2015年9月15日火曜日

「目覚めよ!」という寝言について・その3

「目覚めよ!」という寝言について。3回目。

「目覚めよ!」で語られる「主の御心」が教会内で信じられてしまう事情について前回書いた。すなわち語る能力があり、カリスマ的であり、人々の支持される人物が「霊的っぽいこと」を言うとそれが通ってしまうし、神からの特別な「啓示」とか思われてしまう。するとそれが本当に「御心」かどうかという検証が一切なされぬまま、教会全体がそれに従っていくことになる。でもそれってよくよく考えてみると、霊的とか信仰的とかいう話でなく、目に見えてわかりやすい「能力」の話でしかない。
 ということ。

 今回はそれが簡単に信じられてしまうプロセスについて、もう少し掘り下げてみたい。

 教会で影響力のある人が、何かの発言をする。たとえば「今、新会堂を建てることが主の御心です」とか。
 そのときちょうど信徒数が増えていて、会堂が少し手狭になっているとする。すると新会堂というアイディアは文脈的にわかりやすく、いかにも「御心」って感じがする。それに教会が発展することや成長することは悪いことでなく、むしろ信仰的で良いことのように思える。だから「新会堂を建てる」というアイディアに反対すること(あるいは意見すること)は、信仰的でないように思えるし、「御心」に反しているように思える。それになにより、その発言者が「これは御心だ」と言っていることに反対することは、「それは御心ではない」と言うのに等しい。「じゃあ何が御心なんだ」とか逆に聞かれても答えられない訳で、「和」を重んじる日本人にはこれはなかなか至難の業なのである。

 そしてそこには、「今は今の主の御心がある」という「レーマ」的な考え方がある。
 昨日主は○○を願っておられて、今日は××を願っておられる、みたいなその都度の「御心」を敏感にキャッチして実行するのがより「霊的な」クリスチャンだ、というような考え方だ。
 この場合、聖書に書かれていることがベーシックな「御心」であるのに対して、今日を生きるクリスチャンは「その上の御心」を求めなければならない訳で、これは下手すると「聖書への付けたし」みたいな行為にもなっていく。たとえば「霊の戦い」なんか、神に代わってクリスチャンが悪霊と戦わなければならないって話で、しかもその戦い方が叱りつけるとか怒鳴り散らすとか油を撒くとか、もはや聖書から脱線しているとしか思えない。

 話を戻す。「今の御心はこれだ」という主張に対して、反対するのは大変なことだ。それは第一に、影響力ある人物に反対することで教会内で立場を悪くすることを覚悟しなければならないから。そして第二に、「御心っぽいこと」に反対することで不信仰と思われてもそれに甘んじなければならないから。第三に、「和」を重んじる日本人にとってそれを乱すのは良くないことだから。

 という訳で、その人物の発言が「御心」だと認定される。この例で言えば、その教会はこれから新会堂設立に向けて動き出すことになる。 それはそれでまあ問題ないかもしれない。けれど問題はここからで、同じようなことがこれから続いていく。一度「御心」を主張して認められた人間は、その後も「御心」を主張して、認められ続けていく。

 すると、初めは「新会堂設立」とか「災害ボランティア」とか御心っぽいことを言っていたのが、そのうち「これこれの企業をする」とか「芸能界に進出する」とかちょっと「?」なことを言い出す。けれどその人は既に「御心を言う人」と認められているから、どんな突飛な内容でも「それが御心なんだ」と受け入れられてしまう。

 で、気付くと教会はとんでもないことになっている。けれどすべて後の祭り。

 根本的に何が問題かと言うと、「御心はいつも一つしかない」という誤解があることだ。
 たとえば「新会堂設立」一つとっても、神が「絶対に何月何日までに新会堂を建てなければダメだ、できなければ罰する」みたいに思っているはずがない。むしろ建てても建てなくてもどちらでもいいと思っているはずだ。会堂が手狭なら、礼拝回数を増やすとか近隣の施設を借りるとかすればいいんだし、必ずしも会堂を新しくする必要なんてない。ましてそれが義務であるはずがない。なのにそれを義務みたいにするから、本来自由であるはずの献金さえ義務になってしまう。そしてそこには、「新会堂を建てることだけが御心だ」という一方通行の決めつけがある。
 影響力のある1人の人間だけが「御心を知っている」なんてことはなく、そこには議論とか話し合いとかがあるのが本来の教会だと私は思う。教会の意志は教会全体が決めるべきで、1人が決めるのではない。1人で決めるのはたとえばモーセの時代への逆行であり、新約聖書的ではない。ああでもないこうでもないと平等な立場で話し合って方向性を決めるのが教会の自由意思であって、本来神様が願っていることなんだと私は思う。

 だから「目覚めよ!」とか言って1人の人が教会全体を動かそうとするのは、新約時代の聖書観に反している。「目覚めよ!」と言う人はどれだけ信仰歴が長くて立派に見えても、根本的に聖書を知らない訳で、尊敬に値しない。だから表題にある通り、それは「寝言」なのであって、お前の方こそ目を覚ませよって話。

 その台詞に心当たりのある方はよくよく考えてほしいと思う。

2 件のコメント:

  1. 新興宗教系のプロテスタントの教会で時折みられることですが、電波系の人が「神の啓示を受けました」とか「神様のお声が聞こえました」とやって、みんなをリードしていくというパターンがあるように思います。
    ある新興宗教系のプロテスタントの教会で、「ほんとうにあったこわい話」ですが、教祖の奥さんがちょっと電波系だったようで、彼女は毎朝必ず教祖である旦那の前で「今日の神様からのお声は・・・」とやっていました(たぶん今もやっているとは思いますが)。
    ある日彼女に神様からのメッセージが示されたのです。それは大きな建物を建てなさいという、「非常にありがたーい」内容でありました。
    当然教祖はそのメッセージを神様からのものと信じて疑うことはしませんので、信者に「神様からのメッセージで、これから日本にリバイバルが起こって、救われる人が大幅に増えるといわれた。もちろんこの教会にもたくさんの人がやってくる・・・」と、どうみても誇大妄想としか思えない話をしたのです。
    信者の中にはちょっとおかしいのではないかと思った人もいたのかもしれませんが、日本人は世界一空気を読むのがうまい国民です。「奥さんの受け取ったメッセージはおかしいのではありませんか?」などという疑問を口にする人は一人もいませんでした。
    神様からの命令だとばかり、かなり無理して大きな建物を建ててはみましたが、救われたいといってたくさんの人が教会に押し寄せるリバイバルなど起こるはずもありません。結局のところ毎月毎月のローンの支払いに四苦八苦し、ほどなくして教団の金庫の金は尽きてしまったのです。
    そこで教祖夫妻は「このままでは教会がつぶれるよー!」と大騒ぎをし、役員はもちろん平信徒全員に金を工面せよと命令し、みんなが金策に東奔西走したという・・・(笑)。

    返信削除
  2. 目覚めない信徒に向かって、いつまでですか?いつまで(目覚めるのを)待たなければいけないのですか?って二代目副牧師に言われたよ。まだやってるのかなぁーそこの信徒。具体的に何をどの基準で目覚めてないのか知らないので言われっぱなしなんだろうなぁ。。。私も言いたい。その牧師に、「いつまでですか?いつまで自分で開拓しょうとしないで、主任牧師の笠したにぶら下がっているのは。。。」

    返信削除