「同情」でもなく「共感」でもない、クリスチャンに必要な態度について

2015年4月12日日曜日

教会生活あれこれ

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 まず看護学の話だけれど、患者に接する看護者の態度は次のどれであるべきか。

・同情
・共感
・同感

 看護学的には答えは「同感」である。
「同情」は「かわいそうに」と思うことだけれど、上目線であり、「やってあげる」「世話してあげる」という援助者優位の姿勢が根本にある。だからダメ。
「共感」は相手の立場に立つことだけれど、単純なスキルでもあり、感情なしでできる。それを「させていただく」というのもちょっと目線が上である。という訳でやっぱりダメ。
「同感」は相手の気持ちを同じように感じることで、対等な関係でなければできない。だから「してあげる」でもなく、「させていただく」でもない。人間対人間のぶつかり合いだから簡単でもない。

 この3つで本当に信頼関係を築けるのは「同感」だけである。と、いうのが看護学の講義から持ってきた話。

 これを教会に当てはめてみると、クリスチャンが何かする動機は「同情」が多い気がする。
 たとえば敬虔で「霊的」に見えるクリスチャンが、新来者に声をかける。あくまで丁寧な態度で歓迎の意を表す。けれどそこには「歓迎してあげる」「声をかけてあげる」という動機が見え隠れすることが多い。

 実際、ある教会では「新来者を歓迎する方法」が講義されている。
 新来の男性には男性が、女性には女性が、若者には若者が、年輩者には年輩者がそれぞれ歓迎するようにするとか、初めの接触で連絡先まで聞くとか、未信者なら福音を簡単にでも聞かせるとか、まあいろいろルール化されている。

 だから彼らが新来者に声をかけるのは「仕事」であって、敬虔さを示す「証明」である。べつに新来者のことを気にかけている訳ではない。あえて言うと、気にかけているフリをしているだけだ。もちろん皆が皆という訳ではないだろうけれど。

 多少強引かもしれないけれど、「同情」も「共感」も「自分がどう見えるか」という自分軸の話でしかない。「こんなに同情できてる自分ってステキ」とか、「こんなに共感できる自分って対人援助スキル高い」とか。
 けれどそれは、「信仰」という皮を被ったナルシストというものだ。

 そう考えると「同感」がなかなか到達できない域であることがわかる。
 完全に対等になって同じ気持ちを分かち合うというのは、一朝一夕にはできない。ぶつかったり拒絶されたり、騙されたり裏切られたり、良くなったと思ったら元に戻ったり、自分も相手に迷惑をかけたり、そんな繰り返しの中で徐々に育んでいく種類のものだと思う。しかも時間をかければ必ずできるというものでもない。何の保障もない。けれどやらないことには何も生まれない。

 そこまでするには一定の決心が必要だと思う。そしてその決心こそ本当に難しい。それはすなわち自己犠牲だからだ。

 その決心を示してくれた人として、私はキリストを挙げたい。しかし他に誰を挙げたらいいだろうか。はたして今日、どれだけのクリスチャンが偽善を脱いで、その決心を示すことができるだろうか。たいへん興味深い話だ。

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