カルト被害者の回復を阻むもの

2015年6月28日日曜日

カルト問題

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「脱カルトの経験がなく、カルトを擁護するのでもなく、カルトも脱カルトも客観的に観察して学びたい」という人がいる。
 学んでどうするんだと思うけれど、まあそこは個人の自由だから何も言わない。しかし「客観的に観察して学びたい」という点はちょっと気になる。

 客観性の問題だけれど、カルト側にも脱カルト側にも客観性など期待できないし、期待するべきでもない。と私は思う。

 カルト側には特に何も期待できない。その問題点はここでいつも書いているけれど、彼らは聖書も神も信徒も都合よく利用する。聖書の言葉から都合のいい部分だけ抜き出し、都合よく解釈し、都合よく信徒らに押し付ける。たとえ反対されても「神様にそう語られたんだから仕方がない」で済ませる。「霊的」という言葉ですべてをウヤムヤにする。
 つまり自分たちは完全に「正しい」のであって、一切の反対を受け入れない。どんなに「客観的な」証拠を突きつけても無駄だ。たとえ法的に罰せられても「悪魔の策略だ」とか言ってとことん自己正当化する。
 だからカルトに客観性など期待できない。彼らが言う「客観性」は都合のいい彼ら自身の主観でしかない。

 それを糾弾する脱カルト側も、客観性を持つのは難しい。
 そもそも彼らが被害者であることを忘れてはならない。そして被害者心理は同じ被害者かそれに近しい人間にしかわからない。
 彼らが自分の被害について語るのはすごく大変なことだ。そして語ることができたとしても、その話に何かしらの客観性を求めるのは難しい。彼らにとって優先されるのは被害について語ることでなく、回復することだからだ。

 たとえばレイプ被害者がやっと重い口を開いて、被害についてポツポツと話してくれたとする。聞いたあなたは、どんな状況だったのかもっと詳しく話せとか、その話の証拠はあるのかとか、事件を客観的に分析してみろとか、自分に非がなかったと言えるのかとか、そんなことが言えるだろうか。とてもじゃないが私にはできない。警察や検察ならそれをする義務があるのだろうけれど、少なくとも「観察して学びたい」だけの人間にそんなことする資格も何もない。
 そしてそれはカルト被害についても同じである。

  カルト問題の難しさの一つは、誰に相談すべきか見極めるのが難しいという点だ。
 下手に他教会の牧師に相談してしまうと、「牧師批判はやめなさい」とか「牧師だって間違いを犯すのだから許しなさい」とかと簡単に(そして無情に)言われてしまう。またカルトについて理解のないクリスチャンらは「批判してはいけません」とか「神様を見上げていれば大丈夫です」とかと能天気に言う。まるで被害者自身に非があるみたいな言いっぷりだ。

 それはいわゆるセカンドレイプ被害だ。痛めつけられた人が、助けを求めた相手から更に痛めつけられる。相手は一見、助けてくれるように見える。善意の人のように見える。しかしカルト被害について何も知らないから、適切なことが言えない。良かれと思って人を深く傷つける。そしてそのことに全然気付かない。

  カルトや脱カルトを「客観的に観察して学びたい」というのは、そういう訳で全然お呼びでないどころか、害をなす行為だと私は思う。余計なお世話でしかない。

 これを有名な「良きサマリヤ人」のたとえで言うと、カルト被害者は強盗に襲われた瀕死の人である。祭司やレビ人はそれを見て見ぬフリで通り過ぎた。 次に「客観的に観察して学びたい人」がやってきて、被害者を「客観的に観察」し、何かを「学んだ」つもりになって去っていった。その後から本物の良きサマリヤ人がやってきて、あとは聖書に書いてある通り。

 カルト・脱カルトの問題に中立的立場など存在しないと私は思う。少なくとも当時者にとってはそうだ。カルトの側に付くのか、脱カルトの側に付くのか、そこが明確になっていなければどちらにも近づけない。どちらからも受け入れられない。そしてどちらの側にも付かない立場は「中立」でなく「無関係」だ。そして無関係であるなら、無関係でしかない。
 もちろん無関係でも発言するのは自由だけれど、いったい誰が耳を貸すだろうか。

  カルト被害者に近づくのは覚悟のいることだ。本気で関わりたい、本気で助けたい、途中で投げ出さない、とことんまで付き合う、という心づもりがなければ、結果的に相手を傷つけるだけになりかねない。そこには犠牲が付き物だし、そもそもそれを犠牲と思うなら動機を見直すべきだ。それにくわえてカルトに関する知識や経験も必要で、気持ちだけではどうにもならない。

  カルト関連の掲示板など見ていると、時々無関係な人間が「きれいな正論」でセカンドレイプしていることがある。本人は良かれと思って言っているだけに複雑である。それもあってこの記事を書いてみた次第だ。

■追記

 本記事は、いただいたコメントから発想を得て書いたものだけれど、そのコメントに対する返答ではない。またそのコメントの趣旨を無視して一部抜粋したものでもない。むしろそのコメント全体から滲み出る「態度」から発想を得たものである。

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