「霊的」クリスチャンが勘違いしやすい事柄だなあと気になったことがいくつかあったので、箇条書きにしてみる。
・飢え渇き
「飢え渇きがあったので延々と賛美しました」みたいな言い方をする人がいて、 いかにも信仰的、敬虔に聞こえる。これを意味がよくわからな人のために翻訳すると、「神様を求める心がすごく強くて耐えられなくて、思いのたけを賛美にのせたら何時間もかかりました」みたいな感じ。他にも「飢え渇いて延々と祈りました」とか「飢え渇いて聖書を貪り読みました」とかイロイロある。総じて言えるのは、「飢え渇きがあって」「長時間」「信仰的と思える活動をした」ということ。
けれどこの言葉を使ううえで注意したいのは、じゃあその飢え渇きがなかったら賛美とか祈りとかしないんですか? ということ。 飢え渇いて○○する、というのは逆転すれば、飢え渇きがないから○○しない、ということになる。
それは俗世的、一般的、常識的に表現すると「気分次第」ということに他ならない。気分が乗るから(あるいは調子がいいから)○○する、そうでないから○○しない、ってこと。
いやいや、「飢え渇き」と「気分」は違います、とか反論するだろうけど、じゃあ両者の違いをちゃんと説明できるんですか。「霊的」って言葉は使わないで。
・満たされた(恵まれた)
「賛美をしている中でとっても満たされました」とか「今日の礼拝もすっごい恵まれました」とか言う人がいる。それも信仰的、敬虔に聞こえるかもしれない。
けれどこの言葉を使ううえで注意すべきなのは、、自分が満たされるために賛美とか礼拝とかするんじゃない、ってこと。 つまり神の礼拝に対する要求に応えるのが礼拝であって、自分が得をするための何かではない。
この考え方は私風に言わせてもらえば、神様は自動販売機ではない、となる。けれど勘違いしている人たちは、110円とか120円とか入れれば350ml缶のコーラが出てくるみたいな感じで、
「たくさん賛美したから」→「気持ちが満たされるはず」
「寝ないでまじめにメッセージ聞いたから」→「気持ちが恵まれるはず」
みたいに神を利用してしまっている。つまり目的が神を礼拝することでなく、礼拝する自分が素晴らしいから何かくれ、ってことになっている。
もちろんそれをしている本人たちは、そんなこと認めたがらないけれど。
満たされるのも恵まれるのも良いことだろうけど、それが目的になっているとしたら、その賛美はただの自画自賛賛美、礼拝は自画自賛礼拝。
・信頼すべきは神のみ
「知り合いのクリスチャンがカルト被害に遭っている」「クリスチャンの友達がDV被害に遭っているようだ」みたいなことで、「どこに相談したらいいだろう」と相談先を探す人がいる。普通の教会で普通に教会生活をしているとなかなかそういう事態に遭遇しないから、誰に相談するかはすごく悩むところだと思う。手っ取り早いのは自分の牧師かもしれないけれど、いやいや、牧師だからこそ言えないってこともあるよね。
ってことで相談先を探していると、あるクリスチャンがやって来て、ドヤ顔でこんなことを言う。「信頼すべきは神のみ」
バカじゃねーか、と私はついつい思ってしまったのだけれど(ごめんなさい)、だったらここにその神ってやつを連れて来い、って話。
実際に被害に遭ってる人がいて、困っているのに、「祈れば大丈夫です」とか「神様に信頼しましょ」とか私には言えない。どうしたらいいか一緒に考えましょ、とか、あそこに相談してみましょ、とかなるのが常識的な対応のはず。もちろん祈りが無駄だとか言わないし、余裕があるなら沢山祈ればいいと思うけれど、そういう時は祈りだけじゃダメなのは間違いない。
それでも反論する人がいるなら、逆にこう質問してみたい。自分の子供の足にハサミが落ちる瞬間を見たら、とっさにハサミを払いのけませんか? それともとっさに跪いて主よ主よって祈るんですか?
「信頼すべきは神のみ」って字面はすごく信仰的だけど、間違えると、すごく冷徹で人を無視した表現になってしまう。だから注意がいりますねって話。
以上、「霊的」クリスチャンが勘違いしやすい事柄について。またあれば書きたい。