「癒し」をめぐる自己都合的解釈について

2015年8月3日月曜日

キリスト教系時事

t f B! P L
 かつて甲子園で活躍された「大牧師」が先日亡くなった。キリスト教的には「昇天された」と言うところだけれど、わかりにくかったり語弊があったりしてはいけないのでそういう表現はしない。全然知らなかったけれど、少し前から大病を患っていたようである。

 私個人はその牧師に何度か会ったことがある。少なくとも第一印象は明るく気さくで、よく心遣いされる優しい方だった。もちろん自教会内でどうかは別の話で、そのへんは知らないので何も言えない。いろいろ問題があったような話はチラッと聞いたことがあるけれど。

 ただ私が気になったのは、牧師を看取った教会の方である。逝去の報告と共に、次のようなことを言っている。
「数週間、先生の癒しのために祈っていました」
「けれど祈りはかないませんでした」
「先生はお役目を終えて天に凱旋されました」

 その牧師は「癒し」肯定派で、簡単に言うと「祈ればどんな病気も癒される」みたいな聖書理解をしていたと思う。
 ただ誤解のないように書いておくと、これはその牧師とか教会とかだけの話でなく、いわゆる聖霊派(もしかしたら福音派も)全体におおよそ共通した聖書理解である。 だから聖霊派クリスチャン百人に聞くとたぶん百人とも、大概「今も癒しはあります」「どんな病気も信仰をもって祈れば癒されます」みたいなことを言う。そう教えられているから、まあそうなる。

 けれど今回の牧師の逝去を例に挙げるまでもなく、
「強い信仰がある」≠「癒される」
「強く信じて祈る」≠「癒される」
「癒しの器に祈ってもらう」≠「癒される」
 というのは一目瞭然だ。現にその大牧師はいくら祈られても癒されず亡くなったわけで、上の図式を見事に体現している。

 すると彼らはこう言うだろう。「いえ、先生は地上でのお役目を終えたのです。だから天に召されたのです」
 じゃ聞くけど、なんで癒しを祈ったの?

 そういうのは「勝手な解釈」「都合のいい解釈」なだけで、神を代弁しているのではない。
「祈れば癒される」というのも、「癒されなかったのは○○だからだ」というのも、都合のいい解釈でしかない。状況だけみて、「きっとこうだろう」と自分たちが納得できるストーリーをでっち上げているだけだ。一見敬虔に御心を求めているようだけれど、実は神をコントロールしようとしている。神を自動販売機か何かのようにとらえていて、「カネを入れたんだから要求通りになるはずだ」みたいに思ている。もちろん、神が自動販売機であるならその理屈でいいのだけれど。

 だいいち「必ず癒されると信じて祈った」のなら、「癒されなかった」という事実をもっと真剣に考えるべきだ。「どんな病気も信仰をもって祈れば癒される」と普段から言っているのなら、それが筋ではないだろうか。

 わかりきったことだけれど、神が人間によって造られたのでなく、人間が神によって造られたのである。だから(簡単に言うと)物事の決定権は造った方にあるのであって、造られた方が造った方を操るのではない。プラモデルを作ってみたら、プラモデルに操られてしまった、みたいな人はいない。

 先の「大牧師」の冥福を祈るのはもちろんだけれど、そういう自己都合的解釈によって送られるのが、なんとも気の毒でならない。

QooQ