教会運営と献金にまつわるアレコレ・その2

2015年6月27日土曜日

「献金」の問題

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 前回は「教会への献金」について、主に教会運営側の事情について書いた。だから今回は反対に、捧げる側、つまり一般信徒側の事情について書きたい。

 ちなみに前回同様、什一献金については直接触れないことにする。

・どれだけ捧げるべきか

 教会運営の事情については前回書いた通りで、運営側には運営側ののっぴきならない状況がある。けれど一般信徒からしたらそんなこと関係ない訳で、べつに教会に気づかって多めに献金するとか、そういうことは(通常なら)ない。
 だから信徒は個人レベルで献金を考えるのだし、それで十分だし、そうあるべきだと私は思う。

 それで「どれだけ献金するか」という話だけれど、これは個人の自由というのが一番無難な答えであろう。持っているお金は皆違うし、必要経費も皆違うのだから、自ずと払える額は決まってくる。それに献金において重要なのが額の大小でないことは、聖書も明らかに支持している(それより「捧げる心」の方が大切だと聖書は言っている)。

 だから献金の額が人と比べて大きいか小さいかとか、一般的に考えて妥当かどうかとか、そういうことを気にする必要はない。じゃあ一円玉一枚でもいいのかってのはちょっと極端だと思うけれど。
 しかし人間どうしても「額」を気にする訳で、たとえば硬貨を献金袋に入れる時チャリンと音がしないようにするとか、わざと万札を見えるように入れるとか、そういう「工作」を見ることもある。まあ見栄の話である。

 ところで一つ注意したいのは、献金においてマルコ12章42節を殊更強調することだ。
 これは有名な箇所で、生活費の全部を捧げた貧しいやもめの話である。「献金のすすめ」をする教会ではよく使われる。「すべてを捧げた彼女の信仰を主は称賛されました」とか何とか。それで「力以上に捧げることで主の祝福が得られます」というちょっと飛躍した話にもなる。

 それを真に受けて、財布の中身を全部捧げちゃいましたとか、思い切って車のガソリン代として取っておいた分を捧げましたとか、そういう無謀な行為に走る人たちが出てくる。もちろん彼らは大真面目なのだけれど、そういうのを武勇伝みたいに話す輩もいて、なんか「皆で捧げすぎて我慢大会やろう」みたいな雰囲気になってしまう。そうなると「信仰による献金」でなく、「みんなで捧げりゃ怖くない献金」になってしまう。教会としては潤うだろうけれど、それを主への信仰と言うのはちょっと違うと思う。

 もちろん生活費の全部を捧げるのも個人の自由だし、家族に迷惑をかけるでもなく、公の支払いに支障をきたすでもなく、その他の責任も全うしているなら、べつに沢山捧げすぎたって構わない訳だ。
 けれど一つ注意しておくと、上記の「生活費の全部を捧げた貧しいやもめ」の時代と現代とでは、生活基盤が全然違う。当時はパン粉や油をストックしておいて必要に応じてパンを焼く生活であり、農耕牧畜による自給自足の割合も社会全体として高かった。つまりお金を使った買い物を現代みたいに毎日する訳ではなかった。だから「生活費の全部」と言っても、それは現代の私たちの「給料一ヶ月分全部」と全然イコールではない。あの日の夜も、やもめには食べるものがあったはずだ。
 そのへんを考慮しないで「持っているお金の全部を捧げる」のは破産レベルであって、単に無謀でしかない。

 多く捧げることを私は否定していない。お金を持っていると私たちは案外無駄に使ってしまうものだ。けれど必要なものを我慢したり、子どもに何かを我慢させたりしてまで献金するのもまた健康的でない。

・多く捧げる動機

 献金の額が問題でないのは前述の通りだけれど、やはり時と場合により、多く捧げるということがある。
 多く捧げること自体は問題ではない。少なく捧げるのも問題ではない。献金において一番重要なのは「心」であって、要は献金額と心とがマッチしていることが大切なのだと私は思う。

 人が相対的に多く献金するには、それなりの動機がある。そして動機には正しいものとそうでないものとがある。間違った動機で捧げるなら、いくら多額であっても無駄になってしまう(もちろん教会は潤う)。
 間違った動機は2つあると私は考える。一つは「信仰の武勇伝」作りのため。そしてもう一つは「ご利益主義」である。

「信仰の武勇伝」とは前述の通り、財布の中身を全部捧げたとか、他の支払いを滞納させてまで捧げたとか、そういう我慢大会系の献金である。彼らは「私は主のためにここまでした」「これだけ犠牲を払った」という自慢話をするために多額の支払いをしたのであって、厳密に言うと献金ではない。「自慢話をさせてくれ代」である。

「ご利益主義」はもはや説明の必要はないと思う。「これだけ捧げたんだから神様が倍にして返してくれるだろう」みたいな、繁栄の神学にやられてしまった発想である。乱暴に分類すると、株式投資なんかと同じだ。彼らにとってそれは献金でなく、より多くのバックを得るための投資でしかないからだ。
 彼らはよくヨブの忍耐と再度の繁栄を引用するけれど、ヨブが2倍の祝福を得るために全てを捧げたなんて、どこにも書いてない。

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