2015年4月22日水曜日

「愛の挑戦」ってクリスチャンだけの話じゃないよね

『ファイヤーストーム』というクリスチャン映画がある。題名的にSFスペクタクルっぽいけれど、全然違う。ある夫婦の回復の物語である。
 
 ちなみに原題が"Fire ploof"(防火)なのに、なんで邦題を「嵐(ストーム)」にするんだろうって不思議に思ったけれど、まあそこは枝葉末節。
 内容は至ってシンプル。破局寸前の夫婦が周囲のクリスチャンらに導かれ、やがてクリスチャンになり、関係を回復していく、というもの。最後の場面など感動の涙なしには見られない。特にクリスチャン夫婦であれば。
 劇中主人公が実践したテキスト「愛の挑戦」は書籍にもなり、キリスト教書店で一時期話題にもなった。
 この映画のキモはこれ、「愛の挑戦」にある。相手への「愛の行動」が40日分用意されていて、それを毎日続けるうち、いろいろなことに気づいていくといういわゆるハウツー本。たとえば「花を贈る」とか「食事をご馳走する」とか、そういうことを積み重ねて、相手を愛することについて学んでいく訳だ。
 これそのものは素晴らしいことで、夫婦のみならずカップルにとって必要な要素を沢山含んでいると思う。かついかにもキリスト教信仰に富んだ営みに思える。相手への無償の愛などまさにキリストの十字架を体現しているようで泣けるからだ。
 だから「愛の挑戦」には一定の成果をあげる可能性があると言える。
 けれど同時に気を付けなければならないのは、それはキリスト教信仰を取り入れたハウツーの域を出ない、ということだ。つまりその40の行動をすることがイコール聖書的・信仰的なのではない。けれどそう勘違いしてしまって、「クリスチャン夫婦はこれをすべし」みたいな話になるのは行き過ぎだ。またさらに話が広がって「夫婦たるのもこれをすべし」というのも違う。

「愛の挑戦」はあくまで方法論の一つであって、キリスト教信仰をそのまま体現したものではない。また普遍的な夫婦愛を体現したものでもない。ただそこへ向かう可能性を示したに過ぎない。

 もちろん劇中、主人公の父親は「愛の挑戦」を「ただのツールに過ぎない」と言っている。その通り。ただのツールである。

 けれどそのツールをキリスト教信仰と同等に捉えてしまう傾向がある。それは「こうすれば大丈夫」というような意味でご利益主義であって、極端に言えば神を利用することである。「繁栄の神学」と同じで、「神からは良いものしか受けない」「絶対に祝福されなければならない」という考え方を含んでいる。

 夫婦関係はそんなに簡単なものでなく、「愛の挑戦」をしても何をしてもどうにもならないことはある。良いこともあるけれど悪いこともある。そしてそれはクリスチャンかどうかに関係ない。
 でもそれが現実であって、キレイごとで済まされないのが人生であろう。そういうことに蓋をして、「愛の挑戦」されあれば・・・とか言うのは、昨今のクリスチャンに多く感じる「浅はかさ」でしかないと私は思う。

1 件のコメント:

  1. 初めまして。

    あなたの最近の記事が引用されている、あるアンチ・キリスト教のブログから飛んで来ました。

    今回の記事、興味深く拝読しました。私は米国在住ですので、件の映画は数年前に現地で話題になりましたので覚えています。 未婚の私には、少々「ふーん。へぇー。そんなものかー。あ、っそ。」という、どこか疎外感と現実感の無さを感じる面もありました。

    私の近隣にも、神学を学び、関連する分野で博士号まで取った人がいますが、その人は今、離婚の危機に直面しています。・・・本当に「生きる」ということは、綺麗事では済まされないと思わされました。 と、思えば、クリスチャンとして結婚して50年、今でも幸せ、という夫婦もいます;人の人生には、そういう美しい輝きもあります。 

    人生の汚さと美しさ。人に内在する善と悪。その両方を全身全霊で受け止めて、それでもなお神を信ずること。キリスト教とは(キリストとは)、そういうもの(かた)なのだと、私は思っています。

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