2016年7月27日水曜日

キリスト教的「選民思想」の誤用、悪用にご用心

 カルトっぽい教会が信徒を操る手法として、「選民思想の植え付け」というのがある。

 たとえばクリスチャンとノンクリスチャンの立場の違いを強調する。わたしたちクリスチャンは神の民です、聖なる国民です、選ばれた種族です、光に導き入れられた者たちです、ノンクリスチャンとは生きる世界が違うのです、と、聖書をうまく利用して、自分たちの優位性や特別性を強調する。一つ一つの表現は聖書に書かれていることだから、信徒は疑わない。優位性を持てるというお得感や優越感にくすぐられて嬉しい、というのもあるだろう。だから信徒も積極的に選民思想を受け入れていく。

■上目線にさせる「選民思想」

 原則的には(あくまで原則的には)、選民であることは間違っていないと思う。しかし選民だから偉いとか、優位だとか、立場が上だとか、そういうことではない。選民ゆえに責任が課されている、と考えるべきだ。他者に一方的に仕える立場に置かれている。それで拒絶されても文句を言われても耐える立場に置かれている。だから立場が上か下かのどちらかで言ったら、「下」だと考えた方がいいと思う。そういう意味での「選民の強調」ならわかる。

 でもそのへんを勘違いして、自分たちを「上」だと思っているクリスチャンが多い。無意識的かもしれないけれど。たぶんそう教えられているからだろう。ことさらに自分たちと「この世」を区別し、「これだからノンクリは・・・」と蔑視する。これは何度も書いているけれど、「どうせノンクリなんてこんなもんだ」と平然と言い切る牧師もいる。

 もっと酷くなると、クリスチャンの中でもさらに「選ばれたクリスチャン」であると言いだすことがある。わたしたちは「霊的イスラエル」です、ということでイスラエルとの繋がりをやたら強調し、ユダヤの習慣を取り入れ、イスラエルと同化しようとしていく。そしてイスラエルを特別に強調しない、ごく一般的な教会を、「目覚めてない」と(教会内でだけ)侮辱する。

 さらに酷くなると(どこまで行くんだw)、「霊的イスラエル」の中でもさらに「選ばれたレビ部族」であると言いだす。わたしたちは「霊的レビ族」です、主に特別にお仕えする者です、他の部族のために執り成す立場にいるのです、特別に取り分けられた部族なのです、ということで、もはや「クリスチャンです」でなく、「レビ人です」になっている。 一般の人からしたら完全に「?」だけど。彼らはそれで得意満面。

 「レビ族」だと主張する根拠は全然わからないけれど、信徒からしたら特別感満載である。で、「この使命に生きます!」とやたら感動してしまったり、「レビ人ですけど何か?」とやたら自慢げになったり、まあとにかく優越感のカタマリになる。で、「レビ人のバンド」を結成したり、「レビ人」のTシャツを作ったり、「レビ人」だけの集会を開いたりする。結局のところ、そうやって自分たちを閉鎖環境へ追い込んでいく。

■「選民思想」の悪用、誤用

  でもそういう上目線な選民思想は前述の通り、キリストの教えの真逆である。キリストは「仕える者になりなさい」と明確に言っていて、その仕える対象は神様であると同時に人々である。「弟子にしなさい」というのは、「子分にしろ」という意味ではない。その師弟関係は、師の方が弟子の足を洗うような関係だ。あるいは師が弟子の身代わりになるような関係だ。だから上目線に指図したり自慢したり脅したりするのは、違う。

 こういう選民思想は、信徒をコントロールするためにカルトっぽい教会でよく用いられている。「あなたがたは選ばれた者たちなのだから、〇〇しなければならない。でないとその選びから漏れてしまう」、という理屈で、信徒に望まない奉仕(というか労働)を強要し、過剰な献金を強要し、権威への従順を強要する。時々アメが与えられるけれど、ムチの方がだんぜん多い。信徒は「選民」だと認識しているから、辞めるという選択肢を思いつかない。

 あるいはカルト的でなくても、「自分たちは特別だ」という意識を前面に出してしまうクリスチャンもいる。「この汚れた人たちとは違うのです」みたいなことを平気で言うし、言わなくてもそういう態度を隠さない。あるいはノンクリスチャンを「救ってあげなければならないかわいそうな人たち」くらいに思っている。どこか差別的で、いやらしいと私は思う。

 でもクリスチャンは「罪許された罪人」にすぎない。聖書的に言えば、まだなにも完成していない、依然として「罪の性質」を抱えたままの人間である。だからノンクリスチャンと比べてどこもなにも優れていない。そういう幻想を持っているに過ぎない。

 あるいは、クリスチャンとして歩んでいくうちに「聖化」されていきます、と主張する人がいる。たしかにそういう側面もあるかもしれない。けれど実際には、何年何十年信仰生活を送っても、自分の中にひどい悪があり、どうしようもないくらい変わっていない、と認めなければならないのが正直なところだと思う。それぞれ自分自身のことを考えてみればわかるだろう。
 あるいは立派そうに見える誰かをみて、「聖化されている」と感じるかもしれない。けれど、はてさてその本人は何と言うだろう。「だんだん聖化さていると感じます。罪を犯さなくなりました」とか言ったら、はっきり言うけどウソだと思う。あるいは傲慢だと思う。「罪を犯さない」のはありえないからだ。聖書もそう言っているし。

■結論

 というわけで、選民思想はカルト教会が信徒をコントロールするために悪用するし、誤用して変に傲慢にさせるものでもあるので、よくよく注意されたい。
 私に言わせれば、「選民」だとか「神に愛されている」だとか「特別に召し出された」とか、(それらは間違いではないけれど)そういう「飾り」で自分を飾らない方が、より自然体で生きられると思う。ウソがないと思う。だから選民思想なんて大そうなものを振り回さないことをお勧めする。

4 件のコメント:

  1. ノンクリスチャンを「救ってあげなければならないかわいそうな人たち」くらいに思っている。

    これ、思いっきりあります(笑)。新興宗教系プロテスタントの中には。
    ミッションバラバのメンバーでも、「救われぬ魂が云々・・・」という発言をしている人がいるくらいです。これを聞いたときに、非行歴や犯罪歴が全然ない人(彼らの講演を聞いている人の大半がそうではないかと思いますが)は、たぶんこう思ったのではないでしょうか。
    「よく言うよー前科者のくせにー。両手の指を全部合わせても十本未満で、体にお絵かきしてあるあんたたちが、そんなセリフはいていいのかなあ?」

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  2. ツラノトレーニングスクールでも選民思想植えられた。
    いいことがあれば、クリスチャンなので神様に感謝。思い通りにいかなければ、選ばれているがゆえに試練を訓練と解釈。霊的と言っては差別を区別という。霊的に優れてなきゃ奉仕にも段階がある。教会の中でのカースト制度を見たような気がしたよ。とどめは副牧師作詞 作曲の祭祀の油注ぎとやらでこれ見よがしに牧師=祭祀しかうけれない油とやらをやたら強調した曲にしか聞こえなかったのは、教会で牧師から受けた私の傷からだろうか。

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    1. 創価学会でも「私たち学会員は○だけど、あの人たちは学会員じゃないから×よね」みたいな価値観が、信者の中にしっかり刷り込まれていますよ。
      いいことがあれば「学会に入っているから」と創価学会という宗教団体(池田先生のおかげ)になりますが、一方で悪いことがあると「学会に入って間違った信心をしているから」とか「池田先生のせいです」とはならず、なぜか「まだまだあなたの信心が足りないからです」といわれ、信者個人の責任にされてしまいます(笑)。

      信者の中のカースト制度は、新興宗教系の宗教団体ではどこでもみられることではないのでしょうかね。
      (聖職者の中にカーストがあるのは個人的には賛成です。やはり末端をきちんと上長が管理しないと、末端が暴走して取り返しのつかないことになるからです。)
      信者の中にカーストを設けるのは、信者が信者を管理するシステムを構築すれば、北朝鮮の相互監視のようなことができて、非常に効率よく組織が運営できるからではないかと思いますよ。
      たとえば新興宗教系プロテスタントの中で割と盛んな、セルグループという活動がそうです。あれもセルグループのリーダーが、セルのメンバーをしっかりと管理し、セルのメンバー同士もお互いを監視しあっているじゃありませんか。
      弟子訓練にもこのあたりの相互監視が取り入れられていますよね。
      新興宗教系プロテスタントは北朝鮮と似ていると思いませんか?

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  3. しょう油揚げ煎2016年7月30日 19:03

    選民思想を持ちながらもその選民の世界の中でさらに差別?区別?があるのもどうなんでしょうか。霊的かそうでないか。異言を語るか語らないか。賛美は聖歌だけか、そうでないか。優劣をつけだがり、優れている、と感じるところに安心感を覚えてしまい、真理によって自由される!と語りながら結局人が人を縛ってしまうのですね…

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