礼拝の司会者に捨ててほしい「こだわり」

2015年4月12日日曜日

教会生活あれこれ

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 礼拝の司会者について。

 司会者になるとイロイロ考える。初めにどんな挨拶をしようか、どんな祈りをしようか、賛美の選曲をどうしようか、なにか特別なアナウンスが必要か、何か特別なプログラムを入れようか、等々。それでいろんな試行錯誤を繰り返し、反省したり学んだり、というのが通常「司会者」が通る道だろうと思う。

 そういう司会者の試行錯誤は、基本的に良いものだろう。その根本に「良い礼拝がしたい」という動機があるからだ。またその他者への奉仕の気持ちも評価されるべきだと思う。
 と言ってもそれは当たり前の話でもある。自分の責任に対して最善を尽くしたいと誰もが願うからだ。

 ところである司会者らは、「自分のスタイル」みたいなものを確立している。
 例を挙げるとキリがないけれど、たとえば必ず全員である聖句を唱和するとか、挨拶の時間を長く持つとか、ランダムに信徒に祈らせるとか(←すげー迷惑)、いわゆる「霊歌」の時間を長く持つとか、イロイロある。

 べつにスタイルを持つのが悪いとも思わない。けれどそういうのは多くの場合、押し付けがましい。

 たとえばただおとなしく礼拝したいだけなのに、なんでいきなり代表の祈りをしなきゃいけないの? とか、なんで全員とハグしなきゃいけないの? とか、無理矢理「霊歌」(?)を歌わなきゃいけないの? とか疑問に思う。それって本当に聖書的なんですか? あなたの単なるこだわりなんじゃないんですか? とか思う訳である。

 司会者とはまず公平であるべきだし、常識的であるべきだし、何が起こるかわからないみたいな不安感を与えるべきではない。どちらかと言うと月並み、退屈なくらいがちょうどいい。保育園とか幼稚園とかじゃないんだから、手取り足取りしてもらう必要はない。そういうのはうっとおしいだけだ。

 もちろんそこには信徒の側の無思考あるいは惰性もあるだろう。いつもこうしているから、これが習慣だから、みたいなことで礼拝ってできてしまう。慣れた仕事と同じだ。何も考えなくてもいい。

 ただそういう信徒の側の問題があるとしても、司会者は変なこだわりを捨てるべきだと私は思う。たとえば「自分が司会の時は必ず〇〇をやります」とか言う人がいるけれど、それってただの自己満足でしょ? 自己満足の押し付けでしょ? としか私には思えない。そういうのは、個人の礼拝にとどめておいてもらいたい。

 あなたにとって良いことが、必ずしも全員にとって良いことではない。そんなの当たり前なのだけれど、なぜ気づかないのかわからない。そこがクリスチャンの浅はかさなのだろうか。

 そういうことがわからない司会者は、こう反論するかもしれない。
「でも礼拝って自由でしょ」
 その通り。礼拝は自由です。ただその自由をあなた自身が奪っていることに、気づいてませんね。

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