2015年8月26日水曜日

「霊的」クリスチャンが勘違いしやすい事柄について

「霊的」クリスチャンが勘違いしやすい事柄だなあと気になったことがいくつかあったので、箇条書きにしてみる。

・飢え渇き

飢え渇きがあったので延々と賛美しました」みたいな言い方をする人がいて、 いかにも信仰的、敬虔に聞こえる。これを意味がよくわからな人のために翻訳すると、「神様を求める心がすごく強くて耐えられなくて、思いのたけを賛美にのせたら何時間もかかりました」みたいな感じ。他にも「飢え渇いて延々と祈りました」とか「飢え渇いて聖書を貪り読みました」とかイロイロある。総じて言えるのは、「飢え渇きがあって」「長時間」「信仰的と思える活動をした」ということ。

 けれどこの言葉を使ううえで注意したいのは、じゃあその飢え渇きがなかったら賛美とか祈りとかしないんですか? ということ。 飢え渇いて○○する、というのは逆転すれば、飢え渇きがないから○○しない、ということになる。
 それは俗世的、一般的、常識的に表現すると「気分次第」ということに他ならない。気分が乗るから(あるいは調子がいいから)○○する、そうでないから○○しない、ってこと。

 いやいや、「飢え渇き」と「気分」は違います、とか反論するだろうけど、じゃあ両者の違いをちゃんと説明できるんですか。「霊的」って言葉は使わないで。

 ・満たされた(恵まれた)

賛美をしている中でとっても満たされました」とか「今日の礼拝もすっごい恵まれました」とか言う人がいる。それも信仰的、敬虔に聞こえるかもしれない。
 けれどこの言葉を使ううえで注意すべきなのは、、自分が満たされるために賛美とか礼拝とかするんじゃない、ってこと。 つまり神の礼拝に対する要求に応えるのが礼拝であって、自分が得をするための何かではない。
 この考え方は私風に言わせてもらえば、神様は自動販売機ではない、となる。けれど勘違いしている人たちは、110円とか120円とか入れれば350ml缶のコーラが出てくるみたいな感じで、

「たくさん賛美したから」→「気持ちが満たされるはず」
「寝ないでまじめにメッセージ聞いたから」→「気持ちが恵まれるはず」

 みたいに神を利用してしまっている。つまり目的が神を礼拝することでなく、礼拝する自分が素晴らしいから何かくれ、ってことになっている。
 もちろんそれをしている本人たちは、そんなこと認めたがらないけれど。

 満たされるのも恵まれるのも良いことだろうけど、それが目的になっているとしたら、その賛美はただの自画自賛賛美、礼拝は自画自賛礼拝。

・信頼すべきは神のみ

「知り合いのクリスチャンがカルト被害に遭っている」「クリスチャンの友達がDV被害に遭っているようだ」みたいなことで、「どこに相談したらいいだろう」と相談先を探す人がいる。普通の教会で普通に教会生活をしているとなかなかそういう事態に遭遇しないから、誰に相談するかはすごく悩むところだと思う。手っ取り早いのは自分の牧師かもしれないけれど、いやいや、牧師だからこそ言えないってこともあるよね。

 ってことで相談先を探していると、あるクリスチャンがやって来て、ドヤ顔でこんなことを言う。「信頼すべきは神のみ

 バカじゃねーか、と私はついつい思ってしまったのだけれど(ごめんなさい)、だったらここにその神ってやつを連れて来い、って話。
 実際に被害に遭ってる人がいて、困っているのに、「祈れば大丈夫です」とか「神様に信頼しましょ」とか私には言えない。どうしたらいいか一緒に考えましょ、とか、あそこに相談してみましょ、とかなるのが常識的な対応のはず。もちろん祈りが無駄だとか言わないし、余裕があるなら沢山祈ればいいと思うけれど、そういう時は祈りだけじゃダメなのは間違いない。

 それでも反論する人がいるなら、逆にこう質問してみたい。自分の子供の足にハサミが落ちる瞬間を見たら、とっさにハサミを払いのけませんか? それともとっさに跪いて主よ主よって祈るんですか?

「信頼すべきは神のみ」って字面はすごく信仰的だけど、間違えると、すごく冷徹で人を無視した表現になってしまう。だから注意がいりますねって話。

 以上、「霊的」クリスチャンが勘違いしやすい事柄について。またあれば書きたい。

5 件のコメント:

  1. ブログ主様、いつもおつかれさまです。

    リクエストですが、貴殿のブログでもたまに取り扱われている某ブログで
    「先祖の罪からの呪いを断ち切る必要がある」
    「ユルさない思いが少しでもあるならば、呪いになる」
    みたいなことが度々取り上げられていることについて、ご意見いただきたく思います。
    おてすきの時でかまいません。

    「レイプされた女性が、神さからの導きで犯人を許した」みたいな重い話題で、
    「何されても償いなしでも、ユルさなければ罪、相手の祝福を祈らないと」みたいなことを無責任に発信してもよいものなのでしょうか?

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  2. 間違った事をしたり人を傷つけた事をわかっていても、とぼけて『すべては神の御手のうちでなされる』とか『すべてを神にゆだねる』と言う人がいます。そういう事をいう人のいる教会は、およその人が同じ事を言い、牧師もそういうタイプです。
    神を武器にして、言い訳をしているようにしか思いません。
    神にゆだねる前に『お前がきちんと謝れや!!(悪い言葉ですみません)』と思います。
    自分は正しいと勘違いしている人に限って、ただの頑固で神様を盾に言い訳だらけです。
    笑っちゃいますね。。。

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  3. 「祈れば大丈夫です。」「神様に信頼しましょう。」は、困っている立場に立たされている人の口からは絶対に出てくることのないセリフではないかと思いますが?(「すべては神の御手のうちでなされる。」の一言で済ませる人に、被害者サイドの人は一人もいないようにです。)
    現実に多いですよね。新興宗教系のプロテスタントにこういう人は。全ては他人事と考えているからでしょうかね。彼らに相談したところで、親身になってアドバイスしてくれることなど夢のまた夢ですので、期待するほうがばかだということです。
    もし彼らが被害者サイドになったら、「祈れば・・・」「神様に・・・」「「すべては・・・」と、彼らがいつもしているような、お世辞にも親身になっているとはいえないアドバイスをいってごらんなさい。とたんに彼らは激怒して「あーアンタはなんて冷たい人だ!人がこんなに困っているというのに。アンタはそれでもクリスチャンかあっ!!」とブチ切れて怒鳴り散らすことでしょうね(笑)。

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    1. 本当にその通りですね。
      「人ごと」なんですよ!そう言う言い方って。
      言い回しが違うだけで、一般の人よりもかえってキツイ言い方になっては居ますが。
      「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」ってイエス様の言葉ですよね?
      その人の立場・目線・境遇・現況に出来るだけ近づかないと、本当に神の思し召される事って分かち合えないでしょう!
      仮にも宗教者が、一般より冷たいってどうよ!!

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    2. 宗教を信じている人に一般人より暖かくあれというのは、あまりにも無謀ではないでしょうか。
      だいたい宗教を信じているというだけで、ちょっと一般とは違うわけです。世間の常識が通用すると思われている宗教にしたところで、そんなものを熱心にやっていれば「イタイ人」扱いされてしまいます。たとえば初詣のときにだけ明治神宮に参拝するなら正常な人だと思いますが、毎月1日と15日は必ず参拝するとなれば、明治神宮のようにカルト化する心配のない宗教施設であっても、「正月にのみ参拝するならわかるが、それ以外に月に二回も行くなんてちょっと変わっているなあ」となるのが、世間一般の感覚ではないかと思います。
      バチカンのおひざ元のイタリアですら、神父や修道士や修道女になる人は、現代ではやはり「あの人ちょっと変わっているんじゃないのかなあ」という感じでみられていると思いますので、ましてや世間の常識というものが一切通用しない新興宗教系の宗教団体の教義を信じている人というのは、出家する人よりもはるかに変わっているといえるのではないでしょうか。
      宗教を信じるということは人格の陶冶をもたらすと世間一般ではイメージされていますが、決してそうではないと思います。むしろ世事にうとくなってしまって、周囲から見たらかなりおかしな人になってしまうように思います。
      宗教のフィルターでしか物事を見られませんので、世間一般の感覚では犯罪とされることがなんら犯罪とは認識されていません。よって「そろそろ子供が結婚するからまとまった金が必要だ」といって終末詐欺をやり、地震が来れば「大きな建物を建てたり高級車を買い替えるチャンス」となってユレユレ詐欺を行うのです。

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