2015年6月28日日曜日

カルト被害者の回復を阻むもの

「脱カルトの経験がなく、カルトを擁護するのでもなく、カルトも脱カルトも客観的に観察して学びたい」という人がいる。
 学んでどうするんだと思うけれど、まあそこは個人の自由だから何も言わない。しかし「客観的に観察して学びたい」という点はちょっと気になる。

 客観性の問題だけれど、カルト側にも脱カルト側にも客観性など期待できないし、期待するべきでもない。と私は思う。

 カルト側には特に何も期待できない。その問題点はここでいつも書いているけれど、彼らは聖書も神も信徒も都合よく利用する。聖書の言葉から都合のいい部分だけ抜き出し、都合よく解釈し、都合よく信徒らに押し付ける。たとえ反対されても「神様にそう語られたんだから仕方がない」で済ませる。「霊的」という言葉ですべてをウヤムヤにする。
 つまり自分たちは完全に「正しい」のであって、一切の反対を受け入れない。どんなに「客観的な」証拠を突きつけても無駄だ。たとえ法的に罰せられても「悪魔の策略だ」とか言ってとことん自己正当化する。
 だからカルトに客観性など期待できない。彼らが言う「客観性」は都合のいい彼ら自身の主観でしかない。

 それを糾弾する脱カルト側も、客観性を持つのは難しい。
 そもそも彼らが被害者であることを忘れてはならない。そして被害者心理は同じ被害者かそれに近しい人間にしかわからない。
 彼らが自分の被害について語るのはすごく大変なことだ。そして語ることができたとしても、その話に何かしらの客観性を求めるのは難しい。彼らにとって優先されるのは被害について語ることでなく、回復することだからだ。

 たとえばレイプ被害者がやっと重い口を開いて、被害についてポツポツと話してくれたとする。聞いたあなたは、どんな状況だったのかもっと詳しく話せとか、その話の証拠はあるのかとか、事件を客観的に分析してみろとか、自分に非がなかったと言えるのかとか、そんなことが言えるだろうか。とてもじゃないが私にはできない。警察や検察ならそれをする義務があるのだろうけれど、少なくとも「観察して学びたい」だけの人間にそんなことする資格も何もない。
 そしてそれはカルト被害についても同じである。

  カルト問題の難しさの一つは、誰に相談すべきか見極めるのが難しいという点だ。
 下手に他教会の牧師に相談してしまうと、「牧師批判はやめなさい」とか「牧師だって間違いを犯すのだから許しなさい」とかと簡単に(そして無情に)言われてしまう。またカルトについて理解のないクリスチャンらは「批判してはいけません」とか「神様を見上げていれば大丈夫です」とかと能天気に言う。まるで被害者自身に非があるみたいな言いっぷりだ。

 それはいわゆるセカンドレイプ被害だ。痛めつけられた人が、助けを求めた相手から更に痛めつけられる。相手は一見、助けてくれるように見える。善意の人のように見える。しかしカルト被害について何も知らないから、適切なことが言えない。良かれと思って人を深く傷つける。そしてそのことに全然気付かない。

  カルトや脱カルトを「客観的に観察して学びたい」というのは、そういう訳で全然お呼びでないどころか、害をなす行為だと私は思う。余計なお世話でしかない。

 これを有名な「良きサマリヤ人」のたとえで言うと、カルト被害者は強盗に襲われた瀕死の人である。祭司やレビ人はそれを見て見ぬフリで通り過ぎた。 次に「客観的に観察して学びたい人」がやってきて、被害者を「客観的に観察」し、何かを「学んだ」つもりになって去っていった。その後から本物の良きサマリヤ人がやってきて、あとは聖書に書いてある通り。

 カルト・脱カルトの問題に中立的立場など存在しないと私は思う。少なくとも当時者にとってはそうだ。カルトの側に付くのか、脱カルトの側に付くのか、そこが明確になっていなければどちらにも近づけない。どちらからも受け入れられない。そしてどちらの側にも付かない立場は「中立」でなく「無関係」だ。そして無関係であるなら、無関係でしかない。
 もちろん無関係でも発言するのは自由だけれど、いったい誰が耳を貸すだろうか。

  カルト被害者に近づくのは覚悟のいることだ。本気で関わりたい、本気で助けたい、途中で投げ出さない、とことんまで付き合う、という心づもりがなければ、結果的に相手を傷つけるだけになりかねない。そこには犠牲が付き物だし、そもそもそれを犠牲と思うなら動機を見直すべきだ。それにくわえてカルトに関する知識や経験も必要で、気持ちだけではどうにもならない。

  カルト関連の掲示板など見ていると、時々無関係な人間が「きれいな正論」でセカンドレイプしていることがある。本人は良かれと思って言っているだけに複雑である。それもあってこの記事を書いてみた次第だ。

■追記

 本記事は、いただいたコメントから発想を得て書いたものだけれど、そのコメントに対する返答ではない。またそのコメントの趣旨を無視して一部抜粋したものでもない。むしろそのコメント全体から滲み出る「態度」から発想を得たものである。

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「カルト被害者の回復方法について」

2015年6月27日土曜日

教会運営と献金にまつわるアレコレ・その2

 前回は「教会への献金」について、主に教会運営側の事情について書いた。だから今回は反対に、捧げる側、つまり一般信徒側の事情について書きたい。

 ちなみに前回同様、什一献金については直接触れないことにする。

・どれだけ捧げるべきか

 教会運営の事情については前回書いた通りで、運営側には運営側ののっぴきならない状況がある。けれど一般信徒からしたらそんなこと関係ない訳で、べつに教会に気づかって多めに献金するとか、そういうことは(通常なら)ない。
 だから信徒は個人レベルで献金を考えるのだし、それで十分だし、そうあるべきだと私は思う。

 それで「どれだけ献金するか」という話だけれど、これは個人の自由というのが一番無難な答えであろう。持っているお金は皆違うし、必要経費も皆違うのだから、自ずと払える額は決まってくる。それに献金において重要なのが額の大小でないことは、聖書も明らかに支持している(それより「捧げる心」の方が大切だと聖書は言っている)。

 だから献金の額が人と比べて大きいか小さいかとか、一般的に考えて妥当かどうかとか、そういうことを気にする必要はない。じゃあ一円玉一枚でもいいのかってのはちょっと極端だと思うけれど。
 しかし人間どうしても「額」を気にする訳で、たとえば硬貨を献金袋に入れる時チャリンと音がしないようにするとか、わざと万札を見えるように入れるとか、そういう「工作」を見ることもある。まあ見栄の話である。

 ところで一つ注意したいのは、献金においてマルコ12章42節を殊更強調することだ。
 これは有名な箇所で、生活費の全部を捧げた貧しいやもめの話である。「献金のすすめ」をする教会ではよく使われる。「すべてを捧げた彼女の信仰を主は称賛されました」とか何とか。それで「力以上に捧げることで主の祝福が得られます」というちょっと飛躍した話にもなる。

 それを真に受けて、財布の中身を全部捧げちゃいましたとか、思い切って車のガソリン代として取っておいた分を捧げましたとか、そういう無謀な行為に走る人たちが出てくる。もちろん彼らは大真面目なのだけれど、そういうのを武勇伝みたいに話す輩もいて、なんか「皆で捧げすぎて我慢大会やろう」みたいな雰囲気になってしまう。そうなると「信仰による献金」でなく、「みんなで捧げりゃ怖くない献金」になってしまう。教会としては潤うだろうけれど、それを主への信仰と言うのはちょっと違うと思う。

 もちろん生活費の全部を捧げるのも個人の自由だし、家族に迷惑をかけるでもなく、公の支払いに支障をきたすでもなく、その他の責任も全うしているなら、べつに沢山捧げすぎたって構わない訳だ。
 けれど一つ注意しておくと、上記の「生活費の全部を捧げた貧しいやもめ」の時代と現代とでは、生活基盤が全然違う。当時はパン粉や油をストックしておいて必要に応じてパンを焼く生活であり、農耕牧畜による自給自足の割合も社会全体として高かった。つまりお金を使った買い物を現代みたいに毎日する訳ではなかった。だから「生活費の全部」と言っても、それは現代の私たちの「給料一ヶ月分全部」と全然イコールではない。あの日の夜も、やもめには食べるものがあったはずだ。
 そのへんを考慮しないで「持っているお金の全部を捧げる」のは破産レベルであって、単に無謀でしかない。

 多く捧げることを私は否定していない。お金を持っていると私たちは案外無駄に使ってしまうものだ。けれど必要なものを我慢したり、子どもに何かを我慢させたりしてまで献金するのもまた健康的でない。

・多く捧げる動機

 献金の額が問題でないのは前述の通りだけれど、やはり時と場合により、多く捧げるということがある。
 多く捧げること自体は問題ではない。少なく捧げるのも問題ではない。献金において一番重要なのは「心」であって、要は献金額と心とがマッチしていることが大切なのだと私は思う。

 人が相対的に多く献金するには、それなりの動機がある。そして動機には正しいものとそうでないものとがある。間違った動機で捧げるなら、いくら多額であっても無駄になってしまう(もちろん教会は潤う)。
 間違った動機は2つあると私は考える。一つは「信仰の武勇伝」作りのため。そしてもう一つは「ご利益主義」である。

「信仰の武勇伝」とは前述の通り、財布の中身を全部捧げたとか、他の支払いを滞納させてまで捧げたとか、そういう我慢大会系の献金である。彼らは「私は主のためにここまでした」「これだけ犠牲を払った」という自慢話をするために多額の支払いをしたのであって、厳密に言うと献金ではない。「自慢話をさせてくれ代」である。

「ご利益主義」はもはや説明の必要はないと思う。「これだけ捧げたんだから神様が倍にして返してくれるだろう」みたいな、繁栄の神学にやられてしまった発想である。乱暴に分類すると、株式投資なんかと同じだ。彼らにとってそれは献金でなく、より多くのバックを得るための投資でしかないからだ。
 彼らはよくヨブの忍耐と再度の繁栄を引用するけれど、ヨブが2倍の祝福を得るために全てを捧げたなんて、どこにも書いてない。

2015年6月26日金曜日

教会運営と献金にまつわるアレコレ

 先日、こちらの記事のコメント欄が「献金」の話題で少し盛り上がった。興味深かったので、それに乗っかって「献金」について書いてみたい。
 
 ただいわゆる「什一献金」については今までも書いてきたので、ここではそれも含めた「教会への献金」について考えてみる。

・教会運営側の事情
 
 カトリックの仕組みはよく知らないけれど、プロテスタントの教会はたぶん大半が信徒の献金で成り立っている。収益事業が儲かっている教会も中にはあるだろうけれど、かと言って献金を集めないということはない(教義的に考えても、献金をしない教会はおそらくない)。

 だから「献金額=教会の懐具合」という図式は大概の教会に当てはまる。
 
 教会の運営主体は牧師だったり役員会だったりするけれど、ひっくるめて運営側としては、献金額がすごく重要になる。たぶん毎月、難しい顔で収支計算している人が多いのではないか。もちろん教会だから「信仰」が重要なのだけれど、実際に教会を運営するには家賃とか光熱費とか印刷代とか食事代とか、イロイロ必要になる。単に「信仰さえあれば」とはならない訳だ。
 
 たとえば「主が必要を満たして下さる」と言うのは全うな信仰の姿勢だと思うけれど、毎月の献金額の変動が激しく、自転車操業的な経営になっているとしたら、誰だって不安になる。それで献金額を安定させようとか増やそうとか考えることになる。でないと教会として破綻してしまうかもしれない。
 
 什一献金制度が多くの教会で支持されるのは、そういう状況もあってのことだと私は思う。信徒全員が収入の一割をきっちり納めていれば献金額はほぼ一定になるはずだし、予算を立てやすくなる。運営側の精神衛生も守られる(かと言って什一献金が絶対正しいかというのはまた別の話)。
 
 だから「献金は自由です」という台詞は、運営側としてはなかなか言い出せないのが本音だろう。教会運営で苦労してればいるほど、またそれが長ければ長いほどそうだ。

・運営側のズレ
 
 ある駆け出しの牧師が教会を開拓し、何年か経ってある程度の規模になった。当初、牧師は「献金は個人の自由です」みたいなことを言っていた。
 けれど規模が大きくなるにつれ、少しずつその言動が変わっていった。

 数年後。
「〇〇の必要のために献金を募ります」(献金の依頼)
 また数年後。
「主が××を求めておられます。それを満たすのはあなたたち以外いません」(献金の強要)
 そのまた数年後。
「今私たちがこれを満たさねば大変なことになる。借金してでも満たしなさい」(献金の命令)

 こうやって箇条書きにしてみると、その牧師の動機や信仰のズレがわかる。けれど長年いる信徒はそれをズレとは思わない。むしろ牧師が成長したとか、教会が成長したとか、真理が開かれたとか、そんなふうに都合よく考える(それ自体牧師の誘導なのだけれど)。

 でも結果的に、信徒の支出は以前より明らかに増えている。本当に教会が発展し大きくなったなら、そして信仰に進んだなら、一信徒が教会に支払うお金が増えるというのはおかしな話なのだけれど。

 もちろんこれは一例であり、特殊なケースかもしれない。けれど「特殊」にしてはけっこう聞く話でもある。いやはや。

・運営側のゴールとは

 教会を大きく発展させた牧師(あるいは牧師夫人)が、かつての苦労自慢・貧乏自慢をすることがある。
「開拓当初は本当にお金がなくて、よく掛け持ちのアルバイトをしたものです・・・」
「具なしの味噌汁しか作れない時があって・・・」
「子供の給食費を捻出するために1週間くらい断食したことがあります・・・」
「会堂家賃を下げてもらうため、オーナーさんに土下座しましたよ・・・」

 そういう貧乏話が結果的に今の「教会の華々しい繁栄」につながって、ハレルヤ、主は素晴らしい、というオチになることが多い。そしてたとえば「具なし味噌汁」というオリジナル賛美(?)を牧師夫人が涙ながらに歌ったりする訳だ(もちろん会衆も泣いている。特に婦人たちが)。

 そういう話を聞くと「ああ今はお金があって良かったね」と単純に思ってしまう。そして何となく、教会の完成形はこれだと突き付けられたような感覚になる。けれど、これはけっこう重要な命題を含んでいる。すなわち、教会のゴールとは何か? という命題。

 開拓期は貧乏だったけど、頑張って発展させて経済的にも安定するようになった、というのはいわゆる「教会開拓の成功」と言えるだろう。大変なご苦労の数々があったはずで、そこは本当に尊敬する。
 けれど、じゃあ教会は人数が増えて経済的にも安定することがゴールなのか、そうでない教会は失敗なのか、という話にもなる。そこはよくよく考えてみるべきだと私は思う。もちろん教会会計が安定するのは非常に大切なことだけれど。

 そしてそういうことを考え始めると、じゃあ教会って何なの、という話にもなる。そうなると献金だけの話じゃ済まなくなるので、今回はこのへんでやめておく。あしからず。

2015年6月22日月曜日

カルト被害者の回復方法について

 カルト化教会かそれに類似した教会で、何らかの被害に遭った人々がいる。
 その被害を一言で言えば「信仰的虐待」と表現されるのだろうけれど、内訳は暴言や暴力、性的虐待や金銭搾取、不当労働、非常識な行為の強要など様々だ。またその程度もイロイロで、中にはひどい後遺障害を抱える人もいる。もちろんそこまでいかない人もいる。
 だから「カルト化教会の被害者」と一口に言っても被害状況はイロイロで、同じ教会であっても皆違う。問題教会から離れてすぐ別の教会に通えるようになる人もいれば、しばらく距離を置かないとならない人もいる。だから何らかの回復が必要なのは皆同じだけれど、回復の仕方は皆違う。
 という前提のもと、そういう被害者らがどのように回復していくのか、あるいは回復していけるのか、今回は書いてみたい。
 これから書くのは私自身や知り合いが実際に通った(そして今も通っている)回復のプロセスや方法であって、カルト被害者全員に当てはまる訳ではないと思う。またこれが最善とも思っていない。むしろ本当にこれで良かったのか、他になかったのか、と今も考えてばかりいる(でも結局、他に何もなかったという結論に辿り着くのだけれど)。だから何かを強く勧めることはできないし、参考程度に紹介することしかできない。
 また、カルト被害の結果として何らかの精神症状に苦しんでいる方は、心療内科などの専門機関を受診するべきだと私は考えている。素人考えで対処できるものではないし、精神論や根性論、中途半端な「牧会カウンセリング」等で悪化させることがあってはならないからだ。

 前置きが長くなったけれど、カルト化教会被害者の回復方法について書く。
 
・まずは離れる
 
 回復の第一のステップは、とにもかくにもそこから離れることだと思う。問題の場所から、物理的にも精神的にもある程度距離を取る必要がある。
 
 虐待の現場にいる限り虐待は続く。だから虐待に気づいた被害者(虐待と気づかない人々はそれを「訓練」とか「信仰」とかと思っている)は、それを拒絶するのであれば、脱会なり転会なりすることになる。
 ある人にとってそれは決死の脱出になるかもしれない。多くの痛みを伴う別離になるかもしれない。そうでなくても脱会自体エネルギーが必要で、ストレスの大きい作業だ。周囲の人々の協力がどうしても必要な場合もある(自分一人では脱会までいけないケースもある)。

・環境を変える

 これは上記の脱会も含むけれど、もう少し大きな視点で自分自身の環境を変えることだ。
 たとえば、脱会したけれど教会そのものが近所にある、という場合がある。その場合、どうしても教会が目に入るし、教会の記憶がよみがえるし、たぶん牧師本人に会う羽目にもなる。場合によってそれは非常に危険なことかもしれない。

 その場合は、思いきって引っ越すのが有効だと思う。住まいを変えることで住環境がガラリと変わり、今までのシガラミが途切れることで、心身に変化が現れるのは普通に想像できるだろう。

 もちろん仕事や学校の関係で、そう簡単に引っ越しなどできない人もいるだろう。費用だってかかる。けれど被害状況によっては、なんとしても引っ越さねばならないという状況があるのも事実だ。
 ちなみに私が知っているあるケースでは、信徒の大半が引っ越してその地域を離れていった。

 また引っ越す必要がない場合でも、何らかの小さな変化が良い効果をもたらすことがある。たとえば部屋のレイアウトを変えてみるとか、服装や髪形を変えてみるとか、通勤方法やルートを変えてみるとか、そういうことでけっこう心境は変化する。

「教会スタッフ」みたいな立場で教会に入り浸りだった人は、普通に働くだけでも大きな変化を体験するだろう。ブラックでなければ何でもいいと思うけれど、ちゃんと時間で区切られたまっとうな仕事を毎日するだけで、その人の環境は大きく変わる。毎日労働で疲れて、教会のことなど考える暇がない、という状況なら尚更いい。

・べつの教会に行ってみる

 これは被害者全員に勧められることではない。中にはしばらく教会に行かない方がいい人がいるからだ。
 けれどそこまで被害が大きくなく、信仰を捨てた訳でもなく、むしろ礼拝だけは続けたいと思っている人は、べつの教会に行ってみるのがいい。一つの教会に決めるのが不安だという人は、複数の教会に行ってみたらいい。またすぐに次の教会を決めなくてもいいと思う。

 カルト化教会は複数あるし、それに類似した教会も多い。以前書いたことがあるけれど、脱会したカルト被害者が次の教会を探して、また新たなカルト化教会を選んでしまうというのがある。だから次の教会選びはかなり慎重にした方がいい。そのためにはじっくり時間をかける必要もある。もちろん完璧な教会などないけれど。

・アウトプットする

 これは被害体験を表出させることだ。
 私の場合このブログが表出方法なのだけれど、べつに書くだけが全てではない。人によっては話すこともそうだし、被害者の会みたいなところで皆に話を聞いてもらうのもそうだ。親しい人に手紙で状況を書いてもいいし、誰にも見せない日記に書くのもいいだろう。

 いずれにせよ思いのたけを言語化することで、脳内の情報整理を進めることができる。モヤモヤ考えているうちは心に雲がかかった状態なのだけれど、それを言語化することでカテゴライズされ、客観的に見られるようになっていく。すると問題から一定の距離を置くことができて、結果的に心の負荷が減っていく。
 もちろん一朝一夕にそうなるのではない。じっくりコツコツ表出していく必要があるだろう。

・運動をする

 これは私個人の話だけれど、教会を離れた後、ある程度時間ができた。それまで教会奉仕で自分の時間が全然なかったのだ。
 それでどうしたかと言うと、なんとなくランニングを始めた。運動不足だったし、教会時代に若干健康を害していたからだ。それにもともと走るのが好きだった。
 それで走る始めると、最初はきつかったけれど、次第に体調が良くなっていった。続けることでより長く走れるようになった。体力も戻ったし、仕事も楽になった。夜も眠れるようになった。
 結果、教会のことをあれこれ考える時間が減ったし、あまり気にならなくなった。

 やはり心と体はつながっていて、体の状態が良くなると、心もその影響を受けるようだ。

 もちろんこれは私のケースであって、ランニングが絶対的に良いという話ではない。人それぞれにリフレッシュ法があるだろうし、その中には運動もあるだろう、というだけの話だ。中には運動できない人もいる。
 要は心身のバランスを取ることだろう。心ばかり使うと、人によっては鬱っぽくなる。体も適度に使ったほうがいい。

・最後に

 積極的な方法ではないけれど、回復にとって「時間」は大切な要因だと思う。何でも時間が経つことで風化していくからだ。次第に忘れていくし、気にならなくなっていく。
 もちろんそれは被害の度合いにもよる。中には何年経ってもいっこうに忘れられないほどの大きな被害もある。けれどそこまでの被害なら、専門的な援助が必要になるだろうから、ここに書いてあるようなことは初めから何の役にも立たない。

 今回復の過程にある人、あるいはこれから回復を要する人にとって、この記事が何かの参考になればと願ってやまない。
 また他に有効な回復方法をご存知の方がいるなら、是非共有していただきたいと思う。

・追記(2015.6.23)

 さっそく有効な回復方法についてコメントを匿名にていただいたので、紹介したい。
 以下、匿名様からのコメント。

 今まで出来なかった自分磨きをしたよ。
 ジムに行って、美味しいもの食べて買い物行って、今まで教会と奉仕三昧で、出来なかったことしてみた。barでお酒も飲んだ。訓練学校の教科書も全部処分して、預言のテープも処分して、ありとあらゆるメッセージのCD処分して、聖書以外の教会にまつわるもの家から排除した。いろんな友達とご飯たべて、なんだか昔の自分に戻ったような気がした。そしたら、私にしかできないこと少しだけ見えてきた。(匿名)

※ちなみに一つだけ書いておくと、預言テープやCD、映像の類は、私はすべて保管している。どんなバカなことが行われていたか、どんな逸脱があったかを検証する為だ。またいつか証拠として提出する必要があるかもしれない、とも考えている。
 匿名様ありがとうございました。

2015年6月19日金曜日

「霊の目が開いている」ならもうちょっとマシなことを言え、という話

 たぶん聖霊派の一部のクリスチャンだけだと思うけれど(そうであってほしい)、「霊の目」がどうこうと強調する人たちがいる。「霊の目が開かれているか・開かれていないか」という基準にこだわる人たちだ。

 彼らはたとえばこんなふうに言う。
この本の真のメッセージは、霊の目が開かれていない人にはわかりませんね
あのニュースには○○という啓示が込められていたけれど、霊の目が開かれている私にはすぐわかっちゃった

 どうやら彼らの霊には「目」があって、昔は閉じていたけれど、何かのキッカケで開いたらしい。そして見えなかったものが、見えるようになったらしい。

 それが事実ならすごいのかもしれないけれど、「私には見える」「でもあんたたちには見えない」という特別意識(あるいは優越意識)が前面に出ているのが気になる。霊の目ウンヌンの前に、そういう態度は聖書が言う「品性」に照らしてどうなのよ。

 ところで「目が開かれて、見えなかったものが見えるようになった」という表現は聖書にいくつか出てくる。だから彼らも使う。けれど「霊の目」なんてどこに書いてあるのだろう。
 もちろん「霊の目」ってのは比喩だろうけれど、「霊の領域」の話になると、とたんに「何とでも言えるの法則」が働きだすから注意が必要だ。
 ちなみ「何とでも言えるの法則」とは、私が今勝手につくった造語である。

「霊的」あるいは「霊の領域」とかいう言葉は、その関係のクリスチャンにとってほとんど免罪符みたいなものだ。たとえば「霊の領域で今、大いなる打ち破りが起こった」とか言う。そして同時に言う。「霊の領域で起こったことは現実世界に必ず現れる。しかしそこには時間差がある」
 だから見た目に何も起こっていなくても、「霊の領域」ですでに起こっているのだから、信仰を持って待っていなさい、という話になる。

 それで待っていると、そのうち、たとえば政治の世界で何かが起こったり、大きな事件事故が起こったり、自然災害が起こったりする。すると彼らは誇らしげに言う。「これがそれだ。あのときの打ち破りの結果だ」

 しかしその論法でいけば、何とでも言えてしまう(だから「何とでも言えるの法則」なのだ)。初めから「〇〇が起こる」と具体的に指定しているのでなく、「何だかわからないけど打ち破りが起こった。その結果はいずれ何かの形で現れる」としか言っていないのだから。

 私の知る限り、霊そのものについての詳細な説明は聖書にはない。聖書中のいくつかの出来事を通して、それの片鱗に触れるしかない。だから彼らが言うような「霊の目が閉じている・開いている」の具体的な判断基準を聖書に求めることはできない。

 だから彼らが言う「霊の目の開閉」は、すごく怪しい。その開閉がもたらすのが特別意識・優越意識でしかないのもそれを支持している。
 という訳で怪しい点をいくつかに整理して、以下に挙げてみる。

■「霊の目」の開閉にまつわる怪しい点

・判断基準がない

 繰り返すけれど、「霊の目の開閉」の判断基準は聖書にはない。だから誰の「霊の目」が開いていて誰のが閉じているのか、どうやって判断するのだろうか。どういう状態になったら「霊の目が開いている」と言えるのだろうか。そこに明確な基準があるのだろうか。

 彼らの場合、その基準は至ってシンプルだ。彼らの仲間内や知り合い、尊敬する「神の器」であれば「霊の目が開いている」ことになるし、敵対的な立場の人たちであれば「霊的に何もわかってない」ことになる。
 聖書がどう言ってるとか、実は彼らには関係ない。すべて自分たちの都合で決まっていく。都合に合うように聖書の言葉を利用しているだけだからだ。
 その姿勢は、彼らが普段から言っている「神様中心」とはほど遠い。

・「開かれている」度合い

 彼らは「霊の目が開いている・閉じている」という表現をよくするけれど、よくよく見ていると、その「開き加減」にある種の優劣があるのがわかる。

 たとえば、
私には○○という啓示が与えられたけれど、あの人にはもっと深い××という啓示が与えられていた
あの先生の啓示はいつも私たちの一歩先を行っている。やっぱりすごい
うちの子は〇〇って感じたみたいだけど、まだまだね
 みたいな感じ。

 つまり、「霊の目の開き加減」にはレベルがあって、「霊的訓練」とか「主との交わり」とかでレベルアップすることになっているようだ。そのへんのRPGみたいに。

 けれどそれだと話は余計面倒になる。「開いているか・閉じているか」という横の基準だけでなく、「どれだけ開いているか」という縦の基準が必要になるからだ。そしてやはりその基準も、客観的に判断できるものではない。

 自分とあの人とで、どちらがより「霊の目」が開いているか? それを決めるのは彼ら自身が感じる「すごい・すごくない」という感覚でしかない。そしてそれは「どれだけ感心したか」「どれだけ感動したか」という感情の部分の感覚で決まる。つまり霊的感覚などなんの関係もない。

 また優劣を断ずる時点で、誰が一番偉いかと競い合った十二弟子たちと同じ失敗をしてしまっている。そうではないだろうか。

・想像すればわかる範囲の「啓示」

 たとえば彼らは不安定な中東情勢をみて、「これはもう終末が近いサインだ」とか言う。「霊の目が開いている私にはわかる」というわけだ。
 でも彼らは目に見える情勢を受けて言っているに過ぎない。

 現に昨年のイスラエルとガザ地区との紛争を見て「もう終末だ」と言っていた人が複数いたけれど、ことごとく外しているのはご存知の通り。それが神様から直接受けた「啓示」(あるいは預言)であれば、外れるはずがない。
 だから彼らは目に見える状況から想像しているに過ぎない。

 聖書に登場する「主からの啓示」は、しばしば「起こるとはとても思えない、想像すらできない事柄」である。
 たとえば紅海を目の前にしたモーセは、もはや逃げ場のない状況だった。目に見える状況で言えばもう終わりである。しかしそのとき彼に啓示されたのは「杖を伸ばして海を分けろ」だった。

 この海を分けて進むシーンは超有名だから、私たちは感覚的に当たり前になってしまっている。だから「あー海が分かれるんだな」と漠然と思うのだけれど、当時のモーセにとってそんな話は初耳である。聞いたことも見たこともなく、起こるとも思えない。あなたも海を前にして棒切れを持ってみれば、彼の気持ちが少しはわかるかもしれない。

 ここで、今も預言や奇跡が確実に起こると仮定してみる。
 神の存在を証明しようと思ったら、目に見えて起こりそうな事柄を言い当てるのと、絶対に誰も想像できないことが起こると言い当てるのと、どちらが説得力があるだろうか。あなたはどちらを信じるだろうか。

私は霊の目が開いている」と言う人たちが言う「啓示」を、よく見てみることをお勧めする。
 どれもこれも、状況から想像できるものでしかない。想像を越えたものなどない。神様は私たちの想像をはるかに越えた方のはずだけれど、彼らが言う「神の啓示」は想像の範囲内におさまっている。すごくスケールが小さい。人が簡単に想像できることしかしない神様なら、それは聖書が言う創造主ではない。人が作った偶像である。

・最後に

 という訳で、「霊の目が開かれている」と主張する人たちにはご用心。
 彼らには何かが見えるのかもしれない。けれどそのせいで大事なものが見えなくなっている。彼らは「常識の目」を開けてもらう必要があるけれど、はてさて、どうしたものだろうか。

2015年6月15日月曜日

【体験談】弟子訓練って牧師にいいように使われるってことでしょ

 今回はいただいた体験談から。
 HN「たけのこ」さんの教会生活体験談を掲載させていただく。できるだけ原文のままにと心掛けつつ、一部編集させていただいた。

■たけのこさんの教会生活体験

 自分が「うつ」の診断を受けた頃、連日仕事に追われ、帰りはほとんど午前様、早く帰っても家に仕事を持ち帰る、という毎日を送っていました。

上司からの抑圧も多くありました。しかし生活のため、やるしかありませんでした。仕事と家庭の往復の日々。仕事帰りにどこかで休憩するという発想もその当時はありませんでした。また早く帰ることができても、気持ちに余裕がありませんでした。
 いつも心に焦りがあり、頭は明日の仕事のことばかりでした。

 教会には学生時代から通っていました。
 やれ伝道のため、やれ霊的戦いのため、やれリバイバルためと、いつも様々なイベントが企画されていました。外部の講師を招くのも日常茶飯事でした。またそれに関わる準備委員会も沢山ありました。

 牧師は何かにつけ私に電話してきました。
「今度の集会で奉仕をしてくれないか」
「準備と会議のためこれから来てくれないか」
「講師を駅まで迎えに行くのでこれから運転手をしてほしい。そして荷物持ちも」

 等々。ちょうど帰宅して一息つく頃に、そういう電話がかかってくるのです。見計らっていたのでしょう。
 一番あきれたのは「教会の蛍光灯が切れたからこれから取り換えに来てくれないか」との電話。牧師でもできるはずなのに。でも私の性格上、足は教会に向いていました。

 また、生活全般にも牧師や牧師夫人の指導が入りました。
「地域のお祭りに行くな」
「ジブリの映画は子供にみせるな」
「学校や自治会の行事で宗教に絡むことがあれば参加するな」
「仏式の法要は行くな」
「あの店は神道が関わるから絶対その店で買ってはならない」

 など今となっては呆れることではありますが、生活面の抑圧が多くありました。そういう不自由の中、ストレスは増す一方でした。

 仕事、教会そして日常のストレスに心身は疲れ、不眠、イライラ、自然と涙が出るなど、精神症状が多くなりました。耐えられなくなってメンタルクリニックに行ったところ、「うつ病」と診断されました。

 その後、メンタルクリニックの通院と並行して、牧師のカウンセリングを受けることになりました。
 牧師からは、悪霊のせいだとか過去の罪のせいだとか言われました。
 また職場に宗教の霊が絡んでるかもしれないからと、「断ち切りの祈り」もしました。牧師と共に寺社や過去の職場の近辺に行って祈りました。

 しかし、それで精神的に良くなることはありませんでした。
 私の教会はかねてから甲子園でのミッションと深く関わりがあり、十字架行進にも影響を受けていました。個人預言もよく行っており、そういうセミナーにも行くよう推奨していました。そういう教会でした。

 私は結局「霊的に問題があるから」とされ、生活面でいろいろな制限を受けることになりました。牧師や牧師夫人などから話されたことは何でも信じていました。
 今となっては信仰ではなく抑圧の日々だったのですが。

 自分の所属する教会でも「躁うつ病」「統合失調症」の人が多いです。
 中には「自分は預言の賜物がある!!」と言って勝手気ままに行動している人もいます。
 また病院に入院し手足を縛られないと対処できないほどの方もいると聞きました。

 今、教会にかかわる気持ちはほとんどありません。むしろ教会から距離を置き、自分と向き合うことにしています。その中でいろいろな「気づき」がありました。癒えていないトラウマ、時間管理の下手さ、家庭を顧みない態度、等いろいろです。今はドクターの指導のもと、今後の就労に結び付けていきたいと考えているところです。(以上)

■弟子訓練被害

 読んでいて胸の痛む体験談である。私自身の経験と被る部分も大きかった。
 これはいわゆる弟子訓練被害の典型である。過重な奉仕、時間帯無視の呼び出し、生活上の細かな制限、そしてそれらを断れない「訓練」という名の脅迫。

 牧師は「本人がそう望むから訓練している」とか言うだろうけれど、信徒の方は「弟子訓練こそ御心」と教えられている。その前提を疑うはずもなく、教えられたまま信徒は「弟子訓練を望む」。すると牧師は「望まれているから訓練してやっている」と言える。
 エサに食いつくよう魚に教えておき、実際に食いついたら竿で釣り上げる、みたいな感じだ。

 しかし、繰り返すけれど「訓練」というのは名目であって、内情は牧師にいいように使われているだけだ。蛍光灯を換えに来いとか、運転手をしろとか、今からミーティングに来いとか、そんなの「神のため」でも何でもない。結局のところ牧師の欲求を満たすに過ぎない。

 こういう弟子訓練被害に遭う人が多い。
 おそらくこれと似た体験は千も万もある。今も進行中の被害があり、今日もどこかで誰かが過重な奉仕に苦しみ、突然呼び出され、不当に怒鳴られ、あれもこれも制限された中で「これこそ訓練」「これこそ自由」と思い込もうとしている。
 そういう人たちにこの体験談が少しでも届けばいいと私は願う。

 たけのこさん、ありがとうございました。

2015年6月14日日曜日

【雑記】永遠に生きる準備?・面白かった検索ワード・言い方の問題?

 最近気になったこと、考えたこと、面白かったこと等々。
 
■神と永遠に生きる準備?
 
「あなたは神様と永遠に生きる準備ができていますか?」という質問を投げ掛ける牧師がいる。
 たぶん本当に質問したい訳じゃなく、メッセージの取っ掛かりとしてそういう質問を設定しているんだと思う。キリストは質問上手だった、みたいな話を聞いたことがあるけれど、もしかしたらそういうのをイメージしたのかもしれない。
 
「神様と永遠に生きる準備」ってなんだろう、というのが私の正直な疑問。まあそこは信仰に生きるとか、神とともに歩むとか、神に従って善行を積んで生きるとか、そんなようなのが模範解答なのかもしれない。
 
 けれどもしそうだとしたら、どこか律法主義というか、ご利益主義みたいなものを含んでいる気がする。しっかり準備しないと(天国で)神と共にうまく生きていけない、みたいな話になるからだ。
 たとえば、ものすごい犯罪者が死ぬ寸前に改心してキリストを受け入れ、救われたとする。そして間もなく死んだ。その人の信仰生活は皆無、教会生活も皆無、礼拝も祈りも一秒もしていない、ということになる。
 すると、その人はなんの「準備」もできなかったはずだから、神と永遠に生きる上で何らかの不利益を被るのだろうか。どこか惨めな、後ろめたい気持ちを抱えて永遠に生きることになるのだろうか。
 だとしたらそこは天国なのだろうか。現実世界の延長ではないだろうか。
 という疑問。

■先週の当ブログへの流入検索ワードが面白かった件

 当ブログへ流入してくる検索ワードを時々チェックしている。カルト関連のワードが多いのだけれど、先週のはちょっと珍しく面白かったので紹介してみたい。

・チアにっぽんカルト系ですか?

「SNS断食」を推奨しているのはこの団体で、私はそれは「やりすぎ」だと思っている。けれどカルトかどうかは別問題であろう。内情はよくわからないから何とも言えない。
 しかし「SNS断食で神様に近づけた」とか言う若者が輩出されるとしたら、将来ちょっと心配である。

・ハリーポッター 悪魔崇拝

 根強い人気のハリーポッター。先週も入ってました。

・プレイズ みての中で 歌詞

 このワードで当ブログが引っかかるのが不思議なんですが・・・。
 ところで歌詞は見つかりましたか。

・私の異言は早口

 これが秀逸。想像するに、たぶん「異言」と信じて無意味な単音を唱えている人が、「ちょっと早口すぎるかな」と心配しているのではないかと思う。
 聖書の言う「異言」は、未学習・未体験の外国語を瞬間的に語り出す現象である。本人もまったく理解できないのだけれど、その外国語は文法的にも完璧だ。
 一方「異言モドキ」は「人の真似」から始まる「無意味な単音」あるいは「無意味な発音の羅列」である。多いのは「ララララララ・・・」とか「チャパチャパチャパ・・・」とか、まあそんな感じ。
 基本牧師や先輩の「真似」から入るから、「異言モドキ」はどこに行ってもみな同じように聞こえる。
 そういう単音の繰り返しは、早口になりやすい。特に熱心に祈ろうとすればするほど、早くなってしまう。
 だから検索した人の疑問に答えるとしたら、あなたの「異言」が早口なのでなく、「異言モドキ」の単音だから早口になってしまうんですよ、って感じ。

 以上、また面白い検索ワードがあったら紹介したい。
 
■言い方の問題?
 
 以前書いた記事『「寛容さ」と「不寛容さ」について考えさせられた、という話』にコメントをいただいた。私が批判されるのは、私の言い方の問題ではないのか、という内容のもの。

 なるほど、確かに言い方が悪い時があるかも。あえて小バカにした表現を使うこともあるし。

 私としてはそれは意図的にやっているのだけれど、受け手には受け手の事情があって、不快な思いをさせることもあるのだろうと思う(しかしそれは文章というもの全般に言えることだろう。万人を満足させる文章などあるだろうか)。
 
 それはそれとして、そのコメントに対する私の感想を一言。
 言い方ひとつでイチャモンつけてくるとしたら、クリスチャンってずいぶん「不寛容」なんですね。

2015年6月11日木曜日

「油事件」に対するクリスチャンの反応について

 神社仏閣に不法侵入して「きよめの油」を撒いちゃったキリスト教団体幹部の事件について、私たちクリスチャンはどんな態度を取るべきか。

 あれは行き過ぎでしょ、というのがごく普通の態度だと思う。ほかにも同じクリスチャンと思われても困るとか、重大な教義的逸脱があるとか、まあ意見はいろいろありそうだ。

 その中で私が注目したいのは、同じように「霊の戦い」を強調し実践してきた人々がどんな態度を取るか、だ。自分たちの同類に対して彼らがどんな態度を示すのか、非常に興味深かった。

 けれど残念なことに、ほとんど何の反応もないのが現状だ。もちろん全ての教会の反応を網羅している訳ではないし、彼らが教会内で言っていることは確認しようがない。けれど少なくとも公式な発言は何も聞こえてこない。「霊の戦い」を実践している教会ほど、今回の件に関して「沈黙」を守っている。
 ではその「沈黙」は何を意味するのだろうか。

 沖縄の某自称クリスチャンは「霊の戦い」の実践者として有名(?)だけれど、こんなことを言っている。
この件に関しては聖霊様から沈黙するよう言われています
 まあ自分も同じようなことをしてきたのだから、当然ながら慎重になるのであろう。下手に発言して問題になっても面白くないだろうし。

 しかしこのケースの場合、「沈黙」はほとんど「支持」と同じ意味になる。間違っていることを間違っていると言わないのは、中立にはならない。たぶん「霊の戦い」はキリスト教界で是か非かはっきり分かれる問題だろうし、そこに中立という立場は存在しないだろう。肯定か否定か、どちらかしかない。

 たとえばイジメの現場を見て見ぬフリをする人は、「自分には関係ない」と中立的立場に立っているつもりだろうけれど、イジメられている人からしたら敵でしかない。助けてくれる人、後からでも何かのフォローをしてくれる人だけが味方なのだ。

 だから今回の事件に関して「沈黙を守ります」と言うのは、その犯行を暗に支持しているのと同じことになる。自分たちだって同じようなことをしてきたし、これからもするからだ。けれど不法侵入とか器物損壊といった犯罪行為を公に肯定する訳にもいかないから、沈黙する他ない。彼らとしては気まずい状況である。

 気まずい時にどうするかというと、責任転嫁である。「神様がそう言った」「神様が〇〇しろと言った」からそうしたのであって、自分はあくまでそれに従っただけ、という「従順なる僕」を気取る。全部神様のせいにして、自分は何も悪くないのである。

 正直なところ、彼らにとって問題なのは油を撒いたことではない。むしろそれは当然すべき使命でさえある。問題なのは犯人が不法侵入とか器物損壊とかで逮捕騒ぎになったことだけだ。彼らにとって神社仏閣が「敵」であるのは、今もこれからも変わらない。夜な夜な神社仏閣に向かって罵声を浴びせ続けるのも、変わらない。

 彼らは多分「あんなふうに報道に取り上げられるのは困る」くらいにしか思っていない。「もっとうまくやるべきだ」「もっと賢い方法ですべきだ」というのが正直な感想だろう。

 つまり、犯人とその犯行を基本的に「支持」している。だからこその「沈黙」なのだ。

 先の某自称クリスチャンの談に戻ると、
同じクリスチャンとして悔い改めます
同じクリスチャンとして裁くことはしません
 みたいなことを言っている。

 けれどあなたが悔い改めても、犯人が悔い改めないと意味がない。たとえあなたが土下座して謝っても、神社仏閣側からしたら「あんた誰」である。

 また聖書をちょっと読んでみれば、クリスチャンがクリスチャンを裁くのは至極当然だとわかる(コリント第一)。偽物を見抜くようにとも書いてある(黙示録)。
 ということは教会とかクリスチャンの集まりにはどうしても偽物が紛れ込む訳で、それはある程度避けられない。だからこそ間違った教えを吹き込む輩をちゃんと見つけ出して、然るべき対処をするのも教会の重要な役目だ。

 だから彼らは「人を裁くな」の意味を履き違えている。自分たちに追求が及ぶのを恐れている。だからこそ今「沈黙」している。不利な状況が過ぎ去るまで、じっと身を潜めている。
 でもそれってズルいことでしょ。と私は思う。

2015年6月8日月曜日

「油事件」に思う「霊の戦い」の問題点・その2

 このところ「油事件」関連の話を取り上げているけれど、この問題の根本にあるのは「霊の戦い」の問題だ。油で悪を清めるとか、祈って悪を清めるとか、「聖vs悪」という構図が前提となっているからだ。
 この「霊の戦い」の問題点について前回少し書いたけれど、今回はもう少し掘り下げて書いてみたい。ポイントは「架空である」ということだ。

・架空の敵

「霊の戦い」と言うからには「敵」がいなければならない。そしてこの場合、敵というのは「サタン」とか「悪霊」とかいう存在になる。
 それらが存在するのは聖書が言っている。だから否定しない。けれど彼らが言う「敵」というのは極めて怪しい。たとえばこんな感じ。

「礼拝の雰囲気が重苦しいから敵がいる」
「祈っていて圧迫感があるから敵がいる」
「この場所(神社とか)に近づくと気分が悪くなるから敵がいる」
「○○をしようとしたら妨害が入ったから敵がいる」

 そうやって「敵」が形作られていく。礼拝を邪魔する霊、祈りを圧迫する霊、神社仏閣に巣食う霊、何でも妨害する霊、みたいな感じ。
 けれどそれらはあくまで個人の主観の問題で、「霊的感覚」などではない。単なる「五感」の話だ。見て聞いて肌で感じた「感覚」でモノを言っているに過ぎない。
 もちろん彼らは「御霊に感じだ」みたいな聖書用語を使うだろうけれど。

 けれどそのやり方でいくなら、「悪霊」はいくらでも創造される。たとえば朝起きがけに気分を悪くさせる霊、出勤するのを億劫にさせる霊、満員電車でウンザリさせる霊、ギターで賛美しようとすると弦を切る霊、メッセージを始めるとワイヤレスマイクの電池を空にする霊、とか、まあ何とでも言えてしまう。

 そういう「敵」が日常的に私たちの周囲にウジャウジャしているとしたら、私たちは四六時中戦っていなければならない。決して休めない。休んだらその「敵」にやられてしまうからだ。

 現にそうやって戦ってばかりで心を休めなくなり、精神的に参ってしまったクリスチャンがいる。

 けれどそういう「霊の戦い」を率先する牧師を見てみると、目立つところで「戦い」を演じているだけだ。あとは教会会計で食べたり飲んだり、親しい信徒を囲ってバカ話に盛り上がったり、牧師室でイビキをかいて寝たりと、やりたい放題。
 結局のところ彼にとって「霊の戦い」はパフォーマンスでしかない。都合のいいように「敵」を作り出しているだけ。存在しない敵を。

・勢いで押しきる架空の戦い

 では架空の敵に対してどう戦うのか。
 存在しない敵なのだから、当然ながらその「戦い」自体存在しない。戦っている振りをしているだけ。
 その「戦い」というのがまた神学的にメチャクチャなのだけれど、一応彼らの主張を説明してみると、ザッとこんな感じになる。

 まずは神を礼拝する。大音量で、大きな声で、「異言」で、盛り上がって礼拝することで、「霊的力」が補充される。それで「霊的に敏感」になれる。
 その礼拝のクライマックスで「霊的至聖所」に至ると、神の御心がバンバン入ってくる。それで「敵」の存在についても啓示される。
 啓示された「敵」と戦う。「イエスの御名によって出ていけ!」とできるだけ大きな声で、怒鳴って、怒って、指をつきつけて、「宣言」すると効果的(らしい)。
 その「宣言」に敵は抗うことができないので、クリスチャンの側が自動的に勝利する(じゃあ怒鳴る必要なくね?)。
 ↓
「勝利」したので皆でハレルヤ三唱。

 まあいつも書いていることだけれど、「異言」の祈りで「霊的力」が充電されるとか、それによって秘密の「敵」が啓示されるとか、怒鳴らないと勝てないとか、聖書のどこにも書かれていないことが勝手に展開されている。

 そういうふうに「霊の戦い」は、全行程においておかしい。くわえて戦う前に設定される「敵」が架空なのだから、その後の「戦い」も「ハレルヤ三唱」も全部架空なのである。

「敵」もおらず、「戦い」もなく、「勝利」もなく、それを導いた「神」もいないのに、その全てを妄想して「ハレルヤ―」と喜ぶ人々がいる。これが痛々しくなくて何なのだろう。

・結局何も変わらない徒労感

 そういう訳で「霊の戦い」は架空の話であり想像の世界の話なのだけれど、それを実行する人々は実在する。彼らは上記の行程をクソ真面目に実践するから、非常に大変だ。朝だろうが夜だろうが教会に集まって、何時間も祈ったり叫んだり、深夜にこっそり神社仏閣で祈ったり、とにかく「戦い」の連続である。休む間もなく、その忙しさを「神への献身」と思い込んでいる(彼らが早く誤りに気付くことを私は願う)。

 だから架空の戦いを繰り広げる彼らの徒労は非常に大きい。
 それをしたから「霊的に成長」する訳でもないし、金銭が入る訳でもない。時間と労力を浪費するだけ。あるいはせいぜい聖書箇所に詳しくなるだけだ(あくまで箇所に詳しくなるだけ)。

「いや、たしかに霊的には成長した」と主張する方がいるかもしれない。しかし人間は知的にはいつまでも成長する生き物である。だからその「成長」が本当に「霊的」なものなのかどうか、どうやって証明するのだろうか。またどれだけ「霊の戦い」を繰り広げたとて、自分の中の罪深さが全然変わっていないのは、あなた自身が一番よく理解しているはずだ。

 くわえて「敵」が架空なのだから、当然ながら現実世界に何の変化ももたらさない。たとえば神社仏閣で「戦って」「勝利」したからとて、何も変わらない。神社は以降も存続する。NYで自由の女神と「戦って」「勝った」からって、それがいったい何なのだろうか。彼らは「霊的世界が変化した」とか言うけれど、現実世界が明らかに変化しなければ、霊がどうのなんて何の意味もない。

 という訳で「霊の戦い」は全行程において徒労なのである。もし熱心に頑張っている方がいるなら再考をお勧めする。

2015年6月7日日曜日

【セミナー記録】「教会のカルト化 ―神のことばに混ぜ物をして売る危険―」から

 6月5日(金)、お茶の水CLCで表記のセミナーがあった。
 講師は村上密先生。「油事件」の影響か、会場は満員。一生懸命メモを取る方も大勢いた。教会のカルト化に対する関心が高まっているのだろうか。

 私も聴きながらメモしたので、内容をざっと編集しつつ、セミナー内容を紹介してみたい。
 もちろんこれは一参加者の興味と偏見による記録であって、セミナー全体を網羅したものではないのであらかじめご了承を。また編集段階で私の考えや感想が混じっている。

 また「福音に混ぜ物をする危険」というのが今回のテーマで、要は「繁栄の神学」を扱っているのだけれど、体系的な話というよりフリートークに近いものだった。だから箇条書きでまとめることにする。

・初代教会時代にみる、ユダヤ人伝道と異邦人伝道の違い

 使徒行伝にみられる、ユダヤ人向け伝道とギリシャ人向け伝道の違い。
 ユダヤ人には(主に)しるしと奇跡が多く現された。しかし異邦人には(主に)論証・弁証をもって福音が伝えられた。

 単純にユダヤ人が奇跡を好み、異邦人が論証を好んだ、ということではないと思う。どちらも大切であろう。奇跡にだけ注目するのでもなく、論証にだけ注目するのでもなく、両者をバランス良く見ようとする姿勢が重要なのではないだろうか。

 しかし奇跡を強調するのが、昨今問題を起こしている教会の傾向である。今回の「油事件」などまさにその典型。

 他にも初代教会時代のグノーシス派の侵入って話もあったけれど、よくわからなかったので(こりゃ失敬)、割愛する。

・「油事件」の情報提供者は村上先生

 もしかしたら皆知っていたかもしれないけれど、私は初めて知った。
 犯人が「油まき」の冒険談(?)をとくとくと語る
映像を入手し、それを京都の警察に提供したそうだ。

・キリスト教を侵食する哲学

 現在、世界で一番キリスト教に影響を与えている哲学は成功哲学である。
 成功した人が祝福された人であり、「成功=祝福」という構図が多くの教会を侵食している。そして福音と成功哲学が組み合わさったのが「繁栄の神学」である。
 ノーマン・ピールとナポレオン・ヒルがその考え方の提唱者で、韓国のチョー・ヨンギが世界的に広めた。アフリカではこれが爆発的に広まった。ガジマも信奉者で、400人を甦らせたらしいけど日本では猫一匹甦らせていない。

 言うまでもないけれど、クリスチャンは祝福とともに苦しみにも預かっている。成功と祝福だけではない。
 しかし教会がなかなか成長しない牧師らは肩身がせまく、手っ取り早い方法論に飛び付きやすい(あくまで傾向だと思うけれど)。そして弟子訓練とか霊の戦いとかの「神学なき実践」にハマっていってしまう。

・教会を蝕む「恐れ」

 呪いは3代、4代に及ぶと書いてある。そこから呪いを必要以上に恐れる傾向が生まれる。
 たとえば、ラーメン屋で出されたラーメンの器にドラゴンの模様があるとする。ドラゴンは悪魔の象徴だから、食べないで店を出ていってしまう。またテレビにドラゴンが映ると、すぐに消す。といった具合。

 しかし恵みは千代に及ぶと書いてある。計算すると、アダムから現代まででも千代もない。「千代」というのはユダヤ的な大袈裟な表現で、恵みは全代に及ぶ、という意味。

 呪いを恐れるあまり、動物の血を門や玄関に塗る人々もいる。
 よく寝坊する子に「悪霊よこの子から出ていけ」と怒鳴り付ける母親がいる。けれどそれが生むのは親子間の断絶でしかない。

・80年代の転機

 心理学の発達が顕著だったのが80年代。当時カウンセリングの手法を取り入れる牧師が多かった。しかしユングの心理学は神秘主義であり、なんでもかんでも悪霊のせいにされる傾向が強まった。
 また万民祭司を否定する向きも現れた。牧師が、神と信徒の間に自分を置くようになった。結果、明治にも大正にも戦前戦後にもなかった教会の奇行が昨今目立つようになってしまった。

・「五役者の回復」の誤り

 終わりの時代に五役者が回復するなんて聖書に書かれていない。またリバイバルが来るとも書かれていない。
 なのに五役者回復を支持する牧師らは、五役者に序列をつけている。すなわち使徒が一番、預言者が二番、って具合に。でもその序列でいくと、牧師って一番最後なんですけど?(ここ笑うとこ)
 また世の終わりに起こるのは世界的なリバイバルでなく、世界的な背教。

・その他、面白かったこと

 昨今、牧師が登壇する時に「ロッキー」とかのBGMを流す教会がある。おいおい、ボクサーかレスラーかよって話。

 どうにもならない状況で、しるしや奇跡を求める傾向が現れる。それで悪霊を追い出してもらうために身体中をバシバシ叩かれる人がいる。

 ベニーヒンの話。集会では熱心な人々を意図的に前列に集め、大音量で圧倒させる。暗示にかかりやすい前列の人々が倒れることで、会場中に連鎖反応を起こさせる。

 成功哲学そのものは悪いものではない。生き方を学ぶことができる。しかしそれを信仰の糧にするといろいろ問題になる。

・おかしな信仰が日本に入ってくる理由

 答えは単純明快。日本にお金があるから。貧しい国でやるよりずっと効率がいい。
 また日本は宗教教育をしていないから、免疫がなく、だましやすい。

・最後に注意

 新しい言葉に注意。聖書に書かれている単純な言葉を、仰々しい言葉で表現することに注意。その途中で混ぜ物が入るから。
 リバイバルは来ない。教会は減り、クリスチャンは減り、おかしな信仰に毒され、次第にダメになっているのが現状。

↑セミナーの様子。ちなみに帰りがすごい雨で泣けた。

2015年6月2日火曜日

「油事件」に思う「霊の戦い」の問題点

 国内の複数の神社仏閣に「油」を注いで「きよめ」ようとした宗教関係者の所業がこのほど発覚した。

 本人はアメリカ在住のようでまだ逮捕に至っていない。キリスト教系宗教団体の幹部だとのこと。神社仏閣に侵入して「きよめの油」をかける姿を防犯カメラに撮られ、今回の発覚につながった。本人いわく、「日本の神社を油できよめ、日本人の心を古い慣習から解放する」ためだったらしい。

 当人は「使命に燃えた解放者」を気取ったようだけれど、またも「キリスト教って変」というイメージを上塗りした形である。それで「解放」された日本人がいればまだ救いがあったけれど、結局は宗教に対する偏見を増しただけではないだろうか。

 この件に関してはいろいろ意見があるだろうけれど、私が思うにこれは氷山の一角に過ぎない。この手の「霊の戦い」をする教会は日本中にあるし、彼らは気が向くと(だいたい夜に)神社仏閣や繁華街を巡り歩いて仰々しい「祈りの戦い」を繰り広げる。だから今回の「油事件」の背後には無数の類似事件があり、予備軍が沢山いる訳だ(統計的な数字はわからないけれど)。

 けれどその予備軍のほとんどは「教え」の問題の被害者とも言える。
 多くの信徒は牧師に心酔したり、著名人に心酔したりして、彼らの言うことに盲信してしまっている。そしてそういう変な「戦い」に自らを陥れている。もちろんそこには「ちゃんと考えろ」みたいな批判もあるだろうけれど、権威主義的教会で抑圧されている信徒にそれを言うのはちょっと酷というものだ(と私は思う)。

 そういう意味で騙されている信徒の皆さん向けに、神社仏閣で「霊の戦い」をすることの疑問点、問題点を以下に挙げてみたい。

■神社仏閣で「霊の戦い」をすることの疑問点、問題点

・いつも夜遅くに出向く
 彼らはいつも夜遅くに、誰もいない神社仏閣に入っていく。あるいは周囲をうろつく。なぜか?
 誰にも見られたくないからだ。そしてそれは後ろめたいからに他ならない。
 その「戦い」が正当で、神からの使命であるなら、昼間堂々と戦えばいい。住職とかお坊さんとかの眼前で、建物に油でもなんでもかけて、エリヤとバアルの預言者たちがしたような「祈り合戦」をしたらいい。
 なぜそうしないのか? それは「多くの信徒は昼間働いていて集まれないから」ではない。どうしても戦わねばならないなら1人でも戦える。神は全能なのだから。そうしないのは「勝つ自信がない」からだ。お坊さんの目の前で明確な「神のしるし」を披露する自信がなく、結局相手にされなくて惨めな思いをするのが恐いからだ。
 つまり「確かに神から派遣された」という自信がないから、彼らは深夜にこっそり神社に入っていく。

・勝利が全然明確でない
 深夜に神社仏閣で祈り狂い、「勝った」と彼らは言う。けれどその「勝った」について彼らは明確に説明できない。べつにその神社が潰れる訳じゃないし、文字通り崩壊する訳じゃない。住職が呪い殺される訳でもない。神社の資金繰りが徐々に悪くなっていくとか、住職がいつか健康を害するとか、そういうことが将来起こるかもしれないけれど、それは「勝った」と何の関係もない。
 ちなみに今回の油事件で言えば、その幹部は明らかに「敗北」している。彼は「悪霊に邪魔された」とか言うかもしれないけれど、いやいや、あんた悪霊と戦いに行ったんでしょ?

・その戦いを公にできない
 それが神からの使命で、正当な戦いであるなら、何も恥じることはない。公衆の面前で堂々とやったらいい。そして明確な勝利を得て、キリスト教の神が正しいことを広く知らしめればいい。けれど彼らのやり方は「夜遅く」「誰にも見られず」「曖昧な勝利」である。くわえてその「戦い」の話を公にしない。自信満々に「勝った」と言うのは信徒に対してだけであり、外部に対しては沈黙を守っている。なぜか?
 彼らは「霊的なことだから言ってもわからない」とか偉そうに言うだろうけれど、真相は違う。「誰も信じてくれないしバカにされそうだから言えない」のだ。
 もし異論があるなら、あなたの「霊の戦い」の話を未信者にしてみて下さい。信者にでなくて。

 他にもあるだろうけれど、ざっと問題点を挙げてみた。
「霊の戦い」に葛藤を覚えている人がもしいたら、上記の点についてちょっと考えてみていただきたい。