2015年8月30日日曜日

クリスチャンと「許し」

 キリスト教の中心的なメッセージ、などと大それたことを書くつもりはないけれど、その特徴として挙げるべきは「許し」であろう。
 キリストが全人類の罪の身代わりとなって下さったから、彼を信じる者は全ての罪が許される。だからクリスチャンは罪許された者として、他の人々の罪も許してあげるべきだ、みたいなことは教会でもどこででも、クリスチャンの集まるところで言われている。

  それはすごく良い知らせである。悪いことをしてしまって、叱られると思っていたら許してもらえた、みたいな感動体験は多くの人がしていると思う。人は「許される」と、すごくホッとする。叱られて当然と思える状況で、謝るしかない時、意外にも「いいんだよ」と許してもらえて、むしろ優しくしてもらえると、その人の為なら何でもしよう、恩返ししよう、と思える。
  かの『レ・ミゼラブル』でも、主人公ジャン・バルジャンの生き方を劇的に変えたのは、ミリエル神父からもらった「許し」によった。このように人を育てるという視点でも、「許し」はけっこう効果的なようだ。

 というわけで「許し」は本来良いものなのだけれど、これもカルト化教会にかかると凶器に変貌する。

 たぶん実例を挙げるとキリがないけれど、たとえば中学生のAくんが学校でイジメに遭っていて、ひどく葛藤していた。教会でも次第に元気をなくしていき、ずいぶん経って牧師もようやく気付いた。それで話を聞いてみると、イジメに遭っているという。先生、僕どうしたらいいですか、頑張って生きる意味がわからなくなりました、と真摯に問いかけるAくんに対して牧師が一言。「相手を許しなさい。でないと君も許されない。でないとイジメもなくならない。とにかく許すことが君にとって勝利なのです

 という訳で真面目なAくんは、イジメっ子たちを毎日許すことにした。すなわち抵抗しないでイジメに甘んじた。結果イジメはエスカレートし、Aくんはついに登校拒否に。それで家に引きこもって、「許せない自分はダメな奴だ」と変に自分を責めて抑うつ状態になった。

 ちなみに「許し」とは関係なくなるけれど、この話の続きはこうだ。牧師がやってきてAくんに一言。「許してもイジメがなくならないのは、君に何か罪があるからだ。罪を全部告白しなさい」「うつ状態なのは悪霊にやられているからだ。霊の戦いで悪霊たちに立ち向かいなさい
 という訳でAくんは幼少期まで遡っていろいろな罪を告白させられ、挙句に何時間も「悪霊追い出し」を祈られて、心身ともに憔悴しきった。それでもどうにもならなくて、最後は心療内科にかかって一時期薬漬けになった。
 以上、下手に牧師に介入されると人生台無しになるから注意が必要って話。

 だから「許し」は良いもののはずだけれど、「許さなければダメだ」という方向に持って行かれると、悪いものになる。何でもそうだけれど、強制されるとロクなことにならない。

 許すことは確かに大切で、精神衛生的にも必要になる。たぶん多くの人が、人間関係を円滑にするために、毎日誰かとのちょっとしたシコリを許したりスル―したりしているだろう。許さないと関係がギクシャクしてしまって、結果自分が困ることになるからだ。だから許さないより許す方が良いのは間違いない。

 けれどそれはあくまで一般論であって、全てのケースに当てはまる訳ではない。たとえば身内を殺された遺族は、犯人を許せとか言われても許せるものではない。そこに神とか聖書とか持ち出されて「許さなければならない」とされても、自分を偽る以外にその要求に応える術はない。

 すごく究極的な話をすると、どんなひどいケースであっても最終的には許すことが必要なのかもしれない。それがクリスチャンとして推奨される生き方なのかもしれない。けれど時間のかかる事柄は存在する。理屈でわかっているからすぐ実行できる訳ではない。最終的に許すべきだとしても、すごく長いプロセスを時間をかけて通っていくこともある。時間をかけないと到達できないこともある。

 そういうのもひっくるめて全て「許しなさい」と言うのは、信仰でないし聖書的でもない。単に聖書的と思える理想を押し付けているだけだ。人間の当然の心理がわかっていない。そういう人が「愛」とか「許し」とか講壇の上から偉そうに語る資格はないと私は思うのだけど、違うだろうか。

2015年8月29日土曜日

「地獄の扉」なるあやしい終末説について

 某クリスチャン(?)ブログが取り上げている「CERN」について。

 また変な「終末説」が一部で主張されている。
 なんでもスイスにある欧州原子核研究機構(CERN)が今年に入っていから、大型ハドロン衝突型加速器を再稼働させたとのこと。それ自体は事実のようだ。けれど一部の変なキリスト教(?)団体に言わせると、この装置には、宇宙創造の引き金になったとされる「ビッグバン」を引き起こす程の力があるとのこと。そしてこの装置が地下にあるものだから、「地獄の扉」となって、そこから悪魔たちが地上に湧き出てくる、とか言っている。

 youtubeの動画があるから興味のある人は見ればいいと思うけれど(私はこの記事のために我慢して見た)、ちゃんちゃらおかしい。

 まず第一に、ビッグバンくらいの爆発がスイスの地下で起こるとしたら、「地獄の扉」とか言ってる場合じゃない。その爆発は(ビッグバン説が正しいとして)全宇宙の再構築が起こるレベルだから、全人類は瞬時に消滅するだろうし、そしたら悪霊とかもう関係ないでしょう。

 第二に、CERNで大事故なり大爆発なり、何でもいいけど彼らが危惧するような事態が起こって「地獄の扉」なる穴が開くとして、物理的な穴から霊的な存在(悪魔)が出入りするというのはナンセンスだ。そもそも悪霊はすでに存在している訳で、彼らは穴とかドアとか、そういう物理的な出入り口を必要としていない。

 第三に、彼らは黙示録9章の「底知れぬ穴」のことを言いたいのだろうけれど、聖書の記述を見ると、その穴を開けるのは星である。地下の施設とかビッグバンとか関係ない。

 第四に、これは疑問だけれど、わざわざ恐怖を煽る演出で映像を作る意味がわからない。おどろおどろしいBGMに意味深な(でもまったく関係ない)映像を羅列して、いたづらに人を脅かしているだけだ。それに途中、実験施設みたいなところでフォーメーションダンスをしている作業員とか、CGの宇宙人(?)が踊っているところとか、「何これ」な展開もあって、真面目なんだか不真面目なんだかよくわからない。むしろ冗談であってほしい。

 でもこれを紹介している某クリスチャン(?)ブログは「これは本当にやばい」「とりなし祈りながら見て下さい」とか言っていて、どうやら真面目である。これを見て何をどう「とりなす」べきなのか全然わからないけれど、強いて言うなら、フォーメーションダンスの作業員たちが足場から落ちないように祈ろうかな。

  この手のあやしい「終末説」は今までにもあった。
 たとえば2011年3月に東日本大震災があったけれど、同年9月、太陽系の惑星の配列が特殊な形になり、そこへ彗星が接近してきて地球の引力が乱れて再び大地震が起こる、みたいなことを変なキリスト教(?)団体が言っていた。 NASAからのデータ提供があったとか言っていて、いろいろな画像やデータ値を挙げていた。けれど結局何も起こってない。

 だからあやしげな「終末説」に踊らされてはいけないし、よく聖書が言っていること、あるいは言っていないことについてよく考えるべきだと思う。てかこの程度の話は一般常識のレベルで判断できる思うけれど。

2015年8月26日水曜日

「霊的」クリスチャンが勘違いしやすい事柄について

「霊的」クリスチャンが勘違いしやすい事柄だなあと気になったことがいくつかあったので、箇条書きにしてみる。

・飢え渇き

飢え渇きがあったので延々と賛美しました」みたいな言い方をする人がいて、 いかにも信仰的、敬虔に聞こえる。これを意味がよくわからな人のために翻訳すると、「神様を求める心がすごく強くて耐えられなくて、思いのたけを賛美にのせたら何時間もかかりました」みたいな感じ。他にも「飢え渇いて延々と祈りました」とか「飢え渇いて聖書を貪り読みました」とかイロイロある。総じて言えるのは、「飢え渇きがあって」「長時間」「信仰的と思える活動をした」ということ。

 けれどこの言葉を使ううえで注意したいのは、じゃあその飢え渇きがなかったら賛美とか祈りとかしないんですか? ということ。 飢え渇いて○○する、というのは逆転すれば、飢え渇きがないから○○しない、ということになる。
 それは俗世的、一般的、常識的に表現すると「気分次第」ということに他ならない。気分が乗るから(あるいは調子がいいから)○○する、そうでないから○○しない、ってこと。

 いやいや、「飢え渇き」と「気分」は違います、とか反論するだろうけど、じゃあ両者の違いをちゃんと説明できるんですか。「霊的」って言葉は使わないで。

 ・満たされた(恵まれた)

賛美をしている中でとっても満たされました」とか「今日の礼拝もすっごい恵まれました」とか言う人がいる。それも信仰的、敬虔に聞こえるかもしれない。
 けれどこの言葉を使ううえで注意すべきなのは、、自分が満たされるために賛美とか礼拝とかするんじゃない、ってこと。 つまり神の礼拝に対する要求に応えるのが礼拝であって、自分が得をするための何かではない。
 この考え方は私風に言わせてもらえば、神様は自動販売機ではない、となる。けれど勘違いしている人たちは、110円とか120円とか入れれば350ml缶のコーラが出てくるみたいな感じで、

「たくさん賛美したから」→「気持ちが満たされるはず」
「寝ないでまじめにメッセージ聞いたから」→「気持ちが恵まれるはず」

 みたいに神を利用してしまっている。つまり目的が神を礼拝することでなく、礼拝する自分が素晴らしいから何かくれ、ってことになっている。
 もちろんそれをしている本人たちは、そんなこと認めたがらないけれど。

 満たされるのも恵まれるのも良いことだろうけど、それが目的になっているとしたら、その賛美はただの自画自賛賛美、礼拝は自画自賛礼拝。

・信頼すべきは神のみ

「知り合いのクリスチャンがカルト被害に遭っている」「クリスチャンの友達がDV被害に遭っているようだ」みたいなことで、「どこに相談したらいいだろう」と相談先を探す人がいる。普通の教会で普通に教会生活をしているとなかなかそういう事態に遭遇しないから、誰に相談するかはすごく悩むところだと思う。手っ取り早いのは自分の牧師かもしれないけれど、いやいや、牧師だからこそ言えないってこともあるよね。

 ってことで相談先を探していると、あるクリスチャンがやって来て、ドヤ顔でこんなことを言う。「信頼すべきは神のみ

 バカじゃねーか、と私はついつい思ってしまったのだけれど(ごめんなさい)、だったらここにその神ってやつを連れて来い、って話。
 実際に被害に遭ってる人がいて、困っているのに、「祈れば大丈夫です」とか「神様に信頼しましょ」とか私には言えない。どうしたらいいか一緒に考えましょ、とか、あそこに相談してみましょ、とかなるのが常識的な対応のはず。もちろん祈りが無駄だとか言わないし、余裕があるなら沢山祈ればいいと思うけれど、そういう時は祈りだけじゃダメなのは間違いない。

 それでも反論する人がいるなら、逆にこう質問してみたい。自分の子供の足にハサミが落ちる瞬間を見たら、とっさにハサミを払いのけませんか? それともとっさに跪いて主よ主よって祈るんですか?

「信頼すべきは神のみ」って字面はすごく信仰的だけど、間違えると、すごく冷徹で人を無視した表現になってしまう。だから注意がいりますねって話。

 以上、「霊的」クリスチャンが勘違いしやすい事柄について。またあれば書きたい。

2015年8月24日月曜日

「御心」でカモフラージュされる教会のお金

 牧師が教会のカネを横領した、という話を時々聞く。
  カトリックの事情は知らないけれど、だいたい福音派とかペンテコステ派とかカリスマ派とか、そのへんの教会での話が多い。

「横領」と言っても事情はケースバイケースだろうから一概に言えないけれど、いわゆる単立系の教会で、かつ宗教法人を取得していない(取得できない)場合、「教会のカネを横領した」のが事実だとしても、なかなかそれを認められない状況があるように思う。

■自営業(無法人)の単立教会でのお金の扱われ方

 歴史のある教団とか宗教法人化している教会とかなら、教会規約みたいなものがしっかりあって、その規約に則った教会運営がされていると思う。財政面も監査されていて、好き勝手にできないようになっているだろう。だからよっぽど悪意があってかつ巧妙でないと、横領などできない。

 けれどこれが自営業の単立教会だと、規約なんてないのが普通である(もし通っている教会が単立だったら、規約があるかどうか確認してみることをお勧めする)。だからその教会の財政をどうするかは、教会の運営者(事実上牧師だろう)の一存でほぼ決まる。役員会みたいなものが機能していれば一応の承認手順があるとは思うけれど、あくまで一応であって、結局牧師の言いなりでしかない役員会も多い。結果ほとんどの場合、牧師が一人で(あるいは牧師夫妻で)財政面のやりくりを決める。

 だから(そういう状況の場合)信徒から集めた献金をどう料理するかは牧師次第となる。信徒には中身が見えない。人からお金を集めて運営する以上、会計報告を毎月出すのが常識だと思うけれど、それさえないと教会財政は完全にブラックボックスとなる。またもし会計報告があったとしても、「牧師館経費○○円」とか「対外宣教費○○円」とか、すごく大雑把な括りになっているとしたら、やっぱり何に使われているのかわからない。

 しかし何の規約もルールもない以上、その状況について誰も何も文句を言うことができない。信徒は献金として捧げた瞬間、そのお金がどうなるか知る権利を放棄したも同然である。
 それにそもそも教会内での献金は、信徒と牧師の信頼関係の中で捧げられる側面があるから、使い道をチェックしようみたいな発想は信徒の側になかなか生まれない。

 そういう状況だと横領も何もない。まっとな教会運営の観点からみれば「それは横領だ」と指摘されるような使い方、たとえば献金で牧師の趣味の30万するマウンテンバイクを買ったとか、牧師のプライベートの家族旅行を「対外宣教費」として計上したとか、そういう事態がたとえ発覚したとしても、法的に責任を問えるかどうかは微妙だ(限りなくグレーだけど)。

 もちろん、それは法的に問題なくても心情的には問題となる。信徒がそれらを知ったら「ちょっと待てよ」となるはずだ。けれど牧師もそれはわかっているから、上記のような目立つ使い方はしないと思う。モノを買えば遅かれ早かれ人目に触れるし、お金の出所に関心が向く。だからよっぽど強欲で低俗な牧師でない限り、明らかにおかしな献金の使い方はしないと思う(かと言って彼らが潔白となる訳ではない)。

■「御心」でカモフラージュされるお金の使い道

 上記が、単立の自営業教会でのお金を巡る状況だ。たぶん多くの教会が似たような状況だと思う。
 それでもまともに運営している単立教会はあると思うし、規約をつくるとか役員会に権限を持たせるとかして自浄努力をしている教会もあると思う。だから全ての教会が一律に「会計が怪しい」と言うつもりはない。

 けれど状況が状況なだけに、牧師にかかる誘惑は大きい。教会規模にもよるけれど多額のお金がいつも目の前にあって、必要経費を引いた残りは(わかりやすく言うと)自由にして良いのだから。その状況が毎月毎月、何年も何十年も続くとしたら、何か間違いが起こるかもしれないと思うのが普通であろう。

 また会計報告をある程度の頻度でしていて、財政面をオープンにしている教会であっても、それで良いとは限らない。「これは神の御心だから」という理由でお金を使う牧師がいるからだ。

 ことお金の話になると、「御心」を持ち出す牧師がいる。「御心だから」新会堂を建てる、「御心だから」50万もする楽器を買う、「御心だから」イスラエル旅行に行く、みたいな感じで。どれももっともらしい理由が付いているけれど、結局それが本当に御心かどうかは牧師本人でないとわからない。他の誰にも判別できない。

 ある教会が分不相応な買い物をしようとした。牧師が「御心だから」「絶対に買わなければならない」と言い出したからだ。信徒らは一生懸命献金して、金策を立てて、外部にもアピールして、お金を作ろうとした。何故ならそれが「御心」のはずだから。しかし結果足りなくて、何人かの信徒は個人的に借金までした。
 結論から言うとその買い物はできなかった。期限までにお金が揃わなかったからだ。買い物できなかったばかりか違約金を払う羽目になり、それまでの献金が無駄になった。個人の借金も返ってこない。「御心」であり「絶対買わなければならない」ものにしては、お粗末な結末ではないだろうか。

 それもこれも「御心」だと信じさせられたからだ。

 これは極端で被害の大きい事例だからわかりやすいけれど、ここまで額の大きくない買い物の場合、信徒らの努力によって成立することが多い。それで「御心がなされた」という話になって皆でハレルヤ三唱とかやってしまうと、もうその話の根本的な怪しさに誰も気づけないってことになる。

■結論

 はい、今日の結論。
①自営業の
②単立教会で
③「御心だから○○を買う」と牧師が言ったら
 100%疑ってかかるべし。

2015年8月21日金曜日

【雑記】またですかって話・後付け続編みたいな展開・お前を救ってやりたい?

■またですかって話

「今年の9月が要注意」とかまた言い出しているクリスチャン(?)がいる。
 その人は今年の4月にも、また昨年10月にも同じような主張をしていた。結局何も起こらなかったのだけれど、「主が回避された」とか都合のいい言い訳をして、スルーしたままになっている。

 それで今度は9月である。何が起こるのかバカらしくてちゃんと見ていないけれど、まあ「学研ムー」を真に受ける人らしい言いっぷり。興味のある人は「今年の9月が要注意」とか検索してみれば上位に出てくるので、見たらいいかもしれない。たぶん何の得にもならないけれど。

 それはもう終末詐欺とか天変地異詐欺とかそういうレベルだと思う。人をさんざん恐怖で煽っておいて、そのくせ時がくると「主の憐みにより回避されました。ダディ―って本当ステキ♪」とかごまかすのだから(本当にそう言ったかどうかは不明)。

 けれどその人も手に負えないけれど、同じように手に負えないのは、何度でもその手に引っ掛かる人たちだ。いまだにそんな話を信じて、あれやこれや言っている。私もあまり人のことは言えないけれど、盲信にも思考停止にも程があるんじゃないだろうか。

■後付け続編みたいな展開

 これまた「霊の戦い」系の話。
 実例を脚色して書くけれど、たとえば「日本を縛る4つの悪霊がいる」とか言う人がいる。祈りの中でそう示されたとか、オドロオドロシイ感じで会衆に話す。それで皆で一生懸命祈って、叫んで、指さして、「4つの悪霊よ退け!」とかやることになる。

 それで「勝利した。ハレルヤ!」とか言っている一方、べつの集会ではべつの講師が、「私たちを縛る16の悪霊がいる」とか言っている。そしてそっちはそっちで「16の悪霊よ出ていけ!」とかやっている。

 えーっと、こっちの4つとそっちの16はどんな関係なんだろう? この4つはその16に含まれるのかな? だとしたらそっちは12だけで良いんだよね? え、まったく別物ですか?

 てなことを考えていると、今度はあっちの集会で、「この地域を縛る20の悪霊がいる!」とか絶叫する講師がいて、もうその4つも16も20も何がなんだかわからない。でもあっちはあっちで「20の悪霊よ・・・お前たちに命ずる・・・」とか厳粛にやっているので、邪魔をするのも悪い気がする。

  そういう状況を見てなんとなく思い出すのが、「ここで完結するはずだったマンガが編集社の都合でずるずる続いていく」現象。連載開始当初は作者も想定していなかった続編なものだから、後付けの設定がイロイロ出てきて、あれ、それでいいの? みたいな展開が散見される。
「霊の戦い」もおんなじ感じで、1つの戦いが終わるとまた別のが出てきて、あ、そうだったんだ、みたいな展開。まさにエンドレス。

 てかマンガならいいけど、教会でコントやるなって話(単純に笑わせるだけのコントならいいんだけど)。

■お前を救ってやりたい?

 牧師だけで結成されたバンドがあって、ちょっとずつ活動を展開しているらしい。それはそれで全然いいんだけど、1つ気になったのがメンバーである牧師の言い方。
この歌でお前を救ってやりたい」みたいなことを言っていて、えーっと、キリスト教ってそういう教義でしたっけ? ってちょっと疑問に思ってみた。細かいこと気にしすぎかな。

2015年8月20日木曜日

「祝福」に関する勘違い・その2

「祝福」に関する勘違いについて。2回目。
 前回は「クリスチャンの人生は祝福だけ」「繁栄だけ」という考え方の問題点について書いた。今回はそういう生き方の問題点について書きたい。

■「祝福」についての決めつけ

 クリスチャンの人生は全て祝福である、という考え方はユートピア的・魅力的に見えるかもしれない。けれど実際の人生は山あり谷ありで、それはクリスチャンも例外ではない。良い日もあればそうでない日もあるし、元気な日もあれば元気でない日もある。それはごく普通のこと、自然なことだ。そういう浮き沈みが少ない人はいるだろうけれど、完全にない、ということはあり得ない。誰もが何かしらの葛藤なり課題なりを抱えて一喜一憂しながら生きている。

「クリスチャンになれば救われる」というのは、全ての問題から解放されてハッピーになる、ということではない。けれど信じたばかりの人は往々にしてそういう幻想を抱きやすい。
 もちろんまともな教会ならそれが幻想であることに早々に気づくだろうけれど、一部の「霊的な」教会だと、なかなかそれに気づけない状況があって注意を要する。すなわち「信仰に進めば進むほど祝福され、災いは遠ざかる」「だから信仰に生きる限り祝福され続ける」みたいな話をされるからだ。前回も書いた通り、そこには「信仰=祝福=富とか名声とか」「不信仰=呪い=貧乏とか不名誉とか」みたいな図式がある。

 有名な「主の祈り」の一節、「我らを試みにあわせず、悪より救い出だしたまえ」は、彼らにとってその保障みたいなものだ。つまり信仰者は試練を回避することができ、悪から救われるのだから、不利な状況に追い込まれるはずがない、みたいな考え方。逆に言うと、不信仰だったり罪があったりするからイロイロうまくいかないんだ、という決めつけになる。

■「祝福」の捏造

 けれどその決めつけが、かえって彼ら自身の首を絞めることになる。
 なぜなら信仰に進んでいると思われたいなら、あるいは不信仰に思われたくないなら、 何が何でも「祝福されている自分」を見せなければならないからだ。彼らにとっても「祝福」だけが信仰の答えなのだから。

 だからいつも「とても祝福されてます」「祝福でもうお腹いっぱいです」「毎日祝福の洪水です」みたいなことを言う。けれどイロイロ浮いたり沈んだりするのが人生で、いつもいつも笑顔でいられる訳ではない。それは皆同じ。けれど不幸そうな顔を見せる訳にはいかないので、いつも人前では笑顔で「祝福されている自分」を見せることになる。

 しかしそれはポジティブ・シンキングの延長みたいなもので、本当に祝福されているかどうかはまた別の話だ。彼らの作り笑いでその祝福の度合いを測ることはできない。

 近所にマルチ商法まがいの店があって、よくその前を通るのだけれど、雰囲気が「霊的」を強調する教会にそっくりだ。明るくきれいな店内で、いつも着飾った男女が楽しそうに話している。大げさな笑い声がよく聞こえてくる。悩みなんてありません、苦しいことなんて全然ありません、みたいな空気を意図的に作っている。完全に同じではないけれど、いわゆる聖霊派教会にもそんな雰囲気がある。

 けれどそれは「祝福」の捏造であって、べつにいつも特別な何かが起こっている訳ではない。祝福いっぱいムードと作っているだけで、見た目を取り繕っているに過ぎない。
 あるいはいつも特別なことが起こっていると言うかもしれないけれど、蓋を開けるとたとえば「再臨雲が見えた」とか、「御言葉が強く示された」とか、ふと見た時計の長針と短針が自分の好きな聖書箇所と同じだったとか、気のせいだろって話ばかり。どこまでポジティブなの。

■あるいは自己暗示

 とは言っても、意図的に「祝福」を捏造しているとは限らない。マルチ商法ならうまいこと言って騙してやろうという意図が明確にあるのだろうけれど、キリスト教会の場合、そういう意図は少ない気がする。それより彼らが「祝福されるはず」と信じる信仰そのものが、自己暗示的に働いて、都合の良い解釈の数々を生み出しているように思える。また皆でやれば「気のせい」も「真実」になる、という集団暗示も関係しているだろう。

 もちろんそれらを量的にデータ化して証明することはできないだろう。けれどデータ云々の話をするなら、(そして彼らの主張が正しいなら)クリスチャンが毎日祝福の連続でウハウハ状態なのに日本のクリスチャン人口がいまだ1%未満、という現状をどうにも説明できない気がする。

2015年8月18日火曜日

「祝福」に関する勘違い

■「繁栄」と同義に扱われる「祝福」

 クリスチャンであれば「祝福」という言葉に馴染みがあると思う。
「祝福がありますように」みたいない言い方は礼拝中の祈りでもクリスチャンがクリスチャンに送る手紙にも何かの応援メッセージにも頻繁に登場する。社交辞令的な意味合いもあるだろう。それはそれでコミュニティ内のコミュニケーションを円滑にする役割もあるから良いと思う。

 この「祝福」の厳密な定義についてここで論じるつもりはない(だから定義屋さんはご遠慮いただきたい)。けれど「祝福」を「繁栄」とほぼ同義にとらえている教会なり牧師なりクリスチャンなりがいる。すなわち「祝福」とは金銭とか成功とか名声とか拡大とか発展とか、そういうものとイコールだとする考え方である。

 それはもしかしたらそれほど間違っていないのかもしれない。おんなじでしょと言う人がいるかもしれない。けれどそれが問題になるのは、「クリスチャンは神から祝福を受ける存在なのだから繁栄するはずでしょ」という考え方に至ることだ。つまり全うなクリスチャンなら(たとえば)経済的に繁栄していて、ひもじい思いなどするはずがない、となる。逆に言うと、貧しいのはその信仰の姿勢に問題があるからだ、罪があるからだ、と いう話になってしまう。

 そしてその傾向は、特に「霊的」を強調する集まりにおいて強い。そこでは「霊的」なものを求める発言が多いけれど、蓋を開ければどれだけ金銭が集まるか、どれだけ成功するか、どれだけ名声を得られるか、みたいないことが「霊的」を測る基準となっている。つまり「霊性」は「物質」に現れる、というのが彼らの主張なのだ。

 彼らは聖書のヨブやパウロの言葉にもうちょっと耳を傾けるべきだと思う。すなわち私たちは「祝福とともに苦しみにもあずかっている」という点についてだ。そこを無視して「祝福」「金銭」「成功」「名声」だけが信仰の報酬であるとするなら、苦しみを受けたヨブもパウロもその他大勢の信仰者らも失格となってしまう。すると、失格者らが書いた聖書にいったい何の権威があるのか、という話にならないだろうか。 

■「祝福」の勘違い

いくつかの有名なクリスチャン映画、たとえば昨年の「神は死んだのか」とか、ちょっと古いけれど「ファイアーストーム」とか、他のもだいたいそうだけれど、ハッピーエンドで終わる。それもクリスチャンにとってのハッピーエンド。

 べつにそれらの作品をどうこう言うつもりはない。あくまでフィクションだし、映画とはある程度のご都合主義と幻想で成り立っているからだ。実際私は「ファイアーストーム」なんかで感動した口だし、娯楽として楽しむ分には良くできているとさえ思う。

 けれどそれらのストーリーをフィクションとするのでなく「主は素晴らしい」「ハレルヤ」「信仰者の勝利」とか現実のことみたいに取り上げると、上記のような「クリスチャンなら祝福されるはず」「繁栄するはず」って話になってしまう。映画の主人公のように、信仰の試練に遭っても耐え抜くなら必ずハッピーエンドが訪れる、みたいな話。

 映画ならそれでいい。約2時間の中でいろいろ葛藤やドラマがあって、でも最後の数分で「祝福」が訪れて、良かったね、で終わる。けれど実際の人生はそこで終わらないし、多分まだまだ続く訳で、その過程ではハッピーと思っていたものがそうでなかったり、逆に苦しく思えたことが良いことに繋がったりする。要するに「塞翁が馬」みたいな山あり谷ありが人生な訳で、それを映画みたいにどこかで区切ることはできない。あるいは区切ってもさほど意味がない。

 なのに生きている限りずーっと祝福が続く、というのはあり得ない。常識的に考えてそうだろう。けれど上記のクリスチャンらはそう信じている訳で、そちらの方がよっぽど不自然だ。頭だけ映画の中を生きている、と言った方がいいかもしれない。

 ということで「祝福だけ」「繁栄だけ」というクリスチャンライフはあり得ない。そういうのを声高に主張する人がいたら聖書とか教理とかちゃんと学んでいないのを露呈しているだけなので、そういう目で見たらいいと思う。あ、そこはクリスチャンらしくあたたかく見守るべきですかね(?)。

2015年8月15日土曜日

クリスチャンと「悪霊」の関係・その2

 クリスチャンと「悪霊」の関係について。2回目。

 前回も書いたけれど、悪霊とか悪魔とか呼ばれる存在を否定する気はない。けれどその存在を必要以上に強調する傾向が一部の教会にあるから、どう扱うかは注意が必要だ。でないと悪霊など全然関係ないのに「悪魔の仕業だ」とか言い出すようになってしまう。

 ある教会に通う中学生Aくんが、学校の友人たち(ノンクリ)に誘われるままゲームセンターに行った。
 Aくんはゲームが好きでも嫌いでもない。というか興味がない。だからゲームセンターに入ったことがなく、ゲーム機なんかをほしいと言ったこともなかった。クリスチャンである親も、だから明確にそういうものを禁止したことがなかった。

 だが教会の牧師はべつで、ゲームセンターなんか悪魔の巣窟だくらいに思っていて、普段からそういう発言があった。だからAくんは多少の後ろめたさを感じつつ、でも友達の誘いを断るのも嫌で、付いて行った訳だ。

 しばらくして、礼拝の説教で「きよさ」について語られた。罪があると神に近づけない、みたいな話だった(それはそれで教理的に問題ありだけど)。真面目なAくんはそれを聞いて、ゲームセンターに行った自分には罪がある、神様に近づけない、と思った。それで葛藤して、礼拝後、牧師に個人的に打ち明けた(そのへんの真面目さがいかにも中学生)。

 それでどうなったかと言うと、牧師に叱られて、悔い改めを促されて、翌週の礼拝の中で、皆の面前でその話をされた。つまり公開処刑に遭った訳である。牧師は言った。
「これは悪魔にそそのかされた結果だ。悪魔は私たちに罪を犯させようと誘惑してくる。だから私たちは常に霊を見張っていなければならない」

 Aくんは衆人環視の中でまた悔い改めさせられ、皆に祈られ、最後にはみんなから「ハレルヤ」とか「よかったね」とか言われて、まあそれでコトは終わった。Aくんがどんな心境だったかはわからない。たぶん大いに混乱したと想像するけれど。

 牧師は日頃からそういうことを言っていた。すなわち悪魔が絶えず私たちを攻撃していて、奉仕を妨げ、計画を妨害し、礼拝の雰囲気を悪くさせようとし、信徒に罪を犯させ、神から離れさせようとしている、と。だから悪魔と「霊的に」戦わなければならないし、逆に言うと悪魔さえ撃退すれば万事OK、みたいな感じ。

 その牧師の主張が全て間違いだとは言わない。エバは悪魔に誘惑されて罪を犯した。悪魔は確かに今も活動しているだろう。

 けれど牧師の主張に欠けているのは、悪魔だけが私たちの罪の原因ではない、という点だ。悪魔にそそのかされた結果罪を犯すのであれば、悪魔さえ撃退すれば私たちは罪を犯さない、ということにもなる。
 それは性善説であって、人間はきよく正しい存在であり、悪魔だけが諸悪の根元だ、という話になってしまう。
 けれど実際に聖書が推しているのは性悪説であって、人間は自ら欲を孕ませて罪を犯す。「義人はいない」という聖書の言葉があるけれど、それがなくても自分自身の心の内を見てみれば、とても性善説とは言えないのがわかるだろう。

 そういう間違った聖書理解が「偽善的クリスチャン」を作るのだと思う。自分はいつも正しくて、なにか問題が起こるとやれ悪魔のせいだ、あの人が悪い、これこれの状況に問題がある、みたいな責任転嫁をする。あくまで自分には落ち度がなくて、むしろ自分こそ状況を正しく理解しており、まわりの皆がわかってない、みたいな特別意識、選民意識を振り回す。
 けれどそういうのは、単に独り善がりなだけだ。あるいは正しさの押し売り、勝手な思い込みと言う。

 もちろん悪魔が正しいということはないけれど、かといって何でもかんでも悪魔の仕業とすることもできない。クリスチャン自身の欲や落ち度が悪い結果を引き起こすことだって多々ある。そういう人間としての弱さを認めず、何事もないように振る舞うのは、たとえるなら、アダムとエバが自分たちの裸を隠すためにいちじくの葉で作った腰の覆いのようなものだ。
 神がそれを見て何と言ったか、クリスチャンであれば当然知っているだろう。

その「霊的意味」って単に自分の都合でしょ、って話

 数日前の夜、中国の天津で大爆発が起きて、翌朝からさっそくニュースになっている。多くの死傷者が出ているようだけれど、原因も被害状況もまだまだ明らかになっていない。

 ところでこの手の事故、特に注目を浴びる事件事故があるたび、そのために祈るクリスチャンがいると思う。犠牲者や遺族の慰められるようにとか、正しいことが行われるようにとか。

 それはそれで良いことだと思う。けれど、中には「この事故には霊的には○○という意味がある」とか、いちいち「霊的」アピールをする輩がいて引く。それでどんなことを言い出すかというと、(たとえば)中国人の罪が蓄積した結果の爆発だとか、天津は歴史的にホニャララで呪われているんだとか、そういう根拠不明かつ証明不能なヨタ話である。

「祈っていたら主にそう示された」とか言うだろうけれど、言いがかりにも程がある。突然の大爆発で大勢が死ななければならないくらい中国人の罪が蓄積しているとしたら、近隣の北朝鮮とか韓国とか、日本とかロシアとか、東南アジアとか東ヨーロッパとかの「罪の蓄積」はどうなのだろうか。問題にならないのだろうか。

 たぶん彼らは旧約聖書のソドムとゴモラを例に挙げて、「罪深い街はさばかれる」みたいなことを言うであろう。けれど現代社会において中国の罪だけが殊更大きいとは言えない。それに「罪」に対する「罰」という考え方は旧約聖書のものであって、新約聖書の考え方は「罪」に対する「許し」である。だから罪が大きいから罰せられるとか、罪が小さいから免れるとか、そういう視点の話ではそもそもない。

 また「罰を与える」という視点にもう少し付き合うなら、ソドムとゴモラは「硫黄の火」が天から降ってきて滅ぼされたのであって、「天から罰せられた」ことがある意味明確である。そういう自然災害はないし、人為的にも不可能だからだ。つまり「罪が大きいから罰せられた」ことが誰の目にも明らかなやり方であって、だからこそ天の神様が畏れられる。
 けれど今回の天津の大爆発は単に事故であって、神からのメッセージとか罰とか、そういう明確なものはない。罰が罰としてちゃんと機能するためには、それが罰であることが受け手にとって明確でなければならない。だから今回のそれを罰と呼ぶのは無理がある。

 だからそういう「霊的意味」は手前勝手な解釈に過ぎない。自分にとって都合のいい理由、解釈を展開しているだけだ。中国を必要以上に嫌う人たちにとって、「中国の罪の蓄積の結果」という「霊的意味」は歓迎すべきものだろう。けれど中国国内の人間はきっとそうは言わない。たぶん「悪魔の攻撃だ」くらいに言う。そんなふうに人は立場によっていろいろ意見を変える。神の言葉は立場や場所や人種によって変わらないはずだから、それらが神からの「霊的な」語りかけであるはずがない。

 いろいろな立場や意見があるのはべつに悪いことではない。けれどあるひとつの見方、特に自分の見方を「神の意志」とするのは強引だ。神が言ってもいないことを言ったとするのは偽証である。それはやめた方がいいと私は思うけれど、たぶん彼らは聞く耳を持たない。

2015年8月8日土曜日

クリスチャンと「悪霊」の関係

 当ブログへ流入した検索ワードで「クリスチャンと悪魔」というのが最近あった。
 どういう意図で検索されたのかわからないけれど、たぶん関心のある方も多いと思うので、このトピックでちょっと書いてみたい。

「悪魔」は聖書中に少なからず登場し、今も活動中であると書かれている。だからそれが存在していると考えるのは、クリスチャンであればごく自然なことであろう。
 けれど最近あった「油事件」に見られる通り、「悪魔」の存在が必要以上に、しかも間違った形で取り上げられる傾向が一部にある。たとえばある事象の背後に悪魔が働いているから、実際的に戦わなければならない、ということで油を撒いたり怒鳴ったり、そんなような状況がある。

  しかしそれらは(以前から書いている通り)、何も証明できないし、効果を判定できない。本当に悪魔が隠れていて油なり叫び声なりで撃退したと証明することはできないし、その事象が目に見えて(霊的とかじゃなくて)明らかに変化した、これは超自然的現象としか説明できない、みたいな話も聞かない。

 彼らは「目に見えないものを信じるのが信仰です」とか言うだろうけれど、結果的に目に見える変化なり成功なりがないと、その信仰は完全に虚しい。確かに「まだ見ていないもの」を信じるのが信仰だけれど、「まだ見えないしこれからもずっと見えることのないもの」を信じるのは、信仰とは言わない。
 たとえばある人が「自分は一億円持っている」と完全に(微塵も疑わず)信じていたとしても、生涯に渡って一億円持つことがなかったとしたら、その人はどれだけ信じていても一億円を持っていない。当たり前の話だけれど。それは信仰というより妄想である。

 だから「霊の領域」でどれだけ凄まじい事象が起きたと主張しても、たとえばメガトン級の(霊の)超大爆発が起きて日本中に群がる悪魔どもが一掃されたとしても、実際にこの目に見える何かが変化しないなら、その大爆発はアリ一匹殺していない。机の上のチリ一つ吹き飛ばしていない。つまり無意味。

 ちょっと話が反れたけれど、こと「悪魔」に関しては、そういう話からすべきだと思う。悪魔だサタンだと殊更に強調し、「でもキリストの御名を使えば大丈夫」とか安易に考えるのが、「霊の戦い」系のクリスチャンの特徴だからだ。彼らの言っていることがどこまで本当で、ちゃんと証明できるのか、(水を差すようで悪いけれど)しっかり確認すべきだ。

 そしてそのポイントは、どれだけ大きな話かでなく、現実に何がどれだけ変わったか、である。

 ところで悪霊との戦いが大好きな人たち、特に牧師とかミニスターとか呼ばれる人たちには、だいたい「すごい悪霊撃退談」がある。一例を挙げるとこんな感じ。

■すごい悪霊撃退談(実際に聞いた話をちょっと脚色)

  海外で、日本人教会を開拓した牧師の話(この手の話はなぜか舞台が海外であることが多い)。
 あるとき、そこの信徒Aが病院に入院した。ひどく騒いで暴れているという。心配した信徒Bが、牧師に連絡をよこした。「Aさんの様子が変です。先生、すぐに来て下さい」
 それで病院に駆け付けた牧師が見たのは、半狂乱になって暴れる信徒Aの、無残に変わり果てた姿であった。
 ちなみにAさんはもともと品行方正を絵に描いたような人で、まじめで優しく思いやりに溢れる人物である(なぜかそういう人であることが多い)。そのAさんがどす黒いギラギラした目をして、髪をかきむしり、半裸の状態で周囲の看護師らに危害を加えようとしている。まるで別人のようだ。
 そこで信徒Bが言う。「先生、Aさんは悪魔に憑かれています! どうか追い出して下さい!」
 それで牧師が祈り始めると、Aさんの様子が見る見るうちに変わっていく。より凶暴な目つきになり、体が一回り大きくなったようにも見え、声もすごく低くなっている。そしてAさんの口から、まったく別人のものと思われる声が発せられる。「おのれ~、キリストの弟子たちめ~」(←ホラー映画のノリで読むべし)
 そこで牧師は少しひるむのだけれど(←パターン)、勇気と信仰(?)を振り絞って、Aさんを怒鳴りつける。「おのれサタン、イエス・キリストの御名によって、この人から出ていけ!」
 すると断末魔の叫びが聞こえてきて、Aさんの体がフッと軽くなって、その場にくずおれる。病院関係者らもびっくり。すやすや眠るAさんは、いつもの優しい表情に戻っていた。めでたしめでたし。

 だいたいこんな感じの話。
 完全に「エクソシスト」系のストーリーである。
 ちなみにある「大宣教師」の談によると、インドネシアではプロテスタントの牧師の地位は非常に高いらしい。なぜって「悪霊追い出し」ができると政府も認めているから(?)だそうだ。でも、あのー、インドネシアの宗教って9割イスラム教なんですけど・・・。

 それはいいとして、こういう類いの話はどれも似通っている。まず間違いなく「海外での体験」だし、普段おとなしい人が悪魔に憑かれて豹変するとか、体型も声も別人みたいになるとか、すごい怪力で暴れ回るとか、そして最後は牧師の祈りで撃退されるとか、話の基本構成は一緒だ。舞台も大抵病院や刑務所とか。だから目撃者も大勢いるはずで、だったらもっと有名な事件になってマスコミに騒がれてもいいような気がする。

そして何の映像も証言もない。もちろん(事実だとして)状況が状況だから、映像に残す余裕がなかったかもしれない。けれどそんなに多くの「悪霊撃退談」があって、かつこれだけスマホが普及し、動画投稿が簡便化・日常化した社会にあって誰一人そういう投稿をしていないのは、その存在そのものが怪しいという証拠に他ならないと私は考える。

 いずれにせよこの手の話は、その牧師なりミニスターなりの言うことを信じる以外にない。そして教会でこういう話をされると、信徒らは大抵信じる。牧師との付き合いの長さが、その話に真実味を与えるからだ。そしてその話があたかも重大な秘密のように扱われ、一般人には理解できないだろうけど私たちは真実を知っている、みたいな特別意識の育成に一役も二役も買うことになる。

 現に「悪霊撃退談」 を信じるクリスチャンの大半は、実際に自分自身でそれを見たことがない。聞いた話を全部鵜呑みにしているに過ぎない。だから厳密に突き詰めていけば、それが真実かどうか、誰にも証明できない。みんなが信じているから・・・、あの先生が言うから・・・、みたいなことしか、信じる根拠がない。

 もちろん何を信じるかは人の自由だけれど、信じる根拠がどこにあるかはよくよく考えるべきだと思う。たぶん上記の教会の人たちは「見ないで信じなさい」みたいなことを言われていると思うけれど、それは神に対する信仰の話であって、誰かの話をそのまま信じろという話ではない。

 もし牧師の話を全面的に信じなければならないとしたら、次に何を言われるのか、あなたは恐怖ではないだろうか。「悪霊撃退談」を信じているうちはまだ可愛いけれど、そのうち「○○円をただちに献金するよう神が導いている」とか、「あなたは○○しなければならない」とか、あなた自身に何かが降りかかった時、あなたは同じように、「見ないで信じる」ことができるだろうか。

2015年8月3日月曜日

「癒し」をめぐる自己都合的解釈について

 かつて甲子園で活躍された「大牧師」が先日亡くなった。キリスト教的には「昇天された」と言うところだけれど、わかりにくかったり語弊があったりしてはいけないのでそういう表現はしない。全然知らなかったけれど、少し前から大病を患っていたようである。

 私個人はその牧師に何度か会ったことがある。少なくとも第一印象は明るく気さくで、よく心遣いされる優しい方だった。もちろん自教会内でどうかは別の話で、そのへんは知らないので何も言えない。いろいろ問題があったような話はチラッと聞いたことがあるけれど。

 ただ私が気になったのは、牧師を看取った教会の方である。逝去の報告と共に、次のようなことを言っている。
「数週間、先生の癒しのために祈っていました」
「けれど祈りはかないませんでした」
「先生はお役目を終えて天に凱旋されました」

 その牧師は「癒し」肯定派で、簡単に言うと「祈ればどんな病気も癒される」みたいな聖書理解をしていたと思う。
 ただ誤解のないように書いておくと、これはその牧師とか教会とかだけの話でなく、いわゆる聖霊派(もしかしたら福音派も)全体におおよそ共通した聖書理解である。 だから聖霊派クリスチャン百人に聞くとたぶん百人とも、大概「今も癒しはあります」「どんな病気も信仰をもって祈れば癒されます」みたいなことを言う。そう教えられているから、まあそうなる。

 けれど今回の牧師の逝去を例に挙げるまでもなく、
「強い信仰がある」≠「癒される」
「強く信じて祈る」≠「癒される」
「癒しの器に祈ってもらう」≠「癒される」
 というのは一目瞭然だ。現にその大牧師はいくら祈られても癒されず亡くなったわけで、上の図式を見事に体現している。

 すると彼らはこう言うだろう。「いえ、先生は地上でのお役目を終えたのです。だから天に召されたのです」
 じゃ聞くけど、なんで癒しを祈ったの?

 そういうのは「勝手な解釈」「都合のいい解釈」なだけで、神を代弁しているのではない。
「祈れば癒される」というのも、「癒されなかったのは○○だからだ」というのも、都合のいい解釈でしかない。状況だけみて、「きっとこうだろう」と自分たちが納得できるストーリーをでっち上げているだけだ。一見敬虔に御心を求めているようだけれど、実は神をコントロールしようとしている。神を自動販売機か何かのようにとらえていて、「カネを入れたんだから要求通りになるはずだ」みたいに思ている。もちろん、神が自動販売機であるならその理屈でいいのだけれど。

 だいいち「必ず癒されると信じて祈った」のなら、「癒されなかった」という事実をもっと真剣に考えるべきだ。「どんな病気も信仰をもって祈れば癒される」と普段から言っているのなら、それが筋ではないだろうか。

 わかりきったことだけれど、神が人間によって造られたのでなく、人間が神によって造られたのである。だから(簡単に言うと)物事の決定権は造った方にあるのであって、造られた方が造った方を操るのではない。プラモデルを作ってみたら、プラモデルに操られてしまった、みたいな人はいない。

 先の「大牧師」の冥福を祈るのはもちろんだけれど、そういう自己都合的解釈によって送られるのが、なんとも気の毒でならない。