2016年7月24日日曜日

逸脱感満載の「聖霊のサイン」

 私が聖霊派教会で熱心だった頃、「聖霊のサイン」についていろいろ教えられた。そして信徒みんなでそれを実践しようとしていた。
 今回はそんな当時を振り返りながら、その問題点について考えてみたい。

■「聖霊のサイン」の脳内捏造

 教会で、信仰において何かしようとするとき、「聖霊のサイン」が必要とされた。いわゆる「聖霊からのゴーサイン」がないと、何一つできなかった。あるいは推奨されなかった。だから何かしようと思ったら、まず「聖霊のサイン」を求めてずっと祈ったり、延々と賛美したり、聖書を読んだり、時には断食したりして、その過程で「聖霊のサイン」を見極める、というのが私たちの日常であった。

 その「聖霊のサイン」は大きくわけると3種類あって、「イエス」と「ノー」と「待て」だった(そう教えらえた)。「イエス」なら実行できて、「ノー」ならできなくて、「待て」ならとりあえず希望をもって待ってみる。
 だから自分の問いかけに神様がどう答えられるかと、自分の内面に意識を集中したり、心に浮かんでは消えるものに集中したり、かすかに感じる感情や心の動きに注目したりしたものだ。あるいはそれらしい印(しるし)、たとえば誰かの何気ない言葉とか、たまたま目に留まった聖書箇所とか、空模様とか(なんだそれ)、またはそれを選択するのに適した状況とか、そういう外部の「何か」に答えを求めたりした。

 で、そういう時間を持ったあと、「今神様はこう語りかけているに違いない」と自分の中で決着をつけることで、「聖霊からのサインをいただいた」ということにしていた。沢山祈ったり賛美したりしたんだから、神様が働かれたに違いない、と。
 そしてそれは、教会では「霊的確信」と呼ばれた。その結果は良かったり悪かったり、いろいろだったけれど。

 でも今思うと、その「確信」には、「こうであってほしい」あるいは「こうであってほしくない」という自分自身の考えが、少なからず影響していたと思う。でも「ゴーサイン」を得なければ何もできないし、そういう「神との対話」ができない人間だとも思われたくないし、みたいな気持ちが働いて、脳内で無理やり「ゴーサイン」を作り出していたような気がする。意識的にか無意識的にか。たぶんそういう反省を持つのは、私だけではないと思う。

■根拠不明な「聖霊のサイン」

「聖霊のサイン」を強調するのは私の教会だけでなく、おそらく聖霊派のほぼ全体、そして一部の福音派も含んだ教会群にみられる傾向だと思う。そこに属するクリスチャンはだいたいこの「聖霊のサイン」にこだわる(そう指導されている)。だから誰かに伝道する際にも「聖霊からのゴーサインがあったらします」とか言うし、どこかの超教派集会に参加するかどうかも「聖霊のゴーサインがあれば行きます」みたいなことを言う。どこにでも「聖霊のサイン」が登場する(教会と関係ない自分の日常生活には、なぜか登場しない)。

 でも、伝道するのに「聖霊のゴーサイン」が必要だなんて、聖書のどこにも書いてないと思う。
 あるいはある集会に参加するとか、何かの楽器を買って神様を賛美するとか、イスラエル旅行に行って聖地巡りをするとか、そういう自分の願望や計画に、いちいち「聖霊のゴーサイン」が必要だなんて、聖書のどこにも書いてないと思う。聖書通読なら何度かしたけれど、そんなの読んだ覚えがない。

 ちなみに使徒行伝16章に、パウロたちをマケドニアへ行かせるため、彼らが他所へ行くのを聖霊が禁止した、という箇所がある。これは珍しく、ピンポイントの伝道へと(結果的に)誘導されたケースだと思う。しかしそれは、今日の私たちの日常的な伝道において、逐一「イエス」か「ノー」か「待て」かの指示を求めなさいという話にはならない。なぜなら当時のパウロたちだって、そんなことしていなかったから。彼らはアジアやビテニヤに実際に行こうとしたけれど、何かの事情で行けなかったのだ。つまり行く前から、神から「どこそこへ行くな」とか、「どこそこへ行け」とかいう指示があったのではない。彼らは「指示待ち」でなく、自分で考えてどんどん行動していた。そして事情があって行けないところを回避して進んでいたら、結果的にマケドニアに行くことになった、というだけだ。その行動が結果的に「聖霊に導かれていた」というのは、後からわかった話であって、事前に超自然的なゴーサインをもらっていたのではない。

 だから「聖霊のゴーサイン」があるとすれば、それは結果論でしか判断できないと思う。
 つまり、何かをやる前にあーですか、こーですか、と伺いを立てるのは、聖書が支持するやり方ではない、ということ。

■伝道に必要ない「聖霊のサイン」

 一例として、伝道における「聖霊のサイン」を取り上げてみよう。

 時々「聖霊のゴーサインがあったら伝道します」としたり顔で言う人がいるけれど、「伝道するのに聖霊の許可がいる」という根拠はどこにあるのだろうか。学校を休むのに親のサインが要る小学生と同じなのだろうか。目の前に相手がいるのなら、結果はどうあれ、語ってみればいいんじゃね? と私は思うんだけど。前述のパウロたちが「聖霊に禁止された」のは、目の前に相手がいるのに「語るな」って言われたんじゃない。その土地に行けなかった、という意味の禁止だ。だから相手をみて「彼に語れ」「彼には語るな」みたいな選択制の話じゃないはずだ(語ったから必ず良い結果になるという話ではもちろんない)。
 それに、もし伝道するのにいちいち「聖霊のゴーサイン」、すなわち「許可」が必要だとしたら、「時が良くても悪くても(伝道を)しっかりやりなさい」という箇所や、「だれにでもいつでも弁明(伝道の意味)できる用意をしていなさい」という箇所と、折り合いが付かない。また、キリストの大宣教命令とも折り合いが付かない。キリストから伝道するよう勧められているのに、「聖霊のゴーサインがなかったから伝道しなかった」とか、悪い冗談だと思う。

 そもそもだけど、「聖霊のゴーサイン」をどう判断するかってところに、すでに主観や思い込みが混入されていると思う。自分の解釈次第で、なんとでも言える、という側面があるから。

 たとえばだけど、目の前にいる人に伝道しようと思っていたら、「聖霊のゴーサイン」がきて、伝道したとする。結果、相手が福音に関心を示して教会に来たら、「ハレルヤ」となるだろう。でも、拒絶したら? たぶんそのときは、

「主の時があるんだ」
「何かわからないけれど主のご計画があるんだ」
「今は種を蒔くことが大切だったんだ」
「もっと大きいご計画のためにこの第一歩が用いられるんだ」

 みたいな、それらしいポジティブなことを言うだろう。でもそういうのは、(言ってることは必ずしも間違ってないけど)なんとでも言えるし、なんとでも解釈できるし、その真偽を確かめる術がない。だからいかようにも話を持って行ける。
 たとえばこんな感じ。

①ゴーサインがあった→伝道した→相手が救われた→ハレルヤ
②ゴーサインがあった→伝道した→相手に拒絶された→でも伝えたことは決して無駄にはならない(キリッ)→栄光在主
③ゴーサインがなかった→でも伝道してみた→相手が救われた→主は不従順な者さえ用いられる→ハレルヤ
④ゴーサインがなかった→でも伝道してみた→相手に拒絶された→主はこのことを通して自分の傲慢さに気づかせて下さった→アーメン

 というわけで、どういうケースであっても、なんとでも言える。なんとでも解釈できる。それはつまり、そもそも「聖霊のサイン」そのものが手前勝手な解釈であることを示している。

 もう少し例示してみよう。目の前に瀕死の重傷を負った未信者が倒れていて、今にも息を引き取ろうとしているとする。もう猶予は数分、あるいは数十秒しかなさそうだ。そこでクリスチャンであるあなたは、「聖霊のサイン」を求める祈りから始めるだろうか。私なら聖霊の「せ」の字を言う間も惜しんで、福音をポイントだけさっさと伝えたい。それでとにかく「アーメン」とか「はい」とか言わせて、形だけでもキリストを信じたことにさせるだろう。そんな緊急事態に、聖霊とか三位一体とか説明していられないし、しゃべるのに「サイン」など要らない。

 あるいは目の前に生まれたばかりの赤ん坊や、重度認知症の人や、日本語のまったく通じない外国人がいるとする。その相手に福音を伝えようかどうしようか、「聖霊のサイン」はどうだろうかと葛藤するだろうか。私ならしない。言語的に理解を得られないのが、明白だからだ。その状況では、「サイン」など示される必要がない。

 と、いうのは極端な例だけれど、どちらも「聖霊のサイン」の入り込む余地はない。

 伝道に必要なのはただ「伝えたい」の一点に尽きると思う。 それともアレだろうか。もし「聖霊のゴーサイン」がないのに無理やり伝えようとしたら、御使いか何かが現れて、私たちの口を塞ぐのだろうか。むしろそっちの方を見てみたいけれど。

■「聖霊のサイン」という名の行動制限

「聖霊のゴーサイン」にこだわってしまうと、結果的に行動制限に繋がると思う。「サインがないからやらなかった」という事態がありうるからだ。

 たとえば伝道で言えば、目の前に未信者がいて、良好な関係を保っている相手で、2人きりで、特に時間制限もなく、自由に話せる状況だとする。福音を語ろうかな、と思ったけれど、どうも「聖霊のゴーサイン」を感じなかったから、結局語らなかった。としたら、それは「語れるのに語らなかった」ということだ。あえて「聖霊のゴーサイン」という表現を使うなら、その状況そのものがゴーサインだったとも言えるのに。あるいは福音を語ることでその人との関係が変わってしまうことを恐れて、「ゴーサインがなかった」という判断に実はなったのかもしれない。無意識的に。

 神からの語りかけとか、超自然的な啓示とか、霊的敏感さとか、そういうものに囚われてしまうと、目の前の現実が見えなくなっていく。やればできることなのに、「これは霊的にどうなのか」とか「今の聖霊の流れはどうなのか」とかばかり考えてしまって、行動するタイミングを逃してしまう。ということがある。

 結論は前回と同じなんだけど、人間には自由意志が与えられているのだから、「これをするのは御心かどうか」じゃなくて、できるならやってみればいいと思う。それが公序良俗に反しておらず、非常識でもなく、無礼でもないなら、あえてやらない理由はないと思う

 あるいは関係が変わってしまうことを恐れて相手に福音を語れなかったのなら、それはそれで個人的なことだからいいと思うけれど、「ゴーサインがなかった」などと聖霊のせいにしてはいけない。

 殊更に「聖霊のサイン」を求めることで、人はかえって縛られていく。そして自由を失ってしまう。「御霊のあるところには自由がある」という聖書の言葉があるけれど、その「聖霊のサイン」によって不自由にされていくとしたら、それは本末転倒ではないだろうか。

8 件のコメント:

  1. この理屈でいうのであればですが、「トイレに行くにも祈って聖霊様からサインをいただかなくてはならない」ということになりますよね。
    生理現象をもよおした瞬間から、断食したり何時間も賛美したりして、聖霊からゴーサインが出るか?を考えなくてはなりません。「イエス」ならいいのでしょうが、「ノー」もしくは「待て」だったらどうするのでしょうか?
    最悪の場合は聖霊様からなんらかの指令が出る前に、賛美をしている最中にどうしても我慢できなくて・・・ということになると思いますが?
    まあそうなったとしても、非常に熱心なる新興宗教系プロテスタントの信者さんのことですから、きっと「我慢できなくて大ヒンシュクをかうような事態になっても、みんなから大ヒンシュクをかえというのが聖霊様の御心なのだ」と解釈するのでしょうね(笑)。

    (もっとも新興宗教系プロテスタントの極悪非道の聖職者なら、「我慢できないのはお前の信心(=献金)が足りないからだ!もっと信心(=献金)にしっかり励め!!」と指導して、徹底的にこんなバカ信者からむしり取ってしまうと思いますが)

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  2. 「聖霊のゴーサイン」ですか。記事のとおり、自分で自分の首をしめてる感じですね。

    私がつねづね疑問に思っていることがあります。

    キリスト教の牧師は、このブログのように、キリスト教について客観的に分析してる記事に対して、なぜコメントを残さないんでしょうか?

    キリスト教に対して、疑問や批判をなげかけている記事なんて、絶好の反論機会になると思うんですけどね。

    これは、牧師のブログの記事に対して、疑問を投稿しても、掲載すらされず、個人的にその疑問に答えてくれるわけでもないこともそうですが。

    たとえば、橋下徹さんやホリエモンなんかは、自分の意見に対する反論には、真剣に向き合ってくれてます。

    反対者こそ、実はキリスト教にもっとも興味を持っていて、牧師の対応次第ではキリスト教の熱心なファンになりやすい。

    こうしたブログがあるのは、いわば絶好の伝道機会であるのに、牧師方の無反応ぶりは徹底していることが、私には不思議でなりません。


    でも、この記事によれば、それは「聖霊のゴーサイン」が出ていないからなのかもしれませんね。

    コメント残してはいけないよ、とか、こういうブログは見てはいけませんとか。

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  3. 奴隷制度の白人=牧師、黒人=信徒と同じ構造ですね。
    キリスト教の根本と照らし合わせて、それに疑問を抱かないほど麻痺しているわけで、再度宗教改革が必要なのは新興宗教系プロテスタント教会ですね。
    比較的マトモなのはカトリックと聖公会と日本福音ルーテルでしょうか。

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    1. 新興宗教系プロテスタントには確かに宗教改革は必要だとは思いますが、本山がない悲しさで、どうやってやるのか?と問われると誰も答えられないという・・・(苦笑)。
      カルト化した新興宗教系プロテスタントの信者は、奴隷制度時代の黒人とは全然違います。なぜならば黒人奴隷は子供を守る自由くらいはあったからです。
      しかし新興宗教系プロテスタントの中で、信者に子供を守る自由はありません。
      その証拠に聖職者が「一般の学校にやると進化論を教えられるのでよくない。チャーチスクールをこちらで設立するので、子供たちはみんなうちのチャーチスクールで勉強させなさい」といったときに、信者が「うちの子が登校拒否児として処理されて、将来的に就職するときに不利になりますので、絶対にお断りします」と言い返せるはずがないではありませんか。
      信者は奴隷というよりも、むしろ家畜といったほうが近いと思います。家畜だからこそ、あのような残酷な仕打ちや過酷な使役ができるのではないでしょうか。カルト化した新興宗教系プロテスタントの中では、信者を一人の人間として扱うとか、その尊厳を保証するとかいった雰囲気はどうみてもありません。

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    2. 私が経験した範囲では、あくまでも「自己責任」に持って行きます。
      言わなくてもわかるように。雰囲気で悟れと言わんばかりに。
      信じたのも、選んだのも、行動したのも全て自己責任。
      「これこそ神が喜ばれる道だ」「御心を行うにはこの道しかない」「聖書に忠実であるならばこうすべき」等とたきつけておいて、いざ問題が起こったら「召しでしょう?」と言う。「それが神の道です」「狭い門なのです」
      「神に愛されているんですよ」「問題は試しです」etc....
      何と途方もない賭けでしょう!
      ギャンブルですよ。見返りのない。
      何と無駄な時間を過ごしたでしょう!
      たかが宗教に。
      いわしの頭も信心から。
      もっと人生には、自分のために、また家族のために捧げる様に、色んな事があるではないですか?
      自分や家族のために身体やお金や時間を使うのって、至極当たり前であり、最優先するべき事柄です。
      それを宗教のために投げ捨てる事ほど、馬鹿なことはありません。
      本当の神様ならば、人に犠牲は求めません。


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    3. 本当の神様ならば、人に犠牲は求めません。

      その通りです。なぜならキリスト教では「神は人間的なことには介入なさらない」という考えがあるからです。

      アメリカでネオコンが暴れまわっていたときによくいわれていたのが、「イスラムを信じる国=異教徒の国は悪の枢軸だから、これと戦って勝たなくてはならない。われわれこそが神の側だから、神はわれわれが戦うことを望んでおられる」
      あの人たちの思想的バックにあったのが、南部バプテストに代表される新興宗教系プロテスタントでした。

      新興宗教系プロテスタントの聖職者に、キリスト教の初歩的な知識がないというのは周知の事実なのですが、ネオコンや戦争を支持する人たちは、熱心なクリスチャンを自称していながら、キリスト教の教義をちゃんと勉強したわけでもない聖職者からキリスト教を教わったために、「神は人間的なことには介入なさらない」という知識を持つことができませんでした。
      ここに新興宗教系プロテスタントの恐ろしさを感じます。

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  4. 指示待ち症候群の霊的クリスチャン。
    自己実現願望の思いを神の示し、神の御心とすり替える御心病のクリスチャン。
    霊的って何?御心ってなに?  

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    1. 他者承認欲求でしょうね。
      それも、新興宗教系プロテスタントにありがちな、牧師を始めとする教会会員からの。

      主の考えなんてわからないのが本当ですよ。

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