2016年6月18日土曜日

クリスチャン的「人助け」について

■クリスチャン的「人助け」の事例


 まず、教会で実際に見てきた「人助け」、あるいはそれに関連した出来事を紹介してみる。ただし個人に害のないように若干の脚色をくわえておく。

①「引きこもり」救出作戦

 信仰歴の長いあるご婦人の一人息子、Aくんが、長年引きこもっていた。成人しても家から出ず、仕事もしなかった。ご婦人が心配して声をかけると、Aくんは激しく怒り、物を壊したり、大声を出したりした。
 ご婦人は困り果てていた。教会の皆は、事あるごとに祈ったり、相談窓口を紹介したりした。しかし「事を大きくしたくない」「私がもっとしっかりします」というご婦人の意思が強く、実効力のある何かはずっと成されなかった。
 そんなある日、Aくんがいつになく激しく怒り、ご婦人を家から追い出した。鍵を家の中に置いたままのご婦人は、教会に泣きにやってきた。そのとき教会には牧師と何人かの信徒がいて、じゃあ今からAくんを説得しに行こうって話になった。で、家に行ってみたけれど、Aくんは鍵を開けてくれない。ドア越しに長い時間説得したが無駄だった。こりゃ無理やりドアを開けるしかない、となった。そしてハリガネとか有り合わせの道具とかで作ったモノを郵便受けから差し入れて、なんとかロックを解除した(これ本当)。
 でAくんと対面したんだけど、彼は母親を追い出したことは素直に謝っていた。ただ教会の人間がいきなり押しかけてきたのが怖くて、ドアを開けられなかった、と言う。まあそうだよね。で、牧師がいろいろ話しても、Aくんはハイとかイイエとか言うだけで、何の進展もない。当然ながら教会に誘っても答えはノー。最後は、お母さんは大切にしないとねって牧師が総括して(何の総括だよ)、引き上げることになった。
 何と言うか、勢いよく出掛けたはいいけれど、いざ本人と対面したら「えーっと・・・」ってなっちゃった感じ。
 その後もAくんは引きこもったままで、ご婦人も悩んだままで、教会も祈っているまま。

②長老vs精神発達障害のある青年

 教会に一時期、精神発達障害のある青年Bくんが来ていた。Bくんとは会話があまり成立しなかった。アニメとかゲームとかの話が多少できるくらいだった。お菓子とかジュースとかあげていれば機嫌が良かった。礼拝中はじっと座っていられなかった。事情はよく知らないけれど、彼には彼の思いがあって、教会に来ているようだった。
 さて教会の長老がいた。彼は企業勤めのロマンスグレーで、リッチで、場を仕切る能力があって、何と言うか自信満々な雰囲気があった。
 そんな長老とBくんがたまたま、一対一になる場面があった。長老は最初、何やかやとBくんに話しかけていた。けれど思ったような反応が得られなかったからか、飽きたようにあちこち見回して、結局その場を離れていった。あとに残されたBくんは、お気に入りのお菓子を眺めたままブツブツ呟いたり、ウフフと笑ったりと、まあマイペースであった。
 そんな感じで、Bくんはいわゆる「話しづらい」存在だった。次第に、誰もBくんに話しかけようとしなくなった。私も例外ではないのだけれど。
 そんなBくんも教会に来なくなった。今どうしているのかはわからない。

 ③セルグループのリーダーvsフォロワー

  教会に韓国発の「弟子訓練」が導入され、それに伴って「セルグループ」が始まった。
 あるグループのリーダー、Cさんはいわゆる「信仰熱心」なタイプで、猪突猛進なところがあった。そのCさんのグループに割り振られた信徒の1人が、Dさんだった。Dさんは情緒的に不安定なところがあって、礼拝に来たり来なかったり、ポジティブになったりネガティブになったり、という状態だった。
 Cさんはリーダーとして、このDさんに一生懸命かかわった。土曜になると、電話やメールで「明日礼拝にくるよね?」的な確認をしていた。平日にもDさんと会う時間を持とうとした。でもDさんはそういうのを求めていなかったようで、Cさんからしたら「暖簾に腕押し」みたいな感じだったと思う。Dさんは相変わらず、礼拝には来たり来なかったり。時々教会に来ても、ネガティブな発言が目立った。
 で、ついにCさんとDさんが衝突した。Dさんのネガティブな発言の一つが、たまたまCさんの怒りポイントに突き刺さったみたいで、「こんなにあなたのこと愛しているのに何てこと言うの!」とCさんが激昂したのだ。Dさんはそんなこと意図していなかった(と思う)んだけど、まあ気まずくなってしまったのだろう。以来、教会には来ていない。

 というわけで3つの事例を挙げてみた。どれも印象的だった出来事だ。
 教会は(あるいはクリスチャンは)他者に対して何ができるのか(あるいはできないのか)を考えるうえで、参考になるケースだと思う。
 では解説。

■教会万能論

 ①のケースに見られる教会側の考え方は、「とにかく教会にくれば個人の問題は解決する」みたいなものだと思う。教会だから、神を信じる群れだから、祈れるから、神様がいるから、聖書の教えがあるから、とかいうことで、「できないことはない」みたいに考えている。いわゆる教会万能論。
 でもこのケースを見る限り、教会は無力だ。もちろん追い出されたご婦人を家に帰すことはできたんだけど、肝心のAくんに対しても母子関係に対しても、何もできなかった。その後の継続的な働きかけもなかった。

 このケースで教会側が(意識的にか無意識的にか)考えるのは、たぶんこんな感じ。
「教会としては手を差し伸べた。あとはAくん次第」
 それは基本的に間違っていないと思う。でも果たして、ひきこもり中のAくんの気持ちを十分考えての「手を差し伸べた」だっただろうか。という点で疑問が残ると思う。無理やり鍵を開けて押し入り、教会に来いとかお母さんを大事にしなさいとか、一方的に責め立ててしまったのではないだろうか。その結果としての彼の反応が期待したものでなかったからといって、「あとは彼次第」と言えるだろうか。

 現在、社会問題はすごく多様化していると思う。私の身近なところで言っても老々介護や認々介護、独居高齢者、シングルマザーや若年層の貧困、各種DV、精神障害に対する差別、同性愛に対する差別、各種ハラスメントなど、挙げたらキリがない。それらの全部に教会が手を差し伸べるのはたしかに現実的ではない。でも、「教会としては礼拝に誘った。あとは本人たち次第」と言うとしたら、教会は現在の社会問題に対して完全に無力となってしまう。地域にその教会がある意味とは何なのだろうか。

 すべての問題を解決できないにしても、教会は少なくとも、「理解して寄り添う」ことならできると思う。教会で具体的な何かができなくても、話を聞くことはできるし、相談窓口に一緒に行くとか、どうしたらいいか一緒に考えるとか、社会資源を探すとか、そういう視点で弱者の側に立つことはできると思う。
 逆にそういうことができれば、教会が地域に存在する意義が増すのではないだろうか。

■「人助け」と言うより自己満足

 ②と③の長老とグループリーダーは、はっきり言うけど配慮がないと思う。相手を理解しようという、一番大切な姿勢がうかがえないからだ。単に先輩風を吹かせているだけに見える。「自分がかかわってあげている」「良いものを提供してあげている」という一方的な押し付けで、悦に入っている。それで相手の反応が自分の期待通りでないと、「これだけやってあげているのに」「これじゃ助けられない」となる。

 たとえばDさんのケースで言えば、教会に来たくない理由とか、ネガティブな発言をしてしまう気持ちとか、生活状況とか困り事とか、そのへんを見極めることから始めないと、Dさんの本来の姿は見えない。でもCさんはそういうのを見ようとしないで、ただ教会に来なさい、聖書を読みなさい、祈りなさい、と押し付けるだけ。それでDさんが期待通りにするはずがない。

 こんなふうに、「相手を助けたい」というスタンスを取りながら、「人助けしている自分ってステキ」みたいな自己満足に陥っているケースが本当に多いと思う。しかも、「相手を思って〇〇したのに、相手は受け取ってくれない。これじゃ助けられない」と言うだけならまだしも、今度は相手を責めはじめる。「なんてヒドイ人なの。これだけしたのに!」

 でも本当に相手のことを思っているなら、見返りなど求めないはずだ。すなわち「期待通りの反応」など求めないはずだ。相手の反応が期待通りでなくてガッカリするかもしれないけれど、それはそれで受け入れるしかないとわかっているし、むしろ相手の選択や自己決定を尊重しようとするはずだ。相手のことを本当に思っているなら。

■クリスチャン的「人助け」とは

 クリスチャン的「人助け」で私が想像するのは、たとえばマザーテレサのしたことや、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教のしたことだ。彼らは相手に与えるだけで、なんの見返りも求めなかった。どちらもカトリックの人たちだから、プロテスタントの人からしたら「関係ない」のかもしれないけれど、私は大いに見習うべきだと思う。むしろ「人助け」に関しては、カトリックに一日の長があるように見える。なぜならプロテスタントには「祈ってます」で相手の困り事を簡単に処理する傾向があるからだ(もちろん全部が全部とは言わない)。

 もちろん祈りに価値がないということではない。祈りには祈りの役割があるし、それも大切だ。けれど「人助け」とは別に考えた方がいいと私は考える。なぜなら、たとえば目の前に出血している人がいるとして、「血が止まりますように」と祈る人はいない。そんな暇があったらガーゼか何かを傷口に当てるだろう。そのどちらが神の御心かと言えば、ガーゼを当てる方のはずだからだ。

  ナイチンゲールも、宗教行為とは下水を清掃してコレラを予防することだと言った。つまり「コレラが流行りませんように」という「神頼み」は、宗教行為でないとした。

 こういうのはわかりやすい例だから、反論する人もあまりいないと思う。けれどたとえば引きこもりとか、精神発達障害者とか、情緒不安定な人に対しては、「祈ってます」とか「あの人は手を差し伸べても答えてくれないから」とかで片づけてしまうことが多いように思う。でもそれは出血している人を見ながらガーゼも何も当てないのと、基本的に同じだと私は思う。
 かと言って、専門的な援助を素人がしろって話ではない。繰り返すけれど、相手に自分の善意を一方的に押し付けるのでなく、まず相手を理解することから始めるべきだ、と言っているに過ぎない。

1 件のコメント:

  1. 教会に行けば何とかなる。そんなわけない。
    問題点を信徒の誰かに相談したら「祈ります。」と言われともに祈る。そしてその日は心理的に気持ちは落ち着いていく。しかし、いつのまにか問題が教会の信徒同士に流れ出て噂話になりかえってそれが過大解釈になって膨らんだりして、かえって心の傷が増えるだけに。口が軽い人がいることも考えものだけど
    できれば、個人的にキリストに祈ることでいいのではないか。または本当に口外しない人に相談にのってもらうだけでもいいはず。慎重かつ慎重にいくべきでは。

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