスチャンのグループができて、滅亡寸前の福祉事業の救済に乗り出したのである。

 それだけ聞くとヒロイックな、感動的な、「信仰の勝利」的な話に聞こえる。けれど本当の問題はここからであった。

 多少乱暴な言い方かもしれないけれど、それぞれのクリスチャンが「この事業をこうしていきたい」「ああしていきたい」みたいな願望(野望?)を持っていた。だから初めこそ和気アイアイしていた会合も、しばらくすると利害の不一致が明確になり、ただの醜い争いの場となった。「船頭多くして船山に上る」とはまさにこのことである。事業の行方(というか顧客の行方)なんてどこの空、どうやって主導権を奪うかの小競り合いが毎回繰り広げられた。

 それだけでも「あんたらバカですか?」が私の感想だけれど、それだけでは終わらない。

 そこにHという人がいて、いつも一際声を荒げて怒っていた。「わたしはこの顧客たちの第一を考えたい。皆さんはそんなこと考えていない。だから私は非常に怒っている。これは神からの『義憤』です!

 つまり自分は誰より正しいことがわかっている、自分の意見は神の意見だ、その私が怒っているんだからこれは正当化される怒りだ、ということ。

 Hはいつも顔を真っ赤にして、まあ毎回そんなことを繰り返し怒鳴っていた。そして誰が悪い、彼が悪い、あなたが悪い、と周囲(自分以外)を責め立てていた。

 私が思うに、おそらくHはヨブ記を読んだことがない。確か宣教師の肩書だったと思うけれど信じられない知識不足である。彼に「自己義」とか言っても、きっと「ジコギって何ですか。どういう種類の木ですか」とか言いそうである(←ここ笑うとこ)。

 最近受けた「キリスト教と人間論」の講義に、このHに絶対的に必要と思われる話があったので引用したい。

 第一コリント4章3~4節を要約するとこうなる。
「わたし(パウロ)は自分で自分を判断しない。
 自分にやましいことはないが、だから自分が正しいと認められるのではない。
 自分が正しいかどうかは神しか知らない

 つまり「自分が正しい」と言うことは誰にもできないのである。いくら正しいと思っても、本当のところはわからないのである。
 正しさを求めつつ、残念ながらそこには到達できない、けれどそんな自分も神に受け入れられている、というのが聖書の示す生き方である。

 だからHみたいに「自分は正しい」「自分の怒りは義憤だ」なんて言うのはただの独り善がりであって、「桃太郎」みたいな単純な勧善懲悪物語レベルの自己認識しかできていない。くわえて聖書理解の稚拙さを露呈してしまっている。すごく簡単に言うと、デパートでオモチャを買ってもらえないガキが駄々をこねて泣くのと同じだ。「ボクはこれが欲しいんだ。買ってくれないママはひでー悪人だ」
 いやいや、ひでーのはお前だよ、って話。

 だから「義憤」を振り回す牧師とか宣教師とかミニスターとかリーダーとか変なクリスチャンとかいたら、「こいつバカだな」と冷ややかに眺めながら付き合ってあげて下さい。あ、付き合う必要まったくないけど。

2015年5月9日土曜日

ブログ3年目に迎えた「変化」について

 2015年3月で当ブログも3年目に入りました。いつも読んで下さっている皆さん、本当にありがとうございます。また継続的にコメントをいただけて、大変励みになっています。重ねて感謝申し上げます。
 
 当ブログは開始当初から「ほぼ毎日更新」を目指してきました。隔日になった時もありましたが、「ほぼ毎日」と言えるレベルを2年間通してこれたかなと思っています。
 
 ではなぜ「ほぼ毎日」を目指してきたか?
 理由は簡単です。始める時にいろんなブロガーさんの「ブログ心得」みたいなものを読み漁ったところ、「とにかく毎日書け」「ネタがなくても書け」みたいな意見が多かったからです。
 とにかく新参者は数打たなきゃ勝負できない、みたいな話だったので、私は単純に「そうか」と思って書きはじめました。もっとも私はそういう「ブログ心得」を極めようとは思いませんでしたし、いわゆるアルファブロガーになろうとか思ったこともありません。私の書く分野があまりにニッチ過ぎたからです。
 
 長年熱心なクリスチャンだったけれど、教会やら牧師やらにつまずいて、今はそれらに対して問題提起している、というのが私のスタンスであり、分野です。つまり日本人口の1%未満であるクリスチャンの、さらに特殊な境遇の人たちを相手にしたい訳で、これがニッチでなくて何でしょう。
 だからPV1日50万とか、土台無理な話です。デープ・スペクターを目指しているらしい某牧師のブログでさえ1日何千というレベルのようですから。
 
 という訳で初めから、ブロガーとしてああなりたいこうなりたいという夢も希望もなく、とにかく書き始めたのでした。
 それは一つには、この問題をできるだけ多くの人に知ってもらいたい、同じような疑問を持つ人に集まってもらいたい、という思いがあったからです。そのためにはとにかく沢山書く以外にない訳で、だからこその「ほぼ毎日更新」だった訳です。
 
 というのが前置きで、ここから本題。
 
 3年目を迎えたからという訳ではありませんが、当ブログも変化の時季を迎えています。と言っても大袈裟な変化ではありません。単に私個人の時間的余裕がなくなってきた、というだけのことです。だから「ほぼ毎日」は(現状ですと)なかなか難しいです。今も書きたいことはイロイロありますし、時間が空けば書いているのですが。

 ただ幸いなことに、コメントを寄せて下さる方が複数いらっしゃって、話題を膨らませて下さっています。その意味では、毎日記事を更新しない方がいいかもしれません。記事がどんどん更新されると、それだけ話題が古くなってしまうからです。それよりは数日に一度の記事更新で、皆さんに話題を掘り下げていただいた方がいいようにも思います。単に毎日書かないことの言い訳に聞こえるかもしれませんが。

 もちろん書くことが好きですので、余裕があれば毎日でも1日数本でも書くつもりです。そのへんは変わっていません。 今後の状況について何も断言できませんが、書き続ける意思に変化はありません。

 私はよくスタバなどのカフェで勉強したり記事を書いたりしています。家だとゴロゴロしてしまうからです。最近カフェだと、同じようにキーボードを打っている人が多いので励みになります。
 それで疲れた時や書きあぐねた時は、しばらく窓の外の街並みを眺めて過ごします。通り過ぎる人々や変わる信号や風になびく木々や、そんな何やかやを眺めながら、深い海の底で必要な言葉を手探りするような、そんな作業をしている訳です。

 書くことは時には大変ですけれど、案外そういう作業が楽しくもあります。仕事をしているよりも充実感があります。もちろん仕事をした方がお金が入っていいのですが、私にとってこのブログを続けることはプライスレスなところがあります。というかほとんどプライスレスです。ちょっと気取った言い方ですが。

 という訳で繰り返しになりますが、応援して下さっている皆さんに心から感謝申し上げます。そしてこれからも変わらぬご支援をいただければと願ってやみません。どうぞよろしくお願い致します。

fuminaru k

2015年5月5日火曜日

「元ヤクザ牧師」について思うこと

 元ヤクザとか元暴力団とか元不良とか、そういう肩書の牧師がいる。
 彼らは大抵、前科何犯とか鑑別所入り何回とか、そういう「経歴」を公表している。筋金入りのワルだったけど、聖書の神様に出会って更生しました、今はかつての自分のような人たちのために働いています、みたいな話が多い。

 それできらびやかな衣装とか高そうなスーツに身を包み、壇上で過去の反省とか神に出会った経緯とか現在の活動とかいろいろ語る。最近あまり見ないけれど、十数年前の登場時はけっこう注目されていたと記憶している。

 私自身は彼らの「経歴」に対する偏見は全然ない(と思う)。前科の有無とか経歴とかが、必ずしもその人の価値を決める訳ではないからだ。
 人間失敗するものだし、いろんな事情で悪いこともしてしまう。けれど、もうそれでチャンスがないとか、やり直すことができないとか、そんなことはない。その気があるなら何度でもやり直すことができる。神様は何度でもチャンスを与えて下さる。福音とは本来そういうものだと私は思う。

 だから元ヤクザの牧師がいたっていいし、元殺人犯の牧師がいたっていい。実際には感情的・情緒的に難しい部分があるけれど、その存在がハナから否定されるのも良くない。むしろ頑張ってほしいと私は思う。

 けれど実際的な話をすると、たとえば元強姦犯の牧師がいたとして、その経歴を公表していたとしたら、その「牧会」は非常に難しいものになるだろう。女性はまず無理だし、男性だから大丈夫ということもない。それこそ元強姦犯の信徒しか対象にできないかもしれない。

 つまり「何度でもやり直すことができる」というのは事実だけれど、一方で人間は感情的な生き物だということだ。その行動原理はいつも感情に影響されている。だから「誰でも更生できる」という理屈は理屈であるけれど、そこから感情を抜くことはできない。

 たとえば過去にヤクザに嫌なことをされた人がいるとする。その人が「元ヤクザ牧師」に会ったら、決して良い印象は持たない。いくらその人が直接関係ないとわかっていても、過去の傷がまた痛んで少なからず苦しむからだ。関係を築いていくのは相当難しいだろう。
 またその牧師から直接被害を受けた人であるなら尚更だ。いくら「更生した」と言われても、「はいそうですか」とはならない。そもそも「牧会」どころの話ではない。

 だから前科何犯とかいう経歴は、負うべき重荷として本人が真摯に受け止めておくべきものであって、見せびらかすものではない。彼らからしたら「こんな極悪人でも神にあって変われる」というメッセージを送りたいのだろうけれど、そこに似たような被害者の感情に対する配慮があるのかどうか、問われる必要がある。

 そういう視点で彼ら「元ヤクザ牧師」のインタビューなんか見てみると、残念ながらそういう配慮が感じられない。公式の場なのに「オレはさ・・・」とか「このバカヤロウ」とか悪ぶった雰囲気を出していて、どこか「プロデュースされている感」さえある。いかにも高そうなスーツで壇上に立つけれど、それがどんな印象を与えるか、考えたことがあるのだろうか(べつにそういう人が高そうなスーツを着てはいけないということではない)。

 もちろん彼らがヤクザとか不良とかの更生に本当に尽力しているなら素晴らしいことだし、それこそが彼らの活動の場だろうと思う。その点ではぜひ頑張ってほしい。

 だから元ヤクザの牧師はそれはそれで必要とされていると思う。けれど、「元ヤクザで相当ひどいことをしてきた」という自身の過去に対する真摯な態度を本人が持っていないと、あるいは負っていないと、結局のところ何にもならないと思う。
 それがただのパフォーマンスなのか、心からの行為なのか、遅かれ早かれわかるだろと私は斜に構えて見ている。

2015年5月4日月曜日

これ言ったらただの「自己実現牧師」って台詞を考えてみた

 教会を自己実現の道具としか思ってない牧師がいる。

 彼らは神の名を騙って教会(信徒)を使おうとしている。
 もちろんそんなこと自分で表明しないし、指摘されれば否定する。むしろすごく敬虔に、信仰的に振る舞っている。だから表面だけ見てもその腹の黒さはわからない。

 騙された信徒はどこまでも牧師を信頼してしまうので、結果、神とも信仰とも関係ないことに熱中してしまう。それを信仰と思って疑わない。実は牧師の自己実現に付き合わされているだけなのだけれど。

 ではどこでその牧師の偽善を見極めるかと言うと、聖書が言うように「実」で判別するしかない。ちなみにここで言う「実」とは、彼らの口から出る一つ一つの言葉である。

 という訳で今回は、「これ言ったらただの自己実現牧師」という特徴的ワードについて書いてみる。

■これ言ったらただの「自己実現牧師」

・「〇〇は神の願いです。教会として従いましょう」
 神様がこう願っているのだから教会(信徒)は拒否するべきでない。喜んで従うべきだ、だから〇〇しなさい、という論法。〇〇に入るのは「礼拝」とか「祈り」とかいう当たり前のことでなく、たとえば法外な献金とか長時間奉仕とか、家の仏壇を捨てろとか家族と縁を切れとか、そういう非常識な諸々である。信徒に非常識な行いをさせるために神の名を利用しているだけで、非常に悪質。

・「私(牧師)も全てを捧げて、犠牲を払って従っているのです」
 上記の「神の願い」を強調するための文句。牧師である自分が率先して従っているのだから、信徒であるあなたがたは尚更従わなければならない、という論法。
 てゆうか、「犠牲を払っている」とか自分で言うなー。

・「御霊に感じたことを今から語ります」
 神から語られたアピール。いわゆる「レーマ」推進派の台詞。あの、聖書をもう一度学び直してもらっていいですか。牧師なら。
 ちなみに「御霊に感じた」って黙示録っぽくていいな、とか思ってるだろ。

・「真のクリスチャンはこの世の常識に捕らわれてはいけません」
 これもやはり、信徒に非常識なことをさせるための口実。キリストが「宮きよめ」でいろいろ実力行使した箇所だけを取り上げて、「ほら、イエス様も神のために過激なことをされた。私たちもこの世にあっては過激派でなければならない」とか言う。いやいや、聖書全体はクリスチャンこそ常識に従うべきって言ってますけど?

・「クリスチャンは神様のためにハードワーカーであるべきです」
 信徒を一生懸命長時間働かせるための口実。十二弟子たちが忙しく働いて休む間もなかった、という箇所だけを取り上げて、「ほら、イエス様の弟子たちは皆ハードワーカーだったのです」とか言う。それって今風に言うとただのブラック企業なんですけど。
 こういうのは事業大好き牧師の常套句である。奉仕者を忙しく働かせて、事業を軌道に乗せることしか考えていない。その事業が成功して自分の名前が知られることしか考えていない。
 だからあなたの牧師が何かの事業をやろうとか言い出したら、本当に注意して警戒することをお勧めする。

・「今こそ神の宮を建て上げるべきです」
 通訳すると、「新会堂がほしいから献金してちょ♪」となる。以上。

・「最高の神様なのだから、最高の楽器で礼拝すべきです」
 通訳すると、「高い楽器がほしいから献金してちょ♪」となる。以上。

・「私(牧師)を御言葉の奉仕に専念させて下さい」
 通訳すると、「専業牧師になりたいから献金してちょ♪」となる。以上。

・「神のためなら貧乏なんて厭わない。それが真の献身者です」
 低賃金で献身者を使うための口実。彼らの薄給、最低賃金を軽く下回っているんじゃないだろうか。たぶん健康保険も年金も払えてないから、定年後はご愁傷様である。

 上記以外にもイロイロあると思うけれど、こんな感じのことを言ったら「自己実現牧師」である可能性が高いので注意を要する。さて、あなたの牧師はいくつ当てはまっただろうか?(当てはまっていないことを願いますが)

2015年5月2日土曜日

牧師に人生を乗っ取られる前に知っておいてほしいこと・その2

「弟子訓練」という言葉、私は嫌いである。

 その構造上の問題点は今まで散々書いてきたけれど、そういう論理的な話を抜きにしても嫌いである。「訓練」とか「厳しく指導」とか「忍耐して受ける」とか「絶対服従」とか、なんで週末の休みの日にまでそんな苦労しなきゃいけないんですか? 週日だって仕事があって大変なんですけど? とか今は思う。自分の実体験を踏まえてみても、やはり「嫌い」という結論は変わらない。

 弟子訓練の弊害について沢山書いてきたけれど、今まで書かなかった視点で言うと、「生涯牧師にお世話してもらわなければならない関係」というのがある。

「弟子訓練ですごく成長した」とかいう話はよく聞く。それが教会の中でしかできなかった成長なのか、あるいは一般社会の方がもっと成長できたのか、そもそもそれが本当に成長なのか、みたいな疑問がまずある。けれどそういう疑問を抜きにしても、
「牧師がいつも上」「自分はいつも下」
「牧師は何でもわかっている」「自分は牧師ほどにはわかっていない」
「牧師が何でも指導」「自分はただ従うのみ」
 という関係がずっとずっと続いていくと考えただけでも、それがおかしいとわかる。

 そこには信徒の「自立」はない。「自立」という言葉がチラついても、幻でしかない。いい年して先輩牧師の言いなりみたいな牧師もいる。彼らには自分の意見がない。すべては牧師のお気に召すまま、だ。

「弟子訓練」牧師にとって、「キリスト教道」は一本道である。選択肢は一切ない。全員一つの道を駆けていく。だからその一本道に先に入った方は永遠に先輩である。そしてただ一つしか道がないから、後輩が道から反れるとすぐわかる。すごくシンプルな話だ。

 けれど人生はさほどシンプルでなく、道は一つでない。様々な価値観や責任や、どうにもならない状況によっていろいろな選択がされていく。キリスト教にしたって、「キリスト教道」みたいな一本道があるのではない。様々な教派に分かれているのを見るだけでもそれがわかる。

 人には自由意思と自由選択の権利があるのだから、そんな理不尽な一本道に従う必要などない。もちろん従うのも権利だ。しかしその先に待っているのは「牧師に乗っ取られた人生」でしかない。先日書いたGさんみたいに土地や家を奪われたりはしないかもしれないけれど、人生そのものが奪われてしまう。そして生涯「君はまだ幼いな」「まだわかってないな」みたいなことを言われ続ける。

 人間幼かろうがわかっていなかろうが、自分の足で人生を進めていくべきだと私は思う。もちろん教えてもらう必要もある。けれど教えてもらうのと、依存するのは違う。そして「弟子訓練」がもたらすのは、牧師に対する際限ない「依存」である。

「弟子訓練」の教会はそういうことを決して教えないので、ここに書いておく。