「牧師城」を支える善意の信徒たち

2016年7月9日土曜日

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「牧師城」について3回目。
 これまでの2回で、「牧師城」とも言うべき牧師による独裁体制の教会と、それを支えるリーダーたちについて書いてきた。今回は最終回として、そんな「牧師城」を支えている多くの信徒の皆さんについて書きたい。

■シティハーベストチャーチの顛末

 2012年、シンガポール最大のプロテスタント教会、シティハーベストチャーチの主任牧師だったコン・ヒーと5人リーダーたちが、資金不正流用疑惑で逮捕された。長い裁判の末、2015年に全員有罪確定となった。現在同教会は、首をすげ替えて再出発している。

 事件のキッカケは、コン・ヒーの奥さんであるサンさんが、アメリカで音楽活動を始めたこと。「賛美の賜物がある」彼女がアメリカで活動開始! ということで教会を挙げて応援して、当然成功すると(教会の中では)思われていたようだ。しかし結果はそうではなかった。でも簡単に引き下がるわけにいかず、頑張っているうちに、資金が足りなくなった。そこに教会のお金を入れて入れてを繰り返したら、いつの間にかとんでもない金額になってました、という話(それでも誰にも止められなかった)。
 これは私の想像だけど、どこかの段階で、内部告発があったんだと思う。それで事件が発覚し、延々と続く「借金地獄」が食い止められた、というのが真相(に近い)のではないだろうか(教会で地獄というのも皮肉な話だけれど)。

 事件発覚前、同教会の礼拝出席者数は3万3千人に達していたらしい。しかし発覚後(有罪確定前)は1万8千人に減少した。そして昨年2015年は1万6千人ほどだったと言う。
 ほぼ半分に減ったことになる。半数の信徒がコン・ヒーに失望したり腹を立てたり傷ついたりして、去っていったのだ。でも半数は残った。彼らはそれでもコン・ヒーを支持したわけだ。

 この減少を少ないとみるか、多いとみるか。

 私個人は、こういう「牧師城」な教会で、今回のような問題が起きたにもかかわらず、信徒がまだ半分も残っているのは、正直残念。しかし一方で、半分くらい残るのは妥当な数字だとも思っている。

 これにはたぶん、コン・ヒーの罪状も関係している。もし彼が資金不正流用でなく、不倫とか暴力とか詐欺とか恐喝とかやらかしたとしたら、信徒数はもっと減ったと思う。不正流用より汚く、生々しくて、嫌悪感を抱かせる罪状だからだ。つまりは「印象」の問題。
 資金の不正流用というのが、また微妙だ。もちろん不正に変わりはないけど、きっと彼らの思考はこんな感じだったと思う。

「我らが牧師夫人が、その賜物を生かして音楽活動を展開する。しかもアメリカで! ハレルヤ!」
「難しいこともあるかもしれないけれど、これはきっと成功し、主に栄光が返されるはずだ。主の導きでもあるんだから、間違いない」
(活動開始後)
「なかなかうまくいかない。これは主からの試練だ。ここは忍耐して、続けるべきだ」
(しばらくして)
「まだ芽が出ない。資金も不足してきた。しかし、ここが信仰の踏ん張りどころだ。主は我々の忍耐を試しておられる。悪魔よ退け!」
「お金が足りない? なら教会の資金があるじゃないか。奥さんは教会のため、伝道のためにもこの活動をしているんだ。教会がそれをサポートするのは当然じゃないか」
(さらにしばらくして)
「まだダメだ。主よ、いつまでですか? 支払い? いつも通り献金を回すんだ。成功したら教会に返せばいい」
「なに、警察がきた? 資金の不正流用? なんの話だ、いったい」

 と、こんな流れだったと私は想像する。当たらずとも遠からずであろう。
 要するに彼らにとって、牧師夫人の活動は「個人的な活動」でなく「教会の活動」だった。そこの線引きが曖昧だったか、あるいは融合していた。だから「不正流用」と言われても、ピンとこなかった。コン・ヒーたちがずっと無罪を主張し続けたのも、そういう考え方があったからだ(と思う)。

 そしてそういう考え方は、信徒の中にもあっただろう。「悪いこと」という印象が薄かった。あるいは悪いことだと思っても、「やむを得なかった」とも感じた。だから前述したように、不倫とか暴力とかに比べて、「印象」が良かった。
 というわけで信徒の間に、「コン・ヒー先生かわいそうに」「頑張ったのに」「伝道に忠実だっただけなのに」みたいな同情論があっただろう。だからこそ、半分の信徒が今も残っているんだと思う。

■なにも知らない(知らされない)信徒たち

 と、ついついシティハーベストチャーチの事件について考察してしまったけれど、このように多くの信徒が、教会なり牧師なりが不正をはたらいても、それを支持し続ける。という現象がある。

 なにが問題かというと、第一に彼らが「牧師城」となった教会の危険性を知らないことだ。
 シティハーベストの事件でいえば、ちゃんと宗教法人法に則った形で会計処理がなされ、第三者に監査される仕組みになっていれば、決して起こらなかったはずだ。しかし実際には、「伝道」という名目で、関係者が幾らでもお金を引き出せる「ザル」状態になっていた。しかも実際に何に使ったのか、いついくら使ったのか、ということを不明瞭にしたままにできた。つまり献金のプールが、牧師なりリーダーなりにとって「都合のいい財布」になっていたのだ(そういうのは日本の教会でもよく見られる)。

 またこれはお金だけの問題でなく、いろいろなことにも言える。問題の本質はお金でなく、なんでも牧師のやりたいようにできる状況になっている、ということと、皆がそれを良しとしている、といことだ
 たとえば、教会で若者のファッションショーをやりましょうとか、芸能人を呼びましょうとか牧師が言うと、みんな「アーメン」となってしまって、意見する人がいない。べつにファッションショーも芸能人も悪くないけれど、それが本当に必要かとか、予算的に無理がないかとか、どういうデメリットがあるかとか、そういう議論が一切なされず、牧師が言ったままが実行されてしまう。そしてそれを皆で良しとしてしまっている。
 ちなみに、それで結果が良くないと、「試練だ」とか「悪魔の策略だ」とか「なにか意味がある」とかになってしまう。そもそも自分たちの計画に問題がなかったのか、という反省には話が進まない。自分たちは正しくて、外部のなにかが悪いんだ、といういわば「霊的責任転嫁」になるからだ。

 また第二の問題として、大半の信徒が、実際に何が行われているかを知らない(知らされていない)、というのがある。
 たとえばシティハーベストの例でいえば、「音楽活動で資金繰りが悪くなって、やむなく教会のお金に手を出してしまった」というちょっと同情を誘う話になっている。けれど、実際にどうだったかは当事者たちにしかわからない。たとえばリーダーたちの渡航費とか、むこうでの飲食費とか宿泊費とか、お土産代とか個人的な買い物とか、そういう音楽活動とは関係ないものにまで献金が使われていた可能性が、大いにある。あるいはもっと酷い使い方だった可能性だってある。というのは、実際の音楽活動にはいろんなプロセスがあり、いろんな費用がかかる。そのどこに献金を当て、どこに自腹を切るか、「厳密に区切って適正にやる」なんて現実的ではないからだ。むしろ時間とともに、公私混同に拍車がかかっていったと考える方が自然だ。
 私の知っている例でも、奉仕先からの帰り道に温泉とか料理とかスィーツとか楽しんで、お土産までたんまり買いこんで、そういうのを全部「伝道費」で計上する牧師がいた。元東京都知事の舛添さんみたいなことは、教会でも当たり前に行われている。たぶん一部だろうけど。

 でも日曜礼拝で「伝道」の結果だけを聞かされる信徒らには、そういう内情は見えない。会計報告などないのだから、わかりようがない。

 だから牧師に不正疑惑がかかっても、実際に逮捕されても、実際に有罪確定しても、牧師が涙ながらに「すべては伝道のためでした・・・」と言えば、とたんに「印象」が良くなる。それを支持する信徒もでてくる。でもよく考えてみれば、「すべては伝道のためでした」の内情は全然見えていない。
 たとえばここで、実は裏で不倫してました、愛人と豪遊してました、その費用に献金を充てちゃいました、というのが真相だとしたら、どうだろう。とたんに「印象」が悪くなる。それでも支持するだろうか。

 だから牧師が講壇で言うことになんでも「アーメン」してしまって、その内容について深く考えない信徒たち、何か問題が起こった時にその内情について言及しない信徒たちが、結果的に「牧師城」を支えていることになる。
 彼らはたぶん善意で牧師やリーダーたちを支持し、教会を愛しているのだと思う。でも実は知らないことが沢山あって、知ったらガッカリするようなことが隠れているのを知らない。

 だから善意は必要だけれど、それだけでは良くない。現実的にものを考えて、人間がもっと汚いこと、悪いこと、うまく体裁を繕っていることを知らないといけない。聖人などいないのだ。でもそれは人間に期待するなとか、失望しろとか、厭世的になれって話ではない。そうでなく正しく人間を理解することからはじめないと、結局のところ自分にとって都合の良い幻想の中で生きることになってしまう。そして独善的で、訂正不能なクリスチャンになってしまう。

■おまけ

 独善的なクリスチャンによくみられる発言に、こういうのがある。

「批判しても何にもならない。もっと建設的でないと」
「牧師先生だって弱い人間なんだから、批判するべきでない。相手の目の中のチリよりも、まず自分の目の中の梁をのぞかないと」

 と、聖書をうまく使っているつもりだろうけれど、問題を問題としないところが問題だ。また性善説を信じてしまっている。たとえば教会の少女たちを順番に強姦した牧師がいたけれど、まったく反省していない彼に対して「批判は良くない」とか、「弱さからくるものだから許します」とか言うのだろうか。その被害者たちにどんな「建設的な」話をするのだろうか。その気持ちを少しでも想像したことがあるだろうか。

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