「救済者」と「被害者」の関係では助けられない問題もある

2015年4月18日土曜日

雑記

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 少し前にDV問題について書いたけれど、その続きみたいなことを書く。

 既婚・未婚を問わず男女のカップルにDV問題が多く潜んでいるのは、前回書いた通り。そのほとんどが密室内で行われ、被害者のほとんどが反抗できない女性であり、かつ声をあげられない状況にあるから、その数を正確に知ることはおそらくできない。相当な数のDVカップルが潜在しているのではないかと思う。

 そしてそれは悲しいことだ。けれど現に起こっているし、ほとんどの場合まわりは何もできない。私がかつて介入できたのは、教会という特殊な環境だったからだと思う。教会は(種類にもよるけれど)家族の境界線が曖昧になる傾向にあり、信徒という「他人」が「家族」みたいな存在になりやすいからだ。
 
 だからそういう例外を除いて、私たちはDV被害についてほとんど何もできない。被害者から相談でもされなければ。

 けれど被害者が誰かに相談するというのも、非常に稀なケースだ。被害者が誰かに相談できるとしたら、そのケースは少なくとも解決に向かっていると思う。問題は「誰にも相談できない」「じっと耐えるしかない」という状況にある。
 
 そしてそういう状況は、普通ではちょっと考えられない感覚に思える。「自分を大切にしないと」「なんでそんな目に遭って逃げ出さないんだ」みたいに思う人もいるだろう。けれど誰もがそう思えるならDV被害など存在しない。だからそれとは違う感覚も存在している。
 
「私がガマンすれば済むことだから」と言う被害者もいる。それと同じ気持ちを持つことは私にはできない。むしろ「ガマンする必要などないのでは」と思う。「もっと自分を大切にしないと」と思う。けれどそれを言ったところで何にもならない。被害者の助けにはならないし、被害者もそんなことは求めていない。
 
 まずすべきなのは、「自分がガマンすれば済む」という気持ちを否定しないことだと思う。被害者自身が思っていることをそのまま受け入れることだと思う。そうでないとその先に進むことはできない。理不尽に思えても「そうだよね」と言えなければ、被害者の側に立つことはできない。
 
 ちなみに「被害者」という言葉も使うべきでないと私は思う(本記事中では便宜上その表現を使っているけれど)。本当にその人の側に立ちたいのなら、「被害者」という視点は捨てるべきだ。
 もちろん法的に見てそれが「被害」ではあるのは間違いないけれど。
 
 DV問題にかかわる機会があるならば、そういう視点がまず大事だと私は思う。専門書を読んでみるのもとても助けになる。

「救済者」と「被害者」の関係で助けられるケースもあるかもしれないけれど、私の感覚では、あくまで「人」対「人」の関係でなければ、それは叶わない。それはもはや「助ける」という行為でないからだ。その人を理解し、自分自身も理解され、ぶつかったり仲直りしたりしながら、共に生きていくことだからだ。

 自ら助けを求められない人に何かしようと思ったら、私にはそれくらいしか思いつかない。そしてその生き方をきっとキリストは支持してくれるだろうと信じている。

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