2016年6月29日水曜日

The・ニセ預言

 私が教会やいろいろな集会で実際に見聞きした「預言」について、紹介してみる。

 はたして現代も主からの「預言」はあるのか? とか、「預言」の定義とは何か? とか、そういう高尚なお話ではない。私が体験したことをありのまま書くだけ。べつに反論とか反証とか求めてない。
 なんならそれを「預言」と呼ばなくてもいい。とにかく、「神が○○と語っておられる」みたいな文脈で語られ「何か」についてのお話。
 ではさっそく。

ニセ預言1
 教会にやってきた「大物ゲスト」の言葉。
「この教会は賛美の賜物に満ち溢れています。この教会は、天の御使いたちの賛美に溢れる教会となるでしょう」
 その教会、数年後に解散しました。

ニセ預言2
 またまた教会にやってきた「大物ゲスト」の言葉。
「この街は聖なる街と呼ばれるようになるでしょう。駅前からパチンコ店が消え、風俗店が消え、きよい街並みに変えられていきます」
 確かにパチンコ産業の不況で、パチンコ店は減りました。でも代わりに風俗店とか、いかがわしマッサージ店とかが増えました。ちなみに大手パチンコ店は健在です。

ニセ預言3
 某牧師が、日本に永住希望で来日した外国人クリスチャンに向かって、祈りの中で言った内容。
「あなたは日本に遣わされています。あなたのフィールドはこの国です。あなたはこの国で、祝福の基となるでしょう」
 その人、いろいろあって、もう日本にいません。

ニセ預言4
 教会にきたゲストが、信徒一人一人に「個人預言」をした。その中の一つ。
「あなたはいつも明るく、笑顔で主に仕えます。あなたは自由な人です。踊りながら主に仕えるでしょう」
 その方、抑うつ症状で治療中です。ちなみに踊ったことは一度もありません。

ニセ預言5
 ある集会で「霊の戦い」をした後、牧師が興奮して。
「ハレルヤ! 今日、日本を縛る巨人の一人を打ち破りました。主はこれからも、この教会を用いて日本を解放していくでしょう!」
 繰り返しますが、その教会、もう解散してます。

ニセ預言6
 またまたある集会で、「霊の戦い」をした後、牧師が興奮して。
「ハレルヤ!今日、日本を東西に分断していた憎しみが打ち破られ、霊的和解がなされました! これから日本に、天の御国が侵入してくるのを、私たちは見るでしょう!」(だいぶ意味不明)
 天の御国が侵入したかどうか不明です。

ニセ預言7
 ある集会で牧師がした個人預言。
「あなたは今まで、大変苦しんできました。しかし、新しい季節がやってきます。どうか主に期待して下さい。あなたは一歩ずつ、解放されていくでしょう」
 新しい季節が何なのか不明ですが、たしかに四季は巡っています。

ニセ預言8
 ある「リバイバリスト」が、ある高齢牧師をつかまえて。
「あなたは日本のリバイバイルを見るまで、決して死にません」
 ↓
 亡くなりました。

ニセ預言9
 某クリスチャン実業家の談。
①「2014年10月に携挙が起こります! 皆さん、準備はいいですか?」

②「起こりませんでした。私にはわかりませんが、なぜか主が延期すると語っています」

③「主がその憐れみによって、携挙を回避されました! ハレルヤ♪」

④「え? 私が携挙が起こるなんて言ったみたいに思ってるんですか? ウケる~」

 絶句。

ニセ預言10
 ある終末狂い牧師の談。
「2012年9月に、日本はふたたび揺り動かされる(大地震が起こるという意味)。だから今のうちから目を覚まして備えなければならない」

 それより前に、その牧師は失踪しました。ちなみに大地震も起こってません。

■解説

 たぶんこの手の話は、他にも沢山あると思う。私の知り合いに聞いて回れば、おそらく書ききれないくらいの量になる。
 でもどれも、上記の例と同じようなものだ。つまり、①完全なハズレか、②アタリかハズレか判定できないもの。
 

 なんでこんなニセモノがまかり通るかと言うと、 1つには、「なんとでも言える」というのがある。
 たとえば上記の9番。

 いついつ携挙が起こる。→延期された。→回避された。→良かったね。

 というパターン(ほとんど言い逃れ)。あるいは、

 あなたに大きな変化が起こります。→(そのうちに転勤や昇進や進学や結婚などのライフイベントが起こる)→ほら、変化したでしょ。

 みたいなパターン(占いと同じ原理)。
 口のうまい人間にかかると、どうにでもなってしまう。聖書をみると、言った通りのことが起こらなければ即「偽預言者」とされるのだけれど、なぜかそのあたりはガン無視される。

 そしてガン無視される理由として、「尊敬する牧師先生が言うことだから」「牧師先生がお呼びしたゲストの先生の言うことだから」「日本で有名な先生の言うことだから」みたいな、バイアスのかかった見方がある。つまり見えない神の言葉より、見える「先生」の言葉の方が信じやすい。

 だから上記のようなニセ預言が平気で語られる。そしてこれからもどんどん量産されていく。
 というわけで現状報告おわり。

2016年6月27日月曜日

キリスト教的「権威」と、牧師の「権威」を試す方法について考えてみた

 たぶん初めて書くけれど、「権威」について。

 やたら「権威」を強調する牧師や教会リーダーがいて、ローマ13章1~2節の「権威に従え」とか、ペテロ第1の5章5節の「長老たちに従え」とか、へブル13章17節の「指導者に服従しろ」とかの聖書武装で、信徒に服従を迫ることがある。一見聖書信仰的な気がするけれど、同時に嫌な感じもする。
 たとえばこんなケース。


 ある集会。教会にゲストスピーカーが来て、講壇で話している。牧師は司会席でふんぞり返っている。信徒がメモしたりウンウン頷いたりしながら聞いていると、突然牧師がマイクを持って、ゲストの話を遮った。「皆さん、ちゃんとアーメンと言いなさい! 先生(ゲスト)は犠牲を払って来てくださっているんですよ? 尊敬をもってお話を聞きなさい!」
 というなぞの激怒。


 真夏の礼拝中。牧師が講壇で説教している。会堂は冷房が強めにかかっている。寒くなってきた信徒が、冷房を弱めにした。それを見ていた牧師が一言。「冷房は強くして下さい。講壇は暑いんですよ? 説教者に合わせて下さい」
 というなぞのワガママ。


 某有名説教者の集会にて。赤ん坊が泣きだすと、説教者が一言。「赤ん坊を会場から出して下さい。聖霊様の声が聞こえなくなります」
 泣き声で聞こえなくなる「声」なら、聞かなくていいんじゃね?

 4
 ある牧師(?)の談。
「信徒の家で牧師が集会をする時、権威は当然牧師にあります。しかし電話が鳴ったり宅急便が来たりお茶を出したりで、集会の権威はその家の人にあります。すると複数の権威が存在することになり、統制がとれなくなります。あるいは神からの霊的権威以外のものが優先され、人間的な集まりになってしまいます」
 つまり、客だけど我が物顔させろ、という主張。

「権威」をどう理解しているのかすごく疑問。こういうの。もしかしたら、「人を服従させる権利」とか、「人を支配していい権利」とかだと勘違いしているかもしれない。そういう人は牧師とかリーダーとかの肩書きを返上して、勉強し直した方がいいと思う。害にしかならないから。

 先に挙げたローマ書もペテロ第一の手紙も、文脈があっての「権威に従え」である。その文脈を無視して、切り取って使ってはいけない。
 もし聖書を切り取って使っていいなら、たとえばローマ3章8節は「悪をしようではないか」という話になってしまう。じゃあクリスチャンの皆さん、思う存分「悪」をしましょう(冗談)。

■「権威」はえらい?

 上記の牧師たちをみていると、どうも自分のことを「えらい」と思っている気がする。
「えらい」から上からものを言っていい、
「えらい」からワガママが通る、
「えらい」から優先される、
「えらい」から大切にされて当然、
とか。

 韓国でいくつかの巨大教会を訪問したことがあるけれど、お茶を出してくれた秘書にめちゃくちゃ怒っていた牧師がいた(どの教会とは言わない)。そこだけ通訳してくれなかったからよくわからなかったけれど、熱いお茶でなく冷たいお茶を出せ、みたいなレベルの話だったと思う。で、ソファにふんぞり返った牧師が秘書の若い女性をめちゃくちゃ怒鳴りつけてて、かなり引いた。思えば秘書の方ははじめからビクビクしてる印象があったから、たぶん日常的に牧師に怒鳴られてたんだと思う。本当にかわいそうに。

 たぶん牧師に言わせれば、「自分は霊的権威者だから」「普段から奉仕で労しているから」みたいなことを言うんだろうけど、だから何?
 先のペテロ第一の箇所で言えば、リーダーは群れを「支配」するのでなく、群れの「模範」でなければならない。じゃあ、秘書の出したお茶が気に入らないからって怒鳴りつけるのは、模範なの? 違うでしょう。単なる支配欲でしょう。

 また権威を「霊的なもの」と言う人もいるけれど、いやいや、権威とは実際的であるべきだ。つまり模範的であり、親切であり、愛に満ちたものであるべきだ。どうしても「先生」と呼ばれて立場が強くなりやすいのだから、なおのこと、柔和な姿勢を見せなければならないと思う。「霊」という見えないもので、自分の足りなさや弱さをごまかしてはいけない。

■本当の「権威」には犠牲がつきもの

 たとえば先に挙げたへブル13章17節は、「指導者に服従しなさい」と明言しているけれど、その理由として、「あなたがたのたましいのために見張りをしているのだから」と記している。つまり卑しい利得でなく、真心から信徒のために労している指導者であることが、服従のための条件となる。誰にでも服従しなさい、という意味ではない。

 またそれが「真心」かどうかを判定するのは、牧師自身のはずがない。牧師が「私は真心から牧会している」とか言ったら絶対信用してはいけない。本当に真心からしている人は、いちいちそんなアピールしないからだ。というかできないからだ。真心からすればするほど、それが足りていない現状を目にするからだ。

 つまり牧師が精一杯やってくれているかどうかを判定するのは、それを受ける信徒自身に他ならない。信徒が不十分だと判断したら、その牧師は少なくともその信徒にとって不十分なのだ。牧師はあれこれ反論しないでそれを真摯に受け止めなければならない。その意味でも、牧師は多くの犠牲を払う立場にある。

 それに、聖書を読むには、その書かれた時代背景を考慮する必要がある、というのはよく言われる。その通りだと思う。たとえば神とクリスチャンとの関係を、羊飼いと羊との関係に当てはめて説明するのは、当時のユダヤに羊が沢山いたからだろう。これがエスキモーの土地だったら、羊でなくトナカイだったかもしれない。いやトナカイの生態はよく知らないけど。
 とにかく、時代背景を考慮する必要がある。

 で、時代を考えてみると、当時はローマ帝国による迫害が激しくなる一方だった。
 迫害というのは現代日本ではなかなか想像のつかない事態だけど、クリスチャンというだけで投獄されたり、拷問されたり処刑されたりした。でも実際のところは、クリスチャンが根こそぎ全員投獄される事態より、指導者が代表として投獄されることの方が多かった。ペテロが捕まった箇所を見てもわかるけれど、指導者つまり代表者が、捕まったり、拷問されたり、処刑されたりすることが多かった。見せしめとして。

 つまり指導者(今で言えば牧師やリーダーたち)は、皆を代表して、真っ先に犠牲にならなければならない。特に迫害下においては。また迫害まで行かなくても、たとえば地域との揉め事や行政との揉め事があれば、代表してその責めを負わなければならない。そうして信徒を守らなければならない。

 そういう存在であるなら、服従しろとか尊敬しろとかの意味もわかってくる。お茶が熱いからって怒鳴りつける牧師を尊敬するのとは、ぜんぜん話が違う。

■牧師の「権威」を試す方法

 それで是非やってみたいのが、地域を挙げての壮大なドッキリ作戦。地域の人に協力してもらって、大迫害が起こった設定にする。で教会が襲われて、牧師が連行されて、不当な裁判にかけられて、どんどん不利な立場に立たされて、さてそのとき牧師はどうするか? まさか信徒を売ったりしないよね? とういのをすっごく見てみたいんだけど、誰か協力してくれないかな(またまた冗談)。

2016年6月24日金曜日

世界情勢「読み解き」クリスチャンの目的のズレ

 イギリスの国民投票で、EU離脱派が勝利した。以前からの噂が国民レベルで意思表示されたことになる。さっそくポンドが急落したり、首相が辞意し表したりと、いろいろ動きがある。

 ところでEUは、聖書の(過激な)終末論者に言わせれば、旧約のダニエルが夢で見た「金の像」の「足の部分」に相当するはずだ。金の像の10本の足指は国々の連合を表していて、一部が鉄で一部が粘土なのは、国々の強弱を意味している、とか。だから金の像の頭、胸、胴に当たるバビロン、ペルシャ、ローマに続いて世界を支配するのは現在のEUで、反キリストもヨーロッパから出る、みたいな解釈を彼らは大真面目にしている。

 でもイギリスがEUを離脱したら国々の連合も綻ぶわけで、彼らにとって都合の悪い動きだと思うけれど、そのへんはどう解釈するのだろう。またまた「主の哀れみにより回避された」みたいな、都合のいい解釈をするかもしれない。

 終末について学んだり論じたりする上で大切な姿勢は、「現在の世界情勢に聖書の記述を無理やり当てはめない」ことだと私は考えている。全然意味がないから。だいいちどの時代にも大抵、終末を思わせる出来事や雰囲気はあった。西暦1世紀のクリスチャンたちだって、自分たちの時代を終末と思っていた。だから現代も終末っぽい気がしたとしても、そうだと言い切ってしまうことはできないはずだ。もちろん終末でないと完全否定することもできない。けれど同じ論調で、完全肯定することもできない。

 終末において大切なのは時代読み解きクイズとか聖書推理とかでなく、キリストが終末について何と言っているかだ。そしてそれはすごくシンプルなことだ。すなわち「惑わされないようにしなさい」

 そういうことを考えても、現代を終末と決めつけてしまう姿勢には、クリスチャンとしての「目的のズレ」を感じる。

 たとえば、仮にEUが世界を支配する「終末期のバビロン」だとして、我々キリスト教信仰を持つ者は具体的に何をするべきだろうか。
 今のうちに、EU内の一等地に土地でも購入しておくべきか。
 それともユーロを大量に買い込んでおくべきか。
 あるいはEUを統括する組織にスパイでも送り込んでおくべきか。有力者たちの人脈を作っておくべきか。

 そういうのは、仮にEUが悪の帝国となって世界を支配し、世界中でクリスチャンを迫害するようにでもなったら、何かの役に立つかもしれない。その時は、自分たちのことを「油を絶やさなかった賢い娘たち」にたとえて気分がいいかもしれない。
 でもそれらがキリストの教えを実践することと何か関係あるかと言うと、何もないと私は思う。自分(と身内)の暮らしとか安全とかを確保したいだけに思えてならない。目的がズレている気がしてならない。

 たとえばだけど、キリストが最後の夜をゲツセマネの園でひっそりと過ごすのでなく、ピラトのもとにこっそり行って裏取引でもしていれば、死刑にならずに済んだかもしれない。でも、それは彼の目的ではなかった。

 こうすればいいというライフハックと、本来の目的との整合性の問題。

 そういう目的のズレはよくあると思う。昨年のイスラエルによるガザ攻撃をみて「これはマジ終末」とかほざく人もいたし、他にもキリストが結婚していたかもしれないとか、隠し子の血統が現在まで脈々と続いているとか、日本人はユダヤ人の血を引いているとか、ドロローサのキリストの顔を拭った布切れが見つかったとか、だから何なのっ話に夢中になっている人もいる。どれもキリストの教えの実践とは1ミリも関係ない。

 でもぶっちゃけ、与太話が好きな人は止めようがない。いかようにも聖書を解釈し、世界情勢を解釈し、好き放題言い続ける。そして人々を恐怖させ、危機感を抱かせ、自分に依存させようとする。それで「先生」とか「預言者」とか「先見者」とか呼ばれる、その刺激に酔いしれている。麻薬中毒者みたいなものだ。
 私のせめてもの願いは、それに追従する人が少しでも減ることだ。追従者が減れば彼らの勢いも削がれる。だから私はこういうのをコツコツ書いている。結果がどうかはわからないけれど。

2016年6月22日水曜日

「クリネミー」にご用心

■フレネミー?

 最近「フレネミー」という言葉を知った。
「フレンド」(親友)と「エネミー」(敵)を掛け合わせて、フレネミー。つまり、親友のフリをした敵、ということらしい。
"Sex and the city"とういドラマで有名になった造語だとか。
 ターゲットに近づいて親友みたいに接するんだけど、それで聞き出した情報に枝葉を付けて皆に広め、ターゲットの立場を悪くさせ、孤立させていく、という超戦略的な人種のことらしい。こわいこわい。

 その実態は「フレネミー」で検索すればイロイロ出てくる。興味のある方はどうぞ。

 でも、こういう人いるな。
 「フレネミーの見分け方」みたいなのが検索するといくつか出てくるけど、私が思う見分け方は、シンプルにこれ。

→噂話がすごく好きな人。

 これに尽きると思う。
 大して仲良くないのに「ねえねえ知ってる?」と噂話を持ちかけてきたり、「ねえ、あのときのアレって本当のところどうなの?」と腹を割らせようとしたりする。手広く情報を集め、アウトプットするときは、かなり話を盛る。気に入らない人間の不利になる情報を(盛って)流し、孤立させる。そうして自分が情報通であることをアピールする(情報通であること自体が、フレネミーを優位に立たせる)。

 だから噂話はしない・聞かない・気にしないのが一番だと私は思う。聖書も避けるように言っている。仮に言ってなくても、面倒くさいだけじゃないだろうか、噂話って。

 で、実はフレネミーはどうでもいいんだけど、この言葉から私が連想した造語が「クリネミー」。検索しても出てこなかったから誰も言ってないと思うけど、要は「クリスチャン」と「エネミー」を掛け合わせて、クリネミー。クリスチャンっぽくふるまう敵、という意味にしておこう。

■「クリネミー」にご用心

 クリネミーは、偽物クリスチャンという意味ではない。たぶん本人は本気でキリストを信じている。
 でも、いかにもクリスチャンっぽくふるまいながら、相手を責めたりコントロールしたりする。聖書を使ったり神の名を使ったりしながら、自分の正当性を主張する。相手を不信仰の側に置き、悔い改めを要求する。意識的にか無意識的にか、主従関係や支配―被支配の関係に持ち込む。そういうクリスチャン。

 たとえば先日「人助け」の話でも書いたけれど、後輩クリスチャンに親身になってお世話する先輩クリスチャン。後輩の家に足しげく通い、喫茶店でおごり、レストランでおごり、手を置いて祈り、聖書について熱弁し、「あなたを愛してるの。立派なクリスチャンに成長してほしいの」と言う。しかし相手が期待通りの反応をしないと、怒ったり責めたりして、従わせようとする。神様にでなく自分自身に。

■クリネミーの得意技:赦し

 また、悪事がバレたクリネミーの常套手段の一つに、「クリスチャンなら赦さなきゃダメでしょ?」というのがある。
 自分が悪いにもかかわらず、簡単に謝罪しただけで、「私が謝罪してるのに、あなた(たち)はなんで赦さないの? それでもクリスチャンって言えるの? 謝っている人と赦さない人と、どっちが不信仰なわけ?」とか言って、逆に相手(被害者)を責めたてる。ウソのようだけど(むしろウソであってほしいけど)本当にある。こういう事例。

 ある牧師がシャレにならない悪事をはたらいて、それがバレて、逃げた。取り巻きの信徒を何人か連れて。教会のスタッフがそれを追いかけ、一応、話し合うことになった。
 で牧師が使ったのが、上記の文句。「もう私は悔い改めてるんですよ? なんで赦さないばかりか、こんな所まで追い詰めて、更に責めたてるんですか? 悪魔の影響を受けているのは、どっちなんですか?」
 取り巻きの信徒らは既に牧師に言いくるめられていたから、「教会の人たちってひどい」「聖書に従ってないじゃん」など牧師の肩を持つ。で、追いかけていったスタッフもすっかりキバを抜かれてしまって、「自分が悪かったです」とか謝る始末。

 今思い出しても腹立たしいケースだけど、そんな感じで、クリネミーは口がうまい。また戦略的だ。下手に近づかない方が無難かもしれない。もっとも、はじめからおかしいとは思わないわけで、だからクリネミーなんだけど。

■クリネミーの特徴

 そんなわけでクリネミーは戦略的で、操作的だ。水面下でいろいろ動いて、準備が整ったら一気に仕掛ける。豊臣秀吉の「墨俣一夜城」みたいな感じで、気付いた時はもう手遅れになっている(そういうひどい事例もあるので、いずれ紹介する)。
 だからクリネミーだとわかったら、近づかないのが一番だと思う。かかわらないに越したことはない。誰でも必ず攻撃されるわけじゃないけれど、いつターゲットにされるかわからない。正義感をもって戦ったとしても、失うものが多い。
 
 断定はできないけれど、クリネミーの大きな特徴だと私が思うのは、これ。

→カリスマ的だけど、なぜか昔からの友人がいない(あるいは極端に少ない)。

 クリネミーの現在の姿をみてみると、人気者で、人望があり、いつもまわりに人がいる。交友関係も広い。しかし、昔からの(長期間つき合っている)友人はいない。子供のうちはその攻撃性や狡さをうまく隠せないからかもしれない。あるいは長い期間の中でその危険性に気付いた友人たちが、離れていくのかもしれない。
 子供の頃を知る人に聞くと、「あいつは本当にひどいヤツだったよ」みたいなことを言うことがある。口を揃えて。
 そして、もう1つの特徴はこれ。

→人気者な反面、一部の人から非常に強く恨まれている。

 これはクリネミーの性であろう。情報を操作し、人々をうまく操作する中で、一部の人をひどく傷つけることがあるからだ。あるいは一部の人に正体を露見することがあるかもしれない。
 一般常識を守って生活している人であれば、多少の欠点や問題点があっても、そこまで強く人から恨まれることはない。嫌われたり反感をかったりすることはあっても、親の仇みたいに恨まれることはない。
 だからすごく人気があって、楽しげで、虫も殺さないように見えて、99人から好かれる人であっても、たった1人から激しく恨まれているとしたら、要注意だと思う。その理由はちゃんと調べた方がいい。

 というわけで今回は「クリネミー」という造語を紹介してみたけれど、その存在は造りものでなくリアルなので、十分注意することをお勧めする。
 クリネミーについて質問のある方がいたら、お気軽にどうぞ。

2016年6月20日月曜日

サラリーマンなクリスチャンのQに、いろんな立場からAしてみる

 サラリーマンとして働いているクリスチャンの方々によくみられるQ(質問)に、いくつかの立場にたって、A(答え)を出してみる。何かの参考になれば、これ幸い(たぶんならないと思うけど)。
  ではさっそく。

Q1:会社がべつの宗教を・・・
  クリスチャンです。日曜が必ず休みということで就職した会社が、某学会と関係が深いことが、入社後にわかりました。
社長や幹部だけでなく、社員にも学会の会員が少なからずいます。確かに雰囲気がちょっと独特だなと思っていました。でも就業中の宗教行為や勧誘はありません。理不尽な業務命令もなく、給料もちゃんと支払われています。
 働く上では支障ないのですが、某学会の悪い霊的影響を日々受けているのかと思うと、心配です。やはり転職した方がいいでしょうか?

A1(某聖霊派牧師)
 そんな会社は悪の巣窟です。あなたの霊も魂も食い尽くされてしまいます。今すぐ辞めなさい。明日から行かなくて結構。

A2(某クリスチャン実業家)
 それは大変ですね! では私の祈祷をこめたパパイヤジュースをお勧めします。これを毎朝のめば、あなたの霊は一日しっかり守られますよ。これで安心ですね。ハレルヤ♪

A3(某リバイバリスト)
 あなたはそこに遣わされているのではありませんか? そこがあなたの宣教フィールドなのではありませんか? あなたが異教徒たちをキリストに従わせられるように、私が祈りましょう!

A4(私)
 あなたは既に悪い影響を受けてしまっていると思いますよ。その学会からでなくて。

Q2:会社から転勤を・・・
 クリスチャンです。勤務先から転勤を命じられました。 今通っている教会には通えなくなるのですが、馴染みの教会を離れるのは心苦しいです。また、そこは「自分が植えられた教会」だと牧師によく言われます。植えられたなら、離れてはいけないように思うのですが・・・。どうしたらいいでしょうか?

A1(某聖霊派牧師)
 そんな会社は今すぐ辞めなさい。植えられた教会から離れるなんてとんでもない。絶対に祝福されません。

A2(某クリスチャン実業家)
 それは大変ですね! でも主はどこに行ってもあなたを祝福して下さいますよ♪ このパパイヤジュースをのめば、あなたの霊はいつも主とともにありますから。しかも今だけ、お得な半額キャンペーン中です。ラッキーですね! ホサナ♪

A3(某リバイバリスト)
 あなたはその地に行くように召されているのではありませんか? そこがあなたの宣教フィールドなのではありませんか? 新たな地であなたがリバイバルの基となるよう、私が祈りましょう!

A4(私)
 教会を変えるか、会社を変えるかの選択ですね。でも教会を変えたからと言って、呪われるとか地獄に堕ちるとかクリスチャン失格とかありません。

Q3:日曜出勤することが多くなってきて・・・
  クリスチャンです。日曜が休みということで就職した会社なんですが、最近、日曜出勤を命じられるようになりました。月に1~2回なのですが、会社の事情もわかるので、無下にノーとも言えなくて。でも礼拝を守れなくなるのがどうも・・・。牧師からは、礼拝を守らないと祝福がないって言われますし・・・。

A1(某聖霊派牧師)
 日曜に植えられた教会で礼拝するのは、クリスチャンのスタンダードです。それができないとなると、どうなるかわかりますよね? 祝福されませんよ?

A2(某クリスチャン実業家)
 それは大変ですね! このパパイヤ・・・(以下ほぼ同じ)

A3(某リバイバリスト)
 あなたがそこに遣わされたのは・・・(以下ほぼ同じ)

A4(某クリスチャン学生会の人)
 日曜に仕事をする業種も大切だと思いますよ。ただ、クリスチャンは主に対しても礼拝に対しても、誠実であるべきです。そして祈って導かれるべきです。繰り返しますが、日曜に働く業種だって大切なのですよ。ただ・・・(以下無限)

A5(私)
 日曜の早朝や夜、あるいは土曜の夜に礼拝する教会もありますよ。

Q4:職場で食事のお祈りは・・・
 職場の社員食堂にはいつも大勢の社員がいて、もちろんみんなノンクリスチャンなのですが、食事のお祈りをどうしようかいつも迷います。周囲の目を気にしてしまって、小声で手短に祈るだけにしています。本当はちゃんと声に出して祈りたいですが・・・、どうしたらいいでしょうか?

A1(某聖霊派牧師)
 人目なんか気にしてたら主の御用は果たせません。堂々と声に出して祈りなさい。

A2(某クリスチャン実業家)
 断食して祈るのがいいと思いますよ。最低でも1時間、異言で祈ってみて下さい。きっと主からの言葉でお腹いっぱいになります♪

A3(某リバイバリスト)
 あなたがそこに遣わされたのは・・・(以下ほぼ同じ)(もう書かなくていいよね、この人)

 A4(某クリスチャン学生会の人)
 ノンクリスチャンばかりの職場で働くのも大切だと思いますよ。でもクリスチャンの中で働くのも喜びですよね。信仰を分かち合える恵みは大きいですよね。繰り返しますが、ノンクリスチャンばかりの職場で働くのも大切なんですよ。でも・・・(以下無限)

A5(私)
 声に出すかどうかはケースバイケースでいいと思います。

 とりあえずこんな感じ。また思いついたら書くと思う。

2016年6月18日土曜日

クリスチャン的「人助け」について

■クリスチャン的「人助け」の事例


 まず、教会で実際に見てきた「人助け」、あるいはそれに関連した出来事を紹介してみる。ただし個人に害のないように若干の脚色をくわえておく。

①「引きこもり」救出作戦

 信仰歴の長いあるご婦人の一人息子、Aくんが、長年引きこもっていた。成人しても家から出ず、仕事もしなかった。ご婦人が心配して声をかけると、Aくんは激しく怒り、物を壊したり、大声を出したりした。
 ご婦人は困り果てていた。教会の皆は、事あるごとに祈ったり、相談窓口を紹介したりした。しかし「事を大きくしたくない」「私がもっとしっかりします」というご婦人の意思が強く、実効力のある何かはずっと成されなかった。
 そんなある日、Aくんがいつになく激しく怒り、ご婦人を家から追い出した。鍵を家の中に置いたままのご婦人は、教会に泣きにやってきた。そのとき教会には牧師と何人かの信徒がいて、じゃあ今からAくんを説得しに行こうって話になった。で、家に行ってみたけれど、Aくんは鍵を開けてくれない。ドア越しに長い時間説得したが無駄だった。こりゃ無理やりドアを開けるしかない、となった。そしてハリガネとか有り合わせの道具とかで作ったモノを郵便受けから差し入れて、なんとかロックを解除した(これ本当)。
 でAくんと対面したんだけど、彼は母親を追い出したことは素直に謝っていた。ただ教会の人間がいきなり押しかけてきたのが怖くて、ドアを開けられなかった、と言う。まあそうだよね。で、牧師がいろいろ話しても、Aくんはハイとかイイエとか言うだけで、何の進展もない。当然ながら教会に誘っても答えはノー。最後は、お母さんは大切にしないとねって牧師が総括して(何の総括だよ)、引き上げることになった。
 何と言うか、勢いよく出掛けたはいいけれど、いざ本人と対面したら「えーっと・・・」ってなっちゃった感じ。
 その後もAくんは引きこもったままで、ご婦人も悩んだままで、教会も祈っているまま。

②長老vs精神発達障害のある青年

 教会に一時期、精神発達障害のある青年Bくんが来ていた。Bくんとは会話があまり成立しなかった。アニメとかゲームとかの話が多少できるくらいだった。お菓子とかジュースとかあげていれば機嫌が良かった。礼拝中はじっと座っていられなかった。事情はよく知らないけれど、彼には彼の思いがあって、教会に来ているようだった。
 さて教会の長老がいた。彼は企業勤めのロマンスグレーで、リッチで、場を仕切る能力があって、何と言うか自信満々な雰囲気があった。
 そんな長老とBくんがたまたま、一対一になる場面があった。長老は最初、何やかやとBくんに話しかけていた。けれど思ったような反応が得られなかったからか、飽きたようにあちこち見回して、結局その場を離れていった。あとに残されたBくんは、お気に入りのお菓子を眺めたままブツブツ呟いたり、ウフフと笑ったりと、まあマイペースであった。
 そんな感じで、Bくんはいわゆる「話しづらい」存在だった。次第に、誰もBくんに話しかけようとしなくなった。私も例外ではないのだけれど。
 そんなBくんも教会に来なくなった。今どうしているのかはわからない。

 ③セルグループのリーダーvsフォロワー

  教会に韓国発の「弟子訓練」が導入され、それに伴って「セルグループ」が始まった。
 あるグループのリーダー、Cさんはいわゆる「信仰熱心」なタイプで、猪突猛進なところがあった。そのCさんのグループに割り振られた信徒の1人が、Dさんだった。Dさんは情緒的に不安定なところがあって、礼拝に来たり来なかったり、ポジティブになったりネガティブになったり、という状態だった。
 Cさんはリーダーとして、このDさんに一生懸命かかわった。土曜になると、電話やメールで「明日礼拝にくるよね?」的な確認をしていた。平日にもDさんと会う時間を持とうとした。でもDさんはそういうのを求めていなかったようで、Cさんからしたら「暖簾に腕押し」みたいな感じだったと思う。Dさんは相変わらず、礼拝には来たり来なかったり。時々教会に来ても、ネガティブな発言が目立った。
 で、ついにCさんとDさんが衝突した。Dさんのネガティブな発言の一つが、たまたまCさんの怒りポイントに突き刺さったみたいで、「こんなにあなたのこと愛しているのに何てこと言うの!」とCさんが激昂したのだ。Dさんはそんなこと意図していなかった(と思う)んだけど、まあ気まずくなってしまったのだろう。以来、教会には来ていない。

 というわけで3つの事例を挙げてみた。どれも印象的だった出来事だ。
 教会は(あるいはクリスチャンは)他者に対して何ができるのか(あるいはできないのか)を考えるうえで、参考になるケースだと思う。
 では解説。

■教会万能論

 ①のケースに見られる教会側の考え方は、「とにかく教会にくれば個人の問題は解決する」みたいなものだと思う。教会だから、神を信じる群れだから、祈れるから、神様がいるから、聖書の教えがあるから、とかいうことで、「できないことはない」みたいに考えている。いわゆる教会万能論。
 でもこのケースを見る限り、教会は無力だ。もちろん追い出されたご婦人を家に帰すことはできたんだけど、肝心のAくんに対しても母子関係に対しても、何もできなかった。その後の継続的な働きかけもなかった。

 このケースで教会側が(意識的にか無意識的にか)考えるのは、たぶんこんな感じ。
「教会としては手を差し伸べた。あとはAくん次第」
 それは基本的に間違っていないと思う。でも果たして、ひきこもり中のAくんの気持ちを十分考えての「手を差し伸べた」だっただろうか。という点で疑問が残ると思う。無理やり鍵を開けて押し入り、教会に来いとかお母さんを大事にしなさいとか、一方的に責め立ててしまったのではないだろうか。その結果としての彼の反応が期待したものでなかったからといって、「あとは彼次第」と言えるだろうか。

 現在、社会問題はすごく多様化していると思う。私の身近なところで言っても老々介護や認々介護、独居高齢者、シングルマザーや若年層の貧困、各種DV、精神障害に対する差別、同性愛に対する差別、各種ハラスメントなど、挙げたらキリがない。それらの全部に教会が手を差し伸べるのはたしかに現実的ではない。でも、「教会としては礼拝に誘った。あとは本人たち次第」と言うとしたら、教会は現在の社会問題に対して完全に無力となってしまう。地域にその教会がある意味とは何なのだろうか。

 すべての問題を解決できないにしても、教会は少なくとも、「理解して寄り添う」ことならできると思う。教会で具体的な何かができなくても、話を聞くことはできるし、相談窓口に一緒に行くとか、どうしたらいいか一緒に考えるとか、社会資源を探すとか、そういう視点で弱者の側に立つことはできると思う。
 逆にそういうことができれば、教会が地域に存在する意義が増すのではないだろうか。

■「人助け」と言うより自己満足

 ②と③の長老とグループリーダーは、はっきり言うけど配慮がないと思う。相手を理解しようという、一番大切な姿勢がうかがえないからだ。単に先輩風を吹かせているだけに見える。「自分がかかわってあげている」「良いものを提供してあげている」という一方的な押し付けで、悦に入っている。それで相手の反応が自分の期待通りでないと、「これだけやってあげているのに」「これじゃ助けられない」となる。

 たとえばDさんのケースで言えば、教会に来たくない理由とか、ネガティブな発言をしてしまう気持ちとか、生活状況とか困り事とか、そのへんを見極めることから始めないと、Dさんの本来の姿は見えない。でもCさんはそういうのを見ようとしないで、ただ教会に来なさい、聖書を読みなさい、祈りなさい、と押し付けるだけ。それでDさんが期待通りにするはずがない。

 こんなふうに、「相手を助けたい」というスタンスを取りながら、「人助けしている自分ってステキ」みたいな自己満足に陥っているケースが本当に多いと思う。しかも、「相手を思って〇〇したのに、相手は受け取ってくれない。これじゃ助けられない」と言うだけならまだしも、今度は相手を責めはじめる。「なんてヒドイ人なの。これだけしたのに!」

 でも本当に相手のことを思っているなら、見返りなど求めないはずだ。すなわち「期待通りの反応」など求めないはずだ。相手の反応が期待通りでなくてガッカリするかもしれないけれど、それはそれで受け入れるしかないとわかっているし、むしろ相手の選択や自己決定を尊重しようとするはずだ。相手のことを本当に思っているなら。

■クリスチャン的「人助け」とは

 クリスチャン的「人助け」で私が想像するのは、たとえばマザーテレサのしたことや、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教のしたことだ。彼らは相手に与えるだけで、なんの見返りも求めなかった。どちらもカトリックの人たちだから、プロテスタントの人からしたら「関係ない」のかもしれないけれど、私は大いに見習うべきだと思う。むしろ「人助け」に関しては、カトリックに一日の長があるように見える。なぜならプロテスタントには「祈ってます」で相手の困り事を簡単に処理する傾向があるからだ(もちろん全部が全部とは言わない)。

 もちろん祈りに価値がないということではない。祈りには祈りの役割があるし、それも大切だ。けれど「人助け」とは別に考えた方がいいと私は考える。なぜなら、たとえば目の前に出血している人がいるとして、「血が止まりますように」と祈る人はいない。そんな暇があったらガーゼか何かを傷口に当てるだろう。そのどちらが神の御心かと言えば、ガーゼを当てる方のはずだからだ。

  ナイチンゲールも、宗教行為とは下水を清掃してコレラを予防することだと言った。つまり「コレラが流行りませんように」という「神頼み」は、宗教行為でないとした。

 こういうのはわかりやすい例だから、反論する人もあまりいないと思う。けれどたとえば引きこもりとか、精神発達障害者とか、情緒不安定な人に対しては、「祈ってます」とか「あの人は手を差し伸べても答えてくれないから」とかで片づけてしまうことが多いように思う。でもそれは出血している人を見ながらガーゼも何も当てないのと、基本的に同じだと私は思う。
 かと言って、専門的な援助を素人がしろって話ではない。繰り返すけれど、相手に自分の善意を一方的に押し付けるのでなく、まず相手を理解することから始めるべきだ、と言っているに過ぎない。

2016年6月16日木曜日

「脳内神様」か、本当の神様か

■収容所の小さな貴婦人

 原典不明だけれど、『収容所の小さな貴婦人』という話がある。実話かどうかも定かでない。けれど寓話だとしても、人間心理の面白さをよく現している。こんなお話(以前にも紹介したことがある)。

 第二次大戦中、フランス軍の小隊が、ドイツ軍の捕虜になった。
 捕虜生活が長引くうち、みな苛立って、仲間どうしで喧嘩や諍いが絶えなくなった。
 これでは精神衛生上良くないと思ったのか、彼らはその房の中に、架空の1人の「貴婦人」がいると想像することにした。
 具体的にするため、房の隅にテーブルやら椅子やら置いて、そこに貴婦人が座っていて、いつもこちらを見ている、という設定にした。そして着替えの時は貴婦人に見られないように布で隠し、食事の時は彼女の分をちゃんと準備した。彼女の誕生日(みなで決めた日付)にはお祝いしたり、彼女を囲んでクリスマスを祝ったりと、本格的な「同居生活」を演じた(たぶんその過程で、彼女のディティールが決まっていったと思われる)。

 すると最初はゲーム感覚だった貴婦人の存在が、徐々にリアリティを持ち始めた。兵士どうしで喧嘩になりそうな時は、貴婦人の前だからと拳を収めるようになった。汚い言葉を口にしてしまった時は、彼女に謝った。みな毎朝彼女に挨拶し、そのそばを通る時は会釈した。
 その様子があまりにリアルだったので、あるとき監視のドイツ兵が、房を隅々まで捜索した。フランス兵たちが少女をかくまっているのではないかと、本気で疑ったのだ。
 厳しい捕虜生活の中、他の房の捕虜たちには衰弱死したり病死したり、発狂したり自殺したりする者が多く出た。しかし架空の貴婦人と同居していたその小隊のメンバーは全員、正気を保って生き延び、戦後はそろって帰国を果たすことができた。
 というお話。

■「実在」となる「架空の存在」

 そんな馬鹿なことがと思うかもしれないけれど、これと似たような話は他にもある。
 ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルの番組"Story of God with Morgan Freeman"で興味深い実験が紹介されていた。対象は幼児で、後ろ向きでボールを投げて的に当てられれば、ご褒美がもらえる。当てられなければ何もない。で、「誰も見ていない」とわかると、ほとんどの子がズルをして、振り向いてボールを投げた。でも「魔法で透明になったお姉さんが見ている」と言われると、ほとんどの子がそういうズルをしなくなった。という実験結果だった。

 これはもちろん幼児だからだけど、「そこに人がいる」と信じることで、そこに人が存在することになる。見えないんだけど、その子にとってリアルな存在となる。だからズルができない。

 こういう例はすごく身近にもある。たとえば学校とか職場とかで、苦手なグループの人たちから悪口を言われているような気がする、というのがある。その人たちが、自分の方も見ながら笑って話しているように見えて仕方がない。あれは絶対に自分の悪口を言っているんだ、自分は嫌われているんだ、物笑いにされているんだ、もう学校(職場)行きたくない、となる。実は悪口なんて全然言われてなくて、完全に気のせいだとしても、そう信じてしまうと訂正できない。その人は存在しない悪口を、自分の中でだけ実在させる。

■では「神」という存在は

 これは「神」という存在に対しても適用されうる話だと思う。
 と言っても、「キリスト教の神様って、もしかしたら想像の産物じゃね?」とか言うつもりはない。これでも一応クリスチャンなので。

 でもそういうクリスチャンが、他宗教の「神」に対しては、同じことを言うだろう。たとえば仏教の「菩薩」とか、ヒンズー教の「シヴァ」とか「ヴィシュヌ」とか、クリスチャンならそういうのは全部「想像の産物でしょ」と言うはずだ。あるいは「悪魔の仮の姿だよそれ」とか言うかもしれない。
 しかし、仏教徒やヒンズー教徒はそれらを真面目に信じている。彼らの中に菩薩は実在し、シヴァは実在する。そして彼らは聖書の「創造主」こそ「想像の産物でしょ」と言うだろう。あるいは多神教的視点から、「神々の1人でしょ」と言うかもしれない。

 つまり、「その存在を信じているから、それは存在する」という話。お互いに。

 じゃあ神様の存在は証明できないのかと言うと、そんなことはなく、証明できると私は思う。聖書も言っているけれど、「被造物が神の存在の証明」になると私は考える。しかしここでそれを説明すると話が脱線しまくるので、べつの機会にしたい。

■問題:「脳内神様」か、本当の神様か

 今回のポイントはここ。
 私たちが「神様」と思って信じている対象は、本当に「聖書の示す神様」だろうか。
 自分たちが(教会が)勝手に作り上げた、「脳内神様」になっていないだろうか。

 たとえばカルト的教会では、「神様」はこんなお方。

・奉仕しない信徒は祝福してくれない神様。
・献金しない信徒は祝福してくれない神様。
・毎週ちゃんと礼拝しないと祝福してくれない神様。
・一生懸命何時間も祈らないと御心を示してくれない神様。
・牧師に意見する信徒は厳しく罰する神様。
・牧師にだけ特別な啓示を与え、信徒には一切与えてくれない神様。
・能力がないと用いてくれない神様。

 他にも沢山あるけれど、これで十分だろう。
 見ての通り、これらは、聖書が示す神様像からかけ離れている。でもそこの信徒にとって、神様とはそういうお方なのだ。もはや愛の神様でなく、憐み深い神様でもなく、厳しい監督官みたいな存在。でもそれは教会が作り上げた「脳内神様」みたいなものだ。上記の「貴婦人」とか「透明なお姉さん」とかと同じで、「その存在を信じているから、それは存在する」という種類のもの。

 自分が礼拝し祈る相手が、自分の「脳内神様」だとしたら、こんなバカらしいことはないと思う。言葉は悪いけど、それは信仰という名のマスターベーションじゃないだろうか。

 またそれはカルトっぽい教会だけの話ではない。信仰熱心な人が、「脳内神様」相手に賛美したり祈ったりしているのを時々見かける。だから自分自身の「神様イメージ」は時々点検した方がいいし、神様をあんまり(自分の中で)人格化しない方がいいと思う。わからない部分はわからないままでいい。牧師に言われるままに「神様との親密な交わり」とやらを試して、自分勝手な「神様像」を作り上げてしまうよりは。

2016年6月14日火曜日

「聖霊使い」になっちゃった

■注目される「聖霊」

 1900年代にアメリカで始まったペンテコステ運動以来、その流れをくむ教団教派では、今日も「聖霊」が注目されている。

 その流れにはいわゆる「大物」も関わってきた。たとえばキャサリン・クールマンとかベニー・ヒンとかチョー・ヨンギとか。いずれも集会を開けば大人数を動員する(した)面子だ。彼らが壇上で「聖霊様は〇〇です」と発すれば、次の日には信者の間で「聖霊様は〇〇なんだよ」って話になる。印象的だったのは、ベニー・ヒン著『聖霊様おはようございます』が出版されるやいなや、毎朝「聖霊様おはようございます」って挨拶とともに起きる人が急増したことだ(彼らが今もそういう挨拶をしているのかどうかは知らない)。

 日本ではペンテコステ親交会という集まりがあって、教役者大会というのを毎年開いている。その流れの牧師たちが一同に集まって、最近の海外の「トレンド」を仕入れたり、励まされたり恵まれたり何だりで、それぞれ帰っていく。で、その「トレンド」を自教会で「新しく開かれた真理」みたいな形で信徒たちに紹介していく。だから「後の雨」が流行れば教会全体で「後の雨をくださーい」となって、「レストレーション」が流行れば皆で「レストレーションをこの地に・・・!」となる。
 大変わかりやすい構図だ。

 つまり、「大会で仕入れたこと=真理」となっている。あるいは「海外の最新の動向=真理」となっている。吟味? そんなものはない(キッパリ)。もちろん全部が全部ではない(と思う)けれど。

 ちなみにそういう大会で面白いのは、牧師たちのミーハー振りである。ゲストの「大物牧師」と挨拶できただけでキャーキャー言っちゃう若手牧師とか、iPhone発売当時で言えばiPhone自慢とか、ノートパソコンで聖書検索した結果をパワポに連動させてますけど? 的なガジェット自慢、ツール自慢とか、伝道集会で○○したら何人動員できたとか、そういうの。相手が信徒じゃないからか、けっこう素の牧師の顔が見られる。

■いまいちわからない「聖霊様」

 それはともかく、話を戻すと、要は海外から入ってきたトレンドが、ほとんどノーチェックで聖霊派教会に入っていく。いろいろ意見はあるだろうし例外もあるだろうけれど、そういう現状がある。

 で、牧師は礼拝説教とか祈祷会とか、聖書の勉強会とかで、「聖霊論」を展開する。聖霊関連の信仰書も出版されているから、熱心な信徒なんかは読む。そういう「学び」から読み取れる「聖霊」の特徴は、こんな感じ。

「聖霊様には人格がある」
「彼はすぐ隣にいる助け手で、すべてのことを教えて下さる」
「彼は私たちと交わりたいと願っておられる」
「彼は私たちの友達である」

 というわけで、"I am a friend of God 〜"とノリノリで賛美をすることになる。

 でも、そういう「学び」を総合しても、聖霊に関していまいちピンとこない。

 たとえばだけど、前述のベニー・ヒンの書籍によれば、彼は「聖霊様」に乞われて夜中に何時間も「聖霊様と語り合った」という。そういうのを読むと「すごい」と思う反面、果たして我々は「天の父よ」と祈るべきなのか、「聖霊様」と祈るべきなのか、ちょっと混乱する。また前述の通り「聖霊様おはようございます」と挨拶するなら、同様に「アバ父よ、おはようございます」とか「イエス様おはよー」とか挨拶すべきではないのか? という疑問も出てくる。そして「天のお父様、またイエス様、そして聖霊様・・・」みたいに3者それぞれの名前を最初に挙げて祈る人も出てくる。

 他にも、「聖霊様が働かれる」とか「聖霊様が語られる」とか教えられるんだけど、それらを実生活にどう適応したらよいのか、いまいちわからない。ベニー・ヒンの真似をして誰もいない椅子に向き合い、「聖霊様、どうぞそこにお座りになって、私と語って下さい」と祈ってずーっと返事を待ってて、いつの間にか寝てました、という話も聞いたことがある。

 教会で「聖霊様はね、」としたり顔で話す牧師とか先輩信徒とかも、案外よくわかっていない。質問されると「それは祈っている人にならわかります」とか「祈りが全てです」とか適当なことを言って、煙に巻くのをよく聞いた。

 しかしそれは仕方のないことだ。なぜなら前述の通り、それが「大会で仕入れてきたトレンド」だからだ。たとえば大会で「聖霊様は私の親友だ」とか聞いてくると、ミーハー牧師たちにとって「聖霊様は親友」というのが大前提になって、それを裏付ける聖書箇所を、後付けで引っ張ってくることになる。つまり「後付け神学」なのだ。だから細かいことを聞かれても当然わからない。

 それで一番迷惑するのは真面目な信徒たちであろう。わからないから信仰書を読みあさったり、いろんな大会や集会に通ったり、何時間も祈ったりするんだけど、やっぱりわからない。
 で、どうなるかと言うと、だんだん自己流の解釈をするようになっていく。

■ゼスチャーコントロールされる「聖霊」

 今日の聖霊派教会でみられる「聖霊像」とか「聖霊のイメージ」とかには、そういう自己流の解釈が多分に混じっていると思う。意識的にか無意識的にか、「自分たちにとってわかりやすい何か」に置き換えられつつある気がする。

 たとえば「聖霊よ、流れよ!」とか仰々しく祈るとき、多くの牧師は手をバーっと広げて、明らかに「風」の形を意識している。それは「息吹」という聖書表現を意識してのことだろう。また「聖霊を注いで下さい!」と祈るときは、両手を広げて天を仰ぐ。空から「雨」が降ってくるようなイメージだ。また「聖霊充満!」と祈るときは体内にガソリンでも充填するようなゼスチャーをする。つまり聖霊を「エネルギー体」みたいに捉えている。

 それの何が問題かと言うと、たとえば手をバーっと広げれば聖霊のウェーブが放たれるとか、両手を広げれば聖霊が雨となって降ってくるとか、そういう「ゼスチャーコントロール聖霊」になってしまっている点だ。『ジョジョ』で言えば「スタンド」みたいな感じで、聖霊を都合よく操れるエネルギー体みたいに考えている。

 その顕著な例を挙げると、「聖霊を飲みなさい!」と言って、信徒に向かって大きなバケツをひっくり返すようなゼスチャーをする海外の「大物ゲスト」がいた。聖霊を完全に飲み物にしている。
 あるいは「聖霊を受けよ!」と叫んで、自分の口で「プシュー」とか言いながら、信徒の顔に息を吹きかける牧師もいた。べつにプシューでも何でもいいんだけど、やる前にマウスウォッシュをしてもらわないと困る。本当に(苦笑)。

 そう考えてみると、信徒に手を置いて「倒す」行為にも、そういう側面があると思う。自分の手から波動か何かを送って信徒を倒す、みたいな感じだ。

 それはつまり、自分の「祈り」で聖霊を自在に操れる、ということと等しい。「聖霊は私の友達」と言う割に、扱いがずいぶん雑じゃないだろうか。
 手をバーってしたり、雨が注ぐように上下に手を振ったり、泉が湧くように手を押し上げたり、そういうゼスチャー付きで「聖霊よ! 〇〇!」とか叫ぶ牧師の姿を思い返してみると、なんか「聖霊使い」という言葉を連想する。『ジョジョ』の「スタンド使い」じゃないけれど。

2016年6月12日日曜日

教会と「メンヘラ」の関係についてつらつらと考えてみた

 教会とメンヘラの関係について。
 という偉そうなタイトルにしてみた。今回は。

 私はいくつかの病院や施設で働いている。その中の一つに精神科病院があり、そこの入院患者さんと接する機会がある。
 その何人かが、新聞を定期購読している。それが毎朝病棟に届く。「聖○新聞」だった。どうやら彼らは某宗教団体の信者らしかった。

 で私が驚いたのはその割合で、彼らは病棟内の患者数の約2割強(20%以上)を占めていた。
 だからその病棟に限って言えば、何らかの精神疾患を持っている10人中2人以上が、その信者だということ。
 けっこうな割合ではないだろうか。偶然かもしれないけれど。

 厚生労働省の統計データを見てみると、全人口における統合失調症の有病率は約1%。うつ病の生涯有病率は約6%、不安障害やアルコール依存症はそれぞれ10%弱、となっている。
 もちろんこれは全人口における精神疾患の有病率であって、宗教人口におけるそれではない。だから明確な何かが言えるわけではなく、あくまで体感の話になる。けれどランダムに集められた患者さんのうち、20%強が某宗教団体の信者、というのはなかなか衝撃的な気がする。何か因果関係があるのだろうか。全国的に調査したらどんな結果が出るのか、是非みてみたい。

 と、いうのが本記事を書くキッカケなんだけど(べつにその宗教団体を非難するつもりはない)、ではひるがえって、キリスト教会をみてみる。

・教会と精神疾患

 キリスト教会、特に私が深く関わってきた福音派・聖霊派の教会で、重度の精神疾患の人はほとんど見たことがない。もっとも重度の精神症状があったら教会でもどこでも対応できないから、見ないのも当然だろう。
 しかし軽度の精神疾患の人ならけっこういた。幻覚妄想状態とか躁状態とかでなく、いわゆるパニック障害とか不安障害とか、アルコール依存症とか、軽いうつとか。あるいは本人が黙っていても、客観的に見て何か精神障害がありそうだなあと思わせる様子とか。

 そういう人たちはやはり苦しんでいるし、何らかの助けを必要としていると思う。それで通院している人もいれば、まだ病院に行くに至っていない人もいる。あるいは教会に(神に)救いを求めている人もいる。
 また気の毒な例として、牧会に疲れてバーンアウトしてしまった牧師とか、うつ状態になってしまった牧師とかもいた。そういう人たちを見ると、「教会に行けば(精神疾患からも)回復できますみたいなことは、不用意に言ってはいけないなと思う。

 何らかの精神疾患を患った状態で教会にやってきたのか、あるいは、教会活動の中で精神疾患を患ったのか。
 いずれにせよ、専門的治療が必要なのに「教会」だけで何とかしようとするのは、やめた方がいいと思う。仮に「神の愛」とか「聖書の言葉」とか「牧師の献身的な関わり」とかで症状が徐々に改善するとしても、時間がかかり過ぎては本人の苦痛が増すだけだし、そもそも素人療法では悪化させる可能性が高いと思う(牧会カウンセリングとか大そうな名称で呼ばれていても、所詮にわか仕込みでしかないだいいち精神疾患と言っても多種多様で、たとえばある症状に対しては掛けてもいい言葉が、別の症状ではタブーになることがある。そういう基本的なセオリーも知らないで「神の愛が・・・」とか精神疾患患者にほざくのは、はっきり言って無責任であろう。

 今年2月に千葉県佐倉市で「教会たてこもり事件」があった。あれは暴れる危険性のある相手を教会が「カウンセリング」しようとしたのが原因だった訳で、浅はかだったとしか言いようがないと思う。被害に遭われた方には気の毒だけれど。

 結論を書くまでもないと思うけれど、精神疾患は専門的な治療を要する。教会(牧師)がしゃしゃり出るべきではない。教会にできることはちゃんと専門治療を受けるように勧めることだと思う。

・教会と「メンヘラ」

 私が蔑視を込めて「メンヘラクリスチャン」とか「イタクリ」とか言っているのは、上記のような精神疾患患者とは基本的に関係がない。

 精神疾患が専門治療を要する障害であるのに比べて、メンヘラクリやイタクリは、思い込みや偏見・偏向が強すぎるといった状態だ。それは一過性的かもしれないし、もしかしたら人格障害を有しているかもしれない。いずれにせよ聖書知識の不足や、間違った聖書理解のゆえ、おかしな「神理解」をしてしまっていて、結果的に(前回紹介したような)痛々しい迷言、妄言を吐くに至っている。

 で、ここからは完全に私の経験と体感で書くだけど、聖霊派あたりの原理主義的教会には、このメンヘラが圧倒的に多い。逆のオーソドックスな教会ほどメンヘラ率は減っていくメンヘラはオーソドックスな教会にいられない)。それで、

「携挙の日付は××だ!」とか、
「この地震は神の罰だ!」とか、
「この出来事は裏でフリーメイソンが暗躍している!」とか、
 もう幻覚でもみたかってくらいトンデモな、聖書教理ガン無視な発言(妄言)に終始するようになる。

 メンヘラがそういう教会に集まるのか、それともそういう教会が人をメンヘラにするのかわからないけれど、とにかくそういう教会お近づきにならないことを、私は強く勧める。

2016年6月11日土曜日

クリスチャン特有の迷言、妄言をまとめてみた(ツッコミ付き)

 時々見かける、一部のクリスチャンの方々の迷言、妄言をまとめてみる。もれなくツッコミ付き。でもそのまま書くのも無粋なので、ちょっと脚色してみる。
 心当たりのある人には、逆上してさらなる妄言を増やさないでいただきたいと思う(苦笑)。
 ではさっそく。

・迷言、妄言
「体の調子が悪いです。〇〇や××や△△の症状があって辛いです。癒されるように祈って下さい」
→さっさと病院に行って下さい。

・迷言、妄言
「祈りは必ず聞かれる!」
→神様には耳があるので、どんな祈りも聞いてます。

・迷言、妄言
「その戦いが神の戦いなら、あなたは疲れることがありません」
→じゃあ24時間寝ないで戦って下さい。

・迷言、妄言
「サンデークリスチャンは御国に行けません」
→じゃあ何クリスチャンなら行けるんですか?

・迷言、妄言
「この世には悪がはびこっています」
→教会の中にもね。

・迷言、妄言
「血肉の家族より、神の家族との絆の方が絶対です」
→何かあればその「神の家族」が真っ先に敵になります。

・迷言、妄言
「礼拝中にお腹が痛くなったり、頭痛がしたりします。やはり礼拝は霊的戦いの場なのですね」
→神社仏閣に油まいてきたら?

・迷言、妄言
「自分が主に用いられるかどうかは、祈りにかかっています」
→じゃああのロバの子は熱心に祈っていたんですね!

・迷言、妄言
「神の国は民主主義ではない」
→独裁政治でもありません。特に牧師の。

・迷言、妄言
「今日の礼拝、恵まれました~」
→恵まれに行ってるんですか?

・迷言、妄言
「リバイバル絶好調!」
→・・・はぁ?

 以上、最近みた迷言、妄言を紹介してみた。
 最後に真面目に書くと、こういう信仰っぽいようで実は全然信仰っぽくない発言の数々は、教会での「教え」に問題がある。聖書がどう言っているかより、教会が代々どう教えてきたか、牧師が代々どう教えられてきたか、が重視された結果。つまり「聖書のことば」より「人の言い伝え」の方が重要になってしまっている、という新約時代のキリストの危惧が、そのまま現代も続いているということ。

 たとえば、「霊の戦い」なんて概念は、聖書というより、『エクソシスト』みたいな映画の影響が強い。仮に「悪霊追い出し」が現在もあるとしても、それは一進一退のドラマチックな「戦い」という意味ではないし、腹痛がしたり頭痛がしたりというセコイ「悪魔の攻撃」をも意味しない。

 だから間違って教えている牧師や教会の責任は大きいし、それを真に受けて新しく「教える側」に回っていく人々も、同様の責任を負わなければならない。自教会でやってる「聖書の学び会♪」に出てもどんどん偏っていくだけだし、間違いが強化されていくだけだ。それよりいろいろな本を読んで、キリスト教の歴史からまず学ぶべきだし、いろいろな教団教派に分かれている理由とか経緯とか、そのあたりの視点から、今自分が立っている「場所」を眺めてみるのが大切だと私は思う。

 間違っても「聖書だけ」「聖書があれば十分」じゃダメ。結局聖書の言っている意味がわからないから他人(牧師とか先輩とか)に聞くことになって、そうすると、その人の「解釈」を聞くことになる。でもそれが間違っていたら? あるいは偏っていたら? 聖書しか読まなかったら、そのへんのことが全然わからなくなってしまう。

 だからクリスチャンの皆さんには(ゆっくり自分のペースでいいから)、ちゃんと勉強すること、自分なりに考えてみることをお勧めする。

2016年6月10日金曜日

ある牧師の(えげつない)「イメージ戦略」を紹介してみる

 今回は、ある数枚の「写真」について書いてみたい。話は2011年3月の、東日本大震災の頃にさかのぼる。

 震災発生2日後の3月13日、ある牧師が、数名の信徒とともに東北の被災地に入った。そして支援活動を始めた。被災地のために何かしたい、困っている同胞を助けたい、という思いがあったんだと思う。その頃は。

 はじめの1ヶ月くらいは、物資の輸送や炊き出しに明け暮れた。関東で物資を調達し、被災地で配り、炊き出しを何度かして、全部尽きたら一旦帰る。そしてまた物資を調達して、被災地に入るというのを何度も繰り返した。
 1ヶ月くらい経つとそういうニーズも落ち着いて、今度は個人宅の瓦礫撤去とか、畑の塩抜きとかの作業をした。あれはやってもやっても終わらない気がしたけれど、それも徐々に落ち着いていった。
 そして3ヶ月くらい経つと、今度は復興応援コンサートとか子供フェスティバルとか、そういう被災者を対象にしたイベントを開催するようになった。衣食住のニーズが満たされつつあったから(もちろん土地によって状況違ったろうけれど)、これからは傷ついた人々の心をケアしていこう、みたいな方向性になった

 そこまでは「被災地支援」と言えそうだった。でも徐々に変わっていった。次は活動中にできたコネを使って、新たな事業展開を始めた。震災で親を亡くした子供たちの施設を建てようとか、放射能で土が汚染されてもいいように水耕栽培を始めようとか、情報発信できるように独自の放送局を作ろうとか、被災地支援と関係あるようなないような諸活動が計画された。その牧師に言わせれば、「すべて繋がっている」らしかったけれど。

 さて、それらの事業の顛末はべつの機会にするとして、上記の活動は、逐一写真や動画に収められていた。牧師はスタッフらに事あるごとに写真を撮るよう命じていた。それも詳細に命じていた。どんなタイミングで、どんなアングルで、誰と誰をフレームに入れて、どんな背景で、どんな表情の時に、など。それで大量に撮られた写真を後から見返して、いくつか厳選しHPや広報誌などに使っていた。

 そのうちの何枚かについて、言葉で紹介してみよう。

・1枚目「被災した幼い女の子に物資を渡す牧師」

 ある体育館。避難所となっており、大勢の被災者がいる。その片隅で物資を配る、ジャージ姿の牧師。
 写真は、小さな女の子に物資を手渡す牧師を映している。女の子も牧師も笑顔。

・2枚目「瓦礫撤去に勤しむ牧師」

 ある個人宅。洪水にやられて家の中は泥だらけで、家具やらサッシやら何やらが散乱している。汚れたジャージ姿の牧師が、大きな木片を抱えて、きつそうな顔で運んでいる。写真はその様子を中央にとらえている。

・3枚目「スタッフにご馳走して、労をねぎらいたい」

 ある料理店。豪勢な料理が並んでいる。それを囲むのは、被災地支援で頑張ったスタッフたち。牧師の姿はない。

・4枚目「大物と並んで立つ牧師」

 高級感あふれる応接室で、スーツに身を包んだ「大物」っぽい人たちと、肩を並べている牧師。こういう場のために購入した黒っぽいスーツが、テカテカ光っている。

 さてこれらの写真はどれも、牧師の指示によって撮影された。どんな指示があり、どんな状況だったのか、解説してみよう。

・1枚目の解説

 基本、物資を配るのも炊き出しをするのもスタッフで、牧師はほとんどやらない。牧師が自ら配るのはわずかな時間だけ。それも、カメラマンを従えて。

・2枚目の解説

 瓦礫撤去も若者たちにやらせるだけで、牧師は現場監督みたいに腕組みして見てるだけ。あるいは現地の人と歓談してるだけ。気が向いた時だけ、瓦礫を少しだけ運ぶ。やはりカメラマンを従えて。

・3枚目の解説

 この料理店には牧師もいて、皆と同じように食べていた。しかも、牧師が懐を痛めてご馳走した訳ではない。カメラマンが写真を撮ろうとしたら、「ここで自分を映すな」とはっきり命じていた。

・4枚目の解説

「大物」そうな人たちは、海外の企業の人たち。現地のクリスチャンを使って商談にまで持ち込んだ。でもあくまで商談しただけ。契約とか何もしてない(つまり断られた)。記念に写真を撮っただけで、べつに牧師が「大物」と繋がっている訳ではない。そう見えるだけ。

 というわけで、牧師の(えげつない)「イメージ戦略」を紹介してみた。こういうことをする牧師はごく一部だと思う(そう願う)けれど、確かに存在するので、教会のHPなどで使われている「イメージ」にはよくよく注意すべきだと思う。写真とはあくまで切り取られた「瞬間」であり、構図とかタイミングとか伝わってくる印象とかの「意図」があり、つまりは最初から「編集」が入っているメディアであることを、お忘れなく。

2016年6月6日月曜日

聖書的教育か、ただの検閲か

■ある投書

 はじめに、某ホームスクーリング支援団体(キリスト教系)の機関誌に載っていた投書を紹介したい。長いので、主要部分だけ抜粋する。

「ここ数年、折に触れて祈ることがあります。『ジブリ』についてです。先日、友人から演奏会に誘われました。テーマは『ジブリ』だということでした。行こうと一瞬思いましたが、次の瞬間やめようと思いました。子供たちには、ジブリの作品は見せていません。テレビ自体も、私(親)が納得した番組を録画して20~30分間で、もし見ている間に、少しでも神様に喜ばれない内容が出てくると、子供たちに説明し、ストップします。(中略)息子は読書に熱心でありますので、私が選書するか、チェックしてから読ませることにしております。Iさん(団体代表)はどのように考えていらっしゃるか、また、選書に関してどのようにしていけばよいか、ぜひお伺いしたいと思いお手紙を書かせていただくことにしました。」

 という内容(ちなみに敬語が若干おかしいのは私のタイプミスではない)。
 これは長い投書の一部分なんだけど、この親の考え方や「信仰」を知るには、ここだけで十分だと思う。さて皆さんだったら、この投書にどう答えるだろう。

 これは大変悲しい事態だなあと思った。
 私がその家の子供だったら、本当につらい。だってジブリを見たいと思っても見られず、親が許可するものしか見られないのだ。しかも見ている最中に、「この部分はダメだ。これは○○という理由で神様に喜ばれないから、もうやめよう」とか言われて、一方的に中断されてしまう。だったら最初から見せるなよって話

 たとえば『もののけ姫』だったら、冒頭、アシタカは村人を守るため「タタリ神」を殺してしまう。その代償として呪いを受け、村を追われることになる。アシタカは「タタリ神」を生み出したと思われる鉄の玉の手掛かりを追い、西の国へと向かう。
 これはつかみとしては完璧だ。アシタカはどうなるの? 呪いは解けるの? とごく夢中にさせる。それで観ていると、途の村で戦出くわす。人を襲う武士たちを見て、アシタカはやむなく何人か殺す。このとき、両腕を切断したり、首を切断したりという描写があって、とたん、「あ、これはダメだ。もうやめよう」と親に言われ。画面は暗転。そして親の「聖書話」が始まる。まだ始まって10分とか20分とかなんだけど。アシタカ、どうなるの? その答えは大人になってから(苦笑)
 こういうのを本当に「子供のため」と思っているとしたら、もうちょっと子供の立場になってみて、いろいろ想像してみるべきだと私は思う。

 べつに残酷な殺害場面を見せろって話じゃない。グロテスク描写は程度にもよるけれど、私も観ようと思わない。けれど一つの作品を鑑賞するうえで大切なのは、一部分でなく、全体から伝わってくるメッセージをつかむことだと思う。『もののけ姫』で言えば、文明と自然は共存できるのかとか、裏切りの多いこの世界で人を信頼するとは何なのかとか、アシタカの高尚さや勇気や誠実さを見習いたいとか、そいういうのが中心的なメッセージになるだろう。間違っても、両腕を切断された武士の顛末は中心にはならない。

 しかしその場面で中断された子供にとって、『もののけ姫とは、両腕を切断された武士の話である。そこが「エンディング」なのだから。

 ちなみにグロテスク描写についてついでに書くと、グロテスク描写そのものを目的とした映画と、テーマのためにグロテスク描写を利用する映画とでは、全然意味が違うと思う。前者は単なる悪趣味かもしれないけれど、後者はリアリティの為にあえてグロテスク描写をする。たとえば『プライベート・ライアン』のノルマンディ上陸作戦なんて相当残酷な描写で、下手なホラー映画よりホラーだけれど、かと言ってあれをホラー映画に分類する人はいない。
 だからグロテスク描写の有無にだけこだわっていると、本当に良い作品をも見逃すことになってしまう。

■これは聖書的教育か、ただの検閲か

 しかし日本のホームスクーラーにとって、この投書のような例は全然珍しくない
 大抵のホームスクーラーは、子供に害のあるものは徹底的に見せない。そして害があるかどうか自分で決める。それに従うのが子供にとっての信仰だ、と考えている。

 その動機そのものはきっと、子供が大切だから守りたいとか、立派なクリスチャンになってほしいとか、親の責任を果たしたいとか、そういう種類のものであろう。けれど上記のホームスクール支援団体の言うことを全部鵜呑みにしてしまっていると思う。そして前回も書いたように、それは情報統制であって、乱暴な言い方をすれば、「検閲」と変わらない。子供は親の一方的な価値観を押し付けられ、神に喜ばれる・喜ばれないを押し付けられる。
 その家庭においては憲法にうたわれている言論の自由や表現の自由はなく、焚書坑儒みたいな思想統制だけがある。

■ホームスクールらしい「個別性」とは

 でも子育ては人それぞれでしょう? という意見もあるだろう。だから上記のような検閲的教育方法を良しとする向きもあると思う。

 けれど全国のホームスクールの人たちがやっているのは、支援団体に教えられた通りの教育方法がほとんどだ。「子供の個性を伸ばす」「子供の得意・不得意に合わせてカリキュラムをオーダーメイドする」とか聞こえのいいことを言っているけれど、結局のところ国語、算数、理科、社会などの一般科目はちゃんとやっておかないと(親が)不安になるし、高校生に至っては高卒認定試験に合格できるレベルまで行かないと、その先がなくなってしまう。だから学習内容は自ずと同じものになっていく。それにテレビはダメ、マンガはダメ、映画はダメ、雑誌はダメ、というのもどの家庭も一緒だ。だから結果、ホームスクールとは、各家庭に分かれて同じことをしているに過ぎない。

 これはホームスクーラーの集まりに行ってみればわかるけれど、どの家庭もどの親もどの子も、雰囲気がすごく似ている。似たような笑顔のお父さん、似たような教育熱心なお母さん、似たような挨拶さえできない子供たち。それは「個別性」というより「均質性」だろう。いくら各家庭に分かれても、その方針が同じなら結果的に同じことになる。
 その意味で、公立学校と何ら変わらない。

2016年6月2日木曜日

「クリスチャン高校生」に対する聖書的指導、と称した情報統制

 今回も「クリスチャン高校生」について。あまり関係ない話から入る。

■組体操をさせない理由は

 5月は運動会シーズンだったけれど、今年は「組体操」が中止になった自治体があった。危険だ、事故が起きる、大怪我したらどうする、みたいな声が大きかったようだ。スポーツ庁も「安全確保できない場合は中止を」という通知を出した。それで各自治体の教育委員会も学校も、それぞれ対応を迫られた。もちろん例年通り実施したところもあった。

 うん、確かに組体操は危ない。下手したら怪我をする。大怪我の可能性もある。運動会の一種目で人生を左右されるほどの障害を負うのも割に合わない。そう考えると、「なにも組体操でなくても」という声にも一理ある気がする。

  肯定・否定の話でなく、私の小学生時代は、組体操は当たり前に全員やった。ピラミッドもタワーもやった。そこに「やるかやらないか」という選択肢はなかったと思う。他のみんながどう感じたかわからないけれど、私は危険を感じた。でも同時にワクワクもした。高学年になって、やっと憧れの組体操ができて、単純に嬉しかった。私は。

 でもそれは、「組体操が好きだから」ではなかった。正直な話、高い人間ピラミッドを作ることになんの感慨もなかった。皆でやったという連帯感も達成感も覚えてない。私が嬉しくてワクワクしたのは、単にそれが「危険だったから」だ。今思うと。


 小学校高学年というと、個人差はあるけれど、いわゆるギャングエイジと思春期の移行期だろう。親から離れて、友達とつるんで、なんでも自分でやりたい時期だ。危険なこともやりたい。いや危険だからこそやりたい。もちろん皆が皆ではないと思うけれど、私はそうだった。だからマットを敷かないでバク転するとか、ハチの巣を叩いてみるとか(刺されて痛かった)、沖まで流されてみるとか(これは本当に死にかけた)、そんなことばかりやっていた。べつにバク転やハチの巣や沖に関心があったのではない。ただ、それらが「危なそう」だったからだ。

 で、いろいろ危険なことをしてみて、「あ、これはこうやるとマジで危険なんだ」ということを学ぶ。という部分はあった。


 要は、「危険だからやめよう」という保護者の声とか、「いや達成感を感じさせてあげよう」という教師の声とか、どれも子供を思ってのことなんだろうだけど、当の子供はそんなの全然求めてなくて、ただ「スリルがあるからやってみようぜ」みたいな単純な動機だけがある。という構図もあると思う。要するに、子供は子供で勝手に考えていることがある。
 その場合、組体操を禁止されたら、他の危険に向かうだけだ。組体操という「公的に認められた危険」か、そうでない危険か、という違いでしかない。

 また組体操を中止する理由が「危険だから」というのはもっともだろうけど、「危険だから中止する」という理由が全てなら、他にもイロイロ中止しなければならなくなると思う。 たとえば野球の授業でボールを指に当てて骨折した友達がいたけど、球技は全般的にそういう危険性を孕んでいる。通学中に事故に遭う生徒も少なくない。また教師による犯罪とか、生徒どうしのイジメとか、他校生とのいざこざとか、刃物男が侵入するとか、そもそも学校自体がイロイロ危険な場所でもある。そんな中、組体操が「わかりやすくて止めやすい危険」だというだけではないだろうか。他の潜在的な危険は、あまり注目されていない気がする。

■「危険だから」でイロイロ禁止されても

 この「危険だから」は、今日の一部の教会でもよく使われている。

 中でも極端な例だと思うけど、クリスチャン高校生にあれもダメ、これもダメ、とイロイロ制限をつける教会がある。
 たとえば、一般の映画は悪い影響を受けるからダメ、同様にテレビも雑誌もマンガもダメ、インターネットもSNSもダメ、ゲームなんかもってのほか、信仰書も慎重に選ばないとダメ、他教会の信徒との交流も気を付けないとダメ、という感じで、ほぼありとあらゆる娯楽が奪われてしまう。若者たちに残されたのは、聖書と、賛美と、祈りだけ(それだけで十分でしょう? と真剣に言う人がいたら、こんな記事読んでないで一人で山奥にでも籠って下さい)。

 それらのダメの理由も、「危険だから」となっている。悪魔の影響を受けてしまうから、信仰を奪われてしまうから、神から離れてしまうから、 惑わされてしまうから、みたいな感じ。

  でも娯楽から隔離したところで、その娯楽そのものは存在する。それに「娯楽=危険」ではない。そもそも現代社会では娯楽からの隔離などできない。たとえば普通に電車に乗っただけでも様々な広告が目に入って刺激を受ける。人里離れた山奥で生涯を過ごすなら別だろうけれど、生きていれば、否応なくイロイロなものと対峙することになる。

 こういう話をすると、「いや子供のうちは判断力が弱いから・・・」みたいなことを言う人がいるけれど、そういう意味の判断力は大人だって弱い。いくつになっても弱い。たとえば「ポルノを観るか観ないか」の判断で言えば、子供の時だけ弱いのではない。日本ではあまりないけれど、麻薬を使えば子供も大人も同じように依存症に陥る可能性がある(高確率で)。先の教会で禁止する娯楽は全部、子供の時だけの危険ではない。
 むしろ、子供の時にその存在すら知らず、大人になって急に出会ってしまうことの方が危険だと思う。子供なら周囲の大人がなんとなく気付いて止めてもらえるかもしれないけれど、大人だとそういう抑止力はすごく少ないからだ。

 常識的に考えて、子供から遠ざけるべき危険は、全然別のところにある。たとえば出会い系サイトとか、遅い帰宅時間とか、危険な時間帯に危険な場所に行くこととか、SNSの危険な使い方とか、そういう結果的に犯罪に巻き込まれる可能性の高い事柄こそ、禁止するべきだ。普通にテレビや雑誌を見ているだけで犯罪に巻き込まれることなんてない。

 教会で娯楽を禁止する背景に、「子供には信仰を選んでほしい」という親や大人の願いがあるのはわかる。けれどそれは、そもそもの対立構図が間違っていると思う。「信仰vs娯楽」とか、「信仰か娯楽かどちらかだ」とかではないからだ。ハムレットじゃあるまいし。健全なのは、「信仰を持っているし、娯楽も楽しむ」みたいた姿勢だと思う。どちらか一方だけになってしまうのは、あまり健全ではない気がする。
 それに究極的には、何を選ぶかは子供自身の問題だ。教える責任が親や大人にあるにしても、その結果何を選ぶかは子供自身なのだ。親が子供の選択を強制すべきでないし、することもできない。

「娯楽の禁止」には、実は親(大人)側の「信仰の強制」があるように思う。何が何でも信仰を選ばせたいから、「子供のため」「子供を守るため」と称して、イロイロ禁止してしまうのだ。

■もはや情報統制

 それが行き過ぎると、もはや情報統制(コントロール)でしかないって事態にもなる。あれは危険だ、これは良い、というのをイロイロ指定することで、子供が入手できる情報を偏らせる。たとえば、

「世界では沢山の主の奇蹟が起こっている。
 今日もあちこちで病人が癒され、死人がよみがえっている。
 こんなに何も起こっていないのは日本だけだ。
 みんなそれを知らないんだ」

 みたいな話だけをずっと吹き込まれていたら、その子は海外の怪しげな神学校に喜んで進学するだろう。自分はイロイロ知っていて、自分で選んでいるつもりになっているけれど、実はたった一つの情報から、たった一つしかない選択肢を選ばされているに過ぎないのに。

 だから子供にはあれこれ制限するより、むしろ沢山の情報に触れる機会を与えてあげた方が良いと思う。広い視野を持たせてあげて、その中から自分自身で選ばせる。その結果がたとえ失敗に思えても、それはそれで本人の糧になる。だいいち失敗とも限らない。コントロールされて自分で選べないより、その方がずっとマシではないだろうか。

 それに一般の学校に通っていれば、子供は放っておいてもいろいろ情報を得てくる。コントロールなどできない。冒頭の組体操の例で言えば、親の心配や教師の願いなど関係なく、ただ「危なそうだからやってやるぜ」みたいになるのと同じだ。そういう思考自体は、不健康でもないし危険でもない。

 その意味で危ないのは、いわゆるチャーチスクールだろう。情報のコントロールがしやすいからだ。日曜は教会、平日はスクール、帰れば家で、牧師や教師や親から同じようなことを言われる。どうしても情報が偏っていく。牧師がいくら「広い視野を」「グローバルな視野を」とか言っても、それは全然広くもないし、グローバルでもない。

 べつにチャーチスクールを完全否定するつもりはないけれど、そういう現実があることは、よく理解しておいた方がいいだろう。

 子供は親の所有物ではないので、何かを強制したり押し付けたりはできない。してはいけない。大人が教えるべきは、ただ一つの(正解に見える)選択肢でなく、選び方だ。と私は思う。