キリスト教的「救い」で解決されない問題をどう捉えたらいいのか、という話

2015年4月5日日曜日

教会生活あれこれ

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 最近、DV問題の難しさを痛感する出来事があった。自分の無力さを感じつつこれを書いている。書いたところでどうにもならないことは重々承知している。
 
 今回取り上げるのは夫婦間、カップル間、つまり特別親しい関係にある男女間のDV問題についてだ。
 
 ところでDVは、日本の夫婦の離婚原因の第3位を占めているという。それだけ夫婦間DVが蔓延しているのである。けれどこれは離婚に至ったDVの数であって、おそらく現実にはもっと多い。つまりDVが延々と繰り返される夫婦・カップルは相当数存在している。
 
 残念ながらクリスチャン夫婦もその例外ではない。夫の暴力に妻がひたすら耐える、という牧師夫妻や信徒夫妻は存在する。
 クリスチャンの場合、信仰とか神様とかが絡むから、DV単体の問題では済まない。すなわち訓練だから耐えろという理不尽な信仰、いつか神様が助けてくれるという儚い希望、この試練にも意味があるんだという歪んだ愛、みたいなものが解決を邪魔する。だから夫はより暴力に甘え、妻はそこにさえ変な存在意義を見出す。
 
 あるクリスチャン夫婦がいて、夫が妻に長年暴力を振るってきた。あるキッカケでついにそれが露見した。そして妻の家族や周囲のクリスチャンらが、半ば強引に2人を引き離した。
 
 家族は離婚の方向で話を進めた。妻は初めこそ混乱状態にあったけれど、徐々に落ち着き、回復の過程を歩み始めた。かに思われたが、最終的に妻が下した決断は周囲を驚愕させた。
 
 夫のもとに戻る、という決断であった。
 
 日常的に暴力を振るわれ、死の危険さえある状況に自ら戻るというのは、普通なら考えられない。
 けれどそこにはDV関係にみられる「共依存」心理があるんだと思う。また神様が介入されるのではないかというクリスチャン的期待とか、もしかしたら夫が変わるかもという信頼性ゼロの願望とかもあるかもしれない。
 
 いずれにせよ妻は夫のもとに戻った。初めのうちは良いかもしれない。けれど結局元通りのDV関係に陥るのは時間の問題に思える。そうならないという期待を、私はどうしても持つことができない。
 
 なぜこんなことが起こるのか、私にはわからない。でも事実起こっているし、そこには何の救いも解決もない。また今回のように露見していないケースだって沢山あるだろう。そう考えると、キリスト教が提唱する「救い」って一体何なのだろうと思う。死後の天国行きの確証? 魂の救済? けれど現に苦しんでいる人がいて、何年教会生活を送っても解決していない。それでもなお「神を信じ続ければ・・・」と言われる。
 一体いつまで、何を待ち続ければいいのだろうか。
 
 今回のその妻の決断を思いながら、そんなことを考えてみた。もちろん何一つ答えはないけれど。

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