元ヤクザとか元暴力団とか元不良とか、そういう肩書の牧師がいる。
彼らは大抵、前科何犯とか鑑別所入り何回とか、そういう「経歴」を公表している。筋金入りのワルだったけど、聖書の神様に出会って更生しました、今はかつての自分のような人たちのために働いています、みたいな話が多い。
それできらびやかな衣装とか高そうなスーツに身を包み、壇上で過去の反省とか神に出会った経緯とか現在の活動とかいろいろ語る。最近あまり見ないけれど、十数年前の登場時はけっこう注目されていたと記憶している。
私自身は彼らの「経歴」に対する偏見は全然ない(と思う)。前科の有無とか経歴とかが、必ずしもその人の価値を決める訳ではないからだ。
人間失敗するものだし、いろんな事情で悪いこともしてしまう。けれど、もうそれでチャンスがないとか、やり直すことができないとか、そんなことはない。その気があるなら何度でもやり直すことができる。神様は何度でもチャンスを与えて下さる。福音とは本来そういうものだと私は思う。
だから元ヤクザの牧師がいたっていいし、元殺人犯の牧師がいたっていい。実際には感情的・情緒的に難しい部分があるけれど、その存在がハナから否定されるのも良くない。むしろ頑張ってほしいと私は思う。
けれど実際的な話をすると、たとえば元強姦犯の牧師がいたとして、その経歴を公表していたとしたら、その「牧会」は非常に難しいものになるだろう。女性はまず無理だし、男性だから大丈夫ということもない。それこそ元強姦犯の信徒しか対象にできないかもしれない。
つまり「何度でもやり直すことができる」というのは事実だけれど、一方で人間は感情的な生き物だということだ。その行動原理はいつも感情に影響されている。だから「誰でも更生できる」という理屈は理屈であるけれど、そこから感情を抜くことはできない。
たとえば過去にヤクザに嫌なことをされた人がいるとする。その人が「元ヤクザ牧師」に会ったら、決して良い印象は持たない。いくらその人が直接関係ないとわかっていても、過去の傷がまた痛んで少なからず苦しむからだ。関係を築いていくのは相当難しいだろう。
またその牧師から直接被害を受けた人であるなら尚更だ。いくら「更生した」と言われても、「はいそうですか」とはならない。そもそも「牧会」どころの話ではない。
だから前科何犯とかいう経歴は、負うべき重荷として本人が真摯に受け止めておくべきものであって、見せびらかすものではない。彼らからしたら「こんな極悪人でも神にあって変われる」というメッセージを送りたいのだろうけれど、そこに似たような被害者の感情に対する配慮があるのかどうか、問われる必要がある。
そういう視点で彼ら「元ヤクザ牧師」のインタビューなんか見てみると、残念ながらそういう配慮が感じられない。公式の場なのに「オレはさ・・・」とか「このバカヤロウ」とか悪ぶった雰囲気を出していて、どこか「プロデュースされている感」さえある。いかにも高そうなスーツで壇上に立つけれど、それがどんな印象を与えるか、考えたことがあるのだろうか(べつにそういう人が高そうなスーツを着てはいけないということではない)。
もちろん彼らがヤクザとか不良とかの更生に本当に尽力しているなら素晴らしいことだし、それこそが彼らの活動の場だろうと思う。その点ではぜひ頑張ってほしい。
だから元ヤクザの牧師はそれはそれで必要とされていると思う。けれど、「元ヤクザで相当ひどいことをしてきた」という自身の過去に対する真摯な態度を本人が持っていないと、あるいは負っていないと、結局のところ何にもならないと思う。
それがただのパフォーマンスなのか、心からの行為なのか、遅かれ早かれわかるだろと私は斜に構えて見ている。
ヤクザや暴走族やチンピラだった人たちが更生して聖職者になったパターンは、新興宗教系プロテスタントでは広告塔としての価値があると認められています。
返信削除彼らがかつての自分たちと同じような人たちだけを相手にした教会や、更生保護のボランティアでもやっている分には構いません。こういったことは彼らのほうが得意とする分野でしょうから。
しかし彼らについてちょっとどうかなあと思う点がないわけではありません。それは彼らがしばしば自分たちと正反対の人生を送ってきた、世の中の大半の人たちに対して、上から目線で偉そうな発言をものすることです。
ちゃんと学校を出てまともな会社に勤めている人たちの前では、ああいうヤクザあがりの人たちはたとえ聖職者になったとしても、本来なら顔も上げられないものではないのでしょうか?
彼らの人生は学生時代から好き勝手をしてきた人生です。若いころから刺青を入れて毎日悪いことをしまくっていた彼らですが、世の中の大半の人たちは学生時代は塾に通って受験勉強をし、何十倍もの倍率を突破して入学試験や入社試験を通ってきたのです。
ヤクザあがりの聖職者は、学生時代に遊びたいのを我慢して塾に通って、ものすごい倍率の大学入試を経験したことがありませんし、就職の際にリクルートスーツに身を包んで、内定をとれるかどうか躍起になっていた日々を経験したこともありません。
つまり世の中の大半の人たちが経験することを何一つ経験していないのです。ヤクザ生活を送って身についたことなんか、世の中の大半の人たちにとってはまったく無意味ですし、そんなことは知らなくてもいいことではありませんか。
みんなが経験することを何一つ経験していないということは、人間としての経験値は赤ん坊と同じレベルなのではないかと思うのです。そんな人たちが聖職者になって、上から目線で「お前たちは神を信じていないから自分たちより下だ」とか「神を信じていない人間は救われない魂だ。だから俺たちがお前たちを救ってやるのだ」的な発言があまりにも目立ちます。
そうでしょうね。
削除「所詮」と言う言葉を使いますと、申し訳ないとは思いますが、「やくざ」は「やくざ的な」
人生しか歩めない。
どう言い繕うとも、ブランクがありますし、たとえ一般人と紙一重だとは言え、やはりその経歴は消せない物だし、その歩んだ日々は明確に記憶に残りますし、日常となりますでしょう。
アーサー・ホーランド氏が毎年、北海道中央部のある都市に来られるのも、ミッション・バラバを率いて来られて、その生き様が本人の生涯と共通する物があり、共感出来るのかも知れません。
すでに起きた事件ですから、実名でも一向に構わないと判断して記述します。
彼の弟子?の様な様相の、キリスト兄弟団の松沢秀章と言う牧師が2006年、ラブホテルで女性信徒と一緒に宿泊し、シャブをやって女性を窓から投げ落とし、自身も下半身裸で飛び降りた、と言う大事件がありましたが、この様な一大時にも拘わらず、他教会を含めた教界では、一向に警告と言うべきメッセージが講壇から解かれる事も無く、何事も無かった様な日常を送っております。
何なんですか?この「キリスト兄弟団」と言う教派は?
今私が住む北海道中央部のある都市にもその教会がありますが!
仮にも聖職者として、特別に報酬を持って教会に採用され、生を与えられている身でありながら、何と言う事でしょうか?
「牧師」と言う身分を、この際徹底的に見直し、何を持って正統に与えらているのか、本当に必要なのか、はたまた不要なのか!を精査議論して、一般信徒に信仰を取り戻すために、教会毎にやるべきです!!
私的な意見なので失礼があったらすみません。
返信削除元ヤクザだったり、犯罪者であっても人はやり直せる・・・(イエス様は罪のある人・病のある人を悔い改めたり癒したりする為に来られたと言われている箇所もあります)・・・なので、どんな人であれ信仰は自由ですが『牧師』となれば、単に信仰するだけではないので誰でも・・・というわけにいかないと思います。学校の先生は誰でもなれますか?医者には誰でもなれますか?感染病を持っている人が人の食事を作る食堂や広域の場で仕事できますか?
出来ないですよね。それなりの資格だったり、要求される素質だったりあると思います。
元ヤクザが牧師であったという映画やメッセージを読んだりした事はたたありますが、『元ヤクザ』だとか『元犯罪者』だとかをPRにしていて、良い理想に見せかけていきがってるだけにしか見えません。本当に悔い改めるなら、別に『牧師』にならなくても、信徒で十分ではないですか? 完璧な人間はいません。しかし、聖書のいっている自由と、この世の勘違いだらけの自由とは違うと思います。差別ではなく区別は必要です。本来の『牧師』という立場はとても重要で大変な任務だと思いますし、人の人生を背負っている事を忘れてはいけないと思います。
そういう意味で、元ヤクザ・元犯罪者をあなたは心底信用できますか?また、もし私が元犯罪者であれば『牧師になる』という図々しい事は考えません。むしろ陰で教会を支える信徒となり淡々と生活し悔い改める選択をするでしょう。
牧師になったからといって、それまでの『罪』が白紙になるわけではないですよ。
それくらいの重い思いがなければ本当の悔い改めにはならないのでは?
結局、元ヤクザ・元犯罪者が牧師になるのって、平凡な生き方ができないだけではないでしょうか? 私は、そーいう教会はお断りです。
ミッション・バラバラ・・・
返信削除自分も恥ずかしですが罪を犯しました。
返信削除自分でも本当に辛く家族にも回りにも迷惑をおかけしました。
私も親から貰った体人生を第二の人生として罪を償いたいです。
自分も同じ事ですが完璧では無いです。人は一人では限界もあります。
自分も一つ一つ進めて罪を償いたいです。
それに人は失敗しても変われる事 友人知人も実際にいます。そう言う友達もいます。
こんな私ですけどチャンスが欲しいです。
それと過去に渋谷にある教会(プロテスタント)でアーサーホーランドさんに会いました。
キリストの人から無宗教の人まで来て本当に解りやすい解説でした。
自分はキリストとして浅いですが信じてます。でもここ最近進行しつつあります。
あと人は宗教以外でも友達、家族でも自分自身変われると思います。僕もその中の一人です。
菊池寛の「ある抗議書」を思い出しました。
返信削除犯罪者が回心するのは決して悪いことではないと思いますが、「昔はワルだった」を強調したり、それを持ち上げている人達はこういう視点に触れるべきですよね…
aozora-bunko-viewer.vercel.app/books/1341