「油事件」に思う「霊の戦い」の問題点

2015年6月2日火曜日

「霊の戦い」の問題 キリスト教系時事

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 国内の複数の神社仏閣に「油」を注いで「きよめ」ようとした宗教関係者の所業がこのほど発覚した。

 本人はアメリカ在住のようでまだ逮捕に至っていない。キリスト教系宗教団体の幹部だとのこと。神社仏閣に侵入して「きよめの油」をかける姿を防犯カメラに撮られ、今回の発覚につながった。本人いわく、「日本の神社を油できよめ、日本人の心を古い慣習から解放する」ためだったらしい。

 当人は「使命に燃えた解放者」を気取ったようだけれど、またも「キリスト教って変」というイメージを上塗りした形である。それで「解放」された日本人がいればまだ救いがあったけれど、結局は宗教に対する偏見を増しただけではないだろうか。

 この件に関してはいろいろ意見があるだろうけれど、私が思うにこれは氷山の一角に過ぎない。この手の「霊の戦い」をする教会は日本中にあるし、彼らは気が向くと(だいたい夜に)神社仏閣や繁華街を巡り歩いて仰々しい「祈りの戦い」を繰り広げる。だから今回の「油事件」の背後には無数の類似事件があり、予備軍が沢山いる訳だ(統計的な数字はわからないけれど)。

 けれどその予備軍のほとんどは「教え」の問題の被害者とも言える。
 多くの信徒は牧師に心酔したり、著名人に心酔したりして、彼らの言うことに盲信してしまっている。そしてそういう変な「戦い」に自らを陥れている。もちろんそこには「ちゃんと考えろ」みたいな批判もあるだろうけれど、権威主義的教会で抑圧されている信徒にそれを言うのはちょっと酷というものだ(と私は思う)。

 そういう意味で騙されている信徒の皆さん向けに、神社仏閣で「霊の戦い」をすることの疑問点、問題点を以下に挙げてみたい。

■神社仏閣で「霊の戦い」をすることの疑問点、問題点

・いつも夜遅くに出向く
 彼らはいつも夜遅くに、誰もいない神社仏閣に入っていく。あるいは周囲をうろつく。なぜか?
 誰にも見られたくないからだ。そしてそれは後ろめたいからに他ならない。
 その「戦い」が正当で、神からの使命であるなら、昼間堂々と戦えばいい。住職とかお坊さんとかの眼前で、建物に油でもなんでもかけて、エリヤとバアルの預言者たちがしたような「祈り合戦」をしたらいい。
 なぜそうしないのか? それは「多くの信徒は昼間働いていて集まれないから」ではない。どうしても戦わねばならないなら1人でも戦える。神は全能なのだから。そうしないのは「勝つ自信がない」からだ。お坊さんの目の前で明確な「神のしるし」を披露する自信がなく、結局相手にされなくて惨めな思いをするのが恐いからだ。
 つまり「確かに神から派遣された」という自信がないから、彼らは深夜にこっそり神社に入っていく。

・勝利が全然明確でない
 深夜に神社仏閣で祈り狂い、「勝った」と彼らは言う。けれどその「勝った」について彼らは明確に説明できない。べつにその神社が潰れる訳じゃないし、文字通り崩壊する訳じゃない。住職が呪い殺される訳でもない。神社の資金繰りが徐々に悪くなっていくとか、住職がいつか健康を害するとか、そういうことが将来起こるかもしれないけれど、それは「勝った」と何の関係もない。
 ちなみに今回の油事件で言えば、その幹部は明らかに「敗北」している。彼は「悪霊に邪魔された」とか言うかもしれないけれど、いやいや、あんた悪霊と戦いに行ったんでしょ?

・その戦いを公にできない
 それが神からの使命で、正当な戦いであるなら、何も恥じることはない。公衆の面前で堂々とやったらいい。そして明確な勝利を得て、キリスト教の神が正しいことを広く知らしめればいい。けれど彼らのやり方は「夜遅く」「誰にも見られず」「曖昧な勝利」である。くわえてその「戦い」の話を公にしない。自信満々に「勝った」と言うのは信徒に対してだけであり、外部に対しては沈黙を守っている。なぜか?
 彼らは「霊的なことだから言ってもわからない」とか偉そうに言うだろうけれど、真相は違う。「誰も信じてくれないしバカにされそうだから言えない」のだ。
 もし異論があるなら、あなたの「霊の戦い」の話を未信者にしてみて下さい。信者にでなくて。

 他にもあるだろうけれど、ざっと問題点を挙げてみた。
「霊の戦い」に葛藤を覚えている人がもしいたら、上記の点についてちょっと考えてみていただきたい。

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