「油事件」に思う「霊の戦い」の問題点・その2

2015年6月8日月曜日

「霊の戦い」の問題

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 このところ「油事件」関連の話を取り上げているけれど、この問題の根本にあるのは「霊の戦い」の問題だ。油で悪を清めるとか、祈って悪を清めるとか、「聖vs悪」という構図が前提となっているからだ。
 この「霊の戦い」の問題点について前回少し書いたけれど、今回はもう少し掘り下げて書いてみたい。ポイントは「架空である」ということだ。

・架空の敵

「霊の戦い」と言うからには「敵」がいなければならない。そしてこの場合、敵というのは「サタン」とか「悪霊」とかいう存在になる。
 それらが存在するのは聖書が言っている。だから否定しない。けれど彼らが言う「敵」というのは極めて怪しい。たとえばこんな感じ。

「礼拝の雰囲気が重苦しいから敵がいる」
「祈っていて圧迫感があるから敵がいる」
「この場所(神社とか)に近づくと気分が悪くなるから敵がいる」
「○○をしようとしたら妨害が入ったから敵がいる」

 そうやって「敵」が形作られていく。礼拝を邪魔する霊、祈りを圧迫する霊、神社仏閣に巣食う霊、何でも妨害する霊、みたいな感じ。
 けれどそれらはあくまで個人の主観の問題で、「霊的感覚」などではない。単なる「五感」の話だ。見て聞いて肌で感じた「感覚」でモノを言っているに過ぎない。
 もちろん彼らは「御霊に感じだ」みたいな聖書用語を使うだろうけれど。

 けれどそのやり方でいくなら、「悪霊」はいくらでも創造される。たとえば朝起きがけに気分を悪くさせる霊、出勤するのを億劫にさせる霊、満員電車でウンザリさせる霊、ギターで賛美しようとすると弦を切る霊、メッセージを始めるとワイヤレスマイクの電池を空にする霊、とか、まあ何とでも言えてしまう。

 そういう「敵」が日常的に私たちの周囲にウジャウジャしているとしたら、私たちは四六時中戦っていなければならない。決して休めない。休んだらその「敵」にやられてしまうからだ。

 現にそうやって戦ってばかりで心を休めなくなり、精神的に参ってしまったクリスチャンがいる。

 けれどそういう「霊の戦い」を率先する牧師を見てみると、目立つところで「戦い」を演じているだけだ。あとは教会会計で食べたり飲んだり、親しい信徒を囲ってバカ話に盛り上がったり、牧師室でイビキをかいて寝たりと、やりたい放題。
 結局のところ彼にとって「霊の戦い」はパフォーマンスでしかない。都合のいいように「敵」を作り出しているだけ。存在しない敵を。

・勢いで押しきる架空の戦い

 では架空の敵に対してどう戦うのか。
 存在しない敵なのだから、当然ながらその「戦い」自体存在しない。戦っている振りをしているだけ。
 その「戦い」というのがまた神学的にメチャクチャなのだけれど、一応彼らの主張を説明してみると、ザッとこんな感じになる。

 まずは神を礼拝する。大音量で、大きな声で、「異言」で、盛り上がって礼拝することで、「霊的力」が補充される。それで「霊的に敏感」になれる。
 その礼拝のクライマックスで「霊的至聖所」に至ると、神の御心がバンバン入ってくる。それで「敵」の存在についても啓示される。
 啓示された「敵」と戦う。「イエスの御名によって出ていけ!」とできるだけ大きな声で、怒鳴って、怒って、指をつきつけて、「宣言」すると効果的(らしい)。
 その「宣言」に敵は抗うことができないので、クリスチャンの側が自動的に勝利する(じゃあ怒鳴る必要なくね?)。
 ↓
「勝利」したので皆でハレルヤ三唱。

 まあいつも書いていることだけれど、「異言」の祈りで「霊的力」が充電されるとか、それによって秘密の「敵」が啓示されるとか、怒鳴らないと勝てないとか、聖書のどこにも書かれていないことが勝手に展開されている。

 そういうふうに「霊の戦い」は、全行程においておかしい。くわえて戦う前に設定される「敵」が架空なのだから、その後の「戦い」も「ハレルヤ三唱」も全部架空なのである。

「敵」もおらず、「戦い」もなく、「勝利」もなく、それを導いた「神」もいないのに、その全てを妄想して「ハレルヤ―」と喜ぶ人々がいる。これが痛々しくなくて何なのだろう。

・結局何も変わらない徒労感

 そういう訳で「霊の戦い」は架空の話であり想像の世界の話なのだけれど、それを実行する人々は実在する。彼らは上記の行程をクソ真面目に実践するから、非常に大変だ。朝だろうが夜だろうが教会に集まって、何時間も祈ったり叫んだり、深夜にこっそり神社仏閣で祈ったり、とにかく「戦い」の連続である。休む間もなく、その忙しさを「神への献身」と思い込んでいる(彼らが早く誤りに気付くことを私は願う)。

 だから架空の戦いを繰り広げる彼らの徒労は非常に大きい。
 それをしたから「霊的に成長」する訳でもないし、金銭が入る訳でもない。時間と労力を浪費するだけ。あるいはせいぜい聖書箇所に詳しくなるだけだ(あくまで箇所に詳しくなるだけ)。

「いや、たしかに霊的には成長した」と主張する方がいるかもしれない。しかし人間は知的にはいつまでも成長する生き物である。だからその「成長」が本当に「霊的」なものなのかどうか、どうやって証明するのだろうか。またどれだけ「霊の戦い」を繰り広げたとて、自分の中の罪深さが全然変わっていないのは、あなた自身が一番よく理解しているはずだ。

 くわえて「敵」が架空なのだから、当然ながら現実世界に何の変化ももたらさない。たとえば神社仏閣で「戦って」「勝利」したからとて、何も変わらない。神社は以降も存続する。NYで自由の女神と「戦って」「勝った」からって、それがいったい何なのだろうか。彼らは「霊的世界が変化した」とか言うけれど、現実世界が明らかに変化しなければ、霊がどうのなんて何の意味もない。

 という訳で「霊の戦い」は全行程において徒労なのである。もし熱心に頑張っている方がいるなら再考をお勧めする。

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