2015年9月18日金曜日

「御心」に関する壮大な勘違い。あるいは捏造。

「御心」について誤解しているクリスチャンがいる。
 いわゆる聖霊派で括られるクリスチャンたちだ。彼らは「(ある事象や事柄に対する)御心は一つしかない」と信じている。あるいはいくつかの選択肢(あるいは許容範囲)があるとしても、「やはり最善の御心は一つしかない」と信じている。

 わかりにくいので一つ例を挙げる。たとえば「今この教会に主が語っておられることは何か」という話で、そこの牧師が祈ったりなんだりした末、「今月は『伝道』を主が強く語っておられる」とか言う。するとその月は教会はとにかく「伝道」一色になって、暇さえあれば皆で伝道に出かけることになる。仮に前の月までバイブルスタディを定期的にやっていたとしても、「今月は伝道することを主が願っておられます。だから学びは後回しです」みたいなことになる(それでそのままバイブルスタディがいつまでたっても再開されなかったりする)。

 つまり彼らは「レーマ」、すなわち「今主が特別に語られていること」を殊更に特別視している。だからその時その時で主が語っておられること、願っておられることがいつも推移していて、クリスチャンはそれらをその都度その都度キャッチしていく必要がある、と信じている。あるいはそう教えられている。だから上記のように「御心は一つしかない」という発言になる。そしてそこには「今」という条件が付いている。
今主が願っておられるのは○○です
だから今は××は御心ではありません

 みたいな話。
 ちなみにさっきの例で言うと、いつかまた「主が聖書の学びを強く勧めています」とかいう話になって、バイブルスタディが始まるのである。

いつも御心に完全に従う」のが彼らにとって美徳(あるいは信仰)なのだろうけれど、傍から見ていると、今はこれ、次はそれ、その次はあれ、とコロコロと興味の対象を変えているだけだ。荒野でイスラエルを導いた「雲の柱、火の柱」を彼らは引用して「主が行けと言われれば行きます」みたいなことを自慢げに言うけれど、それが旧約聖書の話であることを忘れている。イスラエルの民はあの時、荒野をグルグル彷徨っていただけなのだ。新約時代である現代に同じように彷徨ってどうするのって話。

今の御心はこれ」という考え方は、必要な議論をストップさせるという点でも問題がある。たとえば教会の今後の方向性に関して「今の御心は○○です」という文脈で語られてしまうと、それ以降なんの話し合いもできなくなってしまう。それが唯一絶対の御心なら、他の可能性について考える必要がないからだ。

 結果、大半の信徒は思考停止状態になってしまう。「あの人が御心を取り次いでくれるから、それを聞いていればいい」みたいな考え方になってしまって、自分で考えるのをやめてしまう。あるいは考えても無駄だと思ってしまう。
 それはそれで楽なやり方である。けれど先日書いたように、「それは本当に御心なのか」という検証が完全に抜け落ちている。脳ミソを捨てて牧師に盲従することになる。そして何より、神様が尊重している人間の自由意思・判断を自ら放棄することになる。

 「レーマ」的思考の背景にあるのは、「神様がいつも命令を出して、自分たちはそれを実行するだけ」という雇用関係とか主従関係とかいうものだ。
 しかし実際には、聖書的価値基準の範囲内で私たちが自由に考え、自由に判断し、自由に行動することを神様は願っているはずだ。そうでないと大変なことになる。いつも事細かに「主の御心」を仰がねばならないとしたら、今日は朝何時何分に起きて、洗顔に何分、トイレに何分と時間を割り振られ、朝食は準備しておいたけどいきなり断食することになったりして、出勤までにこれの為に何分祈り、何分賛美し、誰某にこれこれのメールを送り、みたいなことを「祈って」「導かれ」なければならない。とてもまともな日常生活なんて送れない。
 でも「レーマ」を言う人たちの主張の本質は、そういうことなのだ。「事細かに御心を求める」というその「事細かさ」の基準を、どこの誰も提示していない。あるいは皆それぞれ違うことを言う。でも「事細かさ」を突き詰めていくなら、上記のようなガンジガラメの生活になるはずだ。そうでないとおかしい。

 しかし結局のところ、その「事細かさ」の基準を自分たちで決めてしまっている。彼らは好きな時間に起きて好きなことをするし、「御心手帳」みたいなものに従って毎日分刻みの生活をしている訳ではない。彼らが従うのは自分たちにとって都合のいい「御心」だけだ。すなわち「新会堂を建てるよう今主が語っています。だから今日、私たちは献金しなければなりません」みたいな話。

 だから「御心はいつも一つしかない」のではない。「信じたい御心が一つしかない」のだ。
 そういう理解をもって「レーマ」系牧師の話を聞くと、彼らの願望がよく見えてくる。という訳で今回はここまで。

2 件のコメント:

  1. 「御心は一つしかない」
    呉善花さんが「韓国では正しいものは一つという考えが昔からあって・・・」とどこかで発言していたような記憶があります。

    日本の新興宗教系プロテスタントは、韓国の新興宗教系プロテスタントと提携していることが多いせいか、ものの考え方が「韓流」になってしまうことがあります。
    周知のように韓国は、拝み屋がキリスト教の仮面をかぶって教祖=生き神様になっただけですので、その人が電波を受信して妄言をはくと、それが「ご神託」になってしまいます。
    日本もこの影響を受けて、新興宗教系プロテスタントは教祖=生き神様となり、彼らが電波を受信して「ご神託が下ったぞよ~。○○をせよとの神の御声じゃあ!」「ははーっ」となっているのです。
    そのご神託の内容を見ると、「半年以内にこれだけの金額を集めよ」「信者にノルマを課してイベント動員は最低でも○人集めよ」・・・見事に教祖にとって都合の良いことばかりではありませんか!

    「人間は神から自由意思を与えられている」というのはキリスト教の基本なのですが、基本すらわかっていない人が聖職者になって好き勝手をやってしまう・・・こんな状況をどうにもできないのがプロテスタントの恐ろしさなのです。

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  2. そういう牧師に限って自称 「宮を建てる」とか言い出す。
    私からしたら そんなところ宮でも何でもない。彼ら(牧師)の言う おやしろを建てたいだけである。牧師の人生費やした証として形に残したいものがおやしろ になっただけだ。
    (勿論 そういう牧師限定だけど)

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