「元ヤクザ牧師」について思うこと

2015年5月5日火曜日

教会生活あれこれ

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 元ヤクザとか元暴力団とか元不良とか、そういう肩書の牧師がいる。
 彼らは大抵、前科何犯とか鑑別所入り何回とか、そういう「経歴」を公表している。筋金入りのワルだったけど、聖書の神様に出会って更生しました、今はかつての自分のような人たちのために働いています、みたいな話が多い。

 それできらびやかな衣装とか高そうなスーツに身を包み、壇上で過去の反省とか神に出会った経緯とか現在の活動とかいろいろ語る。最近あまり見ないけれど、十数年前の登場時はけっこう注目されていたと記憶している。

 私自身は彼らの「経歴」に対する偏見は全然ない(と思う)。前科の有無とか経歴とかが、必ずしもその人の価値を決める訳ではないからだ。
 人間失敗するものだし、いろんな事情で悪いこともしてしまう。けれど、もうそれでチャンスがないとか、やり直すことができないとか、そんなことはない。その気があるなら何度でもやり直すことができる。神様は何度でもチャンスを与えて下さる。福音とは本来そういうものだと私は思う。

 だから元ヤクザの牧師がいたっていいし、元殺人犯の牧師がいたっていい。実際には感情的・情緒的に難しい部分があるけれど、その存在がハナから否定されるのも良くない。むしろ頑張ってほしいと私は思う。

 けれど実際的な話をすると、たとえば元強姦犯の牧師がいたとして、その経歴を公表していたとしたら、その「牧会」は非常に難しいものになるだろう。女性はまず無理だし、男性だから大丈夫ということもない。それこそ元強姦犯の信徒しか対象にできないかもしれない。

 つまり「何度でもやり直すことができる」というのは事実だけれど、一方で人間は感情的な生き物だということだ。その行動原理はいつも感情に影響されている。だから「誰でも更生できる」という理屈は理屈であるけれど、そこから感情を抜くことはできない。

 たとえば過去にヤクザに嫌なことをされた人がいるとする。その人が「元ヤクザ牧師」に会ったら、決して良い印象は持たない。いくらその人が直接関係ないとわかっていても、過去の傷がまた痛んで少なからず苦しむからだ。関係を築いていくのは相当難しいだろう。
 またその牧師から直接被害を受けた人であるなら尚更だ。いくら「更生した」と言われても、「はいそうですか」とはならない。そもそも「牧会」どころの話ではない。

 だから前科何犯とかいう経歴は、負うべき重荷として本人が真摯に受け止めておくべきものであって、見せびらかすものではない。彼らからしたら「こんな極悪人でも神にあって変われる」というメッセージを送りたいのだろうけれど、そこに似たような被害者の感情に対する配慮があるのかどうか、問われる必要がある。

 そういう視点で彼ら「元ヤクザ牧師」のインタビューなんか見てみると、残念ながらそういう配慮が感じられない。公式の場なのに「オレはさ・・・」とか「このバカヤロウ」とか悪ぶった雰囲気を出していて、どこか「プロデュースされている感」さえある。いかにも高そうなスーツで壇上に立つけれど、それがどんな印象を与えるか、考えたことがあるのだろうか(べつにそういう人が高そうなスーツを着てはいけないということではない)。

 もちろん彼らがヤクザとか不良とかの更生に本当に尽力しているなら素晴らしいことだし、それこそが彼らの活動の場だろうと思う。その点ではぜひ頑張ってほしい。

 だから元ヤクザの牧師はそれはそれで必要とされていると思う。けれど、「元ヤクザで相当ひどいことをしてきた」という自身の過去に対する真摯な態度を本人が持っていないと、あるいは負っていないと、結局のところ何にもならないと思う。
 それがただのパフォーマンスなのか、心からの行為なのか、遅かれ早かれわかるだろと私は斜に構えて見ている。

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