2015年9月19日土曜日

「御心」に関する壮大な勘違い。あるいは捏造。その2

「御心」に関する壮大な勘違い。あるいは捏造。2回目。

1回目はこちらから

 レーマ系クリスチャンの主張はこんな感じ。
「その都度その都度の主の御心がある。クリスチャンはそれらを事細かくキャッチして実行しなければならない」
 それで新会堂設立とかイベント企画とか事業の立ち上げとか、大きくて華々しいことを教会全体として取り組む。またそういう大きなことでなくても、「今主が求めておられるから」ということで長時間賛美をしたり、長い長い祈りをしたりする。彼らにとってそういう全部は「御心」であり「主の導き」なのだ。
 けれどそれが本当だとしたら、いつも神からあれしろこれしろと命令されるだけだから、自分の判断など必要ない。するともっと細かいレベルの「導き」も必要になる。たとえばコンビニに水を買いに行くとして、冷蔵棚の前で「クリスタルカイザー」にすべきか「いろはす」にすべきか祈らなければならない。というかそれ以前に、コンビニはどこにすべきなのか、そもそも本当に水を買うべきなのか、その段階から悩まなければならない。

 だから「その都度その都度の御心をキャッチする」というのは根本的に無理がある。

 それでもレーマを主張する人たちは、たとえば「使徒の働き」なんかに出てくる「導き」をよく引用する。ペテロがカイザリヤのコルネリオの所に行くよう語られた箇所とか、 パウロたちがアジアで御言葉を語ることを聖霊によって禁じられた箇所とかだ。そういう箇所を広げて「ほら、主が事細かに導いておられる」と言う。
 けれど、たとえばパウロの長い宣教旅行の行程を考えれば、それは特定の期間あるいは特定の事象に限ってのことだ。全期間が「事細かな導き」によったのではない。彼らは基本的に自由なのであって、たとえばギリシャではコリントに先に行っても良かったしケンクレヤに先に行っても良かった。実際には行っていないけれどスパルタに行っても良かった。

 つまり、神はクリスチャンをロボットみたいに操作するのではない。

 旧約聖書のエデンの園の描写を見てもそれがわかる。神は園をアダムに「任せた」のであって、いつも一緒にいてあれしろこれしろと命じたのではない。むしろ自由を与えて、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言っている。またアダムとエバが善悪の知識の木から取って食べる時も、(それを知っていたはずだけれど)その場に神はいなかったし、止めることもなかった。

 だから善であれ悪であれ、人は神から自由を与えられている。

 という訳で、レーマ系の教会でよく語られる「今主が語っておられること」というのは、「今主がこう命じておられる」というのと同じだ。そしてそれはたとえばエデンの園で言えば「今日は東側をここからここまで耕しなさい」「明日はあの空地の草むしりをしなさい」みたいに命じることであって、全然「任せて」いない。であるならわざわざそこに人を置く必要はなくて、pepperみたいなロボットでも作って置いておけば良い。その方が効率的だ。いろいろ自由意思で考えたり休んだりする人間はかえって邪魔なはずだ。

 究極的な話をすると、神は人間を造った存在なので、人間にあれこれ命令できる。聖書にもそういう描写がある。けれどそれは常時ではない。神は人間に独立した自我を与え、自由に考えて判断することを願われた。それが神と人間との基本的な関係なのである。

 だから「今月はこれ」「今週はこれ」「今日はこれ」と常時事細かに「主からの導き(命令)」があると主張する教会は、そのへんの矛盾を解消することができない。 神が与えた自由意思を否定しているからだ。聖書を冠した教会でありながら、自ら聖書に反していると言ってもいい。

「主の御心(命令)」を主張する牧師の言い分は、かなりの割合(あるいは全部)で「自分の願望」が入っている。よく引き合いに出すけれど「新会堂設立」なんかはその良い例だ。その時期になるとソロモンの神殿建設の箇所ばかりが引用されるようになり、「主が今、神殿建設を願っておられる」とか真顔で言う。けれど蓋を開けてみれば、新会堂と同時に豪華な牧師館が建っていたり、広々とした牧師室が備えられていたりと、誰得だって話。
 他にも「神から送られたゲストを送迎するために良い車が必要だ」とか言い出して高級車を買ったり、「ハイクオリティなメッセージを作らなければならないから」とか言い出して20万円以上するiMacを買ったりする。それらは結局牧師の私物になるのだけれど、 パソコンなんてワープロとネットとメールにしか使わないんだから3万円のネットブックで十分だ。しかもパソコンの善し悪し一つで決まるメッセージってどうなのよって話。

 という訳でレーマ系の教会に行ったら(あるいはそこにいるなら)、牧師の言葉はこう解釈すべきだ。

牧師「今主が○○を願っておられる」

翻訳「実は○○したいんだよね」

 これで話がだいぶわかりやすくなる。

3 件のコメント:

  1. 宗教ビジネスに引っ掛かると、普通ビジネスならば、リスクは伴っていたとしても、何らかの見返り(儲け)が付いてきますが、ことキリスト教ビジネスとなれば、全てが恵みとか霊的祝福とか、形に表れる事の無い漠然とした物が与えられる(と言うか与えられたと信じる事により、そう言う思い込みによって安心感が与えられるのみ)のです。
    お金は諸悪の根源だから、この世の物は儚く去り行くものだから、天に宝を積みなさい、暮らし向きの自慢は欲望だ!・・・・・等と言って、ひたすら捧げさせる。
    馬鹿でないのか。
    いい加減目を覚ませ!
    目覚めよ!と言うのは、こう言う状況にある人達に対して語られている御言葉なのです!
    自分と自分の家族を第一にしなさい!
    これが真理です!

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  2. 宗教ビジネスの問題点は、現金の振り込み先とお恵みを出す側が=で結ばれていないことではないかと思います。

    お金は諸悪の根源・・・辺見マリさんも拝み屋に洗脳されてしまって、「マリさん、お金は汚いものなのよ。だから私が浄化してあげる」といわれ、預貯金を全額献金するわ、ヘアヌードになるわ、両親や子供も住んでいた自宅を売却するわ、娘が稼いだお金にまで手を付けてしまうわになってしまったのです。
    先日テレビで辺見マリがあの時代のことを話していましたが、カルト化した新興宗教系プロテスタントの信者は、彼女の話にはっとしたものを感じたのではないかと思います。

    宗教ビジネスはそういわれてみると、日帰りバス旅行商法に似ているようにも感じられます。「抽選に当たりました!」とやってバス旅行に招待され、参加してみると土産物屋と宝石類(会社によっては毛皮や健康器具等もあったりする)が展示してある店につれていかれます。
    土産物屋はその土地の名物の菓子類なのでまあわかりますが、問題は宝石や毛皮です。菓子類とちがって値段がはっきりしないものですし、また素人が見ても品質がいいのか悪いのかが簡単にわからないものです。それを「実はこれは百万円ですが、今回に限り特別に五十万円!(このセリフは毎日言っている)」とやって、デパートのバーゲンを利用すれば十万程度で買えるような商品をかなり高額で売るのです。
    宗教ビジネスも「霊的祝福」だの「天に宝を積んだから・・・」という、実態がないものばかりを売るわけで、素人が簡単にわかるようなものを売るということは絶対にありません。
    悪徳商法と新興宗教系プロテスタントは本当にやり口が似ているような感じがします。

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  3. きっと自分の野望をレーマ,啓示,み声、ロゴスなどと臭わせて現実化するのでしょ?カルト化教会の牧師や上層部って。

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