2015年9月29日火曜日

非常識な「霊的意味」について

 今年初めのことだけれど、いわゆる「イスラム国」に拉致された後藤さん、湯浅さんの件が大々的に報道された。両名とも殺害されるという、最悪の結果に終わってしまった。

 その殺害が報じられる前、キリスト教界では「後藤さんの救出の為に祈ろう」という動きが少なからずあった。後藤さんがクリスチャンだとわかったからだ。 同じ神様を信じる仲間の無事を祈ろう、みたいな気持ちだったと思う。その時点で湯浅さんのことが放置されているようで気になったけれど。

 しかし「後藤さんの為に祈ろう」というのは基本的には良いことだと思う。危機にある人が救われてほしいと願うのはごく自然な感情だし、それに従って神に祈ろうとするのもクリスチャンなら自然なことだからだ。損得抜きの純粋な動機であっただろう。

 けれど中には、たぶんごく一部だと思うけれど、その事件に「霊的意味」を求める人たちがいた。
 つまり後藤さんの誘拐には○○という意味があって、そこには実は神の深い計画と目的があって、だから最後には神の栄光が現される、というような話だ。

 しかし考えてみると、ある人はA、ある人はB、またある人はC、みたいに様々な人が様々な「霊的意味」をそこに展開する時点で既に怪しい。神が何らかの「霊的意味」を用意しているとしたら、そこには矛盾はないはずだからだ。
 まあそういうのも含めて誰が何を言おうと自由なのだけれど。

 けれど、さすがにこれはマズイだろうというレベルの「霊的解釈」があったので、以下にザックリ紹介してみたい。

■後藤さんは現代のステパノ?

 その主張はこんな感じ。

①普通ならクリスチャンはイスラム国に入れない。でも後藤さんはジャーナリストとして入って、拉致された。結果、彼はイスラム国に遣わされたキリスト者である。

②現在キリスト教に回心するムスリムが増えていて、それは超自然的な「夢と幻」によることが多い。

③パウロは迫害者だったけれど、「夢と幻」によって回心した。しかしその前準備として、ステパノの殉教を見せられていた。

④だから後藤さんはステパノのような存在であり、後に回心するムスリムたちにとって必要な礎なのだ。

 以上、某ブログより。

 この主張が書かれているブログを最近ある人から教えてもらったのだけれど、初見からこれはヒドイと思った。これってつまり、「後に回心するムスリムのために後藤さんは拉致された」ってことで、だから「犠牲になるべきだ」と言っているのと同じだ。
 もし後藤さんが無事に解放されたらステパノみたいな殉教者にはならない訳で、その主張と食い違うことになる。だから彼らは後藤さんに死んでほしかったのであろう。結局その願いの通りになったけれど。

 彼らは独自の深い「霊的解釈」を披露してご満悦なのかもしれないけれど、ものすごく浅はかだ。遺族に面と向かって同じことが言えるのだろうか。こういうことを言っている時点でクリスチャンとしての常識が疑われるのだけれど、そういうことには気づいていない。それに仮にこの説が100%真実だとしても、言い方というものがある。こういうことを言っていい立場と、言うべきでない立場もある。

■ムスリムの回心について

 前述の「ムスリムの回心」だけれど、これは私も聞いたことがある。非常に熱心だったムスリムが、ある日突然「夢と幻」を見せられて、瞬間的にキリストを神と認め、クリスチャンになる、というような話だ。そういう人がムスリム世界で爆発的に増えている、という。

 聞いた当時は「そんなもんなのかな」とやや懐疑的なだけだったけれど、それから数年たった今も同じことが言われていて、でも実際に「キリスト教に瞬間的に回心したムスリム」を見たことも聞いたこともなく、具体的な名前も挙がってこない。「爆発的に増えている」と言うには不思議な現象である。

 この「瞬間的な回心」の例として彼らはパウロを挙げている。パウロの回心は聖書にあるから事実である。けれどパウロはパリサイ人であり、厳格な教育を受けており、つまり旧約聖書を熟知していた。対してムスリムはコーランを熟知しているかもしれないけれど、旧約聖書も新約聖書も読まない(ついでに言うとコーランはイエス・キリストをただの人間と言っていて、他にも沢山の改変がある)。だから何らかの啓示を受けたパウロの聖書知識に基づいた「気づき」と、ムスリムのコーラン知識に基づいた「気づき」とは、根本的に違っているはずだ。

 だからムスリムが瞬間的に回心するとしたら、彼らのコーランに関する記憶が瞬間的に削除されるか、あるいは訂正されるかして、代わりに聖書の内容が瞬間的にダウンロードされる必要がある。厳密に言うと神様はそういうことも可能だろうけれど、だったら人間が伝道する必要などない。またムスリムにだけそういう現れ方をして、仏教徒やヒンズー教徒を無視するとしたら、神の愛とは相当不公平である。

 そういう強制的な「回心」があちこちで行われ、ムスリムがどんどんクリスチャンに変わっているのなら、そもそも日本人の後藤さんが拉致されてステパノみたいに扱われる必要などない。

 こういう「霊的解釈」を披露してご満悦なクリスチャンは、往々にして無礼であることが多い。自分の「霊性アピール」に夢中で、当然の社会常識を忘れているからだ。そういう人が受け入れられるのは、一部のクリスチャン世界だけだ。そして一般社会では、それは「非常識」と言われる。

2015年9月26日土曜日

カルト被害者を襲う第二の虐待・その2

 2年前に書いた記事に、最近続けてコメントをいただいた。その記事はこちら。

「日本のクリスチャンの若者がダメな理由」

 ちなみに最近のコメント内容は、記事の内容と全然関係ない。
 もう一つちなみに言っておくと、この記事は「キャッチ―な題名にしてみよう」と思って「~な理由」というタイトルにしたけれど、読んでいただければわかる通り、クリスチャンの若者を否定した内容ではない。ただ一部に残念なことになっている若者たちがいて(本当にいる)、でもそれは根本的には彼ら自身のせいでなく、そういう風に彼らを誘導した牧師たちのせいなのだ、という内容である。
 しかしどうも勘違いされているみたいで、「若者を否定して何様だ」的な意見をいただくことがある。私の文章力の問題なのか、読む人の読解力の問題なのか、そのへんはよくわからない。

 それはいいとして、この記事に最近いただいたコメントが、ちょっとした議論みたいになった。私はこの手の議論には基本的に口を出さないのだけれど、今回のは見ていてすごく残念である。カルト被害者に対する理解が全然ないのだな、と思わざるを得ないからだ。

 要は「カルト被害者に対してどんな言葉をかけるべきか」という話。つい最近もこのテーマで書いたばかりなので、私個人の考え方についてはこちらを参考にしていただければと思う。

「カルト被害者を襲う第二の虐待」

 要約。カルト被害者は単に信仰上の「躓き」を体験しただけでなく、いわゆる犯罪被害に遭ったのである。だから、「それでも神様があなたを愛しています」みたいな信仰的な「励まし」は、かえって傷口を引き裂くことになりかねない。問題を「信仰」だけに限定してしまっているからだ。しかし事実は「虐待に遭った」のであって、それはそれだけで専門的な援助を要する状態である。そういう状況を理解していないで声をかけることは、良かれと思って被害者をセカンド・レイプすることになる。

 たとえばいただいたコメントの中には、「短期的には慰めが必要だけれど、長期的には神様のもとに戻れるような援助をしなければ」みたいなのがある。つまり援助の最終ゴールを「信仰(教会)生活に戻れること」としている。
 しかしこの考え方は、基本コンセプトの時点で間違っていると私は考える。いきなり不信仰なことを言うようだけれど、問題は既に「信仰・不信仰」という次元から離れている。そもそもそのへんに誤解があるように私は実感している。

 わかりやすいように実例を出してみると、およそ30年ほど前、九州のある教会群で大規模なカルト被害があった。多くの若者が長期に渡って信仰的虐待を受け、傷つけられた。それでも彼らは「これが信仰だから」と耐え続けていた。しかしあるとき主任牧師の問題が発覚し、結果的に教会群は離散した。若者たちの多くは教会を離れた。それまで「信仰」と思ってきたいろいろなことの間違いに気づき、何が正しいことなのか、わからなくなってしまったからだ。

 当時まだ「教会のカルト化」という言葉はなく、彼ら自身もその周囲も、その問題をどうとらえるべきなのか、その本質が何なのか、よくわからなかった。あるいは痛みが大きすぎて、深く考えることができなかった。ただ聖書解釈の誤りや信仰生活の誤りがあったことは明確だったけれど。

  今は「ハラスメント」という言葉でその被害が認識されつつあると思うけれど、彼らが受けたのは主にスピリチュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、セクシャル・ハラスメントの類だ。くわえて日常的な暴力、超長時間労働、仕事の失敗に対する各種の「制裁」等があった。
 だから単なる「教会生活上のトラブル」「牧師と信徒のトラブル」などではない。それらは立派な犯罪であり、彼らは犯罪被害者なのである。

 しかしそういう被害の実情が明らかでなく、単に「信仰的に躓いた」と思われたことが、その被害を増すことになった。彼らは「教会に戻るべき」と周囲から言われ、中にはさほど問題なく戻れた者もいたようだけれど、多くの者はそうではなかった。もちろん専門的な援助などなかった。多くの者が葛藤し、教会に行っても拒絶反応からまともに礼拝できない自分を責め、でもどうすれば良いかわからなくて、途方に暮れた。しかし周囲の牧師やクリスチャンたちが言うのは同じようなことだった。「今は傷が深くて無理でしょうけれど、いずれそれも癒えますから、そのときは教会に戻るべきです」

 結果、30年以上経った今も傷が癒えず、途方に暮れたままの人たちが事実いる。あるいはそういうことを考えるのを止めて、途方に暮れてはいないかもしれない。けれどそれで彼らの心の中の問題が解決した訳ではない。その証拠に30年経っても教会に行けていない。

 彼らは周囲から言われるまでもなく、神様が正しい方だと信じている。自分を救ってくれると信じている。人は信用できなくても、神様だけは決して自分を裏切らないと信じている。言われるまでもないのだ。いつか教会に戻った方がいいとか、いつかまた信仰生活を送るべきだとか、教会だって完璧じゃないんだから完璧など求めるべきでないとか、そんなことは言われるまでもない。彼ら自身がよくわかっているからだ。

  問題は何かと言うと、彼らが「信仰」のことで虐待され、「礼拝」の場で虐待され、「聖書の言葉」で虐待され、「祈り」で虐待され、「奉仕」の場で虐待されたことだ。正しいと思っていた諸々のことで長期間苦しめられ、最後にそれらが間違いだったとわかったのである。

 そんな彼らが「また礼拝すれば癒されます」とか言われても、問題は「礼拝する・しない」でなく、「礼拝に行けない・できない」のである。そしてできない自分が不信仰と思われてしまうとか、助言してくれた人たちをガッカリさせてしまうとか、そういう理由で「頑張って礼拝する」と、ますます礼拝に対する嫌悪感が増し、自分自身をも責めることになる。悪循環である。全然癒されないし、ますます回復から離れてしまう。

 視点を変えて医療の現場の話をすると、乳児は薬を飲むのを嫌がる。苦いし、甘く味付けされていても違和感があるからだ。それでどうするかと言うと、間違ってもミルクに混ぜてはいけない。ミルクに薬を混ぜて飲ませると、1、2回は飲むけれど、次からミルク自体を嫌がるようなってしまう。すると自分にとって必要な、接種できる唯一の栄養源であるミルクを飲まなくなってしまう。つまり薬は必要なものだけれど、やり方次第で害悪にもなる。

 これと同じで、「礼拝」の場で長く苦しめられた人は、礼拝自体ができなくなってしまう。乳児じゃないから理性を働かせて無理やり礼拝することはできるだろうけれど、それが「心から」でないのは明らかだ。

 だから繰り返すけれど、カルト被害者は単に「信仰に躓いた」のでなく、「信仰を使った犯罪被害に遭った」のである。そんな彼らを回復させられるのは、少なくとも「信仰」ではない。

 いただいたコメントに、「ホームレスに配給所の場所を教えるべきか・教えないべきか」みたいなのがあって、「当然教えるべき」というのがその人の答えみたいだけれど、問題のとらえ方が間違っている。そんな問題だったら答えは簡単な訳で、誰も苦しまない。
 その変な例に付き合ってみると、「配給所で配られる食品に毒が入っていたらどうする」あるいは「もう食事なんていりません」というのがカルト被害者の心情だ。そもそも彼らは、配給所がどこにあるか知っている。知っていても「行けない・行きたくない」のが問題なのだ。

 カルト被害者を回復させるのは「信仰」ではない、と私は先に書いたけれど、それを見て「そんな不信仰な」と思う人がいるかもしれない。けれど何度も繰り返すけれど、信仰的虐待は犯罪であり、「信仰・不信仰」で語れる次元ではない。そういうことをちゃんと理解していただければ、もうちょっと違う言葉が出てくるだろうと思うけれど、それは私の期待しすぎだろうか。

2015年9月25日金曜日

「狼少年」と同じレベルの終末詐欺なんだけど

 今日は9月23日で、某自称クリスチャンによると"CERN"で大変なことが起こるような起こらないような、って日らしい。
 それで今日は「とりなして祈らなきゃ」って話らしいけど、今のところ(15時現在)「地獄の門」が開いた感じはなく、ビッグバン級の大爆発も起こっておらず、特に危機的状況ではない。

 このまま何も起こらず一日が終わると、結局「何もなかったじゃん」って話になるけど、彼らはいろいろ言うだろう。たとえば、

A「私たちのとりなしが聞き届けられて危機は回避された(本当は危険だった)」
B「主の憐みによって危機は回避された(本当はマジ危険だった)」
C「この件に関しては沈黙を守るよう聖霊様から命じられている(私は真相を知ってるけどね)」
D「全能の主の御心は人間には全てはわかりません(だから自分にもわからないことはある)」

 みたいなこと。
 何か他の言い訳をでっちあげるかもしれないけれど、たぶんこの4つから遠くない。

 ちなみにAの場合、これは狼少年の理屈である。
「危機が迫った」
「でも大丈夫だった」
「また危機が迫った」
「でもまた大丈夫だった」
「またまた危機が迫った」
「でもまたまた大丈夫だった」
「またまた危機が・・・(以下無限)」
 このパターンの問題点は、危機の存在が証明できないことにある。詳細は「狼少年」の物語を参照。

 Bの場合もAに通じるけれど、危機の存在を証明できないのと同時に、それに対する「主の憐れみ」についても証明できない。もちろん主は憐れまれる方だと私は信じているし、たぶん多くのクリスチャンもそう信じていると思うけれど、存在自体が怪しい「危機」に対応する「主の憐れみ」は、やはりその存在自体が怪しくなる。

 Cもやはり何も証明できていない。「私は事実を知っている。でも話すことができない」と言う場合、その事実の存在は証明されない。しかも「知ったかぶり」が鼻につく分タチが悪い。実は何も知らないんだと思うけど。

 Dは謙遜を装っているけれど、要は責任放棄である。「神様が決めてるんだから私は知らん」という話だけど、普段から「御心が手に取るようにわかる」とか言っている割りにいきなり「御心はわからない」とか言い出して、矛盾だらけ。

 これらに共通しているのは「何とでも言える」だ。それらしいことをイロイロ言うけれど、結局のところ根拠はどこにもなく、ただ自分の「霊的感覚」に頼っているだけ。しかもそれがどこまで「霊的」なのかすごく怪しい。

 という訳で現在22時だけれど、"CERN"が大変なことになったという知らせはない。悪魔が溢れ出てきたにしてはいつもと変わらない時間が過ぎている。ビッグバン級の大爆発が起こったにしては地球は平和である。

 でも"CERN"も彼らにとって持ち駒の一つでしかない。次々に設定しなければならない数多くの危機の中のたった一つであって、そのうち使い古されて誰も見向きもしなくなる。そして次なる危機にその座を譲り渡すことになる。

 要は恐ろしいのは"CERN"でもなくイロイロな陰謀説でもなく、「危機」を振り回し続ける彼ら自身だ。形は変わっていくけれど、その本質は「終末」「この世の終わり」「大いなる危機」であり、彼らは絶えずそういう恐怖感・危機感を煽っている。そしてそれに煽られる人々がいて、問題を大きくしている。

 さてもうすぐ今日が終わるけれど、結局"CERN"の危機は去り、さて次の危機が訪れるまで、しばし時間が空くだろう。けれど基本構造はいつも一緒なので、賢い人は早いうちに気づくべきだと私は思う。

2015年9月21日月曜日

「御心」に関する壮大な勘違い。あるいは捏造。その3

「御心」に関する壮大な勘違い。あるいは捏造。3回目。

1回目はこちら
2回目はこちら

 このシリーズは要するに、クリスチャンの意思決定プロセスについての話だ。
 クリスチャンが何かをするとき、その動機は何なのか、信仰とどう関係するのか、何をもって「信仰的」とされるのか、といった話。
 そして具体的に例を挙げてきたのは、「自分の願望」を「主からの語りかけ」に置き換えてしまうクリスチャンの罪悪についてだ。

 見栄え良く自慢できる教会堂がほしいから、
 広い牧師館がほしいから、
 一人前と認められたいから、

 みたいな動機を隠して「主が新会堂建設を願っておられる!」とか言うのは神の名を騙ることであり、はっきり言って罪悪だ。この場合だと信徒から巻き上げた金銭も絡んでいるから、法的な意味での罪悪ともなりえる。

 クリスチャンの意思決定プロセスは、大まかに分けて次の2つがあると思う。

①聖書的価値観と自分の都合を勘案して決める方法
②神の声を聞いてそれに従うレーマ的方法
 
 わかりやすくするために例を挙げると、たとえばここにクリスチャンAとBがいる。2人ともそれぞれ伝道に出かけた。
 そこにクリスチャンCがやってきて、たまたまAとBに順番に遭遇した。Cはそれぞれに質問した。「なんで今日伝道にきたの?」
 Aの答え。「いやあ、クリスチャンとして伝道すべきだと思うんだよね。とても毎日はできないんだけど。ちょっと時間が空いたからしようかなって思って。どうなるかわからないけど」
 続いてBの答え。「今朝祈っていたら、主がここで伝道するよう私を導かれたのです。それもどうしてもこの場所で、この時間でなければならないと語られました。だから仕事を休んでここに来たのです。この信仰の従順を見て、主は必ず祝福して下さるでしょう」

 わかると思うけれどAの主張が①であり、Bの主張が②である。

 どっちがすごいかという話なら、超自然的に神の声を聞いてる(らしい)Bの方がすごいってことになるだろう。見た目にもわかりやすいし、いかにも「霊的」である。
 しかしこれまで述べてきたように、神は基本的に人間に任せているのであって、いちいち指図するのは例外的なことだ。いつまで経ってもいちいち指示を仰がねばならない方が問題がある。
 たとえば会社で後輩ができて、一か月間みっちり教え込んだのに半年たってもまだ基本的なことを尋ねてくるとしたら、その後輩は無能かやる気がないかのどちらかだ。会社に入ったら早いうちに仕事を覚えて自分でできるようになりたいと思うのが一般的だし、それは学校の部活でも受験勉強でも株取引でもスポーツジムでもゲームでも同じだ。自分で判断していろいろやれるようになるのが面白いのであって、いつまで経っても人に聞かねば何も進められないとしたら、一体なんでそれを続けてるんだって話にもなる。また自分で判断できるということは、それだけ成熟したということでもある。小難しい成長法則とか上昇志向とかの話ではなくて。

 そういう視点で見ると、上記の例だと明らかにAの方が成熟しており、Bの方が未成熟だ。Bの「霊的」アピールそのものも幼稚だし、細かく指示を仰がねばならないという点でも幼稚だ。だから本当にすごいのは「霊的」に見えるBではなく、聖書の言っていることをちゃんと理解したうえで自分の都合や状況を加味して判断できているAの方ではないだろうか。

 また、Bの言う「会社を休んでまで御心に従った」というのは、いかにも献身的な話に聞こえるかもしれない。けれど要は会社を突然休んだ訳で、会社関係の誰かに迷惑をかけているだろう事実を忘れてはならない。そこには「この世の仕事より神の仕事の方が優先される」みたいな考え方があるように思うけれど、すなわち小さい仕事なんかどうでも良くて、大きな目立つ仕事をしたいって話である。しかし小さなことに忠実でない人は大きなことにも忠実でないと聖書は言っていて、そういう人は大きい仕事を任されない。

 クリスチャンの意思決定プロセスにおいて、「主に今日○○と語られたから」というのは、たとえ相手が本物の神様であっても、「言われたからやる」というだけで全然自分で判断していない。それは意思決定とは言わない。クリスチャンは聖書に書かれていることを「どういう意味か」と考えて実践すると思うけれど、それと同じ話で、もし今目の前に神様がジャジャーンと現れて「○○せよ」とか言ったとしても、それがどういう意味かまず考えるはずだ。
 また聖書を見ると、悪霊は光の御使いに変装して現れるとも書いてあるから、神様らしき存在がジャジャーンと現れたとしてもそれだけで信じるのは頭が足りない。本当に神様かどうか、聖書に反したことを言っていないかどうか、ちゃんと吟味すべきだ。

 だからレーマ系クリスチャンが言うような「語られたからやるだけ」というのは、分析・検証・判断という意思決定プロセスを欠いている。それだけでも大きな間違いである。それに加えて「自分の願望」を「御心」というベールで覆い隠しているという罪悪がある。その両方が同時に存在するかどうかわからないけれど、いずれにせよ「御心」に関する勘違いか、捏造かのどちらかだ。

 べつにレーマを完全否定するつもりはないけれど、レーマという言葉を持ち出して上記のような勘違いや捏造を繰り返すクリスチャンが少なくないので、このシリーズを書いてみた。

2015年9月19日土曜日

「御心」に関する壮大な勘違い。あるいは捏造。その2

「御心」に関する壮大な勘違い。あるいは捏造。2回目。

1回目はこちらから

 レーマ系クリスチャンの主張はこんな感じ。
「その都度その都度の主の御心がある。クリスチャンはそれらを事細かくキャッチして実行しなければならない」
 それで新会堂設立とかイベント企画とか事業の立ち上げとか、大きくて華々しいことを教会全体として取り組む。またそういう大きなことでなくても、「今主が求めておられるから」ということで長時間賛美をしたり、長い長い祈りをしたりする。彼らにとってそういう全部は「御心」であり「主の導き」なのだ。
 けれどそれが本当だとしたら、いつも神からあれしろこれしろと命令されるだけだから、自分の判断など必要ない。するともっと細かいレベルの「導き」も必要になる。たとえばコンビニに水を買いに行くとして、冷蔵棚の前で「クリスタルカイザー」にすべきか「いろはす」にすべきか祈らなければならない。というかそれ以前に、コンビニはどこにすべきなのか、そもそも本当に水を買うべきなのか、その段階から悩まなければならない。

 だから「その都度その都度の御心をキャッチする」というのは根本的に無理がある。

 それでもレーマを主張する人たちは、たとえば「使徒の働き」なんかに出てくる「導き」をよく引用する。ペテロがカイザリヤのコルネリオの所に行くよう語られた箇所とか、 パウロたちがアジアで御言葉を語ることを聖霊によって禁じられた箇所とかだ。そういう箇所を広げて「ほら、主が事細かに導いておられる」と言う。
 けれど、たとえばパウロの長い宣教旅行の行程を考えれば、それは特定の期間あるいは特定の事象に限ってのことだ。全期間が「事細かな導き」によったのではない。彼らは基本的に自由なのであって、たとえばギリシャではコリントに先に行っても良かったしケンクレヤに先に行っても良かった。実際には行っていないけれどスパルタに行っても良かった。

 つまり、神はクリスチャンをロボットみたいに操作するのではない。

 旧約聖書のエデンの園の描写を見てもそれがわかる。神は園をアダムに「任せた」のであって、いつも一緒にいてあれしろこれしろと命じたのではない。むしろ自由を与えて、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言っている。またアダムとエバが善悪の知識の木から取って食べる時も、(それを知っていたはずだけれど)その場に神はいなかったし、止めることもなかった。

 だから善であれ悪であれ、人は神から自由を与えられている。

 という訳で、レーマ系の教会でよく語られる「今主が語っておられること」というのは、「今主がこう命じておられる」というのと同じだ。そしてそれはたとえばエデンの園で言えば「今日は東側をここからここまで耕しなさい」「明日はあの空地の草むしりをしなさい」みたいに命じることであって、全然「任せて」いない。であるならわざわざそこに人を置く必要はなくて、pepperみたいなロボットでも作って置いておけば良い。その方が効率的だ。いろいろ自由意思で考えたり休んだりする人間はかえって邪魔なはずだ。

 究極的な話をすると、神は人間を造った存在なので、人間にあれこれ命令できる。聖書にもそういう描写がある。けれどそれは常時ではない。神は人間に独立した自我を与え、自由に考えて判断することを願われた。それが神と人間との基本的な関係なのである。

 だから「今月はこれ」「今週はこれ」「今日はこれ」と常時事細かに「主からの導き(命令)」があると主張する教会は、そのへんの矛盾を解消することができない。 神が与えた自由意思を否定しているからだ。聖書を冠した教会でありながら、自ら聖書に反していると言ってもいい。

「主の御心(命令)」を主張する牧師の言い分は、かなりの割合(あるいは全部)で「自分の願望」が入っている。よく引き合いに出すけれど「新会堂設立」なんかはその良い例だ。その時期になるとソロモンの神殿建設の箇所ばかりが引用されるようになり、「主が今、神殿建設を願っておられる」とか真顔で言う。けれど蓋を開けてみれば、新会堂と同時に豪華な牧師館が建っていたり、広々とした牧師室が備えられていたりと、誰得だって話。
 他にも「神から送られたゲストを送迎するために良い車が必要だ」とか言い出して高級車を買ったり、「ハイクオリティなメッセージを作らなければならないから」とか言い出して20万円以上するiMacを買ったりする。それらは結局牧師の私物になるのだけれど、 パソコンなんてワープロとネットとメールにしか使わないんだから3万円のネットブックで十分だ。しかもパソコンの善し悪し一つで決まるメッセージってどうなのよって話。

 という訳でレーマ系の教会に行ったら(あるいはそこにいるなら)、牧師の言葉はこう解釈すべきだ。

牧師「今主が○○を願っておられる」

翻訳「実は○○したいんだよね」

 これで話がだいぶわかりやすくなる。

2015年9月18日金曜日

「御心」に関する壮大な勘違い。あるいは捏造。

「御心」について誤解しているクリスチャンがいる。
 いわゆる聖霊派で括られるクリスチャンたちだ。彼らは「(ある事象や事柄に対する)御心は一つしかない」と信じている。あるいはいくつかの選択肢(あるいは許容範囲)があるとしても、「やはり最善の御心は一つしかない」と信じている。

 わかりにくいので一つ例を挙げる。たとえば「今この教会に主が語っておられることは何か」という話で、そこの牧師が祈ったりなんだりした末、「今月は『伝道』を主が強く語っておられる」とか言う。するとその月は教会はとにかく「伝道」一色になって、暇さえあれば皆で伝道に出かけることになる。仮に前の月までバイブルスタディを定期的にやっていたとしても、「今月は伝道することを主が願っておられます。だから学びは後回しです」みたいなことになる(それでそのままバイブルスタディがいつまでたっても再開されなかったりする)。

 つまり彼らは「レーマ」、すなわち「今主が特別に語られていること」を殊更に特別視している。だからその時その時で主が語っておられること、願っておられることがいつも推移していて、クリスチャンはそれらをその都度その都度キャッチしていく必要がある、と信じている。あるいはそう教えられている。だから上記のように「御心は一つしかない」という発言になる。そしてそこには「今」という条件が付いている。
今主が願っておられるのは○○です
だから今は××は御心ではありません

 みたいな話。
 ちなみにさっきの例で言うと、いつかまた「主が聖書の学びを強く勧めています」とかいう話になって、バイブルスタディが始まるのである。

いつも御心に完全に従う」のが彼らにとって美徳(あるいは信仰)なのだろうけれど、傍から見ていると、今はこれ、次はそれ、その次はあれ、とコロコロと興味の対象を変えているだけだ。荒野でイスラエルを導いた「雲の柱、火の柱」を彼らは引用して「主が行けと言われれば行きます」みたいなことを自慢げに言うけれど、それが旧約聖書の話であることを忘れている。イスラエルの民はあの時、荒野をグルグル彷徨っていただけなのだ。新約時代である現代に同じように彷徨ってどうするのって話。

今の御心はこれ」という考え方は、必要な議論をストップさせるという点でも問題がある。たとえば教会の今後の方向性に関して「今の御心は○○です」という文脈で語られてしまうと、それ以降なんの話し合いもできなくなってしまう。それが唯一絶対の御心なら、他の可能性について考える必要がないからだ。

 結果、大半の信徒は思考停止状態になってしまう。「あの人が御心を取り次いでくれるから、それを聞いていればいい」みたいな考え方になってしまって、自分で考えるのをやめてしまう。あるいは考えても無駄だと思ってしまう。
 それはそれで楽なやり方である。けれど先日書いたように、「それは本当に御心なのか」という検証が完全に抜け落ちている。脳ミソを捨てて牧師に盲従することになる。そして何より、神様が尊重している人間の自由意思・判断を自ら放棄することになる。

 「レーマ」的思考の背景にあるのは、「神様がいつも命令を出して、自分たちはそれを実行するだけ」という雇用関係とか主従関係とかいうものだ。
 しかし実際には、聖書的価値基準の範囲内で私たちが自由に考え、自由に判断し、自由に行動することを神様は願っているはずだ。そうでないと大変なことになる。いつも事細かに「主の御心」を仰がねばならないとしたら、今日は朝何時何分に起きて、洗顔に何分、トイレに何分と時間を割り振られ、朝食は準備しておいたけどいきなり断食することになったりして、出勤までにこれの為に何分祈り、何分賛美し、誰某にこれこれのメールを送り、みたいなことを「祈って」「導かれ」なければならない。とてもまともな日常生活なんて送れない。
 でも「レーマ」を言う人たちの主張の本質は、そういうことなのだ。「事細かに御心を求める」というその「事細かさ」の基準を、どこの誰も提示していない。あるいは皆それぞれ違うことを言う。でも「事細かさ」を突き詰めていくなら、上記のようなガンジガラメの生活になるはずだ。そうでないとおかしい。

 しかし結局のところ、その「事細かさ」の基準を自分たちで決めてしまっている。彼らは好きな時間に起きて好きなことをするし、「御心手帳」みたいなものに従って毎日分刻みの生活をしている訳ではない。彼らが従うのは自分たちにとって都合のいい「御心」だけだ。すなわち「新会堂を建てるよう今主が語っています。だから今日、私たちは献金しなければなりません」みたいな話。

 だから「御心はいつも一つしかない」のではない。「信じたい御心が一つしかない」のだ。
 そういう理解をもって「レーマ」系牧師の話を聞くと、彼らの願望がよく見えてくる。という訳で今回はここまで。

2015年9月16日水曜日

カルト被害者を襲う第二の虐待

 いくら書いても同じようなことが起こるので、めげずにまた書いてみる。

 キリスト教プロテスタントと言っても教団・教派がイロイロあって、とても一括りにできない。私が実際に知っている範囲の話だけれど、ルーテル派なんかはすごくオーソドックスで、いわゆる一般の「教会」のイメージに近いものがあると思う。礼拝なんかも伝統的なスタイルだから安心して参加できる(ルーテルが全部そうかどうかは知らない)。

 そうかと思うとペンテコステ派なんかはエレキギターやドラムなんかがギンギンドカドカ鳴り響いていて、ちょっと異世界である。都心の方の大きな教会なんか、もはやライブハウスと区別できなくて、ほんと教会ですかって感じだ(べつにそれが悪いとは言わない)。
 礼拝も誰もが参加できる形ではない。初めてキリスト教に触れる人がこういう教会に最初に行ってしまうと、ちょっと衝撃が強すぎるかもしれない。いきなり見知らぬ人たちとハグさせられたり、ノリノリで踊れないと肩身の狭い思いをしたり、そうかと思うと「あなたを愛します」の連呼を受けたり、見知らぬ人たちに囲まれて全力で祈られたりと、まあ大変なことになる可能性が高いからだ。

 という風に教会と言ってもイロイロな世界がある訳で、信仰歴の長いクリスチャンであっても「私の知らない教会世界」みたいなものはきっとある。特に一つの教会しか知らない人にとって、そのギャップは決して小さくないだろう。

 その中でも特に別世界なのがカルト化教会とか、カルト化しかかった教会とかだと思う。そこではここでいつも書いているような「信仰的虐待」の数々が毎日繰り広げられていて、信徒らは拷問に近い教会生活をハレルヤとか言いながら過ごしている。それがただの虐待だと気づいていないから。

 でもカルト化教会の怖いところはそこだけではない。「外から見るとわからない」という恐ろしさがある。牧師は外部の人間にはまともなことを言うし、気配りとは配慮を見せる。だからすごく良い人に見える。そこの信徒らも、実はすごく大変な目に遭っているのに、全部「信仰の訓練」と思わせられているから、みな外部の人には笑顔を見せる。そして神様って素晴らしい、信仰生活ってエキサイティング、試練も大きいけど全部ハレルヤ、みたいな感じでハッピーなクリスチャンを演じる(本人たちは演じているなんて思ってない)。

 でも彼らの受けている虐待は、たぶん平和な教会の平和なクリスチャンの人たちの想像を絶している。お金がなくても献金し、奉仕のために家に帰れず、ヘマをすれば怒鳴られ殴られ、でもそんな全部を「訓練」と信じて疑わない。

 そういう彼らが真実に気づくことで、被害の実態が明るみに出る。被害の程度はイロイロだけど、中には事件性の高いものもある。また事件とまで言えなくても本人の受けたダメージが大きくて、専門的な治療が必要になる場合もある。
 いずれにせよ「カルト被害者」の受けた被害は特殊で、ちょっと言葉に現せない部分があると思う。少なくともそれは「ちょっと教会で嫌な思いをした」とか「クリスチャンどうしだけど喧嘩しちゃった」みたいな話とは次元が違う。被害は周囲が思う以上に深刻で、専門的な援助を必要としている。

 そういう被害者に向かって能天気に「神様を信じましょ」とか「あなたはそれでも神様に愛されています」とか言う人がいて、正直言って萎える。

 そういう人たちは「カルト被害」についてちょっとでも勉強するべきで、ある程度理解するまで、発言すべきでないと思う。でないと単なる無礼者になってしまう。なんでも「神様」を持ち出せば解決できるように思っているみたいだけれど、被害者は根本的に神様を信じられなくなっているケースが多いのであって、まったく効果がない。むしろその能天気さが「対岸の火事」を眺めているように見えて、不愉快でさえある。

 神様は確かに全知全能だし、その気になれば何でもできる訳で、カルト被害者の傷だって一瞬で治すことができるんだと思う。でもそういう話は聞いたことがないし、現に私のまわりでそういう体験をした人はいないし、私自身もない。それに話を単純化すればわかるはずだけれど、たとえば車に轢かれて虫の息になっている人が目の前にいたらどうするだろうか。「大変でしたね。でも神様はあなたを愛していますよ」と優しく言えばその人は救われるだろうか。その人を本当に救いたかったら、今すぐ救急車を呼ぶべきではないだろうか。

 だから教会で酷い目に遭った人に向かって「神様はあなたを愛しています」とか「祈れば大丈夫です」とか「一緒に神様見上げましょ」とか言うのは、言うなればセカンド・レイプであって、さらに傷口を広げることにしかならない。ここで「そんな不信仰なことを」とか思う人は、雲の上の理想の世界の住人であって、この世界の住人ではない。だから人の痛みがわからないんだし、平気で人を傷つけるのだ。

 と、いうようなことは今までも何度か書いてきたけど、未だそういうことを言ってくる人がいるのでまた書いてみた。少しでもわかっていただければと願いつつ。

2015年9月15日火曜日

「目覚めよ!」という寝言について・その3

「目覚めよ!」という寝言について。3回目。

「目覚めよ!」で語られる「主の御心」が教会内で信じられてしまう事情について前回書いた。すなわち語る能力があり、カリスマ的であり、人々の支持される人物が「霊的っぽいこと」を言うとそれが通ってしまうし、神からの特別な「啓示」とか思われてしまう。するとそれが本当に「御心」かどうかという検証が一切なされぬまま、教会全体がそれに従っていくことになる。でもそれってよくよく考えてみると、霊的とか信仰的とかいう話でなく、目に見えてわかりやすい「能力」の話でしかない。
 ということ。

 今回はそれが簡単に信じられてしまうプロセスについて、もう少し掘り下げてみたい。

 教会で影響力のある人が、何かの発言をする。たとえば「今、新会堂を建てることが主の御心です」とか。
 そのときちょうど信徒数が増えていて、会堂が少し手狭になっているとする。すると新会堂というアイディアは文脈的にわかりやすく、いかにも「御心」って感じがする。それに教会が発展することや成長することは悪いことでなく、むしろ信仰的で良いことのように思える。だから「新会堂を建てる」というアイディアに反対すること(あるいは意見すること)は、信仰的でないように思えるし、「御心」に反しているように思える。それになにより、その発言者が「これは御心だ」と言っていることに反対することは、「それは御心ではない」と言うのに等しい。「じゃあ何が御心なんだ」とか逆に聞かれても答えられない訳で、「和」を重んじる日本人にはこれはなかなか至難の業なのである。

 そしてそこには、「今は今の主の御心がある」という「レーマ」的な考え方がある。
 昨日主は○○を願っておられて、今日は××を願っておられる、みたいなその都度の「御心」を敏感にキャッチして実行するのがより「霊的な」クリスチャンだ、というような考え方だ。
 この場合、聖書に書かれていることがベーシックな「御心」であるのに対して、今日を生きるクリスチャンは「その上の御心」を求めなければならない訳で、これは下手すると「聖書への付けたし」みたいな行為にもなっていく。たとえば「霊の戦い」なんか、神に代わってクリスチャンが悪霊と戦わなければならないって話で、しかもその戦い方が叱りつけるとか怒鳴り散らすとか油を撒くとか、もはや聖書から脱線しているとしか思えない。

 話を戻す。「今の御心はこれだ」という主張に対して、反対するのは大変なことだ。それは第一に、影響力ある人物に反対することで教会内で立場を悪くすることを覚悟しなければならないから。そして第二に、「御心っぽいこと」に反対することで不信仰と思われてもそれに甘んじなければならないから。第三に、「和」を重んじる日本人にとってそれを乱すのは良くないことだから。

 という訳で、その人物の発言が「御心」だと認定される。この例で言えば、その教会はこれから新会堂設立に向けて動き出すことになる。 それはそれでまあ問題ないかもしれない。けれど問題はここからで、同じようなことがこれから続いていく。一度「御心」を主張して認められた人間は、その後も「御心」を主張して、認められ続けていく。

 すると、初めは「新会堂設立」とか「災害ボランティア」とか御心っぽいことを言っていたのが、そのうち「これこれの企業をする」とか「芸能界に進出する」とかちょっと「?」なことを言い出す。けれどその人は既に「御心を言う人」と認められているから、どんな突飛な内容でも「それが御心なんだ」と受け入れられてしまう。

 で、気付くと教会はとんでもないことになっている。けれどすべて後の祭り。

 根本的に何が問題かと言うと、「御心はいつも一つしかない」という誤解があることだ。
 たとえば「新会堂設立」一つとっても、神が「絶対に何月何日までに新会堂を建てなければダメだ、できなければ罰する」みたいに思っているはずがない。むしろ建てても建てなくてもどちらでもいいと思っているはずだ。会堂が手狭なら、礼拝回数を増やすとか近隣の施設を借りるとかすればいいんだし、必ずしも会堂を新しくする必要なんてない。ましてそれが義務であるはずがない。なのにそれを義務みたいにするから、本来自由であるはずの献金さえ義務になってしまう。そしてそこには、「新会堂を建てることだけが御心だ」という一方通行の決めつけがある。
 影響力のある1人の人間だけが「御心を知っている」なんてことはなく、そこには議論とか話し合いとかがあるのが本来の教会だと私は思う。教会の意志は教会全体が決めるべきで、1人が決めるのではない。1人で決めるのはたとえばモーセの時代への逆行であり、新約聖書的ではない。ああでもないこうでもないと平等な立場で話し合って方向性を決めるのが教会の自由意思であって、本来神様が願っていることなんだと私は思う。

 だから「目覚めよ!」とか言って1人の人が教会全体を動かそうとするのは、新約時代の聖書観に反している。「目覚めよ!」と言う人はどれだけ信仰歴が長くて立派に見えても、根本的に聖書を知らない訳で、尊敬に値しない。だから表題にある通り、それは「寝言」なのであって、お前の方こそ目を覚ませよって話。

 その台詞に心当たりのある方はよくよく考えてほしいと思う。

2015年9月14日月曜日

「目覚めよ!」という寝言について・その2

 他人に「目覚めよ!」とか言う寝言について。2回目。

「今、主が○○と語られている。それに気づかないあなたがたは目覚める必要がある」という論法で「目覚めよ!」と語られる時、その○○の正誤を判別できないことが多い。基本的に曖昧な、抽象的な内容だからだ。たとえば「日本は新しい季節を迎えている」とか言われても、それで何をどうするのか、何が起こるのか、一つもわからない。だから正しいとも間違っているとも言えない。
 でも日本中のそういう人たちの(教会内での)主張を総合してみると、Aは○○と言っていて、でもBは××と言っていて、あっちではCが△△と言っている、みたいな感じで、結果として相互矛盾していることに気付く。それで彼らの誤りや嘘や思い込みを判別することができる。
 と、いうのが前回の話。

 今回は、ではなぜそれらが教会内で信じられてしまうのか、という話。

 前回も少し触れたけれど、教会内で「目覚めよ!」と主張するのは、影響力と発言力のある少数の人たちだ。霊的なことであろうとなかろうと、彼らが何か言うと、基本的に何でも通る。

 よく初めて参加する研修会か何かで、初対面どうしが何人か集まるとき、一番最初に発言する人とか、なんとなくその場を仕切っている人とかいるけれど、そういうタイプが多い。ほとんど生まれながらに、あるいは自然に、集団を引っ張るようにできている人たちだ。
 そしてそれ自体は悪いことでもなんでもない。

 ただ教会という特殊な環境だと、それが大いに問題になることがある。
 一般的に、クリスチャンと言えば「優しい」とか「寛容」とかいうイメージがあるかもしれない。最近はそういう「やわい」イメージをぶち壊すのが(一部で)流行っているようだけれど、基本的にクリスチャンってやっぱり優しいんだと思う。私の周囲を見回してみてもそうだ。厳密なことを言えばその腹の中はわからないけれど、みんな基本的に優しく親切で、人をよく気遣う。

 だからそういう人たちの中で、少し尖った人が「今主がこう語られている」とか強く言うと、「ああそうなんですね」とか「確かにそういう感じがします」とかいう反応が返ってくる。つまり「受け入れられる」わけだ。

 たとえば(あくまで例としてだけど)、日曜の礼拝後に何をしようか、という議題が教会で話し合われる。多くの人は「ゆっくり食事と交わりの時間にしましょう」とか言うかもしれない。「なにかレクリエーションでも」という声もあるかもしれない。でもそんな中、「伝道に行くべきです。私たちの受けた恵みを人々に分かち合うことこそ主の御心です」とか言う人がいると、なかなか反論できない。一応正論だからだ。(ちなみにこの例、日曜に何度も礼拝する教会には当てはまらないのであしからず。)

 とにかくそういうような話が何度か続くと、教会内で「いつも主に語られる人」と、「いつも何も語られない人たち」という構図ができていく。あるいは「霊的なことを言う人」と「そうでない人たち」と表現してもいい。とにかくある特定の人がいつも主に語られて、そうでない人たちは何も語られず、語られる(という)人の話を一方的に聞くことになる。すると教会全体が、特定の人たちの「語られた」ことに従って動くことになる。

 それが本当に主から語られたことなのか、という検証は一切なされない。そこが一番の問題なのだけれど、一番触れられない部分でもある。

 そういう構図が教会の文化になると、どんなことが起こるか。
 たぶん、「何も語られない人たち」の中に、「語られる人になりたい」という願望が生まれる。人は基本的に支配されるより支配する方が好きだからだ。そこには「信仰のレベルアップがしたい」みたいな認識もあるだろう。それで頑張って祈って、賛美して、聖書を読んで、なんとなく「語られた」気になって、「今主がこう言われる」みたいなことを言い出す。それが会衆に受け入れられれば、おめでとう、「語られる人」に昇格である(頑張って認められようって発想が単なる律法主義なんだけど)。

 よく考えると、そこには
「霊的に見えるかどうか」
「それらしく語れるかどうか」
「魅力があるかどうか」
「牧師に気に入られているかどうか」
 みたいな基準があって、そういうのを全部クリアしないと「語られる人」とは認められない。案外厳しい(?)世界である。

 とにかくそういう過程を経て、教会内で「目覚めよ!」と指摘する特定の人と、指摘されるその他大勢に別れていく。
 つまり、一般社会となんら変わらない。目に見える能力がある人にとって有利な世界。
 あれ、教会ってそういうところだっけ? 違うはずなんですけどね。

2015年9月9日水曜日

「目覚めよ!」という寝言について

 したり顔で「目覚めよ!」と仰る人がいる。
 たいてい信仰歴(だけ)は長い。ある程度(教会内で)発言力があり、注目される存在である。だからだいたい偉そうに会衆を指差して、「目覚めなさい!」とか「いつまで眠っているのですか?」とか叫ぶ。言われた方はへへーッって感じになる。それだけ見ると、なんかすごく「霊的」で、先見の明があって、指導力がありそうな人である。

 そういう人たちがある程度能力的に高いのは否定しない。たとえば影響力のある話し方ができるとか、カリスマ的な魅力があるとか、特殊な技能があって皆に必要とされるとか、そういう何か秀でたものを彼らは持っている。だからこそ(教会内で)発言力を持つに至っているのだ。

 けれど冷静に考えると、それらの能力はべつに「霊的」とは関係ない。信仰とも聖書とも関係ない。たとえば一般に成功している経営者らはカリスマ的だったりするけれど、彼らが「霊的」だと言われることはない。むしろその対極にある存在であろう。

 だから教会内で発言力があるから、影響力があるから、イコール「霊的に特別な存在」とはならない。彼ら自身が上記のように「目覚めよ!」と言うから「霊的」な感じがするかもしれないけれど、それはあくまで、彼ら自身がそう言っているに過ぎない。

 では彼らは間違っているのか? と聞かれると、その発言だけを見て間違っていると証明することは難しい。
 たとえば「今日本は目覚めなければならない時期に来ている」とか誰かが言ったとする。そこで「目覚めなきゃ」と思うのは短絡的すぎで、ちゃんとその内容を考えなければならない。すると、それ自体がとても抽象的で曖昧で、具体的に何に対して目覚めなければならないのか、どうしたら目覚められるのか、あるいは本当にそれは正しいのか、といった点で何一つ明確でないことに気づく。けれど曖昧すぎて、間違っていると言うこともできない。
 もちろん間違っていると証明できないと同時に、正しいと証明することもできない。結局のところ曖昧すぎて何とも言えないのである。

 しかしそういう彼らが束になると、その間違いが明らかになる。

 だいたい人に「目覚めよ!」とか言う人は、1つの教会に少数しかいない。教会中で大勢が「目覚めよ」とか言い出したら(それはそれで面白そうだけれど)混乱するだけだし、そこまで自信を持って言えて皆から支持される人も多くはないからだ。だから少数の、あるいは一人のしたり顔の人が「祈っている中で今主が求めておられることが語られた」とか言って、「だから皆の者、目覚めなさい!」みたいなスペクタクル映画なノリになるのである。
  言われた方は、「あーあの人が言うんだからそうなんだろう」みたいなノリで、「アーメン」することになる。すると1人の人が言い出した「主からの啓示」が、教会全体の啓示となる。そうなるともう止まらない。

 と、いうようなことが各教会内で起こっている。もちろん全ての教会でではない。たぶんごく一部の、聖霊派とかカリスマ派とかペンテコステ派とか呼ばれる教会内での話だ。

 それで、たとえば東京のA教会が「主からの啓示」ということでこんなことを言う。「日本は霊的に東西に分断されている。両者を和解させるのがこの教会の使命だ」
 同時に名古屋のB教会がこんなことを言う。「ここは日本のヘソにあたる教会だ。この教会から日本はリバイバルしていく」
 また同時に九州のC教会がこんなことを言う。「ここは日本宣教が始まった歴史ある御心の地だ。日本はここから祝福されていく」

 で、各教会内では「霊的な人が言うんだから」というだけの理由で、それぞれの主張が信じられている。そしてそれにしたがって教会が動いていく。けれどこうやって俯瞰してみると、それぞれの教会が「自分たちこそ中心だ」「自分たちこそ日本を救う」みたいなことを言っているのがわかる。けれどそれらが全部神様から本当に語られたことだとしたら、神様が嘘をついていることになる。なぜなら物事に中心は1つしかないはずで、沢山あったらそれは中心ではないからだ。また神様がそれぞれの教会に違ったことを教えていることになるからだ。

 わかりやすくするために、このケースを旧約聖書にあてはめてみて、たとえばイスラエルで最初の王が選ばれた時の話を見てみる。このとき、主からの啓示でサウルが最初の王に選ばれた。預言者サムエルがそう語られたからだ。
 けれどもしこの時、たとえば12部族にそれぞれ預言者みたいな人がいたとする。それでその12人の預言者がそれぞれの部族からそれぞれ違う人を立てて「この人こそ主から語られた王だ」とか言ったら、その中の間違いなく11人は嘘をついてることになる。真実を言っているのは1人だけか、あるいは全員が適当な嘘をついているか、どちらかしかない。

 だから日本の各教会内でまことしやかに信じられていることが本当に正しいかどうか、そういう視点で考えてみるべきだと思う。でも上記の通り、その「目覚めよ!」はほとんどが嘘なので、まともに聞くべきでない。あるいは嘘までいかなくても、その人個人の気持ちとか情熱とか、そういうものが多分に混ざっているのは知っておくべきだ。

 でもそういう理屈を考えるまでもなく、他人を偉そうに指差して上目線で「目覚めなさい」とか言っている時点で、その人にこそ目覚めなければならない部分があるのは間違いない。それがどういう部分かはあえて言わないけれど。

2015年9月5日土曜日

何をどう切るのかわからない「断ち切り」について

「断ち切りの祈り」というのがあって、いわゆる聖霊派クリスチャンに(だけ)好まれている。

 用例としては「イエスの御名によって○○を断ち切る」という表現が多い。この○○の部分に、断ち切りたいものの名前が入る。たとえば「悪霊の影響」とか、「家系の呪い」とか、「過去に犯した偶像崇拝の罪」とか、 「悪い人間関係」とか、「悪い生活習慣」とか、とにかく自分にとって都合の悪い事柄、切り捨ててしまいたい事柄を全て「断ち切る」のである。

 一つ事例を挙げると、 ある信徒の家族(未信者)がヘビースモーカーで、体調を崩して禁煙が必要になった。けれど長年の喫煙習慣を断つのは並大抵でなく、挫折の連続であった。見かねた信徒が教会に連れてきて、「喫煙習慣の断ち切り」を牧師に依頼した。牧師はその人のために神妙な顔で「断ち切る!」とか大声で祈って、カウンセリング的なことをちょっとして、その日はそれで終わった。
 その後も同じような祈り(?)が何度かあったけれど、効果はなかった。その人は(たぶん気を遣って)「でも吸う本数は減りました」とか言っていた。
  そんなある日、海外からゲストを招いて集会が開かれた。牧師は「このゲストに祈ってもらえば完全な断ち切りになるだろう」と言って、その人に出席させた。
 さて「招き」の時間になった。その人は促されて前に出た。BGMは「癒し」がテーマのワ―シップソング。照明が落とされて、スポットライトが講壇前を薄く照らす。いかにも神々しい、荘厳な、何かが起こりそうな雰囲気。背後の会衆は皆「異言モドキ」で祈っている。ゲストがゆっくり降りてきて、その人の頭に手を置いた。牧師から簡単に事情を聞いて、ゲストは激しく祈りだした。時折英語で力強く叫ぶ。皆「おーっ」となって、「異言モドキ」が激しくなる。それにつられてピアノの音も大きくなる。するとエレキギターが泣き出す。するとエレキベースがウォンウォン唸る。いつのまにか牧師も熱くなって、日本語で何やら叫んでいる(そんなことより通訳してやれよ)。
 その人(ヘビースモーカーの人)は凝り固まって立っている。何やらすごいことが起こっている、という感覚があったのだろう。足が小刻みに震えていた。

 たぶん何十分かそんな祈りが続いて、ようやく皆クールダウンしてきた。ゲストはその人を熱く抱擁している。牧師も優しい声になって通訳している。「主の御手の中で安心しなさい。そう、安心しなさい。そう・・・あなたはもう大丈夫です・・・」
 ついに感極まって泣き出すその人。うん、これで喫煙習慣は完全に断ち切られた、めでたしめでたし、良かったね、あ、ついでにハレルヤ、ってことで集会は終わった。

 その人は家族共々笑顔で帰っていった。さあ、これで禁煙は成功したし、クリスチャンになって教会に通うようになってくれるだろう・・・と皆が思ったに違いない。
 けれど何週たってもその人は教会に現れない。はじめに連れてきた信徒も言葉を濁している。いったいどうなったんだろう。後から聞いた話だけど、その人は結局禁煙できなくて、入院することになったという。
 なんだよ全然断ち切られてねーじゃん、って話。

 「断ち切り」の祈りはいわゆる「縁切り」みたいなもので、背後には「霊的なつながり」という考え方がある。神と霊的につながるのだから、悪魔とも霊的につながるし、いろいろな人間とも霊的につながるはずだ、だからそこから何か影響を受けているはずだ、という考え方。そこから派生して、「家系の呪い」とか「地域の縛り」とかが出てくる。

 けれど「断ち切り」全般に言えるのは、「気のせい」とか「思い込み」とか「自己満足」とかの域を出ない、ということ。
「縁を切って心がスッキリした」みたいな心理学的効果なら期待できるだろうけれど、それ以上ではない。

 現に上記は喫煙習慣の「断ち切り」に見事に失敗している訳で、全知全能の神の名によって宣言した割に効果がなさすぎる。これでは神が無能だということになってしまう。
「いや、それは彼(ヘビースモーカーの彼)に罪があったからだ。だからうまくいかなかったのだ」みたいな反論があるかもしれない。
 でも「断ち切り」って、そもそも何かに霊的につながって悪影響を受けている人の為の祈りですよね? つまり罪がある人の為の祈りですよね? なのに罪があるからうまくいかないって、どういうことですか?
 っていう話。

 あるいは私があえて失敗例を挙げたんだと思われるかもしれない。けれど正直な話、私は失敗談しか知らない。あとは明確な成功・失敗が判定できない例ばかりだ。たとえば神社仏閣で悪霊を断ち切ったとか、ある人の過去の偶像崇拝を断ち切って霊を解放したとか、どこをどう見ればその効果測定ができるのか、さっぱりわからない。

 それに聖書のどこにもそんなこと書いてない訳で、あやしい聖書理解の延長でしかない。
 と、いろいろ書き連ねたけれど、「断ち切り」の祈りにハマっている人がいたらよくよく考えてもらいたい。
 けれど最近では「ソウルタイカット」とかいう新種の「断ち切り」も登場していて、うーん、ほんとにキリがない。

2015年9月3日木曜日

今年もきました、9月が危ない説

 こんどの9月13日が危ない! とかまた言っている人がいるのでちょっと書いてみる。

 その人いわく、時代の激動期特徴は3つで、

①戦争
②災害
③金融危機

とのこと。
 でもこれって聖書の真理とかじゃなくて、当然の現象である。戦争が起これば金融危機も起こるし、逆に金融危機が戦争の発端となることもある(第二次世界大戦とか)。それに大規模な災害が起これば株価が下がるから、金融危機にだってなり得る。どれも繋がっている。
また時代の激動期だからそれらが自動的に重なって起こるのでもない。むしろ順番が逆で、それらが起こったから、後の時代の人が「ああ時代の激動期だったね」とか言うのだ。

 それは難解な真理でないし、聖書知識がなくても簡単にわかる。クリスチャンでなくてもわかるし、一部の変人が言う「霊の目が開かれていない」状態でもわかる。
 だからそういうのをドヤ顔で書く時点でどうなのって話。

 くわえて上記の人が言うのは、7年毎に大規模な金融危機が起こっている、とのこと。
  その人が書いたメール文章を入手したので、以下にその根拠となる部分だけ掲載してみる。

●7年の節  出来事        ユダヤ歴の大晦日
 1987年9月 ブラックマンデー     9月23日
 1994年9月 メキシコ通貨危機    9月5日
 2001年9月 911による株価暴落   9月17日
 2008年9月 リーマンショック     9月29日
 2015年9月 金融危機再燃?    9月13日


 以上。
 ほら、だから言った通りでしょ? ってドヤ顔な言いっぷり。
 でも調べれば5分でわかるんだけど、ブラックマンデーは10月19日の出来事で、メキシコ通貨危機は11月以降の出来事だから、どちらも9月ではない。9月と書くのは明らかに間違っている。

 それに金融危機を取り上げるなら、最近ならギリシャの件を取り上げるべきだし、規模で言えば1920年代の世界恐慌も外してはいけない。日本だって2度に渡る石油危機を経験している。他にも調べれば少なからず出てくるだろう。

 そういうことを書かないのは、彼らが主張する「7年毎」に反するからに他ならない。自分たちにとって都合のいい事象だけを取り上げて、都合のいいストーリーを作り、さも重要な秘密であるかのように言う。けれどそれは恐怖の捏造であって、もはや詐欺に近い。

 他にも星の運行がどうとか、ユダヤの祭の時期との絡みがどうとか、それらしいことを言っている。けれどそれって昨年も言っていたし、別団体は2011年9月にも似たようなことを言っていた。どんだけ頻繁に星の運行が危険になるんだよって話じゃないだろうか。それに祭のたびに世界のどこかに危機が訪れるとしたら、ユダヤ民族もその文化風習も、世界の祝福でなく最凶最悪の呪いになってしまう。「ダビデの幕屋」を信奉する彼らとしては、それでは都合が悪いだろう。

 という訳で、危ないのは9月13日でなく彼らの頭なのだと私は思う。で、13日を過ぎても何も起こらない場合、彼らはまた都合のいい言い訳をすると思うから、どんな言い訳をするかここで先取りしておこうと思う。

■9月13日に何も起こらなかった時、彼らが使いそうな言い訳

・霊の次元ではすごいことが起こった。これは「霊的に覚醒した人」でなければわからない。
・主の憐れみによって危機は回避された。ハレルヤ!
・主の御心は高く、私たち人間にはわかりません。だからどうして何も起こらなかったのか、所詮私たちにはわかりません。
・この件に関しては、沈黙を守るよう聖霊様から言われています。
・(その日にどこかで起きた事件事故をさして)ほら、これがそれです!

 この中のどれかが採用されたら笑ってあげて下さい。

2015年9月2日水曜日

クリスチャンと「許し」・その2

 クリスチャンと「許し」についてのアレコレ。2回目。

 前回のポイント。
「許し」は本来良いものだけど、(ひどい目に遭っても)許さなければダメだ、許さないと祝福されない、みたいな強制になると一転して凶器になる。許すべきだとしても時間のかかることは沢山あるし、感情的に到底困難なケースも沢山ある。そういう事実を無視して「許しなさい」を振り回すのは、信仰ではない。

 今回は「許しによる自己保身」とでも言うべき事態について書きたい。

 さっそく事例だけれど、ある牧師が軽くない罪を犯した。初めは否認していたけれど、決定的な証拠を提示されたら態度を一変、罪を認めて泣き崩れた。そして何人かの事情を知る人間に(だけ)謝罪した。
 その牧師の性格からして、たぶん証拠がなかったら認めなかったと思う。何とか言い逃れようとしただろう。だから証拠を見せられてからの「謝罪」→「泣き」は演技っぽい。

 牧師の謝罪にもそれは表れていた。「被害者を守るためにこの件は公にすべきでない」などと言って情報が漏れないようにして、一番知らせるべき人たちには何も知らせなかった。だからその人たち(一番の被害者である)には謝罪もしなかった。謝ったのは事情を知るごくわずかな、それも直接的には関係ない人たちにだけだった。

 けれどそういう牧師の悪あがきも虚しく、結果的にこの件は公になった。すると牧師は姿を消して、以降、何の謝罪も補償もないままになっている。今に至るまで。

 たぶんこの件に興味のある人もいると思うけれど、本記事の趣旨から外れるので、ここでは書かない(もし興味があったら非公開と書いてコメント下さい)。
 それより重要なのは、その後の牧師の言いっぷりである。
オレは悔い改めたのに、教会のやつらが許さない。クリスチャンなら許さなければならないのに許さないあいつらは悪魔だ
 複数の信頼できる関係者から、上記のような発言をしたと確認している。私自身その牧師をよく知っているけれど、すごく頷ける。自分を正当化するためなら何とでも言うだろう。

  肝心なことなのでもう一度書いておくけれど、その牧師が謝罪したのは罪の発見者(直接的には関係ない人たち)に対してであって、直接的な被害者たちに対してではない。

 この状況をわかりやすくするために例を出すとこうなる。ある小学生Aが同級生Bを殴って、Bの新しいノートを破って捨てた。あとから教師に呼び出されて叱られたので、教師には謝った。あとからちゃんとBにも謝ってノートを弁償するよう言われたけれど、Aは1つも実行しなかった。
 後日、それを知った教師がまたAを呼び出して叱ったけれど、Aいわく、「もう謝ったじゃん。許さないそっちが悪いんじゃん

  その対応じゃダメだってことはたぶん小学生でもわかるけれど、その牧師には通じないようである。何を悔い改めたのか全然わからない。そもそも関係者らには何の謝罪も補償もしていないのだから、「悔い改めの実」など少しも結んでいない。それで「悔い改めたのに・・・」などと言うことはできない。誰にでもわかることだろう。

  けれど現実とは怖いもので、そういう内部事情を知らない第三者がこの話を牧師本人から聞くと、全然違う印象を持ってしまう。すなわち次のような感じ。

「牧師は罪を犯してしまったけれど、ちゃんと悔い改めた(と本人が言っているからそうなんだろう)」

「なのに教会側が頑なに牧師を糾弾し続けている(と本人が言っているからそうなんだろう)」

「牧師はなんとか話し合おうとしたけれど、教会側が取り合ってくれない(と本人が・・・以下同文)」

「この牧師先生、教会に裏切られてかわいそう」

 という訳でなんと被害者が加害者になってしまう。そして加害者があわれな被害者になってしまう。真の被害者にとって散々な状況である。こんなことあってはならないけれど、現にある。ここでこそ「主の憐みを・・・」と祈るべきだろう。

  という訳で「許し」をうまい具合に使うと、自己保身の道具になるので注意を要する。って話。