2016年6月2日木曜日

「クリスチャン高校生」に対する聖書的指導、と称した情報統制

 今回も「クリスチャン高校生」について。あまり関係ない話から入る。

■組体操をさせない理由は

 5月は運動会シーズンだったけれど、今年は「組体操」が中止になった自治体があった。危険だ、事故が起きる、大怪我したらどうする、みたいな声が大きかったようだ。スポーツ庁も「安全確保できない場合は中止を」という通知を出した。それで各自治体の教育委員会も学校も、それぞれ対応を迫られた。もちろん例年通り実施したところもあった。

 うん、確かに組体操は危ない。下手したら怪我をする。大怪我の可能性もある。運動会の一種目で人生を左右されるほどの障害を負うのも割に合わない。そう考えると、「なにも組体操でなくても」という声にも一理ある気がする。

  肯定・否定の話でなく、私の小学生時代は、組体操は当たり前に全員やった。ピラミッドもタワーもやった。そこに「やるかやらないか」という選択肢はなかったと思う。他のみんながどう感じたかわからないけれど、私は危険を感じた。でも同時にワクワクもした。高学年になって、やっと憧れの組体操ができて、単純に嬉しかった。私は。

 でもそれは、「組体操が好きだから」ではなかった。正直な話、高い人間ピラミッドを作ることになんの感慨もなかった。皆でやったという連帯感も達成感も覚えてない。私が嬉しくてワクワクしたのは、単にそれが「危険だったから」だ。今思うと。


 小学校高学年というと、個人差はあるけれど、いわゆるギャングエイジと思春期の移行期だろう。親から離れて、友達とつるんで、なんでも自分でやりたい時期だ。危険なこともやりたい。いや危険だからこそやりたい。もちろん皆が皆ではないと思うけれど、私はそうだった。だからマットを敷かないでバク転するとか、ハチの巣を叩いてみるとか(刺されて痛かった)、沖まで流されてみるとか(これは本当に死にかけた)、そんなことばかりやっていた。べつにバク転やハチの巣や沖に関心があったのではない。ただ、それらが「危なそう」だったからだ。

 で、いろいろ危険なことをしてみて、「あ、これはこうやるとマジで危険なんだ」ということを学ぶ。という部分はあった。


 要は、「危険だからやめよう」という保護者の声とか、「いや達成感を感じさせてあげよう」という教師の声とか、どれも子供を思ってのことなんだろうだけど、当の子供はそんなの全然求めてなくて、ただ「スリルがあるからやってみようぜ」みたいな単純な動機だけがある。という構図もあると思う。要するに、子供は子供で勝手に考えていることがある。
 その場合、組体操を禁止されたら、他の危険に向かうだけだ。組体操という「公的に認められた危険」か、そうでない危険か、という違いでしかない。

 また組体操を中止する理由が「危険だから」というのはもっともだろうけど、「危険だから中止する」という理由が全てなら、他にもイロイロ中止しなければならなくなると思う。 たとえば野球の授業でボールを指に当てて骨折した友達がいたけど、球技は全般的にそういう危険性を孕んでいる。通学中に事故に遭う生徒も少なくない。また教師による犯罪とか、生徒どうしのイジメとか、他校生とのいざこざとか、刃物男が侵入するとか、そもそも学校自体がイロイロ危険な場所でもある。そんな中、組体操が「わかりやすくて止めやすい危険」だというだけではないだろうか。他の潜在的な危険は、あまり注目されていない気がする。

■「危険だから」でイロイロ禁止されても

 この「危険だから」は、今日の一部の教会でもよく使われている。

 中でも極端な例だと思うけど、クリスチャン高校生にあれもダメ、これもダメ、とイロイロ制限をつける教会がある。
 たとえば、一般の映画は悪い影響を受けるからダメ、同様にテレビも雑誌もマンガもダメ、インターネットもSNSもダメ、ゲームなんかもってのほか、信仰書も慎重に選ばないとダメ、他教会の信徒との交流も気を付けないとダメ、という感じで、ほぼありとあらゆる娯楽が奪われてしまう。若者たちに残されたのは、聖書と、賛美と、祈りだけ(それだけで十分でしょう? と真剣に言う人がいたら、こんな記事読んでないで一人で山奥にでも籠って下さい)。

 それらのダメの理由も、「危険だから」となっている。悪魔の影響を受けてしまうから、信仰を奪われてしまうから、神から離れてしまうから、 惑わされてしまうから、みたいな感じ。

  でも娯楽から隔離したところで、その娯楽そのものは存在する。それに「娯楽=危険」ではない。そもそも現代社会では娯楽からの隔離などできない。たとえば普通に電車に乗っただけでも様々な広告が目に入って刺激を受ける。人里離れた山奥で生涯を過ごすなら別だろうけれど、生きていれば、否応なくイロイロなものと対峙することになる。

 こういう話をすると、「いや子供のうちは判断力が弱いから・・・」みたいなことを言う人がいるけれど、そういう意味の判断力は大人だって弱い。いくつになっても弱い。たとえば「ポルノを観るか観ないか」の判断で言えば、子供の時だけ弱いのではない。日本ではあまりないけれど、麻薬を使えば子供も大人も同じように依存症に陥る可能性がある(高確率で)。先の教会で禁止する娯楽は全部、子供の時だけの危険ではない。
 むしろ、子供の時にその存在すら知らず、大人になって急に出会ってしまうことの方が危険だと思う。子供なら周囲の大人がなんとなく気付いて止めてもらえるかもしれないけれど、大人だとそういう抑止力はすごく少ないからだ。

 常識的に考えて、子供から遠ざけるべき危険は、全然別のところにある。たとえば出会い系サイトとか、遅い帰宅時間とか、危険な時間帯に危険な場所に行くこととか、SNSの危険な使い方とか、そういう結果的に犯罪に巻き込まれる可能性の高い事柄こそ、禁止するべきだ。普通にテレビや雑誌を見ているだけで犯罪に巻き込まれることなんてない。

 教会で娯楽を禁止する背景に、「子供には信仰を選んでほしい」という親や大人の願いがあるのはわかる。けれどそれは、そもそもの対立構図が間違っていると思う。「信仰vs娯楽」とか、「信仰か娯楽かどちらかだ」とかではないからだ。ハムレットじゃあるまいし。健全なのは、「信仰を持っているし、娯楽も楽しむ」みたいた姿勢だと思う。どちらか一方だけになってしまうのは、あまり健全ではない気がする。
 それに究極的には、何を選ぶかは子供自身の問題だ。教える責任が親や大人にあるにしても、その結果何を選ぶかは子供自身なのだ。親が子供の選択を強制すべきでないし、することもできない。

「娯楽の禁止」には、実は親(大人)側の「信仰の強制」があるように思う。何が何でも信仰を選ばせたいから、「子供のため」「子供を守るため」と称して、イロイロ禁止してしまうのだ。

■もはや情報統制

 それが行き過ぎると、もはや情報統制(コントロール)でしかないって事態にもなる。あれは危険だ、これは良い、というのをイロイロ指定することで、子供が入手できる情報を偏らせる。たとえば、

「世界では沢山の主の奇蹟が起こっている。
 今日もあちこちで病人が癒され、死人がよみがえっている。
 こんなに何も起こっていないのは日本だけだ。
 みんなそれを知らないんだ」

 みたいな話だけをずっと吹き込まれていたら、その子は海外の怪しげな神学校に喜んで進学するだろう。自分はイロイロ知っていて、自分で選んでいるつもりになっているけれど、実はたった一つの情報から、たった一つしかない選択肢を選ばされているに過ぎないのに。

 だから子供にはあれこれ制限するより、むしろ沢山の情報に触れる機会を与えてあげた方が良いと思う。広い視野を持たせてあげて、その中から自分自身で選ばせる。その結果がたとえ失敗に思えても、それはそれで本人の糧になる。だいいち失敗とも限らない。コントロールされて自分で選べないより、その方がずっとマシではないだろうか。

 それに一般の学校に通っていれば、子供は放っておいてもいろいろ情報を得てくる。コントロールなどできない。冒頭の組体操の例で言えば、親の心配や教師の願いなど関係なく、ただ「危なそうだからやってやるぜ」みたいになるのと同じだ。そういう思考自体は、不健康でもないし危険でもない。

 その意味で危ないのは、いわゆるチャーチスクールだろう。情報のコントロールがしやすいからだ。日曜は教会、平日はスクール、帰れば家で、牧師や教師や親から同じようなことを言われる。どうしても情報が偏っていく。牧師がいくら「広い視野を」「グローバルな視野を」とか言っても、それは全然広くもないし、グローバルでもない。

 べつにチャーチスクールを完全否定するつもりはないけれど、そういう現実があることは、よく理解しておいた方がいいだろう。

 子供は親の所有物ではないので、何かを強制したり押し付けたりはできない。してはいけない。大人が教えるべきは、ただ一つの(正解に見える)選択肢でなく、選び方だ。と私は思う。

3 件のコメント:

  1. 組体操はね~。もしかしてfuminaruさん、一番上の人だった?下の人はワクワク感ゼロよ。掌と膝にめり込む小石で出血、笛の音で顔を上げるとき肩まで揺らしてしまうと上の人が不安定になって罵倒される。。危険は林間学校とかの方がみんな公平でよかったな。
    情報統制に関しては同感です。f(^_^;

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  2. 東北地方にある某新興宗教系プロテスタントの教会の聖職者夫妻のことを思い出してしまいました。
    その夫婦は「テレビは害悪な情報だらけで、テレビなんかを見ていると、人間は絶対に世的肉的な方向に流されてしまう」という信念の持ち主でした。
    2011年の3月11日に、周知のように大震災が東北を襲ったわけですが、実はこの家にはテレビがなかったので、のんきに「あー地震がきたなあ。ちょっと揺れは大きかったが、まあ大丈夫じゃないの?」と構えていました。
    そこに近所の人がやってきて「あなたたち一体何をやっているんですか?!津波が来ると騒いでいますよ。ただちに逃げてください!!!」といわれ、そこではじめて事態の重要性を知り、慌てて逃げ出したという話です。
    まるで漫画みたいな話でしょう?のんきすぎるなどというものではありません。情報遮断こそ最高だからと、「宗教的エリートだからこれでいいのだ」と確信してテレビを置かない生活をしていたわけですが、テレビがないと命を落とす羽目になることがあるのです。
    幸いにして近所の人が、すぐに逃げるようにと言ってくれたので、夫婦とも助かったのですが、これで人里離れた場所にでもいたら、今頃はあの世にいたはずです。
    日頃は腹の底で見下しているであろうところの、「世的肉的に生きている人 テレビを見ている人」のおかげで、津波に巻き込まれずに助かったのですが、この夫婦は今も「自分たちが助かったのは、日頃からの信心のたまもの」と、テレビを持たず情報遮断の生活にますます自信を持ち、今日も神様に「テレビを持たない私たちをお守りくださってありがとうございました」と感謝の祈りでもしているのでしょう(呆)。

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  3. ミッションスクールの聖書の授業の宿題か何かではなく、本屋か図書館、あるいは高校の社会科のひとつである倫理の授業で聖書の存在やキリスト教の思想に興味を持つ高校生は、たまにはいそうです。

    そんな生徒がプロテスタント、それも福音派を名乗る新興宗教の日曜礼拝に出席したとしたら、



    ヤター、後継者キタ――(゚∀゚)――!!



    とか考えてしまうらしいのです。牧師は特に。

    1回だけならともかく、2回、3回と続くとなおさら。

    彼が彼女が、こころの落ち着きと、知的好奇心の探求が目的だとしても。



    もしここを高校生が読んでいたら、自分自身をしっかりと見つめるよう、
    希望します。

    そして、悩みがあっても、牧師や信徒それも青年会の会員とかに安易に相談しては、いけません。


    無理やり家庭で教育されるひとたちについては、もはやご愁傷さまとしか。

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