教会が提供する「自由」について、花見しながら考えてみた

2015年4月2日木曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
 昨夜、都内の桜は満開。そして強風のため散り始めた。私は短い時間だったけれど夜桜を見て、なんとなく花見をした気分になった。以下はそのときの写真。


 ところで花見というと、教会活動で行った「野外礼拝」を思い出す。
 桜が見ごろのある日曜日、「野外礼拝」という名目で、大きな公園に行ったのだ。

「野外礼拝」というと、礼拝もそこそこに皆で公園でノンビリするのが主目的、みたいなイメージがあるかもしれない。けれどその教会は違った。たくさんの音響機材を持ち込み、ちゃんとマイクテストとかリハーサルの時間とか持って、礼拝後のバーベキューの準備から片づけまでしっかり計画されている。ノンビリできるのはコアでない教会員だけで、スタッフは数日前からずっと準備をしている。当日も朝からバタバタだ。

 まあそれも牧師の意向というかコダワリなだけで、野外礼拝かくあるべきみたいなことが聖書に記されている訳ではない。しかしスタッフからしたらそれは神の意向と同じで、全力を注ぐ以外にない。

 という訳でその日の野外礼拝も仰々しい準備と計画が満載であった。

 ここにG兄弟というのがいる。彼は数日前からこの準備に追われていた。そして当日を迎えたのだけれど、バタバタしていていくつか忘れ物をしてしまった。けれど教会まで取りに戻る暇はない。

 それで礼拝とかバーベキューとかに若干支障をきたし、いろいろ予定通りに運ばなくなる。支障と言ってもマイクを一本忘れたからコーラスの声が入りにいくとか、食事中に流すCDを忘れたからBGMなしとか、普通の教会員からしたら全然気にならないレベルである。けれど牧師の方は黙っていない。案の定、烈火のごとく怒るのである。G兄弟は礼拝後、皆の面前で大いに怒鳴られた。

 G兄弟と同じ気持ちを私も何度となく味わった。だからよくわかる。
 後片付けをしながら、すごくやるせないのである。自分のミスなのは間違いないけれど、あそこまで怒鳴られ、辱しめられなければならないのだろうか。これが神様の望む「訓練」なのだろうか。いやいや、こんなことを考える自分がきっと不信仰なのだ、みたいなことをグルグル考える。

 傍らでは、桜の写真を撮りまくって盛り上がる見知らぬフィリピン人グループとか、彼らの大きなタガログ語とか、むこうの木の下で人生語りながら歌うおじさんとか、シートを敷いて花見を楽しむ無数の人々とか、彼らの笑い声とか、そういう何やかが平和に存在している。その隅っこで、半泣きのクリスチャンが、ケーブルを巻いたりスピーカーを運んだりしている。牧師の目をすごく気にしながら。

 夜桜を見ながらそんなことを思い出してみた。

 桜を楽しむ無数の未信の人々を、教会は「不自由だ」とか「この世の価値観に縛られている」とか言う。けれどそういう教会はどれだけ「自由」なのだろうか。少なくともG兄弟に自由はなかった。むしろ信仰という名の束縛と強制で、身動きできない状態だった。
 まるで十字架刑である。すでにキリストが身代わりに受けてくれたその刑を、ある教会はいまだ信徒らに強いて、磔にしている。

 そして今、教会員をやめてノンビリ夜桜を眺めている私も、自分を自由だと思っている。少なくとも教会員だった頃よりは。もう理不尽に怒鳴られることもないし、何かを強要されることもない。
 それを「実は不自由なんだ」とか言う輩はいるだろうけれど、まあ勝手にどうぞである。そういう輩が言う「自由」」など、私は心底遠慮したい。

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