2016年7月29日金曜日

「終末エンタメ」の話

 数日前、キリスト教系終末小説『レフト・ビハインド』の著者、ティム・ラヘイ氏が死去された。

『レフト・ビハインド』は、「もしも携挙が起こったら」という終末世界(患難時代)を描いたフィクション小説である。何度か映像化されていて、ゲームにもなって、原作は日本でも全作翻訳されている。かれこれ15年くらい前だったと記憶しているけれど、キリスト教メディアに取り上げられ、そこそこ話題にもなった。いたずらに恐怖を煽るという批判もあったけれど、私個人は、単にクリスチャン向け終末エンタメとして何冊か読んでみた。途中で挫折してしまったけれど。

 ラヘイ氏がどういう意図をもって同書を書いたかよくわからない。真面目に信仰的に書いたのか、あくまでエンタメを意識して書いたのか。でもたしか彼の秘書が、彼がしばらく席を外してなかなか戻ってこなかった時、まさか本当に携挙されたのではと心配になった、という話を読んだことがある。だから彼の周囲では、けっこう真面目に携挙が意識されていたのかもしれない。

 同書はたしかに、想像力豊かにキリスト教的終末世界を描き出した力作だったと思う。分厚い本が全部で10冊くらいの超長編である。執筆の苦労は相当なものだったと想像する。
 しかしあくまでフィクションであり、「終末エンタメ」であって、聖書が示す終末の一つのイメージに過ぎない、というのは覚えておかないといけない。当たり前だけれど。あれをそのまま聖書的終末と結びつけてしまうと、いわゆる書籍信仰になる。それより、聖書の娯楽的な読み方の一つとして、また思考実験として、楽しむものが良いと思う。

 なぜ聖書的終末と結びつけるべきでないかと言うと、そもそも終末小説が、その時代の世相と切り離せないものだからだ。
 同書を今になって読み返すと、1995年刊行だから、作品世界としてずいぶん古い。当時はまだインターネットが物珍しい時代だった。スマホもSNSも当然ない。そういう時代に「もし携挙が起こったら」という話なので、すでに聖書的終末とはリアルに結びつかなくなっている。

 同書を今現在に書き換えるとしたら、たぶんもっとSNSの拡散力が良くも悪くも活用されるだろうし、ほかにも生体内チップとか、個人監視システムとか、そういう技術が作品に盛り込まれると思う。また同書には携挙時に沢山の自動車事故が起こったという記述があったと思うけれど、今は自動運転が普及しつつあるから、そういう事態にはならないだろう。携挙時のパニックを演出するには、なにか他の手を考えなければならない。

 しかしそれも「今」の話であって、5年後10年後には、全然違うテクノロジーや流行が生まれているだろう。だから今だれかが終末小説を書いたとしても、それは「今」だから通用する話にしかならない。
 つまり終末小説は、書かれた時代の世相と切り離せない。普遍的な何かにはなりえない。

 それにしてもアメリカ人は(あるいはハリウッドは)、終末世界を想像するのが好きなのだろうか。同国のドラマや映画をみると、終末関連のものがすごく多い気がする。それだけ大がかりなCGを作れて、地球規模のパニック映像、スペクタクル映像を作れるからだろうか。でも同じように映画やCGが盛んなインドでは、終末世界を描いた映画はほとんどないと思う。日本も然りだ。とするとやっぱりアメリカ人の国民性なのだろうか。

 アメリカはもともと移民の国だから、「旧世界」に替わる「新世界」、みたいな考え方が潜在的にあるのかもしれない。古い世界が(彼らの中で)終わり、新しい世界が始まる。そういう「世界の移行」が、聖書の言う終末(千年王国への移行とか、新天新地への移行とか)とうまくリンクするのかもしれない。
 なんて、偉そうに考えてみた。知り合いのアメリカ人たちをみてみると、「世界の移行」なんて言葉まったく出てこないけど。

 ともあれ故人のご冥福をお祈りしつつ、この結論のない話を閉じることにする。

2016年7月27日水曜日

キリスト教的「選民思想」の誤用、悪用にご用心

 カルトっぽい教会が信徒を操る手法として、「選民思想の植え付け」というのがある。

 たとえばクリスチャンとノンクリスチャンの立場の違いを強調する。わたしたちクリスチャンは神の民です、聖なる国民です、選ばれた種族です、光に導き入れられた者たちです、ノンクリスチャンとは生きる世界が違うのです、と、聖書をうまく利用して、自分たちの優位性や特別性を強調する。一つ一つの表現は聖書に書かれていることだから、信徒は疑わない。優位性を持てるというお得感や優越感にくすぐられて嬉しい、というのもあるだろう。だから信徒も積極的に選民思想を受け入れていく。

■上目線にさせる「選民思想」

 原則的には(あくまで原則的には)、選民であることは間違っていないと思う。しかし選民だから偉いとか、優位だとか、立場が上だとか、そういうことではない。選民ゆえに責任が課されている、と考えるべきだ。他者に一方的に仕える立場に置かれている。それで拒絶されても文句を言われても耐える立場に置かれている。だから立場が上か下かのどちらかで言ったら、「下」だと考えた方がいいと思う。そういう意味での「選民の強調」ならわかる。

 でもそのへんを勘違いして、自分たちを「上」だと思っているクリスチャンが多い。無意識的かもしれないけれど。たぶんそう教えられているからだろう。ことさらに自分たちと「この世」を区別し、「これだからノンクリは・・・」と蔑視する。これは何度も書いているけれど、「どうせノンクリなんてこんなもんだ」と平然と言い切る牧師もいる。

 もっと酷くなると、クリスチャンの中でもさらに「選ばれたクリスチャン」であると言いだすことがある。わたしたちは「霊的イスラエル」です、ということでイスラエルとの繋がりをやたら強調し、ユダヤの習慣を取り入れ、イスラエルと同化しようとしていく。そしてイスラエルを特別に強調しない、ごく一般的な教会を、「目覚めてない」と(教会内でだけ)侮辱する。

 さらに酷くなると(どこまで行くんだw)、「霊的イスラエル」の中でもさらに「選ばれたレビ部族」であると言いだす。わたしたちは「霊的レビ族」です、主に特別にお仕えする者です、他の部族のために執り成す立場にいるのです、特別に取り分けられた部族なのです、ということで、もはや「クリスチャンです」でなく、「レビ人です」になっている。 一般の人からしたら完全に「?」だけど。彼らはそれで得意満面。

 「レビ族」だと主張する根拠は全然わからないけれど、信徒からしたら特別感満載である。で、「この使命に生きます!」とやたら感動してしまったり、「レビ人ですけど何か?」とやたら自慢げになったり、まあとにかく優越感のカタマリになる。で、「レビ人のバンド」を結成したり、「レビ人」のTシャツを作ったり、「レビ人」だけの集会を開いたりする。結局のところ、そうやって自分たちを閉鎖環境へ追い込んでいく。

■「選民思想」の悪用、誤用

  でもそういう上目線な選民思想は前述の通り、キリストの教えの真逆である。キリストは「仕える者になりなさい」と明確に言っていて、その仕える対象は神様であると同時に人々である。「弟子にしなさい」というのは、「子分にしろ」という意味ではない。その師弟関係は、師の方が弟子の足を洗うような関係だ。あるいは師が弟子の身代わりになるような関係だ。だから上目線に指図したり自慢したり脅したりするのは、違う。

 こういう選民思想は、信徒をコントロールするためにカルトっぽい教会でよく用いられている。「あなたがたは選ばれた者たちなのだから、〇〇しなければならない。でないとその選びから漏れてしまう」、という理屈で、信徒に望まない奉仕(というか労働)を強要し、過剰な献金を強要し、権威への従順を強要する。時々アメが与えられるけれど、ムチの方がだんぜん多い。信徒は「選民」だと認識しているから、辞めるという選択肢を思いつかない。

 あるいはカルト的でなくても、「自分たちは特別だ」という意識を前面に出してしまうクリスチャンもいる。「この汚れた人たちとは違うのです」みたいなことを平気で言うし、言わなくてもそういう態度を隠さない。あるいはノンクリスチャンを「救ってあげなければならないかわいそうな人たち」くらいに思っている。どこか差別的で、いやらしいと私は思う。

 でもクリスチャンは「罪許された罪人」にすぎない。聖書的に言えば、まだなにも完成していない、依然として「罪の性質」を抱えたままの人間である。だからノンクリスチャンと比べてどこもなにも優れていない。そういう幻想を持っているに過ぎない。

 あるいは、クリスチャンとして歩んでいくうちに「聖化」されていきます、と主張する人がいる。たしかにそういう側面もあるかもしれない。けれど実際には、何年何十年信仰生活を送っても、自分の中にひどい悪があり、どうしようもないくらい変わっていない、と認めなければならないのが正直なところだと思う。それぞれ自分自身のことを考えてみればわかるだろう。
 あるいは立派そうに見える誰かをみて、「聖化されている」と感じるかもしれない。けれど、はてさてその本人は何と言うだろう。「だんだん聖化さていると感じます。罪を犯さなくなりました」とか言ったら、はっきり言うけどウソだと思う。あるいは傲慢だと思う。「罪を犯さない」のはありえないからだ。聖書もそう言っているし。

■結論

 というわけで、選民思想はカルト教会が信徒をコントロールするために悪用するし、誤用して変に傲慢にさせるものでもあるので、よくよく注意されたい。
 私に言わせれば、「選民」だとか「神に愛されている」だとか「特別に召し出された」とか、(それらは間違いではないけれど)そういう「飾り」で自分を飾らない方が、より自然体で生きられると思う。ウソがないと思う。だから選民思想なんて大そうなものを振り回さないことをお勧めする。

2016年7月24日日曜日

逸脱感満載の「聖霊のサイン」

 私が聖霊派教会で熱心だった頃、「聖霊のサイン」についていろいろ教えられた。そして信徒みんなでそれを実践しようとしていた。
 今回はそんな当時を振り返りながら、その問題点について考えてみたい。

■「聖霊のサイン」の脳内捏造

 教会で、信仰において何かしようとするとき、「聖霊のサイン」が必要とされた。いわゆる「聖霊からのゴーサイン」がないと、何一つできなかった。あるいは推奨されなかった。だから何かしようと思ったら、まず「聖霊のサイン」を求めてずっと祈ったり、延々と賛美したり、聖書を読んだり、時には断食したりして、その過程で「聖霊のサイン」を見極める、というのが私たちの日常であった。

 その「聖霊のサイン」は大きくわけると3種類あって、「イエス」と「ノー」と「待て」だった(そう教えらえた)。「イエス」なら実行できて、「ノー」ならできなくて、「待て」ならとりあえず希望をもって待ってみる。
 だから自分の問いかけに神様がどう答えられるかと、自分の内面に意識を集中したり、心に浮かんでは消えるものに集中したり、かすかに感じる感情や心の動きに注目したりしたものだ。あるいはそれらしい印(しるし)、たとえば誰かの何気ない言葉とか、たまたま目に留まった聖書箇所とか、空模様とか(なんだそれ)、またはそれを選択するのに適した状況とか、そういう外部の「何か」に答えを求めたりした。

 で、そういう時間を持ったあと、「今神様はこう語りかけているに違いない」と自分の中で決着をつけることで、「聖霊からのサインをいただいた」ということにしていた。沢山祈ったり賛美したりしたんだから、神様が働かれたに違いない、と。
 そしてそれは、教会では「霊的確信」と呼ばれた。その結果は良かったり悪かったり、いろいろだったけれど。

 でも今思うと、その「確信」には、「こうであってほしい」あるいは「こうであってほしくない」という自分自身の考えが、少なからず影響していたと思う。でも「ゴーサイン」を得なければ何もできないし、そういう「神との対話」ができない人間だとも思われたくないし、みたいな気持ちが働いて、脳内で無理やり「ゴーサイン」を作り出していたような気がする。意識的にか無意識的にか。たぶんそういう反省を持つのは、私だけではないと思う。

■根拠不明な「聖霊のサイン」

「聖霊のサイン」を強調するのは私の教会だけでなく、おそらく聖霊派のほぼ全体、そして一部の福音派も含んだ教会群にみられる傾向だと思う。そこに属するクリスチャンはだいたいこの「聖霊のサイン」にこだわる(そう指導されている)。だから誰かに伝道する際にも「聖霊からのゴーサインがあったらします」とか言うし、どこかの超教派集会に参加するかどうかも「聖霊のゴーサインがあれば行きます」みたいなことを言う。どこにでも「聖霊のサイン」が登場する(教会と関係ない自分の日常生活には、なぜか登場しない)。

 でも、伝道するのに「聖霊のゴーサイン」が必要だなんて、聖書のどこにも書いてないと思う。
 あるいはある集会に参加するとか、何かの楽器を買って神様を賛美するとか、イスラエル旅行に行って聖地巡りをするとか、そういう自分の願望や計画に、いちいち「聖霊のゴーサイン」が必要だなんて、聖書のどこにも書いてないと思う。聖書通読なら何度かしたけれど、そんなの読んだ覚えがない。

 ちなみに使徒行伝16章に、パウロたちをマケドニアへ行かせるため、彼らが他所へ行くのを聖霊が禁止した、という箇所がある。これは珍しく、ピンポイントの伝道へと(結果的に)誘導されたケースだと思う。しかしそれは、今日の私たちの日常的な伝道において、逐一「イエス」か「ノー」か「待て」かの指示を求めなさいという話にはならない。なぜなら当時のパウロたちだって、そんなことしていなかったから。彼らはアジアやビテニヤに実際に行こうとしたけれど、何かの事情で行けなかったのだ。つまり行く前から、神から「どこそこへ行くな」とか、「どこそこへ行け」とかいう指示があったのではない。彼らは「指示待ち」でなく、自分で考えてどんどん行動していた。そして事情があって行けないところを回避して進んでいたら、結果的にマケドニアに行くことになった、というだけだ。その行動が結果的に「聖霊に導かれていた」というのは、後からわかった話であって、事前に超自然的なゴーサインをもらっていたのではない。

 だから「聖霊のゴーサイン」があるとすれば、それは結果論でしか判断できないと思う。
 つまり、何かをやる前にあーですか、こーですか、と伺いを立てるのは、聖書が支持するやり方ではない、ということ。

■伝道に必要ない「聖霊のサイン」

 一例として、伝道における「聖霊のサイン」を取り上げてみよう。

 時々「聖霊のゴーサインがあったら伝道します」としたり顔で言う人がいるけれど、「伝道するのに聖霊の許可がいる」という根拠はどこにあるのだろうか。学校を休むのに親のサインが要る小学生と同じなのだろうか。目の前に相手がいるのなら、結果はどうあれ、語ってみればいいんじゃね? と私は思うんだけど。前述のパウロたちが「聖霊に禁止された」のは、目の前に相手がいるのに「語るな」って言われたんじゃない。その土地に行けなかった、という意味の禁止だ。だから相手をみて「彼に語れ」「彼には語るな」みたいな選択制の話じゃないはずだ(語ったから必ず良い結果になるという話ではもちろんない)。
 それに、もし伝道するのにいちいち「聖霊のゴーサイン」、すなわち「許可」が必要だとしたら、「時が良くても悪くても(伝道を)しっかりやりなさい」という箇所や、「だれにでもいつでも弁明(伝道の意味)できる用意をしていなさい」という箇所と、折り合いが付かない。また、キリストの大宣教命令とも折り合いが付かない。キリストから伝道するよう勧められているのに、「聖霊のゴーサインがなかったから伝道しなかった」とか、悪い冗談だと思う。

 そもそもだけど、「聖霊のゴーサイン」をどう判断するかってところに、すでに主観や思い込みが混入されていると思う。自分の解釈次第で、なんとでも言える、という側面があるから。

 たとえばだけど、目の前にいる人に伝道しようと思っていたら、「聖霊のゴーサイン」がきて、伝道したとする。結果、相手が福音に関心を示して教会に来たら、「ハレルヤ」となるだろう。でも、拒絶したら? たぶんそのときは、

「主の時があるんだ」
「何かわからないけれど主のご計画があるんだ」
「今は種を蒔くことが大切だったんだ」
「もっと大きいご計画のためにこの第一歩が用いられるんだ」

 みたいな、それらしいポジティブなことを言うだろう。でもそういうのは、(言ってることは必ずしも間違ってないけど)なんとでも言えるし、なんとでも解釈できるし、その真偽を確かめる術がない。だからいかようにも話を持って行ける。
 たとえばこんな感じ。

①ゴーサインがあった→伝道した→相手が救われた→ハレルヤ
②ゴーサインがあった→伝道した→相手に拒絶された→でも伝えたことは決して無駄にはならない(キリッ)→栄光在主
③ゴーサインがなかった→でも伝道してみた→相手が救われた→主は不従順な者さえ用いられる→ハレルヤ
④ゴーサインがなかった→でも伝道してみた→相手に拒絶された→主はこのことを通して自分の傲慢さに気づかせて下さった→アーメン

 というわけで、どういうケースであっても、なんとでも言える。なんとでも解釈できる。それはつまり、そもそも「聖霊のサイン」そのものが手前勝手な解釈であることを示している。

 もう少し例示してみよう。目の前に瀕死の重傷を負った未信者が倒れていて、今にも息を引き取ろうとしているとする。もう猶予は数分、あるいは数十秒しかなさそうだ。そこでクリスチャンであるあなたは、「聖霊のサイン」を求める祈りから始めるだろうか。私なら聖霊の「せ」の字を言う間も惜しんで、福音をポイントだけさっさと伝えたい。それでとにかく「アーメン」とか「はい」とか言わせて、形だけでもキリストを信じたことにさせるだろう。そんな緊急事態に、聖霊とか三位一体とか説明していられないし、しゃべるのに「サイン」など要らない。

 あるいは目の前に生まれたばかりの赤ん坊や、重度認知症の人や、日本語のまったく通じない外国人がいるとする。その相手に福音を伝えようかどうしようか、「聖霊のサイン」はどうだろうかと葛藤するだろうか。私ならしない。言語的に理解を得られないのが、明白だからだ。その状況では、「サイン」など示される必要がない。

 と、いうのは極端な例だけれど、どちらも「聖霊のサイン」の入り込む余地はない。

 伝道に必要なのはただ「伝えたい」の一点に尽きると思う。 それともアレだろうか。もし「聖霊のゴーサイン」がないのに無理やり伝えようとしたら、御使いか何かが現れて、私たちの口を塞ぐのだろうか。むしろそっちの方を見てみたいけれど。

■「聖霊のサイン」という名の行動制限

「聖霊のゴーサイン」にこだわってしまうと、結果的に行動制限に繋がると思う。「サインがないからやらなかった」という事態がありうるからだ。

 たとえば伝道で言えば、目の前に未信者がいて、良好な関係を保っている相手で、2人きりで、特に時間制限もなく、自由に話せる状況だとする。福音を語ろうかな、と思ったけれど、どうも「聖霊のゴーサイン」を感じなかったから、結局語らなかった。としたら、それは「語れるのに語らなかった」ということだ。あえて「聖霊のゴーサイン」という表現を使うなら、その状況そのものがゴーサインだったとも言えるのに。あるいは福音を語ることでその人との関係が変わってしまうことを恐れて、「ゴーサインがなかった」という判断に実はなったのかもしれない。無意識的に。

 神からの語りかけとか、超自然的な啓示とか、霊的敏感さとか、そういうものに囚われてしまうと、目の前の現実が見えなくなっていく。やればできることなのに、「これは霊的にどうなのか」とか「今の聖霊の流れはどうなのか」とかばかり考えてしまって、行動するタイミングを逃してしまう。ということがある。

 結論は前回と同じなんだけど、人間には自由意志が与えられているのだから、「これをするのは御心かどうか」じゃなくて、できるならやってみればいいと思う。それが公序良俗に反しておらず、非常識でもなく、無礼でもないなら、あえてやらない理由はないと思う

 あるいは関係が変わってしまうことを恐れて相手に福音を語れなかったのなら、それはそれで個人的なことだからいいと思うけれど、「ゴーサインがなかった」などと聖霊のせいにしてはいけない。

 殊更に「聖霊のサイン」を求めることで、人はかえって縛られていく。そして自由を失ってしまう。「御霊のあるところには自由がある」という聖書の言葉があるけれど、その「聖霊のサイン」によって不自由にされていくとしたら、それは本末転倒ではないだろうか。

2016年7月21日木曜日

「祈っていたら〇〇」で「神の御心」を捏造する構造

 先日twitterで、「祈っていたら〇〇」ってのは、もはや現代の免罪符と呟いた。それに関連して書きたい。

■「祈っていたら〇〇」という現代の「免罪符」

 よく教会、特に聖霊派や福音派で、こんなセリフの数々が聞こえてくる。

「祈っていたら〇〇と示されました」
「祈っていたら〇〇という言葉が胸に迫ってきました」
「最近祈っていても、ディボーションしていても、賛美していても、〇〇という思いが頭から離れないんです。これは間違いなく神様からです」

  こういうのを私が「免罪符」と言うのは、これらのセリフで「〇〇=神の御心」にできるからだ。「祈っていたら」を使えば、明らかに逸脱した内容でなければ、ほとんどなんの吟味もなく、まわりから「アーメン」される。つまり自分が感じたこと、思ったことが、祈りの最中のことであれば、全て「神から語られたもの」になってしまう。だから、「免罪符」。

「祈っていたら、明日の聖会に行くように示されました。だから明日は会社を休んで行くことにしました」
「祈りの中で〇〇の額を献金するよう示されました。だから信仰によって捧げました」
「祈っていたら、今日の何時何分にあの人に電話して伝道するよう示されました」・・・

 でも聖書を見てみると、たとえば誰かが預言をするとき、まわりの人にはそれを吟味する役目がある(コリント第1の14章)。吟味が必要なのは、それが本当に神からのものなのか、確かめる必要があるからだ。つまり、神からのものでない可能性がある、ということ。だから自分が感じたことが即「神の御心」とはならない。はずだ。

 しかしひるがえって現在の聖霊派(あるいは福音派)教会をみてみると、そういう確認作業はほとんど見受けられない。大金をかける事業についてなら別だけれど、個人レベルの「祈っていたら〇〇」は、ほぼノーチェックで「アーメン」される。だから言いたい放題な現状になっている。

 あるいは、「イスラエルの主は賛美をすまいとされる」という箇所を引っ張ってきて、こんなことを主張するだろう。
「私たちが賛美をしているとき、主はそこにおられます。だから賛美をしているときに心に感じることは、神様からのものに間違いありません(ムキッ)」
 でも賛美の場に主がおられることと、あなたの頭の中で展開される事柄とは、直接関係ない。その主張が通るなら、たとえば「神は死んだ」という歌詞のロックを歌っているときに感じる何かは、全部悪魔からってことになる。そのとき「神は愛です」という言葉が頭をよぎったら、それは悪魔からなんだろうか?

■青年Aの主張

 こういう話をすると、青年Aくんを思い出す。
 Aくんは幼い頃からクリスチャンで、いわゆる意識高い系で、何に対しても積極的で、すばらしいクリスチャン的発言の数々をし、まわりの大人たちからの評価も高かった。将来は牧師か宣教師か、とかもてはやされていた。彼自身は「いやいや僕なんてまだまだです」と謙遜なことを言っていたけれど、私はそこに謙遜でないものを感じていた。

 彼はいろんな楽器を弾きこなした。だからある程度の年齢になったとき、礼拝で奏楽奉仕を始めた。彼は嬉々として舞台に立った。
 その教会では通常、奏楽奉仕は隔週になるよう予定を組まれていた。毎週続くと大変なのと、奉仕者の視点でしかものを見れなくなるから、という配慮があったからだ。
 しかしAくんは、「毎週神様を楽器で賛美するよう示されています」と牧師に言った。人手不足だったこともあり、結局、Aくんは毎週奏楽の奉仕することになった。以来、今週はピアノ、来週はギター、みたいな感じで、オールマイティぶりを見せていた。舞台上で彼が時折見せる、目を閉じて顔を上げ、神を礼拝している敬虔そうな様子に、みな少なからず感動していたようだった。私は違ったけれど。

 さて何年かして楽器奉仕者が増えてきて、奏楽チームが充実してきた。どのチームともあらゆる楽器の奏楽者がいて、Aくんが毎週やらなくてもいい状況になった。それで、Aくんは隔週の奉仕に戻された。
 するとAくん、自分のカフォンを教会に持ってきた。そして「これで神様を賛美するよう示されました」と言う。で、結局彼だけ、また毎週奏楽奉仕をすることになった。

 同じようなことが他にもいろいろあった。
 伝道旅行が企画されると、「行って伝道するよう示されました」
 劇をやることになると、「演技をもって仕えるように示されました」
 なにか企画されると、「私がここにおります」

 つまりAくんにかかると、なんでもかんでも「祈っていたら〇〇をやるように示されました」なのであった。
 私は彼をみていて、「やりたいからやらせて下さい」って言えばいいのに、と思ったけれど、どうも彼は「示された」と言わなければ気が済まないようだった。

  そんなAくんも後に大きな失敗をやらかして、進路もあれこれあり、かつて大人たちが評したような感じにはなっていない。あれだけ沢山のことが本当に「示された」なら、大きく失敗することもなかったろうにと思うけれど。

■蔓延する「祈っていたら〇〇」

 しかしAくんのまわりにも「祈っていたら〇〇」を連発する大人たちがいたので、これはAくんだけの問題ではない。むしろ彼は被害者でもあると思う。幼い頃からそういう環境で育ってきたから、大人たちを喜ばせ安心させるため、また自分の承認欲求を満たすため、「祈っていたら〇〇」を身につけていったのだと思う(その結果加害者にもなってしまうのだけれど)。

 また残念ながら、Aくんみたいな子供も少なくない。やはり大人や教会の影響であろう。何か自分のやりたいことがあると、「祈っていたら〇〇と示されました」を使って、それをやる、というパターンを沢山見てきた。

 教会に時々遊びに来ていた若者Bくん。あまり信仰熱心とは言えず、礼拝はサボりがちだった。よく礼拝が終わった頃にやってきて、同年代の子たちとお菓子を食べて、ふざけて過ごしていた。
 さてある夏休み。教会で伝道旅行が企画された。若者たちがこぞって参加希望を出していた。締切ギリギリになってBくんもそのことを知って、急に参加を希望した。牧師は「とりあえず祈ってごらん」と言って保留にした。後日、Bくんが神妙な面持ちでやってきて、開口一番。「祈っていたら伝道に行くよう示されました」

 で、結局Bくんも参加したんだけど、旅行中は勝手に消えたり、1日寝てたり、皆が忙しい時に遊んでいたりと、まあ予想通りの展開であった。彼の旅行中の行動に、伝道の「で」の字も見られなかった。「伝道に行くよう示されました」の真偽のほどは、誰もあえて問わなかったけれど。

 この「祈っていたら〇〇」を使う動機は、人それぞれだと思う。素直に「やりたい」と言えないからとか、神との「霊的つながり」をアピールしたいとか、できる自分を見せたいけど自分からアレコレ手を出すのも格好悪いから「示された」ことにしようとか、いろいろ。

「でも本当に祈っていて示されたのかもしれないでしょ?」という反論があるかと思う。しかしその反論自体に矛盾がある。「かもしれない」という時点で、真偽は確かめられないと認めているからだ。本当かもしれない、でもそれは確かめられない、ではウソかもしれない、というどこまで行っても「可能性」の話でしかなく、永遠に答えが出ない。
 答えが出るとしたら、それはAくんが結果的にやらかした失敗や、Bくんが伝道旅行に行った「結果」にあると思うけれど。

■〇〇と示されたからやる、の根本的問題

 というわけで「祈っていたら〇〇」は真偽を確かめづらいので、現代の「免罪符」的にあちこちで使われている。
 でもその真偽を確かめるウンヌンの前に、根本的な問題があると思う。すなわち、示されなかったらやらないんですか? という問題。

〇〇と言われたからやる」を裏返すと、「言われない限りやらない」になる。つまり能動的行動のない信仰。受け身の信仰。Bくんの伝道旅行でいえば、「行きたい」からでなく、「行けと言われたから行く」ということ。Aくんでいえば、「やりたい」からでなく、「やれと言われたからやる」ということ。自分自身の願いや、欲求や、挑戦したいという意欲はどこにもない(本当はあるんだけど)。

 人間には自由意思と選択の自由が与えられている、というのは今までも沢山書いてきた。それは神が人間に願っていることだと私は思う。聖書の価値基準を知り、そのうえで自分で判断し、目的をもち、自ら行動すること。それこそがクリスチャンらしい生き方だと思う。

 だから「祈っていたら〇〇と示されました」みたいな面倒臭い話でなく、「〇〇したいからします」で全然いいと思う。「〇〇をすべきかどうか神様導いて下さい」でなく、「〇〇するので神様助けて下さい」でいいと思う。教会の中でそれを言いづらいのはわかるけれど、本当は自信がないのに「示されました」と言ってしまうよりは、うしろめたくないだろうと思う。

2016年7月18日月曜日

気をつけよう、甘い言葉と「終末狂い」

 去る14日の夜、フランスの独立記念日にテロが起きた。フランスは昨年11月にも同時多発テロが起きている。今月はじめにはバングラデシュでもテロがあった。ふとニュースを見ると、トルコでは反政府軍によるクーデターがあった。

■「目に見える世界情勢」と「見えない世界情勢」

 世界規模でいろいろな事件が起きている。特に最近のテロの多発や日本人犠牲者の拡大には、「迫りつつある危険」を感じる人が多いだろう。
 こういうとき、必ずといっていいほど、終末論者たちがしたり顔で語りだす。「人々の愛が冷める」とか「国は国に敵対し」とかいう黙示録的ワードを並べたてて、いつも通りの結論を導き出す。「これは終末のサインだ。目覚めなさい」

 でもそういうのは、「目に見える世界情勢」に踊らされていることが多い。あるいは人々を踊らせようと、意図的に語っている側面がある。

「目に見える世界情勢」というのは、我々が得られる情報には限りがある、という意味だ。
 各地で悲惨なテロが起きているのは事実だけれど、悲惨な事件でいうなら、たとえばアフリカ大陸や中東地域は現代にいたるまで悲惨な事件で満ちている。東南アジアの諸地域もそうであろう。しかし日本であまり報道されず、ネットでも日本語情報が少ない種類のものは、「見えない世界情勢」となる。起こっているけど、知らない事態。そのため、日本で容易につかめる情報、つまり「目に見える世界情勢」に目が行きがちで、それ「だけ」が「世界」となりやすい。

 しかし実際にはいろいろな土地でいろいろな悲惨な事件が起きている。その意味で、「愛が冷める」のも「敵対」も、もうとっくに起きている。

 だから日本でテレビやネットから簡単に(日本語で)得られる情報の中から、テロとか戦争とかの情報を取り出して、聖書をこねくり回して、「ほれ終末だ」と主張するのは、ハッキリ言って浅はかだと思う。目覚めなきゃいけないのは自分たちのほうであろう。

■あくまで主観的な「終末感」

 またこれは何度も書いているけれど、世界情勢から終末を読み解くのは意味がないと思う。聖書が終末の兆候として示す「戦争」も「地震」も人類の歴史と共にあった。また前述のように「人々の愛が冷める」のももうとっくに起きている。最近の凶悪な殺人事件の数々を挙げて、「ほら、今までになく人々の心が冷めている」とか言う人がいたら、昭和の犯罪史を学んだ方がいい。あるいは江戸時代の「捕り物」の内容とか、拷問や処刑方法なども学んだらいい。残酷な話は昔から事欠かない。

 また「終末を感じさせる事態」も歴史上たびたびあったはずだ。挙げたらキリがないけれど、たとえばホロコーストとか、2つの世界大戦とか、スペイン風邪の大流行とか、ペストの大流行とか、どれも大量の犠牲者を出していて、現場の人々には「終末的」非常事態に見えたと思う。そのまま世が終わったとしても、彼らは疑問を抱かなかっただろう。

 だから現代、自分が目にしている「一大事」をとりあげて終末云々を語るのは、あくまで主観の話でしかない。それをホントの終末と結びつける根拠はどこにもない。あるとしたら終末狂いの人たちの、「だって主にそう語られたから」とか、「霊に感じたから」とかいう言葉しかない。

■仮に終末だとしても

 仮に今が終末だとハッキリ確認されたか、あるいは終末でないとハッキリ確認されたとしよう。そのどちらだとしても、私たちクリスチャンの態度は、何も変わらないはずだ。すなわち「惑わされないように」注意して、信仰に基づいた生活を送るだけだ。終末だなんだと騒ぎ立てるべきでないし、そういう話に踊らされるべきでもない。シンプルに毎週礼拝して、あとは自分の日常を生きるべきだと思う。
 日々起きる様々な事件・事故にふれて祈るとしても、それらに特別な「霊的意味づけ」をする必要はないし、そこから終末論やら陰謀論やらなにやらを展開する必要もない。そうでなく落ち着いた信仰生活を日々続けることが、キリストのシンプルな願いだと私は思う。

「迫害の際にそんな悠長なことは言っていられない」みたいなことを言うDQNがいるかもしれないけれど、迫害時にどうするべきかという話はしていない。終末終末と騒ぎ立てるべきでない、という話だ。

■「終末狂い」の浅はかさ

 以上みたように、極端な終末論者、すなわち「終末狂い」には、実は浅はかな言動が多い。あるいは人々を恐怖で扇動し、自分に注目させようという悪意を潜ませている。だから終末をよく唱える人や、いろいろな陰謀論や「霊的世界」の話をする人には注意してほしい。口がうまいしカリスマ性があるからコロッとやられやすいけれど、そういう見た目や耳触りの良さに惑わされていはいけないと思う。

 アメリカで同時多発テロが起きて以来、「同時多発」という台詞がすっかり気に入ってしまった牧師がいて、何にでも「同時多発」を入れるようになった。
「日本のあちこちで、リバイバルが同時多発的に起こっていく!」
 とか、
「私たちが祈ることで、各地で霊的打ち破りが同時多発的に起こっていく!」
 とか、もうまさにバカの一つ覚え。結局同時多発的なリバイバルも霊的打ち破り(なにそれ)も全然起こらないままその牧師は退場したんだけど、要はそういう感じの浅はかさ。見た目や言葉に騙されることなく、そういう浅はかさを見抜ける思考力や判断力が、本当に必要だとつくづく思う。

 この注意喚起を、先の参院選で安倍首相が言ってた言葉で表現するとこんな感じ。
 気をつけよう、甘い言葉と「終末狂い」

2016年7月13日水曜日

クリスチャンブログを書くということ

 当ブログを始めて、おかげさまで3年以上になる。だからそろそろ「ブログ」について語ってもいいと思う。

 というわけで今回は、「クリスチャンブログを書くということ」について書いてみたい。

 このブログを始めたそもそものキッカケは、私自身がカルトっぽい教会を離れたことにある。それまで本気で信じていたアレコレの間違いに気づくと、芋づる式に、あれも違った、これも違った、と気づくことになり、これはもう文章にまとめておかなければ、と思った。またそれを公表することで、私と同じような間違いにハマっている人への注意喚起にもなればと思ったし、あるいは私と同じように間違いに気づいて、いろいろ整理したい人向けの情報提供になればとも思った。

 で、書き続けて3年以上が過ぎた。はじめの2年は「ほぼ毎日更新」を目標にひたすら書き続けた。3年目からは諸事情あって毎日は困難になったけれど、そのぶん一つの記事のクオリティを上げられればと、それなりに工夫を凝らしてきた(つもり)。

 書いてきていろいろ気付いたことがある。書かなければわからなかったこともある。いろいろ反省もあるし、良かったと思うこともある。クリスチャンブログを始めようと思っている人がどれくらいいるかわからないけれど、これが何かの参考になれば幸いだ。

 その前に、いつも読んで下さっている皆さんに感謝申し上げたい。コメントもいつも本当にありがたい。すべてのコメントにお返事できなくて大変申し訳ないけれど、いつもちゃんと読ませていただき、心に留めさせてもらっている。また「毒」のあることばかり書いているのに、あたたかく受け止めていただいて、本当にありがとう。私にとってここは大切な居場所、また心の内側をさらけ出せる場所となっている。それも皆さんがあってのこと。これからも、良い記事、面白い記事、問題提起できる記事を書いていきたい。

 というわけで、クリスチャンブログを書くメリット、留意点、大事だと(私が)思うこと、その他諸々について。

■とてつもなくニッチな分野だと知っておく

 日本のクリスチャンが人口の1%未満と言われて久しい。30年前にも同じことが言われていたから、少なくともここ30年の教会の平均成長率は0%ということになる。だからクリスチャンブログのニーズも相当少ない。超ニッチである。ほとんど見向きもされないことは、覚えておいた方がいい。
 HPを持っている教会も多いと思うけれど、あれも一般的にはほとんど見向きもされない。知り合いのバプテストの牧師から、教会HPのアクセス記録について聞いたことがあるけれど、1日平均20~30PVくらいらしい。聖霊派のちょっと先進的なHPでも1日100PV行けば多い方だった。まあ教会HPは頻繁に更新することもないだろうし、内容も信徒向けだったりするから、そもそもPV増加は期待してないだろうけど。私も興味がある教会のHPを見るときは、礼拝時間とアクセス方法の画面しか開かない。

 だからつまり、クリスチャンブログをやるにしても、そんなに人に見られることを期待すべきでない。そもそもニーズが少ないから。
 もし、大勢の人に見てもらいたい、月間100万PV目指したい、とか思うなら、未信者の人を対象にするしかない。そしてクリスチャンブログでありながら未信者の人が興味を持つようなコンテンツを提供していくしかないと思う。それでも月間100万PVは至難の業だと思うけれど。

 悲報を追加すると、現在、ブログは無数のジャンルに広がって無数に存在しているけれど、その8割は1日のPVが50未満(月間1500PV未満)という調査もある。つまりブログそのものが、あんまり見向きされない傾向にある、ということ。その中でクリスチャンブログをやろうというのだから、集客を期待すべきでないのがおわかりいただけるだろう。

 だから沢山の人に見てもらおう、という動機より、これは書かなければならない、という動機の方が、くじけないで済むと思う。

■とにかく続けることが肝心

 これは断言するけれど、ブログは続けてナンボの世界である。内容の面白さより、情報価値の高さより、定期的に更新されていることが一番重要な要素となる。面白くても続いていないと、1回きりで終わってしまう。私の尊敬するクリスチャンブログも久しく更新されていなくて残念だ(それでもコメントだけは入り続けるという驚異的な事態になっている)。

 もっともそれは、ブログの目的にもよる。
 たとえば、ある一定量の情報をブログに順次掲載していき、終わったところで更新自体を終了する、というスタイルもあるだろう。その情報に一定のニーズがあれば、たぶん少数だろうけれど、その後一切更新しなくても定期的な訪問があると予想される。いわゆる「山道の途中の立て看板」みたいなものだ。

 でもそこまで普遍的価値のある情報というのも少ないだろう。多くのクリスチャンブログは、個人的な聖書研究だったり、日々の「証」だったり、「ディボーション」の記録だったり、日記スタイルだったり、写真中心だったり、キリスト教関係だけでなく自分の趣味を交えた内容だったりする。そういうのはやはり更新してナンボであり、更新が止まれば見る人も(ほとんど)いなくなる。
 ブログは生物(ナマモノ)であって、動き続けるから魅力的に見える、という側面がある。つまり止まると化石になってしまう。

 というわけでブログを始めるには、更新し続ける覚悟が一番必要だと私は思う。

■書き続けることで見えてくるものがある

 文章とは不思議なもので、書いても書いても、自分の表現したかったものを余すところなく表現できた、という達成感に到達できない。いつも書き終わってから反省して、ああちょっと違ったな、表現しきれてないな、焦点がズレていたな、みたいなガッカリ感を味わう。書いている最中はいい感じなんだけれど、それは自分の頭の中だけってことが多い。つまり、いくら書いても悔しかったり不完全燃焼だったりする。

 でも同時に言えるのは、それでも書き続けることで、いろいろな表現方法を学び、いろいろな切り口を発見し、より多彩な展開ができるようになっていく、ということ。自分が表現したかったものに、より近い文章を書けるようになっていく(ような気がする)。だから諦めてはいけない。前述の通り、書き続けることに意味がある。

 また、書くことでいろいろ整理できるというメリットもある。私の場合はカルトっぽい教会についてゆっくり振り返ることができた。まだその最中なんだけれど、これはきっと自分の精神状態に良い影響をもたらしていると思う。より客観的になり、広い視野を持てるようになったと思う。
 はじめの方の記事を読むと、あまりに視野狭窄になっていて、我ながら恥ずかしい。もちろん善意や正義感から書いていたんだけど、暑苦しいし断罪的だし、あまり良い印象を与えないと思う。伝えたいことがあるなら、内容もさることながら、伝え方に注意しなければならない。自戒を込めて。
 そしてそれは、書き続けることでしか身につかない。

■ブログ収益は期待しない

 ここからはちょっと専門的な話。

 数年前、「ブログで飯を食っていこう」みたいな気運が高まった時期があったと思う。webライターになって職場の束縛から解放されよう、自分のペースで生きていこう、みたいな感じ。「ノマド」という言葉も流行って、「働くこと」の新しいスタイルが提案されたように思う。で、成功したブロガーさんたちが世に出て、彼らの本が出版された。そこから「ブロガー」という職業が新しく生まれたようにも思う。

 しかしどんな業界もそうだけれど、大きく成功するのはごく一部である。無数のブロガーがいる中、いわゆるアルファブロガーになれるのはごくわずかだ。しかも成功した人たちは、ブログ一本で食べているわけではない。ブログが元になって別のビジネスチャンスを得た、というのが大きい。
 また中にはブログ一本で食べている人たちもいるだろうけれど、彼らはプロの書き手であることが多い(もともとそういう仕事をしていた)。だからブログ記事がいくつものキュレーションメディアに紹介され、大量のPVを集め、出版するチャンスもある。本職を持ちながら余暇でブログを書く大多数の人とは、そもそも立ち位置が違う。

 で、ブログの収益だけれど、いわゆるアフィリエイトとか、google AdSenseとかで収入を得る方法はある。けれどまともに暮らしていけるだけの収入を得るには、月間PV100万は最低でも得なければ厳しい(1日にしたら3万4千PV)。しかもそれをずっと維持していかなければならないわけで、仕事としても相当厳しいものがある(普通に雇われて働いた方がそのへんは楽だろう)。

 で、はじめの話に戻るけれど、クリスチャンブログはものすごいニッチだ。少なくとも日本では、需要が全然ない。そこで月間100万PVというのは、私の感覚からしても相当な無理ゲーである。よっぽど面白いコンテンツで、未信者を巻き込まないと不可能だろう。でもそうすると、クリスチャンブログを標榜する意味がどうなのって気もする。

 だから「クリスチャンブログで食べていこう」みたいな人がいるなら、ほぼ無理なのでやめておいた方がいいと私は忠告する。 それより自分の書きたいことを好きに書いて、上記のような文章力の向上とか、頭や気持ちの整理とかを考えた方が現実的だと思う。それで余裕があるならブログの収益化をして、多少なりとも小遣いが入るようにでもなれば、万々歳ではないだろうか。

 というわけで「クリスチャンブログ」について書いてみた。まだ書きたいことがあるので、おいおい書いていこうと思う。

2016年7月9日土曜日

「牧師城」を支える善意の信徒たち

「牧師城」について3回目。
 これまでの2回で、「牧師城」とも言うべき牧師による独裁体制の教会と、それを支えるリーダーたちについて書いてきた。今回は最終回として、そんな「牧師城」を支えている多くの信徒の皆さんについて書きたい。

■シティハーベストチャーチの顛末

 2012年、シンガポール最大のプロテスタント教会、シティハーベストチャーチの主任牧師だったコン・ヒーと5人リーダーたちが、資金不正流用疑惑で逮捕された。長い裁判の末、2015年に全員有罪確定となった。現在同教会は、首をすげ替えて再出発している。

 事件のキッカケは、コン・ヒーの奥さんであるサンさんが、アメリカで音楽活動を始めたこと。「賛美の賜物がある」彼女がアメリカで活動開始! ということで教会を挙げて応援して、当然成功すると(教会の中では)思われていたようだ。しかし結果はそうではなかった。でも簡単に引き下がるわけにいかず、頑張っているうちに、資金が足りなくなった。そこに教会のお金を入れて入れてを繰り返したら、いつの間にかとんでもない金額になってました、という話(それでも誰にも止められなかった)。
 これは私の想像だけど、どこかの段階で、内部告発があったんだと思う。それで事件が発覚し、延々と続く「借金地獄」が食い止められた、というのが真相(に近い)のではないだろうか(教会で地獄というのも皮肉な話だけれど)。

 事件発覚前、同教会の礼拝出席者数は3万3千人に達していたらしい。しかし発覚後(有罪確定前)は1万8千人に減少した。そして昨年2015年は1万6千人ほどだったと言う。
 ほぼ半分に減ったことになる。半数の信徒がコン・ヒーに失望したり腹を立てたり傷ついたりして、去っていったのだ。でも半数は残った。彼らはそれでもコン・ヒーを支持したわけだ。

 この減少を少ないとみるか、多いとみるか。

 私個人は、こういう「牧師城」な教会で、今回のような問題が起きたにもかかわらず、信徒がまだ半分も残っているのは、正直残念。しかし一方で、半分くらい残るのは妥当な数字だとも思っている。

 これにはたぶん、コン・ヒーの罪状も関係している。もし彼が資金不正流用でなく、不倫とか暴力とか詐欺とか恐喝とかやらかしたとしたら、信徒数はもっと減ったと思う。不正流用より汚く、生々しくて、嫌悪感を抱かせる罪状だからだ。つまりは「印象」の問題。
 資金の不正流用というのが、また微妙だ。もちろん不正に変わりはないけど、きっと彼らの思考はこんな感じだったと思う。

「我らが牧師夫人が、その賜物を生かして音楽活動を展開する。しかもアメリカで! ハレルヤ!」
「難しいこともあるかもしれないけれど、これはきっと成功し、主に栄光が返されるはずだ。主の導きでもあるんだから、間違いない」
(活動開始後)
「なかなかうまくいかない。これは主からの試練だ。ここは忍耐して、続けるべきだ」
(しばらくして)
「まだ芽が出ない。資金も不足してきた。しかし、ここが信仰の踏ん張りどころだ。主は我々の忍耐を試しておられる。悪魔よ退け!」
「お金が足りない? なら教会の資金があるじゃないか。奥さんは教会のため、伝道のためにもこの活動をしているんだ。教会がそれをサポートするのは当然じゃないか」
(さらにしばらくして)
「まだダメだ。主よ、いつまでですか? 支払い? いつも通り献金を回すんだ。成功したら教会に返せばいい」
「なに、警察がきた? 資金の不正流用? なんの話だ、いったい」

 と、こんな流れだったと私は想像する。当たらずとも遠からずであろう。
 要するに彼らにとって、牧師夫人の活動は「個人的な活動」でなく「教会の活動」だった。そこの線引きが曖昧だったか、あるいは融合していた。だから「不正流用」と言われても、ピンとこなかった。コン・ヒーたちがずっと無罪を主張し続けたのも、そういう考え方があったからだ(と思う)。

 そしてそういう考え方は、信徒の中にもあっただろう。「悪いこと」という印象が薄かった。あるいは悪いことだと思っても、「やむを得なかった」とも感じた。だから前述したように、不倫とか暴力とかに比べて、「印象」が良かった。
 というわけで信徒の間に、「コン・ヒー先生かわいそうに」「頑張ったのに」「伝道に忠実だっただけなのに」みたいな同情論があっただろう。だからこそ、半分の信徒が今も残っているんだと思う。

■なにも知らない(知らされない)信徒たち

 と、ついついシティハーベストチャーチの事件について考察してしまったけれど、このように多くの信徒が、教会なり牧師なりが不正をはたらいても、それを支持し続ける。という現象がある。

 なにが問題かというと、第一に彼らが「牧師城」となった教会の危険性を知らないことだ。
 シティハーベストの事件でいえば、ちゃんと宗教法人法に則った形で会計処理がなされ、第三者に監査される仕組みになっていれば、決して起こらなかったはずだ。しかし実際には、「伝道」という名目で、関係者が幾らでもお金を引き出せる「ザル」状態になっていた。しかも実際に何に使ったのか、いついくら使ったのか、ということを不明瞭にしたままにできた。つまり献金のプールが、牧師なりリーダーなりにとって「都合のいい財布」になっていたのだ(そういうのは日本の教会でもよく見られる)。

 またこれはお金だけの問題でなく、いろいろなことにも言える。問題の本質はお金でなく、なんでも牧師のやりたいようにできる状況になっている、ということと、皆がそれを良しとしている、といことだ
 たとえば、教会で若者のファッションショーをやりましょうとか、芸能人を呼びましょうとか牧師が言うと、みんな「アーメン」となってしまって、意見する人がいない。べつにファッションショーも芸能人も悪くないけれど、それが本当に必要かとか、予算的に無理がないかとか、どういうデメリットがあるかとか、そういう議論が一切なされず、牧師が言ったままが実行されてしまう。そしてそれを皆で良しとしてしまっている。
 ちなみに、それで結果が良くないと、「試練だ」とか「悪魔の策略だ」とか「なにか意味がある」とかになってしまう。そもそも自分たちの計画に問題がなかったのか、という反省には話が進まない。自分たちは正しくて、外部のなにかが悪いんだ、といういわば「霊的責任転嫁」になるからだ。

 また第二の問題として、大半の信徒が、実際に何が行われているかを知らない(知らされていない)、というのがある。
 たとえばシティハーベストの例でいえば、「音楽活動で資金繰りが悪くなって、やむなく教会のお金に手を出してしまった」というちょっと同情を誘う話になっている。けれど、実際にどうだったかは当事者たちにしかわからない。たとえばリーダーたちの渡航費とか、むこうでの飲食費とか宿泊費とか、お土産代とか個人的な買い物とか、そういう音楽活動とは関係ないものにまで献金が使われていた可能性が、大いにある。あるいはもっと酷い使い方だった可能性だってある。というのは、実際の音楽活動にはいろんなプロセスがあり、いろんな費用がかかる。そのどこに献金を当て、どこに自腹を切るか、「厳密に区切って適正にやる」なんて現実的ではないからだ。むしろ時間とともに、公私混同に拍車がかかっていったと考える方が自然だ。
 私の知っている例でも、奉仕先からの帰り道に温泉とか料理とかスィーツとか楽しんで、お土産までたんまり買いこんで、そういうのを全部「伝道費」で計上する牧師がいた。元東京都知事の舛添さんみたいなことは、教会でも当たり前に行われている。たぶん一部だろうけど。

 でも日曜礼拝で「伝道」の結果だけを聞かされる信徒らには、そういう内情は見えない。会計報告などないのだから、わかりようがない。

 だから牧師に不正疑惑がかかっても、実際に逮捕されても、実際に有罪確定しても、牧師が涙ながらに「すべては伝道のためでした・・・」と言えば、とたんに「印象」が良くなる。それを支持する信徒もでてくる。でもよく考えてみれば、「すべては伝道のためでした」の内情は全然見えていない。
 たとえばここで、実は裏で不倫してました、愛人と豪遊してました、その費用に献金を充てちゃいました、というのが真相だとしたら、どうだろう。とたんに「印象」が悪くなる。それでも支持するだろうか。

 だから牧師が講壇で言うことになんでも「アーメン」してしまって、その内容について深く考えない信徒たち、何か問題が起こった時にその内情について言及しない信徒たちが、結果的に「牧師城」を支えていることになる。
 彼らはたぶん善意で牧師やリーダーたちを支持し、教会を愛しているのだと思う。でも実は知らないことが沢山あって、知ったらガッカリするようなことが隠れているのを知らない。

 だから善意は必要だけれど、それだけでは良くない。現実的にものを考えて、人間がもっと汚いこと、悪いこと、うまく体裁を繕っていることを知らないといけない。聖人などいないのだ。でもそれは人間に期待するなとか、失望しろとか、厭世的になれって話ではない。そうでなく正しく人間を理解することからはじめないと、結局のところ自分にとって都合の良い幻想の中で生きることになってしまう。そして独善的で、訂正不能なクリスチャンになってしまう。

■おまけ

 独善的なクリスチャンによくみられる発言に、こういうのがある。

「批判しても何にもならない。もっと建設的でないと」
「牧師先生だって弱い人間なんだから、批判するべきでない。相手の目の中のチリよりも、まず自分の目の中の梁をのぞかないと」

 と、聖書をうまく使っているつもりだろうけれど、問題を問題としないところが問題だ。また性善説を信じてしまっている。たとえば教会の少女たちを順番に強姦した牧師がいたけれど、まったく反省していない彼に対して「批判は良くない」とか、「弱さからくるものだから許します」とか言うのだろうか。その被害者たちにどんな「建設的な」話をするのだろうか。その気持ちを少しでも想像したことがあるだろうか。

2016年7月7日木曜日

「牧師城」が難攻不落なワケ

 前回に続いて難攻不落の「牧師城」について。

「牧師城」が難攻不落である理由は、前回書いた通り、その教会政治の在り方にある。 すなわち牧師の支配(独裁)体制が確立されており、役員会も監査役も傀儡でしかなく、牧師を止めるものが何一つない、ということ。
 それでも牧師が悪事をはたらかなければ、ただちに問題になることはない。けれど有事の際は、その難攻不落さがネックとなって、大変なことになる。

 たとえば教会が定期的な会計報告をしてなくて、なんとなく怪しい雰囲気があって、あなたがそれを教会に聞いてみたとする(教会会計を気にする人はまずいないけど)。
 すると、牧師はきっとこんなふうに答える。
「スタッフも自分も毎日ミニストリーで忙しくして、会計処理をしている暇がない。もちろん会計報告できたら良いだろうが、その事務処理に手間どっている間に、神の働きが滞ることがあってはならない。我らは金銭でなく、主にお仕えしているのだから」
 なんかすごく敬虔な感じで、なんとなく納得してしまいそうな言い分だけど、いやいや献金集めてやってるんだよね、それ? 自腹切ってるわけじゃないよね? 会計報告する義務あるよね? って話のはず。そのへんを突っ込んでいくと、だんだん牧師の顔つきが変わっていく。そしてこうなる。「金銭のことで神の働きを妨げるあなたは、悪魔の影響を受けてしまっている!」 
 で、まわりの人たち(役員とかリーダーとか)も、それを支持する。そして一緒になって、あなたを責めはじめる。

 先生がどれだけ忙しいか、わかってるの?
 先生がどれだけご自分を犠牲にしてらっしゃるか、わからないでしょ?
 養ってもらってるだけの一信徒には、牧会の苦労はわからないよね?
「油注がれた者」に刃向っていいと思ってる? 罪だよそれ。
 教会批判はいけない。今すぐ悔い改めなさい。
 先生だって人間なんだよ? 限界もあるし行き届かないところもあるよ。もっと寛容でないといけないよ、君。
 聖書になんと書いてありますか? 互いに愛し合いなさい、と書いてありますよ。お金のことなど二の次です。私たちは愛し合うべきです。
 などなど、いろいろ。

 こんなふうに、会計報告さえできてない自分たちの適当さを棚の上に放り投げて、あなたのことを「教会を貶める悪魔の手先」みたいに言う。つまりあたなが訴えれば訴えるほど、あなたの立場は悪くなっていく。責められ、孤立し、辛くなっていく。聖書を使ってひっぱたかれる。教会のためを思って言ったのに、その教会から、敵扱いされる。

 そうなるともう太刀打ちできる気がしなくなって、あなたは謝るか、忘れるか、教会を離れるか、他教会のクリスチャンに相談するか、とかになる。
 教会の会計状況が気になっても、酷い目にあったから、もう追及する気になれない。結局あなたは「牧師城」を前に、手も足も出ない。

 というのが、その難攻不落さの一場面。「悔しさ」の片鱗を、感じていただけただろうか。

■「牧師城」を難攻不落にしている要因:それを支持してしまうリーダーたち

 なんでそういう、一信徒の側に立たず、牧師を一方的に支持するリーダーとか先輩信徒とかがいるかというと、それが彼らにとって「神に仕える」ことだからだ。彼らは自分たちが神に仕えている、神に忠実な者だと信じて疑わない。そして牧師や教会や自分たちの信仰に対する不満や抗議にすごく敏感で、何かあれば「牧師批判は罪だ」「教会批判は罪だ」となる。逆らう者には容赦しない。あるいは寛容な態度を見せたとしても、結局はこれ。「彼(彼女)はまだ未熟だから、自分が何をしているのか、わかっていないのです(だから私が正しく導いてあげないとね。やれやれ)」

 こういう人たちが、先の牧師による支配体制にガッチリはまってしまうと、もうその難攻不落さは「たけし城」なんて目じゃないレベルになる。必ずしも牧師の目論見と彼らの目論見とは一致しておらず、彼らの方が善意を動機にしていることが多いんだけど、善意なだけにタチが悪い。
 彼らの頭の中にはこんな図式がある。

「善意からやっていることなんだから、良いものだ」
「信仰からきていることだから、良いものだ」
「聖書に精通している牧師の言うことだから、良いものだ」
「それに反対したり意見したりするのは、罪なのだ」

 という訳で、自分たちの正義が絶対だって信じてて、それを保証するために聖書を都合よく解釈している。だから教会や牧師のやり方に意見したり異を唱えたり反対したりする人を、みんなして攻撃する。

 でもそういうふうになってしまった教会には、もはや自浄作用がない。それだけは覚えておいてほしい。必ず問題が起こる訳ではないけれど、起こった時にはどうすることもできなくなる。その時、誰かが傷ついたり、被害に遭ったりする。そして信じきっていたものが、呆気なく崩壊していくのを見る。

 自浄作用のない教会とは、中を掃除できないエアコンを使い続けるようなものだ。外側はきれいで、はき出す空気もはじめのうちは清浄だ。中が必ず汚れるとも限らない。室外機の周囲の空気がきれいな限りは。
 でも汚れた時にどうするか。有害な空気をはき出すようになったエアコンを前に、エアコン自身も、あなたも、何もできないんだけど。

2016年7月6日水曜日

『風雲!たけし城』並みに難攻不落な「牧師城」

■難攻不落な「たけし城」

 1980年代のテレビ番組『風雲!たけし城』をご存知だろうか。
 たけし軍団が守る「たけし城」を攻略せんと、毎週全国から集まった挑戦者たちが体力知力を振り絞って各難関に挑む、バラエティ番組だ。けっこう人気があったと思う。私も毎週ではないけれど、よく観ていた。
 参考までに、同番組の最終回の動画(youtube)を紹介する(長いので注意)。

『風雲!たけし城 第127回(最終回)』

  たけし城までにいろんなステージがあって、ストロング金剛に追いかけられながら迷路を攻略するとか、不安定な吊り橋を渡りながら高速で飛んでくるバレーボールをかわすとか、けっこう無理ゲーだった。でも極めつけは最終ステージで、カートを使ったウォーターバトル。各カートに大きな水鉄砲と紙のマトが付いていて、カートを運転して自分のマトを守りながら、敵のマトを水鉄砲で射抜けば勝ち。たけしが乗るカートのマトを射抜けば、敵があと何人残っていてもその場で試合終了、見事たけし城攻略となる。
 でもたけしのカートの紙のマトが、明らかに厚い。水鉄砲が多少当たってもビクともしない。あれは卑怯だろうと子供心に思ったものだ。案の定、挑戦者らは毎週ことごとく全滅させられていた。たぶん番組史上、たけしのカートが攻略された回はわずかしかない。まさに難攻不落であった。

 まあ簡単に攻略されたら番組として面白くないのはわかる。難しいからこその挑戦だろう。でも子供だった私は、数々の難関をクリアしてきた挑戦者らが一矢も報いることなく散っていくのが、なんだか悔しかった。あのたけしのカートのマトの厚さ。あれは狡いだろうと思ったのを、今でもよく覚えている。

 で、現代に話を戻すんだけど、それと似たような「悔しさ」を覚えることがある。教会で。以下の記事が、その「悔しさ」を想起したキッカケである。

 『アベ過ぎる”勘違い牧師”の醜態』(松ちゃんの教室 ブログ)

 牧師が不透明な会計処理を指摘されても何だかんだ言い逃れる。あるいは再任が否決されてもシレッと居座り続ける。あるいは役員会を自分の息のかかった人間で固めて操作し、教会全体を思い通りに動かしていく。気に入らない人間(信徒や役員)を排除しながら。

 そういう話は決して少なくない。要は、牧師によって私物化されている教会が一部にある、ということ。そこでは牧師職の不可侵領域が確立されていて、誰も踏み込むことができない。つまり「たけし城」と同じ、難攻不落。

 そこでは牧師がグレーなことをしたとしても、あるいは不正疑惑が掛けられたとしても、あるいは明らかな不正が発覚したとしても、牧師の立場はほとんど揺るがされない。ウソみたいだけど、本当の話。

■難攻不落な「牧師城」

 カラクリは単純だ。教会の幹部が全員牧師の家族や親族だったり、そもそも教会規約がなく牧師に何の縛りもなかったり、役員会等があっても全員牧師の息のかかった人間だけで構成されていたりするのだ。皆牧師を援護し、庇いはするけれど、注意したり意見したりはしない(できない)。

 だから、たとえば教会会計にかかわるのは牧師と身内だけとなり、事実上のブラックボックスと化す。不正があっても発覚しづらい。疑われても普段から会計報告なんかしてないから、後から何とでも言い訳できる。
 また教会規約とか、教会の大事な決め事とかも、教会総会でなく役員会でのみ決議することが多い。でも役員会ったって牧師の傀儡みたいなものだから、牧師の希望がノーチェックで100%通ることになる。役員会で決議しました、というのは形式に過ぎない。
 また全信徒が参加できる教会総会は、事後報告を発表する場だったり、すでにシナリオができあがっている決議を事務的にこなすだけの場だったり、あるいは○○の事業を始めるから献金よろしくね、みたいなアピールの場だったりする。全員で何かを決める場でははない。イコール、一信徒が教会の何らかの決議に参加することは、ない。

 というように牧師の支配構造がハッキリしている教会は、聖霊派・福音派あたりになると少なくない。そこでは牧師の意に反したことを信徒がしようとすると、いろいろな障害に遭ってしまう。あるいは初めから、意に反することができない仕組みになっている。繰り返すけど、難攻不落の牧師城だから。

 ただ、そういう構造の教会がイコール不正や悪事を働いている、という訳ではない。おそらくほとんどの教会や牧師は、牧師城的構造であっても、良心と公序良俗に従って、教会運営をしていると思う。だからそういう構造自体が悪いとは断言できない。

 ただ問題は、牧師が不正や悪事を働いた場合だ。その際は、難攻不落であることが、とんでもない災いとなる。なぜなら牧師の不正は家族ぐるみ、仲間ぐるみで庇われ、隠蔽されるからだ。そのへんは独裁政権の歴史をみればわかると思う。一信徒や一個人では、到底太刀打ちできない。逆に悪魔呼ばわりされて、余計な被害を被ることにもなる。
 だから、難攻不落の牧師城なのだ。

 というわけで後半に続く。

2016年7月3日日曜日

カトリックとプロテスタントの大きな違い。「人とのかかわり方」について

 カトリックとプロテスタントの両方に触れて思ったことを、1つ紹介したい。

 と言ってもカトリックはまだまだ勉強中なので、教義面ではまだ何も言えない。言えるのは実際の教会生活(主に礼拝)についてになる。
 またプロテスタントと言っても幅が広くて、一概に言えない。だから私が長くかかわってきた聖霊派・福音派の話になる。ルーテルや聖公会になるとまた話が変わってくるので、そのへんを了解したうえで読んでいただきたい。

■カトリックとプロテスタントの実際面の大きな違い

 カトリックとプロテスタントの大きな違いとして、「人とのかかわり方」があると思う。

 カトリックだと、自分から動かない限り、誰も何も教えてくれない。特別話しかけられることもない。だから人とのかかわりは文字通りゼロになる。個人的に仲の良い間柄はあるだろうけれど、教会で知り合った人たちと関係を築いていこう、みたいな雰囲気はない。青年会とか婦人会とかのグループ活動もない(と思う)。(→訂正。あるみたいです)。

 カトリックに通って1年になるけれど、私はいまだカトリックの知り合いがいない。もちろんやり方次第で、誰かと知り合いにはなれると思う。ただ私個人がそれを願っておらず、話しかけることもせず、それでも通い続けられる雰囲気がカトリックにはある、ということだと思う。
 たとえばこれで周りに沢山のグループがあって、会堂のあちこちでワイワイガヤガヤやっていたら、ぼっちの私は寂しくなって、どこかのグループにいずれ入りたくなる。
 しかしカトリックのミサ(礼拝)に通っている限り、ぼっちを意識することはない。少なくともそこでは皆がぼっちであり、1人1人が神に向かっているからだ(と思う)。礼拝堂を出れば、固まって話している人たちもいる。けれどそこはもう教会とは関係ない。

 というのが私のカトリックのイメージ。自分から動かないと、何のかかわりも生まれない。

 この点がプロテスタントはまったく逆になる。
 プロテスタントだと教会に入った瞬間から話しかけられる。まず受付で挨拶され、次に隣の席の人に話しかけられる。礼拝中にまわりの人たちと挨拶する時間があり、下手すると初対面の人とハグする羽目にもなる(カトリックにもこの時間はあるけれど、頭を下げるだけでいい)。また礼拝中に立って自己紹介させられることもある。
 礼拝が終わると、初来会の場合はまず間違いなく牧師に話しかけられる。どこの誰で、どんな仕事してて、どこに住んでて、どこ出身で、どんな家族構成で、どんな事情で来たのか、とかいう個人情報を聞かれる。そしてさっそくいろいろな教会活動を紹介されて、是非どうぞ! ってなる。連絡先を教えると、いろいろお誘いをいただいたり、お元気ですか? とか脈絡なく聞かれたりする。
 また青年であれば青年会、婦人であれば婦人会など、年齢性別に合ったグループを紹介される。そこのリーダーにもいろいろ話しかけれらる。「弟子訓練」を導入している教会だと、一対一でいろいろ教えられることにもなる。またそういうグループとか師弟関係とかでなくても、誰かに個人的に気に掛けられて、願うと願わざるとにかかわらず、あれこれお世話されることもある。

 つまりプロテスタントだと、ぼっちではいられない。誰かと関係を持たざるを得なくなる。
 カトリックみたいに、礼拝が終わると皆すぐ会堂を出ていくってこともない。礼拝後は「交わり」の時間だったり、昼食会だったりして、いずれにせよ誰かと話すことになる。教会に来たばかりだと、そこでいろいろ教えられることになる。

 まあ、どっちが良い悪いという話ではない。そういう違いがあるよって話。
 しいて言うと、ぼっちでいたければカトリックは居心地がいいし、ぼっちが嫌ならプロテスタントの方が居心地がいい。かもしれない。

■プロテスタントの「かかわりすぎ」

 そういう基本理解を踏まえたうえで、プロテスタントの「人とのかかわり方」の問題点を挙げてみよう。それは一にも二にも「かかわりすぎ」というのが根本にある。

事例1
 クリスチャンになったばかりのAさん。先輩信徒Bさんが、事実上の指導係になった(頼んでないけど)。
 ある日曜の礼拝。Aさんは教会にきて、いつも通り一番後ろの席に座った。そこへBさんがやってきた。「Aさん、今日から礼拝では前の席に座りましょう」「なんでですか」「礼拝に集中できるためです」
 で、Aさんは仕方なく前の方の席へ。隣にはBさんがいる。で礼拝がはじまって、終わって、Aさんは帰った。以降来ていない。

事例2
 弟子訓練教会にて。Cさんがリーダーで、Dさんがフォロワー。Dさんは結婚について悩んでいた。結婚を考えている交際相手が、未信者だったからだ。 でCさんがアドバイスした。相手が未信者でも、ちゃんと話し合って信仰について理解してもらえれば、結婚の妨げにはならないのではないか、みたいな感じに。Dさんはちょっと安心した。
 さてCさんが牧師に呼ばれて、Dさんの教育の進捗状況について聞かれた。Cさんは結婚のことも含めて報告した。すると牧師が激怒して、未信者との結婚なんてダメに決まってるだろう! みたいな感じで怒鳴りつけた。
 そして後日、DさんはCさんに呼ばれた。Cさんは神妙な表情で、やっぱり未信者との結婚は考え直した方がいいと思う・・・と言う。
 え、どっち?
 というのがDさんの感想。

 他にもイロイロあるけれど、要するに「余計なお世話」な事例が多い。と言うか余計すぎて、不信感を抱かせたり、教会から離れさせたりしてしまうことがある。たとえ善意からだとしても。
 Aさんのケースで言えば、礼拝で座る席なんか好きにさせろって話。Dさんのケースで言えば、教える側の不一致が問題だけれど、そもそも人の結婚に教会が口を出すのがおかしいと思う。しかも未信者じゃダメだとか、昭和初期の親じゃあるまいし。
 これが分別のつかない未成年ならまだわかるけれど、大人相手にすることではないと思う。

■プロテスタントの千差万別さ

 これらは極端な例だろうけれど、プロテスタントの「人とのかかわり方」を突き詰めた結果でもあると思う。知っているルーテル教会だと、人間関係はもっとあっさりしている。もっとバランスのいいところもあるかもしれない。

 でもそういうふうに、人間関係が密だったり稀薄だったりとイロイロあるのが、プロテスタントの特徴の一つだと思う。
 だから教会と言っても千差万別なので、選ぶ際にはイロイロ見たり聞いたり試したりした方がいい。「人はそれぞれ植えられる教会が決められている」みたいな運命論を主張する牧師もいるけれど、聖書にそんな根拠はない。決めるのはあくまで自分自身。だからはじめから「ここ」って決めるより、いろいろ見てからでも全然遅くないと、私は思う。カトリックもプロテスタントも含めて。

2016年7月1日金曜日

「リバイバル」な「センター」をお求めになる「神の言葉」を想像してみた

 読者の方から紹介していただいた動画がいろいろな意味で面白かった。
 ふと気づくこともあったので、それについて書いてみたい。

 その動画はこちら(10分近くあって長いので、お勧めしない)。

 べつにこの動画の教会がどうこうと言うつもりはない。こういう教会は沢山ある。いわゆる「次世代牧師」(と言ってもほとんど40代以降)がやってる聖霊派系の教会は、言うこともやることも、どこも似通っている。だから一つの教会だけ取り上げて突いても、あまり意味がない。

 それにしても、この手の教会はどこも、「リバイバル」な「センター」をつくるんだと言い出す。経緯や内容は教会によって様々だけれど、目指す「センター」の「ヴィジョン」は、どこもすごく似ている。全員で口裏を合わせているんじゃないかと疑いたくなるくらい似ている。

 で、あんまりにも同じなので、皮肉をこめてなんだけど、「もしかしたら神様が、彼らにこんなふうに語ったのかも」というのを考えてみた。
 題して、「『リバイバル』な『センター』をお求めになる『神の言葉』」
 さっそくどうぞ。

――――――――――
 あなたがたは「リバイバル」を標榜するセンターを作りなさい。
 一地域教会であっても、「センター」という名前を冠して日本中、世界中に「インパクト」を与える信仰を持っていなさい。
 センターは既存の建物であってはなりません。あなたがたに言っておく。それは必ず新築であり、モダンな建物でなければなりません。ガラス張りや吹き抜け、お洒落なラウンジなどのフリースペース、社会貢献をアピールするバリアフリーなど備えた建物であるようにしなさい。またあなたがたに言っておく。センターは教会らしさ、宗教っぽさを前面に出さないようにしなさい。むしろ教会を感じさせない雰囲気にし、未信者を安心させ、警戒を解くようにしなさい。

 センターにはカフェを併設しなさい。あなたがたに言っておく。それはカフェであって、喫茶店ではありません。モダンな造りにし、テーブルや椅子、ディスプレイ、小物に至るまでお洒落にこだわったものにしなさい。スターバックスカフェやエクセルシオールカフェから学びなさい。ただしレジは外部から見えないので、浅草合羽橋の中古品で十分である(読者はよく読み取るように)。
 あなたがたのカフェは健康志向であることを前面に出しなさい。無農薬や有機栽培、天然酵母、水素水などを用いてよくアピールしなさい。
 カフェの雰囲気もまた、教会らしさを出さないようにしなさい。BGMはワーシップソングでなく、一般的なゴスペルやクラシックにしなさい。そうして未信者に安心感を与え、伝道の基礎としなさい。

 あなたがたはセンター設立について内外によくアピールしなさい。しかし外部の協力は得にくいので、主に教会の信徒に集中しなさい。事あるごとに献金を呼びかけなさい。教会債を発行してお金を集めなさい。センターの設計図や見取り図、イメージ画像、紹介文をうまく使いなさい。センター設立の献金用口座を開設し、週報や会報、HPやポスターなどあらゆるスペースに掲載しなさい。

 センターのPR動画も制作しなさい。動画はBGMに感動的なワーシップソングを使いなさい。大宣教命令など、私の言葉をフェードイン・フェードアウトなど使って効果的に表示し、見る者が感動するように工夫しなさい。見よ、ヒルソング・オーストラリアの巨大ホールでのライブ映像。ああいうものを賢く用いなさい。ヒルソングには無許可で構いません。あなたがたの中で英語を使う者は多くはなく、海外との繋がりがある者も多くはないからです。
 そうやって献金を募りなさい。集まりが悪い場合は、生活費を全部ささげたやもめの話や、マラキ書を用いなさい。捧げれば祝福されると語りなさい。その祝福とは霊的なものを多分に含むので、信徒が実際に金銭的に祝福されなかったとしても案ずることはありません。

 またセンターでは様々な事業、活動を展開するとアピールしなさい。子供たちや片親たちの支援、障害者福祉、介護施設、外国人のサポート、海外からの宣教師や宣教団体の受け入れ、災害被害に対する支援活動など、社会貢献をアピールできる活動を、たくさん盛り込みなさい。そのための画像や動画をうまく利用しなさい。実際にできるかどうかは二の次です。あらゆる可能性を試しなさい。あなたはあれがうまくいくか、これがうまくいくか、知らないからです。水の上にパンを投げなさい。
――――――――――

 と、いうような「語りかけ」を聞いたなら、どの教会もどの牧師も口を揃えて「リバイバル」の「センター」を立てあげる! と言い出す理由もわかる。同じような構想のセンターで、同じようなカフェを作って、同じようなPRビデオを作って、同じような映像を使い回しているのも、納得できる。

 べつにどんなセンターを作ろうがどんな事業をやろうが自由なんだけど、どの「地域教会」も口を揃えて「うちがセンターだ」「うちから日本が変わる」と(教会内で)主張しているのはどうなのか。なんとなく、AKB総選挙でアイドルたちが1位(センター)を奪い合っている姿に似ている。

 それはつまり「リバイバル」の「センター」を作りたいからでなく、そうして皆の注目の中心(センター)に自分を置きたいだけじゃないかと、私は斜に構えて見ている。

 というわけでご紹介いただいた動画から、つらつらと書いてみた。
 あ、ちなみにこの「神の言葉」は私の捏造なので、くれぐれも感動して「アーメン」とか言わないで下さい(しないってw)。