非常識な「霊的意味」について

2015年9月29日火曜日

「啓示」に関する問題 クリスチャンと「常識」

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 今年初めのことだけれど、いわゆる「イスラム国」に拉致された後藤さん、湯浅さんの件が大々的に報道された。両名とも殺害されるという、最悪の結果に終わってしまった。

 その殺害が報じられる前、キリスト教界では「後藤さんの救出の為に祈ろう」という動きが少なからずあった。後藤さんがクリスチャンだとわかったからだ。 同じ神様を信じる仲間の無事を祈ろう、みたいな気持ちだったと思う。その時点で湯浅さんのことが放置されているようで気になったけれど。

 しかし「後藤さんの為に祈ろう」というのは基本的には良いことだと思う。危機にある人が救われてほしいと願うのはごく自然な感情だし、それに従って神に祈ろうとするのもクリスチャンなら自然なことだからだ。損得抜きの純粋な動機であっただろう。

 けれど中には、たぶんごく一部だと思うけれど、その事件に「霊的意味」を求める人たちがいた。
 つまり後藤さんの誘拐には○○という意味があって、そこには実は神の深い計画と目的があって、だから最後には神の栄光が現される、というような話だ。

 しかし考えてみると、ある人はA、ある人はB、またある人はC、みたいに様々な人が様々な「霊的意味」をそこに展開する時点で既に怪しい。神が何らかの「霊的意味」を用意しているとしたら、そこには矛盾はないはずだからだ。
 まあそういうのも含めて誰が何を言おうと自由なのだけれど。

 けれど、さすがにこれはマズイだろうというレベルの「霊的解釈」があったので、以下にザックリ紹介してみたい。

■後藤さんは現代のステパノ?

 その主張はこんな感じ。

①普通ならクリスチャンはイスラム国に入れない。でも後藤さんはジャーナリストとして入って、拉致された。結果、彼はイスラム国に遣わされたキリスト者である。

②現在キリスト教に回心するムスリムが増えていて、それは超自然的な「夢と幻」によることが多い。

③パウロは迫害者だったけれど、「夢と幻」によって回心した。しかしその前準備として、ステパノの殉教を見せられていた。

④だから後藤さんはステパノのような存在であり、後に回心するムスリムたちにとって必要な礎なのだ。

 以上、某ブログより。

 この主張が書かれているブログを最近ある人から教えてもらったのだけれど、初見からこれはヒドイと思った。これってつまり、「後に回心するムスリムのために後藤さんは拉致された」ってことで、だから「犠牲になるべきだ」と言っているのと同じだ。
 もし後藤さんが無事に解放されたらステパノみたいな殉教者にはならない訳で、その主張と食い違うことになる。だから彼らは後藤さんに死んでほしかったのであろう。結局その願いの通りになったけれど。

 彼らは独自の深い「霊的解釈」を披露してご満悦なのかもしれないけれど、ものすごく浅はかだ。遺族に面と向かって同じことが言えるのだろうか。こういうことを言っている時点でクリスチャンとしての常識が疑われるのだけれど、そういうことには気づいていない。それに仮にこの説が100%真実だとしても、言い方というものがある。こういうことを言っていい立場と、言うべきでない立場もある。

■ムスリムの回心について

 前述の「ムスリムの回心」だけれど、これは私も聞いたことがある。非常に熱心だったムスリムが、ある日突然「夢と幻」を見せられて、瞬間的にキリストを神と認め、クリスチャンになる、というような話だ。そういう人がムスリム世界で爆発的に増えている、という。

 聞いた当時は「そんなもんなのかな」とやや懐疑的なだけだったけれど、それから数年たった今も同じことが言われていて、でも実際に「キリスト教に瞬間的に回心したムスリム」を見たことも聞いたこともなく、具体的な名前も挙がってこない。「爆発的に増えている」と言うには不思議な現象である。

 この「瞬間的な回心」の例として彼らはパウロを挙げている。パウロの回心は聖書にあるから事実である。けれどパウロはパリサイ人であり、厳格な教育を受けており、つまり旧約聖書を熟知していた。対してムスリムはコーランを熟知しているかもしれないけれど、旧約聖書も新約聖書も読まない(ついでに言うとコーランはイエス・キリストをただの人間と言っていて、他にも沢山の改変がある)。だから何らかの啓示を受けたパウロの聖書知識に基づいた「気づき」と、ムスリムのコーラン知識に基づいた「気づき」とは、根本的に違っているはずだ。

 だからムスリムが瞬間的に回心するとしたら、彼らのコーランに関する記憶が瞬間的に削除されるか、あるいは訂正されるかして、代わりに聖書の内容が瞬間的にダウンロードされる必要がある。厳密に言うと神様はそういうことも可能だろうけれど、だったら人間が伝道する必要などない。またムスリムにだけそういう現れ方をして、仏教徒やヒンズー教徒を無視するとしたら、神の愛とは相当不公平である。

 そういう強制的な「回心」があちこちで行われ、ムスリムがどんどんクリスチャンに変わっているのなら、そもそも日本人の後藤さんが拉致されてステパノみたいに扱われる必要などない。

 こういう「霊的解釈」を披露してご満悦なクリスチャンは、往々にして無礼であることが多い。自分の「霊性アピール」に夢中で、当然の社会常識を忘れているからだ。そういう人が受け入れられるのは、一部のクリスチャン世界だけだ。そして一般社会では、それは「非常識」と言われる。

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