2015年4月29日水曜日

牧師に人生を乗っ取られる前に知っておいてほしいこと

 クリスチャンの知り合いがいた。バカが付くほどマジメな中年男性だった。彼を仮にGと呼ぶ。

 Gは親から譲り受けた土地と家を持っていて、奥さんと二人で暮らしていた。細かい経緯は知らないけれど夫婦ともクリスチャンだった。とある外国人牧師の教会で、長らく教会生活を送っていたようである。

 Gと私はとあるキッカケで知り合った。教会が違ったけれど、時々会う機会があり、なんとなく「交わり」を保つような形になった。そしてそのまま何年か過ぎた。

 今振り返ってみると、何年経っても私はGのプライベートをほとんど知らなかった。だから結局のところそこまで深い間柄でなかったのだろう。けれど会うたび、彼のキマジメさと熱心さに私は感心させられていて、なんとなく親しい間柄になっているような気がしていた。人間関係とは難しものである。

 そんなGがある時、ひどくやつれた顔で私の前に現れた。悩みがあるのは言うまでもなくわかった。しかも一朝一夕に解決しそうなレベルでないのが感じ取れた。きっとひどく深い苦悩である。
 けれど彼の口から出るのは「感謝します」「すべてを感謝します」「素晴らしいですね」「ハレルヤ」みたいなクリスチャン的偽善ワードばかりだった。「どうしたんですか」という質問さえできないくらい、彼はポジティブになろうとしていた。その健気な努力がたいへん痛々しく見えた。

 けれどあれこれ話しているうち、大よその事態が見えてきた。まとめると以下の通り。

 お世話になっている外国人牧師の指導で、Gの自宅の敷地内に「祈祷所」を建てることになった。そして「祈祷所」が完成すると、その牧師と何人かの関係者(?)がGの自宅に居候しはじめた。事実上、G夫妻との共同生活である。そのうち牧師はGの自宅や夫婦生活にまでいろいろ口を出すようになった。そしてG夫妻は自宅にいながら牧師たちに仕え、逆に居候みたいに肩身の狭い生活をするようになった。

 多少の相違はあるかもしれないけれど、要はそんな筋の話であった。そしてGはやっぱり笑顔を作って言うのである。「これも神様のお導きなのですね。受け入れるのが信仰なのですね。それを喜べない気持ちがわずかでもある私は、まだまだ取り扱われる必要があるのですね。ああ、本当に悔い改めます」

 今の私に言わせると「バカですか?」の一言だけれど、当時はそこまで断言できなかった。つまり私もバカだった訳だ。「神様のそういう導きもあるのかな」などとアホなことを思っていた。

 残念ながらこの話にハッピーエンドはない。その後Gがどうなったか、私は全く知らない。それきり連絡が途絶え、会うこともなくなったからだ。もしかしたら牧師という名の寄生虫どもを追い出してハッピーエンドを迎えたかもしれないけれど、その可能性は極めて低いと私は思う。

 人の家に一方的に祈祷施設を作らせ、その家に住みつくのがまともな牧師のすることでないのは一目瞭然である。けれどその牧師に言わせると、「信徒が同意したからだ」という話になる。一部正しいので、まわりは何も言えない。

 これはもうマインドコントロールとか洗脳とかいうレベルの話で、キリスト教とは何の関係もない。キリスト教を騙っているに過ぎない。でも世間一般にはキリスト教の括りに入れられてしまうので、どうにも始末が悪い。

 似たような被害に遭っておられる方がこの記事を読まれて、少しでも何か感じ取っていただければと私は心底願う。信仰と思ってガマンする必要のないことをひたすらガマンすることのないように願う。あなたは自由なのである。牧師はあなたに何も強制する権限はない。たとえあなたが従わなくても、神様が怒って罰をくわえるなんてことはない。あなたが従わなくて牧師が怒るとしたら、その牧師の方が問題アリである。また逆らう余地のない牧師だとしたら、余計に問題アリである。

 訓練だろうが信仰だろうか霊的戦いだろうが何だろうが、あなたは自分の意に沿わないことをする必要はない。少しでも嫌なら拒否していいし、それは当然なのである。何の負い目も感じることなく、あなたはあなたの願う道を選んでいい。その自由意思は神様から与えられている。

2015年4月26日日曜日

その残念な伝道集会が失敗した理由

 以前の記事「そんなのキリスト教の礼拝と呼ぶな、という話」がいつの間にか他サイトで紹介されていて、最近になって知った。というか教えてもらった。
 
 当該記事に紹介していただくほどの価値があったかどうかわからないけれど、まあ「礼拝モドキ」で盛り上がっている人たちを晒すという意味では良かったのかもしれない。
 もっとも晒されたくらいで動じる人たちではないけれど。
 
 その紹介記事はこちら。興味のある方はどうぞ。
 
 というのは前置きで、ここから本題。
 この「礼拝モドキ」関連の体験談が寄せられたので、ここに簡単に紹介させていただく。
 
 2014年5月、某所で未信者向けの伝道集会が開かれた。テレビでも宣伝されて、なかなか大規模だったようである。こういう集会にお決まりの、歌とか劇とか踊りとかが満載だった。それなりに楽しめたようである。
 
 しかし集会の最後、外国人牧師が講壇に上がり、「招き」をしてしまった。お約束の台詞「この神の愛に感動した人は・・・」で、大群衆が講壇前に集まるかと思ったらしい。けれど5分たっても10分たっても数名のサクラしか集まらない。それでも再三促したその根性(というか厚顔?)はすごいと思う。けれど残念ながらそこで終了。集会は大いに盛り下がったまま幕を下ろした。
 
 ちょっと解説しておくと、「招き」は諸刃の剣である。感動した人が大勢いれば沢山集まって盛り上がるけれど、集まらないとこんな悲劇はない。「主の下に来なさい!」とかカッコよく言ったのに、シーンと静まり返ってしまう。経験の浅い牧師ならそこで心がポッキリ折れてしまうかもしれない。
 
 だから「招き」をするのは、ある程度の人数が集まると踏める時に限る。
 あるいははじめから、誰も来なくても差し支えないように運ぶべきだ。「はい、今日は応じる人がいないようなので次に進みましょう」みたいな。
(以上、「招き」をする教会へのアドバイス。あつかましくて失礼)
 
 それは置いておいて、上記の集会が失敗した理由は至ってシンプルだ。未信者だらけの伝道集会で「招き」なんてするのがいけないのだ。
 
「招き」が盛り上がるのは、クリスチャンだらけの教会内だけである。しかも「招き」に慣れている信徒群でないと厳しい。
 人間、「前に来なさい」と言われてそうそう出られるものではない。羞恥心や躊躇がどうしても働くからだ。
 まして相手は未信者なのだから、キリスト教のなんたるかを知らないし、教会のそういう習慣なんて知らない。それで前に出てくるのはよっぽどの物好きだ。まずいないだろう。
 
 たぶん主催側は、お金をかけたし、いろいろ盛り沢山でやったんだから、きっと皆感動するはずだ、招けば大勢応じるはずだ、と目論んだのだろう。
 けれどエンターテイメント性で言えば全然高くないし、カリスマ的に魅了する要素なんて皆無なことに気づいていない。集会を開いたという意味では大衆に奉仕したけれど、だからと言って大衆に受け入れられ求められるのではない、ということがわかっていない。
 
 いろいろなエンターテイメントが流行り廃り、毎年一発芸人が現れては消えていくショービズ界を見れるまでもなく、大衆を魅了するのは本当に大変なことだ。やれば必ず人気が出るなんてことは絶対にない。まず人様に見ていただくだけでもハードルは相当高いのである。
 
 だから上記の集会で言えば、お金をかけたのもいろいろ盛り沢山でやったのも当然のことであって、特別褒められることではない。その結果大衆を感動させられるかどうかも全くの別問題だ。そして感動させられなかったからといって、誰に文句を言うこともできない。単に自分たちにその力がなかったというだけのことだ。
 
 その辺を勘違いしてしまうから、上記のような閑古鳥が鳴く残念な「招き」の現場になってしまう。神の名を出せば、感動させれば、キリスト教を前面に押し出せば、あるいはクリスチャンである自分たちが一生懸命頑張れば、大衆はなびくだろうと安易に考えている。それが昨今のクリスチャンや教会に見られる「甘さ」だと私は思うのである。

2015年4月22日水曜日

「愛の挑戦」ってクリスチャンだけの話じゃないよね

『ファイヤーストーム』というクリスチャン映画がある。題名的にSFスペクタクルっぽいけれど、全然違う。ある夫婦の回復の物語である。
 
 ちなみに原題が"Fire ploof"(防火)なのに、なんで邦題を「嵐(ストーム)」にするんだろうって不思議に思ったけれど、まあそこは枝葉末節。
 内容は至ってシンプル。破局寸前の夫婦が周囲のクリスチャンらに導かれ、やがてクリスチャンになり、関係を回復していく、というもの。最後の場面など感動の涙なしには見られない。特にクリスチャン夫婦であれば。
 劇中主人公が実践したテキスト「愛の挑戦」は書籍にもなり、キリスト教書店で一時期話題にもなった。
 この映画のキモはこれ、「愛の挑戦」にある。相手への「愛の行動」が40日分用意されていて、それを毎日続けるうち、いろいろなことに気づいていくといういわゆるハウツー本。たとえば「花を贈る」とか「食事をご馳走する」とか、そういうことを積み重ねて、相手を愛することについて学んでいく訳だ。
 これそのものは素晴らしいことで、夫婦のみならずカップルにとって必要な要素を沢山含んでいると思う。かついかにもキリスト教信仰に富んだ営みに思える。相手への無償の愛などまさにキリストの十字架を体現しているようで泣けるからだ。
 だから「愛の挑戦」には一定の成果をあげる可能性があると言える。
 けれど同時に気を付けなければならないのは、それはキリスト教信仰を取り入れたハウツーの域を出ない、ということだ。つまりその40の行動をすることがイコール聖書的・信仰的なのではない。けれどそう勘違いしてしまって、「クリスチャン夫婦はこれをすべし」みたいな話になるのは行き過ぎだ。またさらに話が広がって「夫婦たるのもこれをすべし」というのも違う。

「愛の挑戦」はあくまで方法論の一つであって、キリスト教信仰をそのまま体現したものではない。また普遍的な夫婦愛を体現したものでもない。ただそこへ向かう可能性を示したに過ぎない。

 もちろん劇中、主人公の父親は「愛の挑戦」を「ただのツールに過ぎない」と言っている。その通り。ただのツールである。

 けれどそのツールをキリスト教信仰と同等に捉えてしまう傾向がある。それは「こうすれば大丈夫」というような意味でご利益主義であって、極端に言えば神を利用することである。「繁栄の神学」と同じで、「神からは良いものしか受けない」「絶対に祝福されなければならない」という考え方を含んでいる。

 夫婦関係はそんなに簡単なものでなく、「愛の挑戦」をしても何をしてもどうにもならないことはある。良いこともあるけれど悪いこともある。そしてそれはクリスチャンかどうかに関係ない。
 でもそれが現実であって、キレイごとで済まされないのが人生であろう。そういうことに蓋をして、「愛の挑戦」されあれば・・・とか言うのは、昨今のクリスチャンに多く感じる「浅はかさ」でしかないと私は思う。

2015年4月20日月曜日

クリスチャンのあるある的に書いてみた(教会学校の先生篇)

 教会学校の先生の「あるある」を考えてみた。全ての教会に当てはまる訳ではないと思うけれど。教会学校の先生方、いつもご苦労様です。
 
・毎週、活動ネタを考えるのに苦労している
 
 子供たちへの毎週のメッセージは「せいちょう」みたいなテキストに沿うのが基本だと思うけれど、それ以外の活動に創意工夫する先生方がいる。劇とかダンスとか料理とか、まあ毎週いろいろ考えて準備して下さって、本当にご苦労様だと思う。子供たちは幸せです。
 
・どうしてもネタがないと暗唱聖句大会をする
 
 それでもどうしても活動を思いつかない時・準備できない時がある。そういう時の奥の手が「突然の暗唱聖句大会」である。子供たちに覚えさせて、発表させるだけで済む。ちょっとしたお菓子を景品として用意しておけば、なお良いですね。
 
・暗唱聖句の宿題をちゃんとやってこなかった子を叱りすぎて、ひそかに反省する
 
 子供思いの熱心な先生が多いと思うけれど、その分、子供たちへの愛というか指導が行き過ぎてしまうこともある。子供たちからしたらいい迷惑だけれど、先生はひそかに反省しているのですよ。全然伝わってないけど。
 
・ビデオを見せる時間がひそかに憩える
 
 ビデオを見せると大抵の子供は喜ぶし、集中する。さ、先生、今のうちに隅っこで休憩して下さい。あ、でもビデオを見ないでぐずる子もいますけどね・・・。
 
・自由時間にヤンチャな子供たちに押し潰されている時に一番「仕えている」と実感する
 
 元気な小学生男子が複数いると、フリータイムに先生に襲い掛かることが多々ある。特に若い
男性教師なんかいたら大変。叩かれ蹴られ倒され押し潰され、まるで雑巾のような扱いを受ける。でも大丈夫、先生はそういう時こそ子供たちへの「愛」を実感していますから(そのはず)。
 
・公平にしようと思っているけれど、どうしても子供の好き嫌いがある
 
 そこはやっぱり人間ですから。先生も。
 
・子供相手に熱くメッセージしてしまい、いつも時間オーバーする
 
 熱心なのはいいのだけれど、沢山語れば語るほど、子供たちの関心を失っていく。一度に教えるのは一つ、という教育の鉄則を守るべきだろう。でもそれがなかなかできないのです、熱心だから。
 
・話が長くて子供たちから嫌がられているけれど、気づいてない
 
 上記に通じるけれど、いたづらに話し過ぎると逆効果になる。人間の集中力はせいぜい30分、子供なら当然それ以下、ということに留意すべし。感覚的には「もう終わり?」と思われるくらいがちょうどいいかと。
 ただ、長く話した方がいいと信じている人っていますからね・・・。
 
・ゆっくり大きな声で話すのが癖になって抜けない
 
 これは教会学校の先生のいわゆる職業病みたいなもので、相手が大人でも子供に話しかけるような口調になってしまう。教会学校の先生を兼任している牧師が、大人向けの説教でも「はーい、では聖書の言葉を読んでみましょうねー」みたいな口調になるケースがある。まあ、気にしない人は気にしないのでしょうが。
 
・どうしても他の先生と自分を比較してしまうけれど、そんなこと誰にも言えない
 
 何人かの先生がローテーションで教会学校を担当する場合がこれになりやすい。誰が一番人気があるか、誰の教室が一番面白いか、楽しいか、みたいなことを皆ひそかに気にしている。まあそれで切磋琢磨するなら良いと思いますが、そういう感情は大抵「なかったこと」にされます。現に存在していますが。

2015年4月18日土曜日

「救済者」と「被害者」の関係では助けられない問題もある

 少し前にDV問題について書いたけれど、その続きみたいなことを書く。

 既婚・未婚を問わず男女のカップルにDV問題が多く潜んでいるのは、前回書いた通り。そのほとんどが密室内で行われ、被害者のほとんどが反抗できない女性であり、かつ声をあげられない状況にあるから、その数を正確に知ることはおそらくできない。相当な数のDVカップルが潜在しているのではないかと思う。

 そしてそれは悲しいことだ。けれど現に起こっているし、ほとんどの場合まわりは何もできない。私がかつて介入できたのは、教会という特殊な環境だったからだと思う。教会は(種類にもよるけれど)家族の境界線が曖昧になる傾向にあり、信徒という「他人」が「家族」みたいな存在になりやすいからだ。
 
 だからそういう例外を除いて、私たちはDV被害についてほとんど何もできない。被害者から相談でもされなければ。

 けれど被害者が誰かに相談するというのも、非常に稀なケースだ。被害者が誰かに相談できるとしたら、そのケースは少なくとも解決に向かっていると思う。問題は「誰にも相談できない」「じっと耐えるしかない」という状況にある。
 
 そしてそういう状況は、普通ではちょっと考えられない感覚に思える。「自分を大切にしないと」「なんでそんな目に遭って逃げ出さないんだ」みたいに思う人もいるだろう。けれど誰もがそう思えるならDV被害など存在しない。だからそれとは違う感覚も存在している。
 
「私がガマンすれば済むことだから」と言う被害者もいる。それと同じ気持ちを持つことは私にはできない。むしろ「ガマンする必要などないのでは」と思う。「もっと自分を大切にしないと」と思う。けれどそれを言ったところで何にもならない。被害者の助けにはならないし、被害者もそんなことは求めていない。
 
 まずすべきなのは、「自分がガマンすれば済む」という気持ちを否定しないことだと思う。被害者自身が思っていることをそのまま受け入れることだと思う。そうでないとその先に進むことはできない。理不尽に思えても「そうだよね」と言えなければ、被害者の側に立つことはできない。
 
 ちなみに「被害者」という言葉も使うべきでないと私は思う(本記事中では便宜上その表現を使っているけれど)。本当にその人の側に立ちたいのなら、「被害者」という視点は捨てるべきだ。
 もちろん法的に見てそれが「被害」ではあるのは間違いないけれど。
 
 DV問題にかかわる機会があるならば、そういう視点がまず大事だと私は思う。専門書を読んでみるのもとても助けになる。

「救済者」と「被害者」の関係で助けられるケースもあるかもしれないけれど、私の感覚では、あくまで「人」対「人」の関係でなければ、それは叶わない。それはもはや「助ける」という行為でないからだ。その人を理解し、自分自身も理解され、ぶつかったり仲直りしたりしながら、共に生きていくことだからだ。

 自ら助けを求められない人に何かしようと思ったら、私にはそれくらいしか思いつかない。そしてその生き方をきっとキリストは支持してくれるだろうと信じている。

2015年4月15日水曜日

そんなのキリスト教の礼拝と呼ぶな、という話

 有名説教者がキリスト教の集会で説教する。巧みな話術で聴衆を湧かせ、笑いあり涙ありの「名説教」を披露する。聴衆は前半は泣くほど笑い、後半は感極まって泣く。眠っている暇などない。

 しかしその説教、お笑い部分を除くと、骨組みは至ってシンプル。「神はあなたを愛している」それだけ。聖書なんか開かない。とにかく楽しく笑わせ、盛り上がったところで「神の愛」で刺す。聴衆はイチコロ。ボロボロ泣いて見境なくなる人もいる。

 極め付けは説教後の「招き」。
「この神の愛に感動した人は、講壇の前に出てきなさい!」
 という訳で感動しちゃった人々が、説教者の下に押し寄せる。そこで説教者に直接祈られて、また号泣。係の人に抱きかかえられてやっとのことで席まで戻る人までいる。

 というような光景は、聖霊派やカリスマ派やそのへんの教会で日常的に見られる。ほとんど毎週と言っても過言ではない。信徒は毎週毎週、「今日も恵まれましたね」とか言って帰っていく。何がどう恵まれたのかはよくわからない。

 こういうのが「霊的」「命がある」「生きている」「神が働く」教会らしい。
 彼らによると、このような光景がない教会には、神はおられない。あるいはあんまり働いておられない。つまり彼らの「神」はすごく不自由で制限された存在だ。神なのに自由に動けない。おかわいそうに。

 しかし実は、上記の集会のメッセージ部分だけ切り取ると、落語の寄席と何ら変わらない。散々笑って泣くだけだから。聴く人の聖書知識とか信仰態度とかに訴えかけるものは皆無。テレビ番組とか映画とかを楽しむのに似ている(そこまで娯楽としてのレベルは高くないけれど)。

 そして「招き」部分だけ切り取ると、ライブ会場で熱狂するファンたちと何ら変わらない。本人たちは真剣に「祈っている」つもりだろうけれど、感動話に泣き晴らした後なのを忘れている。熱く込み上げる感動を、「聖霊の臨在」とか「神の愛」とかと勘違いしているだけなのでは? 少なくともその可能性があることを、彼らは考えない。

 そういう集会は本当に「聖霊の臨在」に溢れているのか。あるいはただの「泣き笑い」に溢れているのか。それを判断する一つの方法は、その「実」を見ることであろう。すなわちその集会で人がどれだけ変わるのか、成長するのか、である。

 けれど残念なことに、そういう集会に何年参加し続けても、何も変わらないのがほとんどだ。泣き笑いや祈りや賛美で「霊的」に振る舞うのは上手になるかもしれない。けれどそれだけだ。結局彼らの関心は「自分がどれだけ霊的に見られるか」「どれだけ目立つか」「どれだけ人に貢献しているように見えるか」といった「見てくれ」にしかない。
 だから何十回、何百回あるいは何千回そういう集会に参加し、説教に感動し、「招き」に応じて泣きながら祈ったとしても、そういう「見てくれ」に執着する以上、いわゆる「聖化」とは何ら関係ない。むしろ一向に変化しない姿を露呈してしまっている。

 そういうケースで言えば、説教者も聴衆も毎回毎回「感動劇場」を楽しんでいるに過ぎない。毎回「水戸黄門」の印籠シーンでカタルシスを感じる視聴者と同じだ。来るとわかっていて感動する。その感動を繰り返し繰り返し楽しむ。

 そういうのをキリスト教とか礼拝とか呼んでほしくないと思うのは、私だけだろうか。

2015年4月12日日曜日

「同情」でもなく「共感」でもない、クリスチャンに必要な態度について

 まず看護学の話だけれど、患者に接する看護者の態度は次のどれであるべきか。

・同情
・共感
・同感

 看護学的には答えは「同感」である。
「同情」は「かわいそうに」と思うことだけれど、上目線であり、「やってあげる」「世話してあげる」という援助者優位の姿勢が根本にある。だからダメ。
「共感」は相手の立場に立つことだけれど、単純なスキルでもあり、感情なしでできる。それを「させていただく」というのもちょっと目線が上である。という訳でやっぱりダメ。
「同感」は相手の気持ちを同じように感じることで、対等な関係でなければできない。だから「してあげる」でもなく、「させていただく」でもない。人間対人間のぶつかり合いだから簡単でもない。

 この3つで本当に信頼関係を築けるのは「同感」だけである。と、いうのが看護学の講義から持ってきた話。

 これを教会に当てはめてみると、クリスチャンが何かする動機は「同情」が多い気がする。
 たとえば敬虔で「霊的」に見えるクリスチャンが、新来者に声をかける。あくまで丁寧な態度で歓迎の意を表す。けれどそこには「歓迎してあげる」「声をかけてあげる」という動機が見え隠れすることが多い。

 実際、ある教会では「新来者を歓迎する方法」が講義されている。
 新来の男性には男性が、女性には女性が、若者には若者が、年輩者には年輩者がそれぞれ歓迎するようにするとか、初めの接触で連絡先まで聞くとか、未信者なら福音を簡単にでも聞かせるとか、まあいろいろルール化されている。

 だから彼らが新来者に声をかけるのは「仕事」であって、敬虔さを示す「証明」である。べつに新来者のことを気にかけている訳ではない。あえて言うと、気にかけているフリをしているだけだ。もちろん皆が皆という訳ではないだろうけれど。

 多少強引かもしれないけれど、「同情」も「共感」も「自分がどう見えるか」という自分軸の話でしかない。「こんなに同情できてる自分ってステキ」とか、「こんなに共感できる自分って対人援助スキル高い」とか。
 けれどそれは、「信仰」という皮を被ったナルシストというものだ。

 そう考えると「同感」がなかなか到達できない域であることがわかる。
 完全に対等になって同じ気持ちを分かち合うというのは、一朝一夕にはできない。ぶつかったり拒絶されたり、騙されたり裏切られたり、良くなったと思ったら元に戻ったり、自分も相手に迷惑をかけたり、そんな繰り返しの中で徐々に育んでいく種類のものだと思う。しかも時間をかければ必ずできるというものでもない。何の保障もない。けれどやらないことには何も生まれない。

 そこまでするには一定の決心が必要だと思う。そしてその決心こそ本当に難しい。それはすなわち自己犠牲だからだ。

 その決心を示してくれた人として、私はキリストを挙げたい。しかし他に誰を挙げたらいいだろうか。はたして今日、どれだけのクリスチャンが偽善を脱いで、その決心を示すことができるだろうか。たいへん興味深い話だ。

礼拝の司会者に捨ててほしい「こだわり」

 礼拝の司会者について。

 司会者になるとイロイロ考える。初めにどんな挨拶をしようか、どんな祈りをしようか、賛美の選曲をどうしようか、なにか特別なアナウンスが必要か、何か特別なプログラムを入れようか、等々。それでいろんな試行錯誤を繰り返し、反省したり学んだり、というのが通常「司会者」が通る道だろうと思う。

 そういう司会者の試行錯誤は、基本的に良いものだろう。その根本に「良い礼拝がしたい」という動機があるからだ。またその他者への奉仕の気持ちも評価されるべきだと思う。
 と言ってもそれは当たり前の話でもある。自分の責任に対して最善を尽くしたいと誰もが願うからだ。

 ところである司会者らは、「自分のスタイル」みたいなものを確立している。
 例を挙げるとキリがないけれど、たとえば必ず全員である聖句を唱和するとか、挨拶の時間を長く持つとか、ランダムに信徒に祈らせるとか(←すげー迷惑)、いわゆる「霊歌」の時間を長く持つとか、イロイロある。

 べつにスタイルを持つのが悪いとも思わない。けれどそういうのは多くの場合、押し付けがましい。

 たとえばただおとなしく礼拝したいだけなのに、なんでいきなり代表の祈りをしなきゃいけないの? とか、なんで全員とハグしなきゃいけないの? とか、無理矢理「霊歌」(?)を歌わなきゃいけないの? とか疑問に思う。それって本当に聖書的なんですか? あなたの単なるこだわりなんじゃないんですか? とか思う訳である。

 司会者とはまず公平であるべきだし、常識的であるべきだし、何が起こるかわからないみたいな不安感を与えるべきではない。どちらかと言うと月並み、退屈なくらいがちょうどいい。保育園とか幼稚園とかじゃないんだから、手取り足取りしてもらう必要はない。そういうのはうっとおしいだけだ。

 もちろんそこには信徒の側の無思考あるいは惰性もあるだろう。いつもこうしているから、これが習慣だから、みたいなことで礼拝ってできてしまう。慣れた仕事と同じだ。何も考えなくてもいい。

 ただそういう信徒の側の問題があるとしても、司会者は変なこだわりを捨てるべきだと私は思う。たとえば「自分が司会の時は必ず〇〇をやります」とか言う人がいるけれど、それってただの自己満足でしょ? 自己満足の押し付けでしょ? としか私には思えない。そういうのは、個人の礼拝にとどめておいてもらいたい。

 あなたにとって良いことが、必ずしも全員にとって良いことではない。そんなの当たり前なのだけれど、なぜ気づかないのかわからない。そこがクリスチャンの浅はかさなのだろうか。

 そういうことがわからない司会者は、こう反論するかもしれない。
「でも礼拝って自由でしょ」
 その通り。礼拝は自由です。ただその自由をあなた自身が奪っていることに、気づいてませんね。

2015年4月10日金曜日

ある二世牧師の残念な顛末

 自分の野望のために信徒をさんざん利用し、虐げ、逆らう者を容赦なく排除してきた牧師がいた。
 
 彼はいわゆる二世牧師。子供の頃から、親の惨めな教勢からくる不遇に甘んじていた。そしていつの頃からか心に決めていた。自分が牧師になったら、決してこんな惨めな思いはしないぞ、と。
 
 その過剰な自尊心というか、コンプレックスというか、野望というか、そういうものが彼を突き動かした。そして若くして牧師になった。親が何十年かけて育ててきた教会を横取りした。形としては「地域教会の若手主任牧師」「次世代を担うホープ」となった。
 
 彼は「次世代牧師」に多いビジネスマン・タイプで、自己啓発系の話が大好きだった。そして聖書にあるようなないような考え方ややり方を導入し、ホウレンソウとかマインドマップとかポジティブシンキングとか「良い習慣」とか、そういうのを次々と信徒に押し付けた。教会の文化にするとか言って。
 
 そして事業にも乗りだした。まあ大半が失敗か、尻切れトンボになるのだけれど。
 しかし中には軌道に乗った事業もあった。福祉系の事業だった。キリスト教メディアにも取り上げられ、少しは名を知られた。その頃から次第に鼻が高くなった。
 
 ついに子供時代の不遇を、挽回した訳である。
 
 その事業はしばらく続いた。最初のころは華々しかった。けれど、あちこちに破綻をきたしはじめた。その破綻を繕うことで新たな破綻が起こり、破綻が破綻を呼び、もはや沈没寸前となった。いやもう沈没しかけていた。その破綻の連続はまるで彼自身の人格を現しているようだった。今にして思えば。
 
 残念なことに、彼のやってきたことはキリスト教信仰とは関係なかった。口では「神様のために」とか言っていたけれど、結局のところ自分が有名になるために、教会という(自分にとって)都合のいい組織を使い倒しただけだった。自分の承認欲求が満たされることが、彼にとって全てだった。
 
 ある日突然、その教会も事業も崩壊した。
 
 まさかのタイミングであった。おそらくそれまでで一番盛んで、一番活発な時に見えたからだ。いろいろなことが新しく始まるというその時、急に足元をすくわれた。
 
 ノアの洪水を不意に食らった人々も、まさにそうだったに違いない。
 まさか今日、
 まさかこの時、
 まだこれが終わっていないのに、
 まだあれを成し遂げていないのに、
 今終わる?

 その教会は、「自分たちこそ神の御心を知る者たち」と普段から自負していた。けれど実は、御心から最も遠い人々だった。わかっているつもりがわかっていない、見ているつもりが見ていない、聞いているつもりが聞いていない、そんな哀れな人々であった。
 そしてそれは、牧師の姿そのものであった。
 
 しかしそれも仕方がない。その牧師がしていたのは初めから「牧師」でなく、「教会」でなく、「自分探し」だったからだ。神の威を借り、信仰のベールをまとい、信徒とお金と時間を好き放題に使った挙句、結局何にもならなかった。
 ちなみにその活動が崩壊したことで、「教会が終わってしまった」と言うのは正確ではない。「彼の野望が終わった」と言うべきである。
 
 そしてその「終わり」こそ、もしかしたら最大の神の恵みだったかもしれない、と私は思う。

2015年4月8日水曜日

キリスト教的「ソーシャルメディア断食」に思うこと

「ソーシャルメディア断食」を推奨するキリスト教団体がある。

 ツィッターとかフェイスブックとかラインとかの各種SNSを一定期間使わないようにして、それらに対する依存から抜け出す、みたいな趣旨だ。実践した若者たちから「とっても良かった」「すっごい恵まれた」みたいな感想が寄せられている。

 SNS依存は一般的にも問題視されていることだし、若年層については特に注意が呼びかけられている。だからこれはクリスチャン子弟に限った問題でないし、基本的には良いことだと私は思う。
 SNSに限らず、夢中になっていることを一定期間やめてみると、イロイロ気づくことがあると思うからだ。
 たとえば以前も書いたけれど、携帯電話を1日持たなかっただけで私はずいぶん自由を感じることができた。何にも縛られていないと思えた(逆に言うと、いつも縛られているということでもある)。

 ソーシャルメディアの問題点は、承認欲求を増幅させ、あるいは仲間外れに対する恐怖心を煽るところにある。バーチャルな関係への妄想的依存もあるだろう。
 たとえばフェイスブックなんか見てみると、大半の書き込みは「リア充自慢」みたいな気がする。クリスチャンの場合だとそこに信仰自慢、試練自慢、栄光自慢みたいなものが絡んでくるから余計にウザい。私はそういうのに疲れてしまって、もう何年も前にアカウントを削除した。

 べつにそういう自慢が悪いという話でもないけれど、必要とも思えない。
「いいね」を沢山もらうと、次はもっと沢山の「いいね」をもらわなければ気が済まなくなる。「いいね」が付かないと、不安になる。べつに「いいね」とも思わないけれど、義理で誰かの書き込みに「いいね」する。

 そういうあまり意味のないスパイラルに気づけるとしたら、SNS断食も有効だと思う。
 けれどそれはキリスト教とか宗教とかと直接関係ない。教育とか精神衛生とかの分野である。なにもキリスト教団体だからと言って、必ずしなければならないことではない。

 そのキリスト教団体が「ソーシャルメディア断食」を勧める理由の一つに、いわゆる「誘惑を避ける」というのがある。明言していないけれど、ネットポルノの類を避けるとか、そういうことだ。
 現に実践者の感想に、「見てはいけないとわかりつつ見てしまうHPがあって、思い切ってスマホを捨てた」みたいなのがある。そういうのがSNS断食とは関係ないのに大々的に掲載されているのだから、やはり狙いはSNSだけではない。

 しかしそうなると話は変わってくる。それはSNS断食と言うよりメディア断食だからだ。そして根本的には過剰断食である。
 つまり誘惑を受けそうだからテレビは見ない、映画は見ない、雑誌は見ない、本は見ない、ネットは見ない、ということで、世界から遮断されていく。それを自由と彼らは言うけれど、まったく逆だ。窮屈な部屋に自分自身を追い込むことになる。

 もちろん誘惑は避けるべきだし、そのための工夫も必要であろう。けれど「全部禁止」を押し付けられ、それこそが信仰だと勘違いするのも違う。

 たとえば徹底的なポルノ断食をして「誘惑を退けた」と言ってた人が、何年後かに残念なことになる、みたいな話はよく聞く。それは単にガマンしていただけで(あるいは意識の外に追い出していただけで)、根本的に何一つ変わっていないことを示している。
 なのにそういうのを見ないようにして、「メディア断食したおかげで自分は聖化された」とか言うのは浅はかだ。仮想パーティーと同じで、表面を取り繕っているに過ぎないのだから。一時的に。

 一時的な「ソーシャルメディア断食」は、人によっては良い効果をもたらすかもしれない。けれどそれを悪として敵対視するとか、メディア全体を禁止するとか、そういうのはクリスチャンとして痛々しいこと限りない。それは聖書的「聖化」を目指すというより、なにか特別な存在になろう、優越な立場に立とう、とする野望でしかならない。

 これだけSNSが普及し、コミュニケーションツールとして日常化している時代にあっては、それに順応した方が早い。あえて使う必要もないけれど、使ってみれば案外便利なものである。それくらい自由に考えた方が、クリスチャンとして自由でないかと私は思う。

2015年4月5日日曜日

キリスト教的「救い」で解決されない問題をどう捉えたらいいのか、という話

 最近、DV問題の難しさを痛感する出来事があった。自分の無力さを感じつつこれを書いている。書いたところでどうにもならないことは重々承知している。
 
 今回取り上げるのは夫婦間、カップル間、つまり特別親しい関係にある男女間のDV問題についてだ。
 
 ところでDVは、日本の夫婦の離婚原因の第3位を占めているという。それだけ夫婦間DVが蔓延しているのである。けれどこれは離婚に至ったDVの数であって、おそらく現実にはもっと多い。つまりDVが延々と繰り返される夫婦・カップルは相当数存在している。
 
 残念ながらクリスチャン夫婦もその例外ではない。夫の暴力に妻がひたすら耐える、という牧師夫妻や信徒夫妻は存在する。
 クリスチャンの場合、信仰とか神様とかが絡むから、DV単体の問題では済まない。すなわち訓練だから耐えろという理不尽な信仰、いつか神様が助けてくれるという儚い希望、この試練にも意味があるんだという歪んだ愛、みたいなものが解決を邪魔する。だから夫はより暴力に甘え、妻はそこにさえ変な存在意義を見出す。
 
 あるクリスチャン夫婦がいて、夫が妻に長年暴力を振るってきた。あるキッカケでついにそれが露見した。そして妻の家族や周囲のクリスチャンらが、半ば強引に2人を引き離した。
 
 家族は離婚の方向で話を進めた。妻は初めこそ混乱状態にあったけれど、徐々に落ち着き、回復の過程を歩み始めた。かに思われたが、最終的に妻が下した決断は周囲を驚愕させた。
 
 夫のもとに戻る、という決断であった。
 
 日常的に暴力を振るわれ、死の危険さえある状況に自ら戻るというのは、普通なら考えられない。
 けれどそこにはDV関係にみられる「共依存」心理があるんだと思う。また神様が介入されるのではないかというクリスチャン的期待とか、もしかしたら夫が変わるかもという信頼性ゼロの願望とかもあるかもしれない。
 
 いずれにせよ妻は夫のもとに戻った。初めのうちは良いかもしれない。けれど結局元通りのDV関係に陥るのは時間の問題に思える。そうならないという期待を、私はどうしても持つことができない。
 
 なぜこんなことが起こるのか、私にはわからない。でも事実起こっているし、そこには何の救いも解決もない。また今回のように露見していないケースだって沢山あるだろう。そう考えると、キリスト教が提唱する「救い」って一体何なのだろうと思う。死後の天国行きの確証? 魂の救済? けれど現に苦しんでいる人がいて、何年教会生活を送っても解決していない。それでもなお「神を信じ続ければ・・・」と言われる。
 一体いつまで、何を待ち続ければいいのだろうか。
 
 今回のその妻の決断を思いながら、そんなことを考えてみた。もちろん何一つ答えはないけれど。

2015年4月4日土曜日

踏み絵を踏んだら失格、って単純すぎるでしょ

 神様を「真剣に」信じる。というのは良いことだろうし、クリスチャンなら当然のこととも言える。けれど聖霊派教会なんかだと、その「真剣さ」がちょっと行き過ぎている。
 たとえば「この世と分離しなければならない」ということでマスメディアに一切触れないようにするとか、クリスチャンとしか付き合わないとか、地域の神社仏閣を敵視するとか、そういう極端な感じ。
 
 礼拝も祈りも奉仕も一生懸命、決して妥協しない、というのは字面的には美徳っぽい。けれど実際のところは窮屈である。どれだけ祈ったか、どれだけ奉仕したか、どれだけ断食したか、みたいな基準で「霊的」評価がなされるからだ。
 しかもその基準は一定でないし、公平でない。上手に祈れる人、何かが得意な人、見栄えのいい人、牧師に気に入られている人なんかは高評価を得やすい。
 
 だからその「真剣さ」というのはクリスチャンをどんどん独りよがりにさせるし、窮屈にさせる。結果、本人は「すっごい霊的」と自身を評価しているのだけれど、第三者からしたらただの「変人」でしかない、みたいなことになる。自分の話したいことを話すだけで、全然対話にならない、という「霊的」クリスチャンはけっこう多い。
 
 またその「真剣さ」は、他のクリスチャンを裁くことにもつながる。
 たとえば禁教時代の「踏み絵」を取り上げて、
 
「踏まないで殉教した者たちこそ真のキリスト者」
「踏んだ連中は失格」
 
 みたいなことを平気で言う。そして自分たちは当然前者だ、と根拠なく自負している。
 
 殉教は信仰の表明として最高の形かもしれない。殉教がらみの美談は時代も地域も越えて沢山ある。「死に至るまで忠実であれ」と聖書も言っている(←ちなみにこれ、洗礼式でよく言われる台詞)。
 だから実際に殉教された方々を、私たちは尊敬すべきだと思う。
 
 けれど、「踏み絵を踏んだ連中は失格」と言うのは、殉教の強制だ。ダニエルと3人の友人たちの話を持ち出して、「ほら、彼らは死んでも金の像を拝まないと決心したから祝福を得た。あなたも信仰を選びなさい」みたいな話をする。そう言われた方は、殉教を選ぶ他ない。「真剣」であればあるほど。
 
 けれど話はそんなに単純ではない。
 踏み絵を踏んだ、いわゆる潜伏キリシタンや転びキリシタンの尽力があって信仰が後世に伝えられたのだから、「踏み絵を踏む=失格」という簡単な図式は成り立たない。むしろ彼らにこそ私たちは感謝すべきではないかと思う。
 
 踏み絵を踏んだ人たちのことを考えてみる。
 たぶん喜んで踏んだのではないと思う。むしろ辛く、苦しく、すごく葛藤した上でやむなく踏んだのではないだろうか。そこには「信仰か不信仰か」の単純な話だけでなく、家族のこととか、友人や恋人のこととか、年老いた親や幼い子供のこととか、そういう複雑な事情があったに違いない。それに加えて踏み絵を踏むという罪責感や惨めさもあって、きっとひどく絶望したんだと思う。
 
 たぶん後世の人間が「彼らは失格者だ」と断ずる以前に、彼らが自ら「失格者」だと断じていたんだと思う。
 
 しかし聖書を読むと、ペテロの大失敗をはじめとする多くの「信仰的失敗」を目にする。模範的「殉教」はすごく少ない。
「失敗してももう一度やり直せる」というのがキリスト教教理の一つだと私は信じているのだけれど、間違っているだろうか。悔い改めるチャンスがないとしたら、いったいどこに救いがあるのだろうか。また誰が救われるのだろうか。
 
 だから「踏み絵を踏んだ連中は失格」と平気で言う教会には要注意だ。あなたもいつか「失格」の烙印を押されるかもしれない。あるいは強制的に殉教させられることになる。でも実は、どちらも信仰とは関係ない。

2015年4月2日木曜日

教会が提供する「自由」について、花見しながら考えてみた

 昨夜、都内の桜は満開。そして強風のため散り始めた。私は短い時間だったけれど夜桜を見て、なんとなく花見をした気分になった。以下はそのときの写真。


 ところで花見というと、教会活動で行った「野外礼拝」を思い出す。
 桜が見ごろのある日曜日、「野外礼拝」という名目で、大きな公園に行ったのだ。

「野外礼拝」というと、礼拝もそこそこに皆で公園でノンビリするのが主目的、みたいなイメージがあるかもしれない。けれどその教会は違った。たくさんの音響機材を持ち込み、ちゃんとマイクテストとかリハーサルの時間とか持って、礼拝後のバーベキューの準備から片づけまでしっかり計画されている。ノンビリできるのはコアでない教会員だけで、スタッフは数日前からずっと準備をしている。当日も朝からバタバタだ。

 まあそれも牧師の意向というかコダワリなだけで、野外礼拝かくあるべきみたいなことが聖書に記されている訳ではない。しかしスタッフからしたらそれは神の意向と同じで、全力を注ぐ以外にない。

 という訳でその日の野外礼拝も仰々しい準備と計画が満載であった。

 ここにG兄弟というのがいる。彼は数日前からこの準備に追われていた。そして当日を迎えたのだけれど、バタバタしていていくつか忘れ物をしてしまった。けれど教会まで取りに戻る暇はない。

 それで礼拝とかバーベキューとかに若干支障をきたし、いろいろ予定通りに運ばなくなる。支障と言ってもマイクを一本忘れたからコーラスの声が入りにいくとか、食事中に流すCDを忘れたからBGMなしとか、普通の教会員からしたら全然気にならないレベルである。けれど牧師の方は黙っていない。案の定、烈火のごとく怒るのである。G兄弟は礼拝後、皆の面前で大いに怒鳴られた。

 G兄弟と同じ気持ちを私も何度となく味わった。だからよくわかる。
 後片付けをしながら、すごくやるせないのである。自分のミスなのは間違いないけれど、あそこまで怒鳴られ、辱しめられなければならないのだろうか。これが神様の望む「訓練」なのだろうか。いやいや、こんなことを考える自分がきっと不信仰なのだ、みたいなことをグルグル考える。

 傍らでは、桜の写真を撮りまくって盛り上がる見知らぬフィリピン人グループとか、彼らの大きなタガログ語とか、むこうの木の下で人生語りながら歌うおじさんとか、シートを敷いて花見を楽しむ無数の人々とか、彼らの笑い声とか、そういう何やかが平和に存在している。その隅っこで、半泣きのクリスチャンが、ケーブルを巻いたりスピーカーを運んだりしている。牧師の目をすごく気にしながら。

 夜桜を見ながらそんなことを思い出してみた。

 桜を楽しむ無数の未信の人々を、教会は「不自由だ」とか「この世の価値観に縛られている」とか言う。けれどそういう教会はどれだけ「自由」なのだろうか。少なくともG兄弟に自由はなかった。むしろ信仰という名の束縛と強制で、身動きできない状態だった。
 まるで十字架刑である。すでにキリストが身代わりに受けてくれたその刑を、ある教会はいまだ信徒らに強いて、磔にしている。

 そして今、教会員をやめてノンビリ夜桜を眺めている私も、自分を自由だと思っている。少なくとも教会員だった頃よりは。もう理不尽に怒鳴られることもないし、何かを強要されることもない。
 それを「実は不自由なんだ」とか言う輩はいるだろうけれど、まあ勝手にどうぞである。そういう輩が言う「自由」」など、私は心底遠慮したい。