カルト被害者を襲う第二の虐待・その2

2015年9月26日土曜日

カルト問題

t f B! P L
 2年前に書いた記事に、最近続けてコメントをいただいた。その記事はこちら。

「日本のクリスチャンの若者がダメな理由」

 ちなみに最近のコメント内容は、記事の内容と全然関係ない。
 もう一つちなみに言っておくと、この記事は「キャッチ―な題名にしてみよう」と思って「~な理由」というタイトルにしたけれど、読んでいただければわかる通り、クリスチャンの若者を否定した内容ではない。ただ一部に残念なことになっている若者たちがいて(本当にいる)、でもそれは根本的には彼ら自身のせいでなく、そういう風に彼らを誘導した牧師たちのせいなのだ、という内容である。
 しかしどうも勘違いされているみたいで、「若者を否定して何様だ」的な意見をいただくことがある。私の文章力の問題なのか、読む人の読解力の問題なのか、そのへんはよくわからない。

 それはいいとして、この記事に最近いただいたコメントが、ちょっとした議論みたいになった。私はこの手の議論には基本的に口を出さないのだけれど、今回のは見ていてすごく残念である。カルト被害者に対する理解が全然ないのだな、と思わざるを得ないからだ。

 要は「カルト被害者に対してどんな言葉をかけるべきか」という話。つい最近もこのテーマで書いたばかりなので、私個人の考え方についてはこちらを参考にしていただければと思う。

「カルト被害者を襲う第二の虐待」

 要約。カルト被害者は単に信仰上の「躓き」を体験しただけでなく、いわゆる犯罪被害に遭ったのである。だから、「それでも神様があなたを愛しています」みたいな信仰的な「励まし」は、かえって傷口を引き裂くことになりかねない。問題を「信仰」だけに限定してしまっているからだ。しかし事実は「虐待に遭った」のであって、それはそれだけで専門的な援助を要する状態である。そういう状況を理解していないで声をかけることは、良かれと思って被害者をセカンド・レイプすることになる。

 たとえばいただいたコメントの中には、「短期的には慰めが必要だけれど、長期的には神様のもとに戻れるような援助をしなければ」みたいなのがある。つまり援助の最終ゴールを「信仰(教会)生活に戻れること」としている。
 しかしこの考え方は、基本コンセプトの時点で間違っていると私は考える。いきなり不信仰なことを言うようだけれど、問題は既に「信仰・不信仰」という次元から離れている。そもそもそのへんに誤解があるように私は実感している。

 わかりやすいように実例を出してみると、およそ30年ほど前、九州のある教会群で大規模なカルト被害があった。多くの若者が長期に渡って信仰的虐待を受け、傷つけられた。それでも彼らは「これが信仰だから」と耐え続けていた。しかしあるとき主任牧師の問題が発覚し、結果的に教会群は離散した。若者たちの多くは教会を離れた。それまで「信仰」と思ってきたいろいろなことの間違いに気づき、何が正しいことなのか、わからなくなってしまったからだ。

 当時まだ「教会のカルト化」という言葉はなく、彼ら自身もその周囲も、その問題をどうとらえるべきなのか、その本質が何なのか、よくわからなかった。あるいは痛みが大きすぎて、深く考えることができなかった。ただ聖書解釈の誤りや信仰生活の誤りがあったことは明確だったけれど。

  今は「ハラスメント」という言葉でその被害が認識されつつあると思うけれど、彼らが受けたのは主にスピリチュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、セクシャル・ハラスメントの類だ。くわえて日常的な暴力、超長時間労働、仕事の失敗に対する各種の「制裁」等があった。
 だから単なる「教会生活上のトラブル」「牧師と信徒のトラブル」などではない。それらは立派な犯罪であり、彼らは犯罪被害者なのである。

 しかしそういう被害の実情が明らかでなく、単に「信仰的に躓いた」と思われたことが、その被害を増すことになった。彼らは「教会に戻るべき」と周囲から言われ、中にはさほど問題なく戻れた者もいたようだけれど、多くの者はそうではなかった。もちろん専門的な援助などなかった。多くの者が葛藤し、教会に行っても拒絶反応からまともに礼拝できない自分を責め、でもどうすれば良いかわからなくて、途方に暮れた。しかし周囲の牧師やクリスチャンたちが言うのは同じようなことだった。「今は傷が深くて無理でしょうけれど、いずれそれも癒えますから、そのときは教会に戻るべきです」

 結果、30年以上経った今も傷が癒えず、途方に暮れたままの人たちが事実いる。あるいはそういうことを考えるのを止めて、途方に暮れてはいないかもしれない。けれどそれで彼らの心の中の問題が解決した訳ではない。その証拠に30年経っても教会に行けていない。

 彼らは周囲から言われるまでもなく、神様が正しい方だと信じている。自分を救ってくれると信じている。人は信用できなくても、神様だけは決して自分を裏切らないと信じている。言われるまでもないのだ。いつか教会に戻った方がいいとか、いつかまた信仰生活を送るべきだとか、教会だって完璧じゃないんだから完璧など求めるべきでないとか、そんなことは言われるまでもない。彼ら自身がよくわかっているからだ。

  問題は何かと言うと、彼らが「信仰」のことで虐待され、「礼拝」の場で虐待され、「聖書の言葉」で虐待され、「祈り」で虐待され、「奉仕」の場で虐待されたことだ。正しいと思っていた諸々のことで長期間苦しめられ、最後にそれらが間違いだったとわかったのである。

 そんな彼らが「また礼拝すれば癒されます」とか言われても、問題は「礼拝する・しない」でなく、「礼拝に行けない・できない」のである。そしてできない自分が不信仰と思われてしまうとか、助言してくれた人たちをガッカリさせてしまうとか、そういう理由で「頑張って礼拝する」と、ますます礼拝に対する嫌悪感が増し、自分自身をも責めることになる。悪循環である。全然癒されないし、ますます回復から離れてしまう。

 視点を変えて医療の現場の話をすると、乳児は薬を飲むのを嫌がる。苦いし、甘く味付けされていても違和感があるからだ。それでどうするかと言うと、間違ってもミルクに混ぜてはいけない。ミルクに薬を混ぜて飲ませると、1、2回は飲むけれど、次からミルク自体を嫌がるようなってしまう。すると自分にとって必要な、接種できる唯一の栄養源であるミルクを飲まなくなってしまう。つまり薬は必要なものだけれど、やり方次第で害悪にもなる。

 これと同じで、「礼拝」の場で長く苦しめられた人は、礼拝自体ができなくなってしまう。乳児じゃないから理性を働かせて無理やり礼拝することはできるだろうけれど、それが「心から」でないのは明らかだ。

 だから繰り返すけれど、カルト被害者は単に「信仰に躓いた」のでなく、「信仰を使った犯罪被害に遭った」のである。そんな彼らを回復させられるのは、少なくとも「信仰」ではない。

 いただいたコメントに、「ホームレスに配給所の場所を教えるべきか・教えないべきか」みたいなのがあって、「当然教えるべき」というのがその人の答えみたいだけれど、問題のとらえ方が間違っている。そんな問題だったら答えは簡単な訳で、誰も苦しまない。
 その変な例に付き合ってみると、「配給所で配られる食品に毒が入っていたらどうする」あるいは「もう食事なんていりません」というのがカルト被害者の心情だ。そもそも彼らは、配給所がどこにあるか知っている。知っていても「行けない・行きたくない」のが問題なのだ。

 カルト被害者を回復させるのは「信仰」ではない、と私は先に書いたけれど、それを見て「そんな不信仰な」と思う人がいるかもしれない。けれど何度も繰り返すけれど、信仰的虐待は犯罪であり、「信仰・不信仰」で語れる次元ではない。そういうことをちゃんと理解していただければ、もうちょっと違う言葉が出てくるだろうと思うけれど、それは私の期待しすぎだろうか。

QooQ