「御心」でカモフラージュされる教会のお金

2015年8月24日月曜日

教会とお金

t f B! P L
 牧師が教会のカネを横領した、という話を時々聞く。
  カトリックの事情は知らないけれど、だいたい福音派とかペンテコステ派とかカリスマ派とか、そのへんの教会での話が多い。

「横領」と言っても事情はケースバイケースだろうから一概に言えないけれど、いわゆる単立系の教会で、かつ宗教法人を取得していない(取得できない)場合、「教会のカネを横領した」のが事実だとしても、なかなかそれを認められない状況があるように思う。

■自営業(無法人)の単立教会でのお金の扱われ方

 歴史のある教団とか宗教法人化している教会とかなら、教会規約みたいなものがしっかりあって、その規約に則った教会運営がされていると思う。財政面も監査されていて、好き勝手にできないようになっているだろう。だからよっぽど悪意があってかつ巧妙でないと、横領などできない。

 けれどこれが自営業の単立教会だと、規約なんてないのが普通である(もし通っている教会が単立だったら、規約があるかどうか確認してみることをお勧めする)。だからその教会の財政をどうするかは、教会の運営者(事実上牧師だろう)の一存でほぼ決まる。役員会みたいなものが機能していれば一応の承認手順があるとは思うけれど、あくまで一応であって、結局牧師の言いなりでしかない役員会も多い。結果ほとんどの場合、牧師が一人で(あるいは牧師夫妻で)財政面のやりくりを決める。

 だから(そういう状況の場合)信徒から集めた献金をどう料理するかは牧師次第となる。信徒には中身が見えない。人からお金を集めて運営する以上、会計報告を毎月出すのが常識だと思うけれど、それさえないと教会財政は完全にブラックボックスとなる。またもし会計報告があったとしても、「牧師館経費○○円」とか「対外宣教費○○円」とか、すごく大雑把な括りになっているとしたら、やっぱり何に使われているのかわからない。

 しかし何の規約もルールもない以上、その状況について誰も何も文句を言うことができない。信徒は献金として捧げた瞬間、そのお金がどうなるか知る権利を放棄したも同然である。
 それにそもそも教会内での献金は、信徒と牧師の信頼関係の中で捧げられる側面があるから、使い道をチェックしようみたいな発想は信徒の側になかなか生まれない。

 そういう状況だと横領も何もない。まっとな教会運営の観点からみれば「それは横領だ」と指摘されるような使い方、たとえば献金で牧師の趣味の30万するマウンテンバイクを買ったとか、牧師のプライベートの家族旅行を「対外宣教費」として計上したとか、そういう事態がたとえ発覚したとしても、法的に責任を問えるかどうかは微妙だ(限りなくグレーだけど)。

 もちろん、それは法的に問題なくても心情的には問題となる。信徒がそれらを知ったら「ちょっと待てよ」となるはずだ。けれど牧師もそれはわかっているから、上記のような目立つ使い方はしないと思う。モノを買えば遅かれ早かれ人目に触れるし、お金の出所に関心が向く。だからよっぽど強欲で低俗な牧師でない限り、明らかにおかしな献金の使い方はしないと思う(かと言って彼らが潔白となる訳ではない)。

■「御心」でカモフラージュされるお金の使い道

 上記が、単立の自営業教会でのお金を巡る状況だ。たぶん多くの教会が似たような状況だと思う。
 それでもまともに運営している単立教会はあると思うし、規約をつくるとか役員会に権限を持たせるとかして自浄努力をしている教会もあると思う。だから全ての教会が一律に「会計が怪しい」と言うつもりはない。

 けれど状況が状況なだけに、牧師にかかる誘惑は大きい。教会規模にもよるけれど多額のお金がいつも目の前にあって、必要経費を引いた残りは(わかりやすく言うと)自由にして良いのだから。その状況が毎月毎月、何年も何十年も続くとしたら、何か間違いが起こるかもしれないと思うのが普通であろう。

 また会計報告をある程度の頻度でしていて、財政面をオープンにしている教会であっても、それで良いとは限らない。「これは神の御心だから」という理由でお金を使う牧師がいるからだ。

 ことお金の話になると、「御心」を持ち出す牧師がいる。「御心だから」新会堂を建てる、「御心だから」50万もする楽器を買う、「御心だから」イスラエル旅行に行く、みたいな感じで。どれももっともらしい理由が付いているけれど、結局それが本当に御心かどうかは牧師本人でないとわからない。他の誰にも判別できない。

 ある教会が分不相応な買い物をしようとした。牧師が「御心だから」「絶対に買わなければならない」と言い出したからだ。信徒らは一生懸命献金して、金策を立てて、外部にもアピールして、お金を作ろうとした。何故ならそれが「御心」のはずだから。しかし結果足りなくて、何人かの信徒は個人的に借金までした。
 結論から言うとその買い物はできなかった。期限までにお金が揃わなかったからだ。買い物できなかったばかりか違約金を払う羽目になり、それまでの献金が無駄になった。個人の借金も返ってこない。「御心」であり「絶対買わなければならない」ものにしては、お粗末な結末ではないだろうか。

 それもこれも「御心」だと信じさせられたからだ。

 これは極端で被害の大きい事例だからわかりやすいけれど、ここまで額の大きくない買い物の場合、信徒らの努力によって成立することが多い。それで「御心がなされた」という話になって皆でハレルヤ三唱とかやってしまうと、もうその話の根本的な怪しさに誰も気づけないってことになる。

■結論

 はい、今日の結論。
①自営業の
②単立教会で
③「御心だから○○を買う」と牧師が言ったら
 100%疑ってかかるべし。

QooQ