たぶん聖霊派の一部のクリスチャンだけだと思うけれど(そうであってほしい)、「霊の目」がどうこうと強調する人たちがいる。「霊の目が開かれているか・開かれていないか」という基準にこだわる人たちだ。
彼らはたとえばこんなふうに言う。
「この本の真のメッセージは、霊の目が開かれていない人にはわかりませんね」
「あのニュースには○○という啓示が込められていたけれど、霊の目が開かれている私にはすぐわかっちゃった」
どうやら彼らの霊には「目」があって、昔は閉じていたけれど、何かのキッカケで開いたらしい。そして見えなかったものが、見えるようになったらしい。
それが事実ならすごいのかもしれないけれど、「私には見える」「でもあんたたちには見えない」という特別意識(あるいは優越意識)が前面に出ているのが気になる。霊の目ウンヌンの前に、そういう態度は聖書が言う「品性」に照らしてどうなのよ。
ところで「目が開かれて、見えなかったものが見えるようになった」という表現は聖書にいくつか出てくる。だから彼らも使う。けれど「霊の目」なんてどこに書いてあるのだろう。
もちろん「霊の目」ってのは比喩だろうけれど、「霊の領域」の話になると、とたんに「何とでも言えるの法則」が働きだすから注意が必要だ。
ちなみ「何とでも言えるの法則」とは、私が今勝手につくった造語である。
「霊的」あるいは「霊の領域」とかいう言葉は、その関係のクリスチャンにとってほとんど免罪符みたいなものだ。たとえば「霊の領域で今、大いなる打ち破りが起こった」とか言う。そして同時に言う。「霊の領域で起こったことは現実世界に必ず現れる。しかしそこには時間差がある」
だから見た目に何も起こっていなくても、「霊の領域」ですでに起こっているのだから、信仰を持って待っていなさい、という話になる。
それで待っていると、そのうち、たとえば政治の世界で何かが起こったり、大きな事件事故が起こったり、自然災害が起こったりする。すると彼らは誇らしげに言う。「これがそれだ。あのときの打ち破りの結果だ」
しかしその論法でいけば、何とでも言えてしまう(だから「何とでも言えるの法則」なのだ)。初めから「〇〇が起こる」と具体的に指定しているのでなく、「何だかわからないけど打ち破りが起こった。その結果はいずれ何かの形で現れる」としか言っていないのだから。
私の知る限り、霊そのものについての詳細な説明は聖書にはない。聖書中のいくつかの出来事を通して、それの片鱗に触れるしかない。だから彼らが言うような「霊の目が閉じている・開いている」の具体的な判断基準を聖書に求めることはできない。
だから彼らが言う「霊の目の開閉」は、すごく怪しい。その開閉がもたらすのが特別意識・優越意識でしかないのもそれを支持している。
という訳で怪しい点をいくつかに整理して、以下に挙げてみる。
■「霊の目」の開閉にまつわる怪しい点
・判断基準がない
繰り返すけれど、「霊の目の開閉」の判断基準は聖書にはない。だから誰の「霊の目」が開いていて誰のが閉じているのか、どうやって判断するのだろうか。どういう状態になったら「霊の目が開いている」と言えるのだろうか。そこに明確な基準があるのだろうか。
彼らの場合、その基準は至ってシンプルだ。彼らの仲間内や知り合い、尊敬する「神の器」であれば「霊の目が開いている」ことになるし、敵対的な立場の人たちであれば「霊的に何もわかってない」ことになる。
聖書がどう言ってるとか、実は彼らには関係ない。すべて自分たちの都合で決まっていく。都合に合うように聖書の言葉を利用しているだけだからだ。
その姿勢は、彼らが普段から言っている「神様中心」とはほど遠い。
・「開かれている」度合い
彼らは「霊の目が開いている・閉じている」という表現をよくするけれど、よくよく見ていると、その「開き加減」にある種の優劣があるのがわかる。
たとえば、
「私には○○という啓示が与えられたけれど、あの人にはもっと深い××という啓示が与えられていた」
「あの先生の啓示はいつも私たちの一歩先を行っている。やっぱりすごい」
「うちの子は〇〇って感じたみたいだけど、まだまだね」
みたいな感じ。
つまり、「霊の目の開き加減」にはレベルがあって、「霊的訓練」とか「主との交わり」とかでレベルアップすることになっているようだ。そのへんのRPGみたいに。
けれどそれだと話は余計面倒になる。「開いているか・閉じているか」という横の基準だけでなく、「どれだけ開いているか」という縦の基準が必要になるからだ。そしてやはりその基準も、客観的に判断できるものではない。
自分とあの人とで、どちらがより「霊の目」が開いているか? それを決めるのは彼ら自身が感じる「すごい・すごくない」という感覚でしかない。そしてそれは「どれだけ感心したか」「どれだけ感動したか」という感情の部分の感覚で決まる。つまり霊的感覚などなんの関係もない。
また優劣を断ずる時点で、誰が一番偉いかと競い合った十二弟子たちと同じ失敗をしてしまっている。そうではないだろうか。
・想像すればわかる範囲の「啓示」
たとえば彼らは不安定な中東情勢をみて、「これはもう終末が近いサインだ」とか言う。「霊の目が開いている私にはわかる」というわけだ。
でも彼らは目に見える情勢を受けて言っているに過ぎない。
現に昨年のイスラエルとガザ地区との紛争を見て「もう終末だ」と言っていた人が複数いたけれど、ことごとく外しているのはご存知の通り。それが神様から直接受けた「啓示」(あるいは預言)であれば、外れるはずがない。
だから彼らは目に見える状況から想像しているに過ぎない。
聖書に登場する「主からの啓示」は、しばしば「起こるとはとても思えない、想像すらできない事柄」である。
たとえば紅海を目の前にしたモーセは、もはや逃げ場のない状況だった。目に見える状況で言えばもう終わりである。しかしそのとき彼に啓示されたのは「杖を伸ばして海を分けろ」だった。
この海を分けて進むシーンは超有名だから、私たちは感覚的に当たり前になってしまっている。だから「あー海が分かれるんだな」と漠然と思うのだけれど、当時のモーセにとってそんな話は初耳である。聞いたことも見たこともなく、起こるとも思えない。あなたも海を前にして棒切れを持ってみれば、彼の気持ちが少しはわかるかもしれない。
ここで、今も預言や奇跡が確実に起こると仮定してみる。
神の存在を証明しようと思ったら、目に見えて起こりそうな事柄を言い当てるのと、絶対に誰も想像できないことが起こると言い当てるのと、どちらが説得力があるだろうか。あなたはどちらを信じるだろうか。
「私は霊の目が開いている」と言う人たちが言う「啓示」を、よく見てみることをお勧めする。
どれもこれも、状況から想像できるものでしかない。想像を越えたものなどない。神様は私たちの想像をはるかに越えた方のはずだけれど、彼らが言う「神の啓示」は想像の範囲内におさまっている。すごくスケールが小さい。人が簡単に想像できることしかしない神様なら、それは聖書が言う創造主ではない。人が作った偶像である。
・最後に
という訳で、「霊の目が開かれている」と主張する人たちにはご用心。
彼らには何かが見えるのかもしれない。けれどそのせいで大事なものが見えなくなっている。彼らは「常識の目」を開けてもらう必要があるけれど、はてさて、どうしたものだろうか。
彼らはたとえばこんなふうに言う。
「この本の真のメッセージは、霊の目が開かれていない人にはわかりませんね」
「あのニュースには○○という啓示が込められていたけれど、霊の目が開かれている私にはすぐわかっちゃった」
どうやら彼らの霊には「目」があって、昔は閉じていたけれど、何かのキッカケで開いたらしい。そして見えなかったものが、見えるようになったらしい。
それが事実ならすごいのかもしれないけれど、「私には見える」「でもあんたたちには見えない」という特別意識(あるいは優越意識)が前面に出ているのが気になる。霊の目ウンヌンの前に、そういう態度は聖書が言う「品性」に照らしてどうなのよ。
ところで「目が開かれて、見えなかったものが見えるようになった」という表現は聖書にいくつか出てくる。だから彼らも使う。けれど「霊の目」なんてどこに書いてあるのだろう。
もちろん「霊の目」ってのは比喩だろうけれど、「霊の領域」の話になると、とたんに「何とでも言えるの法則」が働きだすから注意が必要だ。
ちなみ「何とでも言えるの法則」とは、私が今勝手につくった造語である。
「霊的」あるいは「霊の領域」とかいう言葉は、その関係のクリスチャンにとってほとんど免罪符みたいなものだ。たとえば「霊の領域で今、大いなる打ち破りが起こった」とか言う。そして同時に言う。「霊の領域で起こったことは現実世界に必ず現れる。しかしそこには時間差がある」
だから見た目に何も起こっていなくても、「霊の領域」ですでに起こっているのだから、信仰を持って待っていなさい、という話になる。
それで待っていると、そのうち、たとえば政治の世界で何かが起こったり、大きな事件事故が起こったり、自然災害が起こったりする。すると彼らは誇らしげに言う。「これがそれだ。あのときの打ち破りの結果だ」
しかしその論法でいけば、何とでも言えてしまう(だから「何とでも言えるの法則」なのだ)。初めから「〇〇が起こる」と具体的に指定しているのでなく、「何だかわからないけど打ち破りが起こった。その結果はいずれ何かの形で現れる」としか言っていないのだから。
私の知る限り、霊そのものについての詳細な説明は聖書にはない。聖書中のいくつかの出来事を通して、それの片鱗に触れるしかない。だから彼らが言うような「霊の目が閉じている・開いている」の具体的な判断基準を聖書に求めることはできない。
だから彼らが言う「霊の目の開閉」は、すごく怪しい。その開閉がもたらすのが特別意識・優越意識でしかないのもそれを支持している。
という訳で怪しい点をいくつかに整理して、以下に挙げてみる。
■「霊の目」の開閉にまつわる怪しい点
・判断基準がない
繰り返すけれど、「霊の目の開閉」の判断基準は聖書にはない。だから誰の「霊の目」が開いていて誰のが閉じているのか、どうやって判断するのだろうか。どういう状態になったら「霊の目が開いている」と言えるのだろうか。そこに明確な基準があるのだろうか。
彼らの場合、その基準は至ってシンプルだ。彼らの仲間内や知り合い、尊敬する「神の器」であれば「霊の目が開いている」ことになるし、敵対的な立場の人たちであれば「霊的に何もわかってない」ことになる。
聖書がどう言ってるとか、実は彼らには関係ない。すべて自分たちの都合で決まっていく。都合に合うように聖書の言葉を利用しているだけだからだ。
その姿勢は、彼らが普段から言っている「神様中心」とはほど遠い。
・「開かれている」度合い
彼らは「霊の目が開いている・閉じている」という表現をよくするけれど、よくよく見ていると、その「開き加減」にある種の優劣があるのがわかる。
たとえば、
「私には○○という啓示が与えられたけれど、あの人にはもっと深い××という啓示が与えられていた」
「あの先生の啓示はいつも私たちの一歩先を行っている。やっぱりすごい」
「うちの子は〇〇って感じたみたいだけど、まだまだね」
みたいな感じ。
つまり、「霊の目の開き加減」にはレベルがあって、「霊的訓練」とか「主との交わり」とかでレベルアップすることになっているようだ。そのへんのRPGみたいに。
けれどそれだと話は余計面倒になる。「開いているか・閉じているか」という横の基準だけでなく、「どれだけ開いているか」という縦の基準が必要になるからだ。そしてやはりその基準も、客観的に判断できるものではない。
自分とあの人とで、どちらがより「霊の目」が開いているか? それを決めるのは彼ら自身が感じる「すごい・すごくない」という感覚でしかない。そしてそれは「どれだけ感心したか」「どれだけ感動したか」という感情の部分の感覚で決まる。つまり霊的感覚などなんの関係もない。
また優劣を断ずる時点で、誰が一番偉いかと競い合った十二弟子たちと同じ失敗をしてしまっている。そうではないだろうか。
・想像すればわかる範囲の「啓示」
たとえば彼らは不安定な中東情勢をみて、「これはもう終末が近いサインだ」とか言う。「霊の目が開いている私にはわかる」というわけだ。
でも彼らは目に見える情勢を受けて言っているに過ぎない。
現に昨年のイスラエルとガザ地区との紛争を見て「もう終末だ」と言っていた人が複数いたけれど、ことごとく外しているのはご存知の通り。それが神様から直接受けた「啓示」(あるいは預言)であれば、外れるはずがない。
だから彼らは目に見える状況から想像しているに過ぎない。
聖書に登場する「主からの啓示」は、しばしば「起こるとはとても思えない、想像すらできない事柄」である。
たとえば紅海を目の前にしたモーセは、もはや逃げ場のない状況だった。目に見える状況で言えばもう終わりである。しかしそのとき彼に啓示されたのは「杖を伸ばして海を分けろ」だった。
この海を分けて進むシーンは超有名だから、私たちは感覚的に当たり前になってしまっている。だから「あー海が分かれるんだな」と漠然と思うのだけれど、当時のモーセにとってそんな話は初耳である。聞いたことも見たこともなく、起こるとも思えない。あなたも海を前にして棒切れを持ってみれば、彼の気持ちが少しはわかるかもしれない。
ここで、今も預言や奇跡が確実に起こると仮定してみる。
神の存在を証明しようと思ったら、目に見えて起こりそうな事柄を言い当てるのと、絶対に誰も想像できないことが起こると言い当てるのと、どちらが説得力があるだろうか。あなたはどちらを信じるだろうか。
「私は霊の目が開いている」と言う人たちが言う「啓示」を、よく見てみることをお勧めする。
どれもこれも、状況から想像できるものでしかない。想像を越えたものなどない。神様は私たちの想像をはるかに越えた方のはずだけれど、彼らが言う「神の啓示」は想像の範囲内におさまっている。すごくスケールが小さい。人が簡単に想像できることしかしない神様なら、それは聖書が言う創造主ではない。人が作った偶像である。
・最後に
という訳で、「霊の目が開かれている」と主張する人たちにはご用心。
彼らには何かが見えるのかもしれない。けれどそのせいで大事なものが見えなくなっている。彼らは「常識の目」を開けてもらう必要があるけれど、はてさて、どうしたものだろうか。
「何とでもいえるの法則」というのは、わかりやすくいえば「いったもん勝ち」ということでしょうかね(笑)。
返信削除「霊の目が開かれている」とか「霊の目が開かれていない」とか、「霊の目が開かれている度合がどうこう」とか、これは選民思想そのものでありましょう。
これを読んでいて新興宗教系プロテスタントは本当にこれがすべてといってもいいと思ってしまいました。霊の目の開閉や度合といったものを判定するのは、あくまでも自分か、自分以外だったら聖職者なのです。これはプロテスタントの致命的な欠点といってもいいでしょうよ。本山がないために、それぞれが「何とでもいえるの法則」で自己都合で動いてしまうために、しばしばとんでもないことになってしまうことがよくあるのではないでしょうか?
ここでも後半で「終末が近いサインだ。自分は霊の目が開かれているからわかる云々・・・」と主張する人のことが書かれていますが、こんな人が新興宗教系プロテスタントにはぞろぞろいるのですよ。悲しいことですが。
本山がないということで、「霊の目が開かれたありがたい方々」が末端の信者Aで死ぬまでいてくれるのならまだいいのですが、大概は携挙で大騒ぎした沖縄の婆原彰晃のように、最後には教祖様と化してしまいますよね。しかも教祖化した人たちの権限たるやローマ教皇をはるかにしのいで、いわゆる「町の生き神様」になってしまうほどで、もっといえば神をもしのぐ教権ぶりを発動することすらあるのですよ。
「そんなのは基地外ではないか。どうみても気がくるっている教祖に誰がついていくのか?」と思ってしまうそこのあなた、そう思えるのはあなたが正常だからですよ。世の中の人間が全員正常なら、こんな基地外教祖についていく人は一人もいないでしょうよ。しかし現実には悲しいことに、というより世の中はずいぶんうまくいったものでというしかないのかもしれませんが、こういう基地外教祖の周囲には必ず同じような選民思想大好きな電波系人士が集まってきますからね。そしてその電波系人士が基地外教祖を生き神様として崇拝し、金日成様の北朝鮮のような空気を漂わせ・・・
ある東北地方の牧師の話です。「私は祈りの時間を多く割いている。その中で信徒各々のいろいろな罪がわかってきた。会う人会う人の罪が示されてくる。」と、私は参考程度に聞いただけですが、今あらためて思い返すと奇妙の度を超えています。
返信削除良い商売ですよね~~@@
削除想像・妄想の中で、自分が一番(正しく)で、カネと奉仕をする信徒は全て「間違いだらけ」と講壇から宣えば良いのですから!
そうやって脅して、財布からどんどんカネを出させれば良いのですから!
目覚めましょう!全てのクリスチャンと言われる人よ!
くだらない「宗教」にケリをつけましょう!
以前の教会でありとあらゆる霊の目で見えているもの聞かされた。その中でも牧師達が見えたと言われているもの紹介するよ。例えば、教会に大きな天使が見えるとか、頭に蛇が巻いている人とか、バケツをかぶっている(覆われている人らしい)人とか、龍とか、財政の袋とか、小切手だとか、今思えば、????だけど、あの頃は本気で疑わなかった。今でもその教会ではそれを追っている信徒達がいる。問題はそれが本当かどうかより、イエスの愛よりも、その不思議、みわざの方が突進していることに危機を覚えないこと。それを育成していること。
返信削除私の知っている霊の目が開いていると言っている人たち。。。
返信削除吉田長老(親分はイエス様のひと)
吉田みほこ(吉田長老の夫人、やくざを改信させた韓国嫁がうたい文句の人)
李 相烈 (吉田夫人と アンテオケ訓練学校・ツラノトレーニングスクールで日本国中を一緒に廻っている韓国牧師。
誰か他にしっている?