自分の野望のために信徒をさんざん利用し、虐げ、逆らう者を容赦なく排除してきた牧師がいた。
彼はいわゆる二世牧師。子供の頃から、親の惨めな教勢からくる不遇に甘んじていた。そしていつの頃からか心に決めていた。自分が牧師になったら、決してこんな惨めな思いはしないぞ、と。
その過剰な自尊心というか、コンプレックスというか、野望というか、そういうものが彼を突き動かした。そして若くして牧師になった。親が何十年かけて育ててきた教会を横取りした。形としては「地域教会の若手主任牧師」「次世代を担うホープ」となった。
彼は「次世代牧師」に多いビジネスマン・タイプで、自己啓発系の話が大好きだった。そして聖書にあるようなないような考え方ややり方を導入し、ホウレンソウとかマインドマップとかポジティブシンキングとか「良い習慣」とか、そういうのを次々と信徒に押し付けた。教会の文化にするとか言って。
そして事業にも乗りだした。まあ大半が失敗か、尻切れトンボになるのだけれど。
しかし中には軌道に乗った事業もあった。福祉系の事業だった。キリスト教メディアにも取り上げられ、少しは名を知られた。その頃から次第に鼻が高くなった。
ついに子供時代の不遇を、挽回した訳である。
その事業はしばらく続いた。最初のころは華々しかった。けれど、あちこちに破綻をきたしはじめた。その破綻を繕うことで新たな破綻が起こり、破綻が破綻を呼び、もはや沈没寸前となった。いやもう沈没しかけていた。その破綻の連続はまるで彼自身の人格を現しているようだった。今にして思えば。
残念なことに、彼のやってきたことはキリスト教信仰とは関係なかった。口では「神様のために」とか言っていたけれど、結局のところ自分が有名になるために、教会という(自分にとって)都合のいい組織を使い倒しただけだった。自分の承認欲求が満たされることが、彼にとって全てだった。
ある日突然、その教会も事業も崩壊した。
まさかのタイミングであった。おそらくそれまでで一番盛んで、一番活発な時に見えたからだ。いろいろなことが新しく始まるというその時、急に足元をすくわれた。
ノアの洪水を不意に食らった人々も、まさにそうだったに違いない。
まさか今日、
まさかこの時、
まだこれが終わっていないのに、
まだあれを成し遂げていないのに、
今終わる?
その教会は、「自分たちこそ神の御心を知る者たち」と普段から自負していた。けれど実は、御心から最も遠い人々だった。わかっているつもりがわかっていない、見ているつもりが見ていない、聞いているつもりが聞いていない、そんな哀れな人々であった。
そしてそれは、牧師の姿そのものであった。
しかしそれも仕方がない。その牧師がしていたのは初めから「牧師」でなく、「教会」でなく、「自分探し」だったからだ。神の威を借り、信仰のベールをまとい、信徒とお金と時間を好き放題に使った挙句、結局何にもならなかった。
ちなみにその活動が崩壊したことで、「教会が終わってしまった」と言うのは正確ではない。「彼の野望が終わった」と言うべきである。
そしてその「終わり」こそ、もしかしたら最大の神の恵みだったかもしれない、と私は思う。