今回は小ネタを少々書く。
・箱根山の噴火の兆候
箱根山に噴火の兆候があると報じられている。
実際に噴火するかどうか誰にもわからないし、今の科学技術だと完璧な噴火予告はできない。
実際に噴火するかどうか誰にもわからないし、今の科学技術だと完璧な噴火予告はできない。
けれど一部の自称クリスチャンはちょっと前から「関東で噴火が起こる」みたいなことを言っていて、だから今回の報道を受けて「ほらやっぱり」みたいな自慢に走っている。
いやいや、まだ噴火してませんけど? それに本当に噴火して犠牲者が沢山出たとして、それでもまだ「預言が当たった」みたいなこと言って喜ぶ気ですか? 自分たちだけ避難して助かったとして、それを偉そうに語るのって違うんじゃありませんか?
ということを考えると、預言大好きな聖霊派クリスチャンの浅ましさにウンザリすることこの上ない。
・病のいやし
「病のいやし」が現在もあるか? というのはキリスト教界内でも意見の別れるところだ。その論議に口を挟むつもりはない。
けれど上記の聖霊派の皆さんに言わせれば「今もいやしは起こる」ということで、眉唾ものの「いやし体験」があれこれ出てくる。べつにそれらにイチャモンつける気もない。
しかし深刻な病気に悩んでいる人の立場に立つならば、「淡い期待など持たせてほしくない」というのが本音だと思う。
死を覚悟しなければならない病気に悩む人は少なくない。その中にはまだ若い人も少なくない。まだ何もできていない、まだまだしたいことがある、あれもしたいこれもしたい、そんな願いがあっても叶えられない人々に向かって、「いやしが起こりますよ」と言うのはものすごい希望を与えることになる(信じられればの話だけれど)。深刻に悩んでいる人は、藁でも何でもすがりたいと願っているからだ。
けれどそうやって希望を与えるのはいいけれど、結局いやしが起こらないとなったら、希望を持たせた分だけ余計に絶望させることになる。その悲劇を考えて、聖霊派の皆さんにはモノを言ってほしい。
ある教会の信徒の母親が、末期ガンだった。信徒は「奇跡的ないやし」を求めて、母親を教会に連れてきた。いやし系のイベントがある時とか、有名講師がゲストに来る時とかは特に熱心に参加していた。
それで母親は毎回「いやし」を祈られるのだけれど、全くいやされなかった。そして数年のうちに亡くなられた。結局「いやし」は起こらなかった訳である。
骨盤の歪みが治ったとか、骨折が早く治ったとか、アレルギー症状が改善した気がするとか、そういう「いやし」は沢山起こっても、本当にそれを必要としている人々には何も起こらない。ガンを治すことはできない。
としたら、その「いやし」にはいったい何の意味があるのだろうか。
としたら、その「いやし」にはいったい何の意味があるのだろうか。
ここで熱心な聖霊派の皆さんは、きっとこう言う。「いやされなかったのは○○のせいだ」
この○○には悪魔とか、罪とか、他者を許さない心とか、まあそんなようなことが入る。
この○○には悪魔とか、罪とか、他者を許さない心とか、まあそんなようなことが入る。
けれどその考え方はご利益主義だ。行いによって奇跡を見ようとするからだ。つまり神様と取引関係にあるということ。そんなの恵みでも何でもない。
それに何より腹立たしいのは、深刻に悩んでいる人々を食い物にするその下劣な根性だ。
もっと生きたい、死にたくない、愛する人を置いて逝きたくない、と深刻に考えている人々が実際にいる。泣いても叫んでもどうにもならない、心に苦しみを負って残り少ない命を生きている人たちがいる。彼らの気持ちを考えたことがあるだろうか。考えたことなどないだろう。もし少しでもそういう想像ができるなら、「祈ればいやされます」などと簡単に言うことはできないはずだ。
という訳でやはり、一部のクリスチャンたちの浅ましさにほとほとウンザリさせられている。