「御心」に関する壮大な勘違い。あるいは捏造。3回目。
1回目はこちら。
2回目はこちら。
このシリーズは要するに、クリスチャンの意思決定プロセスについての話だ。
クリスチャンが何かをするとき、その動機は何なのか、信仰とどう関係するのか、何をもって「信仰的」とされるのか、といった話。
そして具体的に例を挙げてきたのは、「自分の願望」を「主からの語りかけ」に置き換えてしまうクリスチャンの罪悪についてだ。
見栄え良く自慢できる教会堂がほしいから、
広い牧師館がほしいから、
一人前と認められたいから、
みたいな動機を隠して「主が新会堂建設を願っておられる!」とか言うのは神の名を騙ることであり、はっきり言って罪悪だ。この場合だと信徒から巻き上げた金銭も絡んでいるから、法的な意味での罪悪ともなりえる。
クリスチャンの意思決定プロセスは、大まかに分けて次の2つがあると思う。
①聖書的価値観と自分の都合を勘案して決める方法
②神の声を聞いてそれに従うレーマ的方法
わかりやすくするために例を挙げると、たとえばここにクリスチャンAとBがいる。2人ともそれぞれ伝道に出かけた。
そこにクリスチャンCがやってきて、たまたまAとBに順番に遭遇した。Cはそれぞれに質問した。「なんで今日伝道にきたの?」
Aの答え。「いやあ、クリスチャンとして伝道すべきだと思うんだよね。とても毎日はできないんだけど。ちょっと時間が空いたからしようかなって思って。どうなるかわからないけど」
続いてBの答え。「今朝祈っていたら、主がここで伝道するよう私を導かれたのです。それもどうしてもこの場所で、この時間でなければならないと語られました。だから仕事を休んでここに来たのです。この信仰の従順を見て、主は必ず祝福して下さるでしょう」
わかると思うけれどAの主張が①であり、Bの主張が②である。
どっちがすごいかという話なら、超自然的に神の声を聞いてる(らしい)Bの方がすごいってことになるだろう。見た目にもわかりやすいし、いかにも「霊的」である。
しかしこれまで述べてきたように、神は基本的に人間に任せているのであって、いちいち指図するのは例外的なことだ。いつまで経ってもいちいち指示を仰がねばならない方が問題がある。
たとえば会社で後輩ができて、一か月間みっちり教え込んだのに半年たってもまだ基本的なことを尋ねてくるとしたら、その後輩は無能かやる気がないかのどちらかだ。会社に入ったら早いうちに仕事を覚えて自分でできるようになりたいと思うのが一般的だし、それは学校の部活でも受験勉強でも株取引でもスポーツジムでもゲームでも同じだ。自分で判断していろいろやれるようになるのが面白いのであって、いつまで経っても人に聞かねば何も進められないとしたら、一体なんでそれを続けてるんだって話にもなる。また自分で判断できるということは、それだけ成熟したということでもある。小難しい成長法則とか上昇志向とかの話ではなくて。
そういう視点で見ると、上記の例だと明らかにAの方が成熟しており、Bの方が未成熟だ。Bの「霊的」アピールそのものも幼稚だし、細かく指示を仰がねばならないという点でも幼稚だ。だから本当にすごいのは「霊的」に見えるBではなく、聖書の言っていることをちゃんと理解したうえで自分の都合や状況を加味して判断できているAの方ではないだろうか。
また、Bの言う「会社を休んでまで御心に従った」というのは、いかにも献身的な話に聞こえるかもしれない。けれど要は会社を突然休んだ訳で、会社関係の誰かに迷惑をかけているだろう事実を忘れてはならない。そこには「この世の仕事より神の仕事の方が優先される」みたいな考え方があるように思うけれど、すなわち小さい仕事なんかどうでも良くて、大きな目立つ仕事をしたいって話である。しかし小さなことに忠実でない人は大きなことにも忠実でないと聖書は言っていて、そういう人は大きい仕事を任されない。
クリスチャンの意思決定プロセスにおいて、「主に今日○○と語られたから」というのは、たとえ相手が本物の神様であっても、「言われたからやる」というだけで全然自分で判断していない。それは意思決定とは言わない。クリスチャンは聖書に書かれていることを「どういう意味か」と考えて実践すると思うけれど、それと同じ話で、もし今目の前に神様がジャジャーンと現れて「○○せよ」とか言ったとしても、それがどういう意味かまず考えるはずだ。
また聖書を見ると、悪霊は光の御使いに変装して現れるとも書いてあるから、神様らしき存在がジャジャーンと現れたとしてもそれだけで信じるのは頭が足りない。本当に神様かどうか、聖書に反したことを言っていないかどうか、ちゃんと吟味すべきだ。
だからレーマ系クリスチャンが言うような「語られたからやるだけ」というのは、分析・検証・判断という意思決定プロセスを欠いている。それだけでも大きな間違いである。それに加えて「自分の願望」を「御心」というベールで覆い隠しているという罪悪がある。その両方が同時に存在するかどうかわからないけれど、いずれにせよ「御心」に関する勘違いか、捏造かのどちらかだ。
べつにレーマを完全否定するつもりはないけれど、レーマという言葉を持ち出して上記のような勘違いや捏造を繰り返すクリスチャンが少なくないので、このシリーズを書いてみた。
私の所属していた以前の教会にこのブロブのこのページを送ってあげたいよ。
返信削除みんなBのような人だけが、上層部の特別視されるような教会だったので、ホントは指示がなければ何もできない指示待ち症候群だってことを知らせてあげたいよ。
始末に負えないのは、時々 自分の野望をレーマや神様がおっしゃった、又は聖霊がそう言ったからなどと、自分がそう思ったから、又はそうしたいから、と言えない時、又は自信がないときに、神の啓示を匂わすありさま。私からしたらそのほうが怖いよ。聖霊を侮ってはいけません。