そんなのキリスト教の礼拝と呼ぶな、という話

2015年4月15日水曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
 有名説教者がキリスト教の集会で説教する。巧みな話術で聴衆を湧かせ、笑いあり涙ありの「名説教」を披露する。聴衆は前半は泣くほど笑い、後半は感極まって泣く。眠っている暇などない。

 しかしその説教、お笑い部分を除くと、骨組みは至ってシンプル。「神はあなたを愛している」それだけ。聖書なんか開かない。とにかく楽しく笑わせ、盛り上がったところで「神の愛」で刺す。聴衆はイチコロ。ボロボロ泣いて見境なくなる人もいる。

 極め付けは説教後の「招き」。
「この神の愛に感動した人は、講壇の前に出てきなさい!」
 という訳で感動しちゃった人々が、説教者の下に押し寄せる。そこで説教者に直接祈られて、また号泣。係の人に抱きかかえられてやっとのことで席まで戻る人までいる。

 というような光景は、聖霊派やカリスマ派やそのへんの教会で日常的に見られる。ほとんど毎週と言っても過言ではない。信徒は毎週毎週、「今日も恵まれましたね」とか言って帰っていく。何がどう恵まれたのかはよくわからない。

 こういうのが「霊的」「命がある」「生きている」「神が働く」教会らしい。
 彼らによると、このような光景がない教会には、神はおられない。あるいはあんまり働いておられない。つまり彼らの「神」はすごく不自由で制限された存在だ。神なのに自由に動けない。おかわいそうに。

 しかし実は、上記の集会のメッセージ部分だけ切り取ると、落語の寄席と何ら変わらない。散々笑って泣くだけだから。聴く人の聖書知識とか信仰態度とかに訴えかけるものは皆無。テレビ番組とか映画とかを楽しむのに似ている(そこまで娯楽としてのレベルは高くないけれど)。

 そして「招き」部分だけ切り取ると、ライブ会場で熱狂するファンたちと何ら変わらない。本人たちは真剣に「祈っている」つもりだろうけれど、感動話に泣き晴らした後なのを忘れている。熱く込み上げる感動を、「聖霊の臨在」とか「神の愛」とかと勘違いしているだけなのでは? 少なくともその可能性があることを、彼らは考えない。

 そういう集会は本当に「聖霊の臨在」に溢れているのか。あるいはただの「泣き笑い」に溢れているのか。それを判断する一つの方法は、その「実」を見ることであろう。すなわちその集会で人がどれだけ変わるのか、成長するのか、である。

 けれど残念なことに、そういう集会に何年参加し続けても、何も変わらないのがほとんどだ。泣き笑いや祈りや賛美で「霊的」に振る舞うのは上手になるかもしれない。けれどそれだけだ。結局彼らの関心は「自分がどれだけ霊的に見られるか」「どれだけ目立つか」「どれだけ人に貢献しているように見えるか」といった「見てくれ」にしかない。
 だから何十回、何百回あるいは何千回そういう集会に参加し、説教に感動し、「招き」に応じて泣きながら祈ったとしても、そういう「見てくれ」に執着する以上、いわゆる「聖化」とは何ら関係ない。むしろ一向に変化しない姿を露呈してしまっている。

 そういうケースで言えば、説教者も聴衆も毎回毎回「感動劇場」を楽しんでいるに過ぎない。毎回「水戸黄門」の印籠シーンでカタルシスを感じる視聴者と同じだ。来るとわかっていて感動する。その感動を繰り返し繰り返し楽しむ。

 そういうのをキリスト教とか礼拝とか呼んでほしくないと思うのは、私だけだろうか。

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