2015年5月10日日曜日

「義憤」とか自分で言うなって話

 ある教会が福祉系の事業を始めて、10年ちょっと続いた。
 後半はけっこう発展して、顧客数60~70名くらいの安定的な運営ができていた。

 その活動がせまいせまいキリスト教界内ではけっこう有名になり、せまいせまいキリスト教系メディアにも取り上げられ、そのせいか牧師は鼻高々。しかしそこで油断したのか、大失敗をやらかしてしまって結局全部オジャンとなった。教会を閉じることにまでなった。

 その後、運営母体をなくして宙ぶらりんになったのがその事業である。教会は閉じられても、事業は顧客がいるから簡単には終わらせられない。特に福祉系事業だったから、顧客の新たな受け入れ先まで考えなければならない。それが最低限の社会的責任である。けれど責任者は次々消えてゆき、結局、事業は何人かの有志の手に委ねられることになった。

 そこへ複数の教会から助けの手が伸びた。正確に言うと教会でなくクリスチャンたちである。いくつかの教会の信徒たちが集まって、その事業のために一肌脱いでくれた訳である。つまり超教派的なクリスチャンのグループができて、滅亡寸前の福祉事業の救済に乗り出したのである。

 それだけ聞くとヒロイックな、感動的な、「信仰の勝利」的な話に聞こえる。けれど本当の問題はここからであった。

 多少乱暴な言い方かもしれないけれど、それぞれのクリスチャンが「この事業をこうしていきたい」「ああしていきたい」みたいな願望(野望?)を持っていた。だから初めこそ和気アイアイしていた会合も、しばらくすると利害の不一致が明確になり、ただの醜い争いの場となった。「船頭多くして船山に上る」とはまさにこのことである。事業の行方(というか顧客の行方)なんてどこの空、どうやって主導権を奪うかの小競り合いが毎回繰り広げられた。

 それだけでも「あんたらバカですか?」が私の感想だけれど、それだけでは終わらない。

 そこにHという人がいて、いつも一際声を荒げて怒っていた。「わたしはこの顧客たちの第一を考えたい。皆さんはそんなこと考えていない。だから私は非常に怒っている。これは神からの『義憤』です!

 つまり自分は誰より正しいことがわかっている、自分の意見は神の意見だ、その私が怒っているんだからこれは正当化される怒りだ、ということ。

 Hはいつも顔を真っ赤にして、まあ毎回そんなことを繰り返し怒鳴っていた。そして誰が悪い、彼が悪い、あなたが悪い、と周囲(自分以外)を責め立てていた。

 私が思うに、おそらくHはヨブ記を読んだことがない。確か宣教師の肩書だったと思うけれど信じられない知識不足である。彼に「自己義」とか言っても、きっと「ジコギって何ですか。どういう種類の木ですか」とか言いそうである(←ここ笑うとこ)。

 最近受けた「キリスト教と人間論」の講義に、このHに絶対的に必要と思われる話があったので引用したい。

 第一コリント4章3~4節を要約するとこうなる。
「わたし(パウロ)は自分で自分を判断しない。
 自分にやましいことはないが、だから自分が正しいと認められるのではない。
 自分が正しいかどうかは神しか知らない

 つまり「自分が正しい」と言うことは誰にもできないのである。いくら正しいと思っても、本当のところはわからないのである。
 正しさを求めつつ、残念ながらそこには到達できない、けれどそんな自分も神に受け入れられている、というのが聖書の示す生き方である。

 だからHみたいに「自分は正しい」「自分の怒りは義憤だ」なんて言うのはただの独り善がりであって、「桃太郎」みたいな単純な勧善懲悪物語レベルの自己認識しかできていない。くわえて聖書理解の稚拙さを露呈してしまっている。すごく簡単に言うと、デパートでオモチャを買ってもらえないガキが駄々をこねて泣くのと同じだ。「ボクはこれが欲しいんだ。買ってくれないママはひでー悪人だ」
 いやいや、ひでーのはお前だよ、って話。

 だから「義憤」を振り回す牧師とか宣教師とかミニスターとかリーダーとか変なクリスチャンとかいたら、「こいつバカだな」と冷ややかに眺めながら付き合ってあげて下さい。あ、付き合う必要まったくないけど。

1 件のコメント:

  1. 義憤?正義の剣振りかざしているつもりだろうが、なんとも自分本位な神様目線だな。なんだか、うちの2代目副牧師に似てる。日曜礼拝で私たち羊に向かって、「いつまでですか?いつまであなた方はそこにいるのですか?(成長していない、神に時間も心も捧げろ)的な事言い出した。それはあなたでしょってはなし。いつまでここにいるんですか?開拓しないで、主任牧師のすねかじっているのは?

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