2015年8月15日土曜日

クリスチャンと「悪霊」の関係・その2

 クリスチャンと「悪霊」の関係について。2回目。

 前回も書いたけれど、悪霊とか悪魔とか呼ばれる存在を否定する気はない。けれどその存在を必要以上に強調する傾向が一部の教会にあるから、どう扱うかは注意が必要だ。でないと悪霊など全然関係ないのに「悪魔の仕業だ」とか言い出すようになってしまう。

 ある教会に通う中学生Aくんが、学校の友人たち(ノンクリ)に誘われるままゲームセンターに行った。
 Aくんはゲームが好きでも嫌いでもない。というか興味がない。だからゲームセンターに入ったことがなく、ゲーム機なんかをほしいと言ったこともなかった。クリスチャンである親も、だから明確にそういうものを禁止したことがなかった。

 だが教会の牧師はべつで、ゲームセンターなんか悪魔の巣窟だくらいに思っていて、普段からそういう発言があった。だからAくんは多少の後ろめたさを感じつつ、でも友達の誘いを断るのも嫌で、付いて行った訳だ。

 しばらくして、礼拝の説教で「きよさ」について語られた。罪があると神に近づけない、みたいな話だった(それはそれで教理的に問題ありだけど)。真面目なAくんはそれを聞いて、ゲームセンターに行った自分には罪がある、神様に近づけない、と思った。それで葛藤して、礼拝後、牧師に個人的に打ち明けた(そのへんの真面目さがいかにも中学生)。

 それでどうなったかと言うと、牧師に叱られて、悔い改めを促されて、翌週の礼拝の中で、皆の面前でその話をされた。つまり公開処刑に遭った訳である。牧師は言った。
「これは悪魔にそそのかされた結果だ。悪魔は私たちに罪を犯させようと誘惑してくる。だから私たちは常に霊を見張っていなければならない」

 Aくんは衆人環視の中でまた悔い改めさせられ、皆に祈られ、最後にはみんなから「ハレルヤ」とか「よかったね」とか言われて、まあそれでコトは終わった。Aくんがどんな心境だったかはわからない。たぶん大いに混乱したと想像するけれど。

 牧師は日頃からそういうことを言っていた。すなわち悪魔が絶えず私たちを攻撃していて、奉仕を妨げ、計画を妨害し、礼拝の雰囲気を悪くさせようとし、信徒に罪を犯させ、神から離れさせようとしている、と。だから悪魔と「霊的に」戦わなければならないし、逆に言うと悪魔さえ撃退すれば万事OK、みたいな感じ。

 その牧師の主張が全て間違いだとは言わない。エバは悪魔に誘惑されて罪を犯した。悪魔は確かに今も活動しているだろう。

 けれど牧師の主張に欠けているのは、悪魔だけが私たちの罪の原因ではない、という点だ。悪魔にそそのかされた結果罪を犯すのであれば、悪魔さえ撃退すれば私たちは罪を犯さない、ということにもなる。
 それは性善説であって、人間はきよく正しい存在であり、悪魔だけが諸悪の根元だ、という話になってしまう。
 けれど実際に聖書が推しているのは性悪説であって、人間は自ら欲を孕ませて罪を犯す。「義人はいない」という聖書の言葉があるけれど、それがなくても自分自身の心の内を見てみれば、とても性善説とは言えないのがわかるだろう。

 そういう間違った聖書理解が「偽善的クリスチャン」を作るのだと思う。自分はいつも正しくて、なにか問題が起こるとやれ悪魔のせいだ、あの人が悪い、これこれの状況に問題がある、みたいな責任転嫁をする。あくまで自分には落ち度がなくて、むしろ自分こそ状況を正しく理解しており、まわりの皆がわかってない、みたいな特別意識、選民意識を振り回す。
 けれどそういうのは、単に独り善がりなだけだ。あるいは正しさの押し売り、勝手な思い込みと言う。

 もちろん悪魔が正しいということはないけれど、かといって何でもかんでも悪魔の仕業とすることもできない。クリスチャン自身の欲や落ち度が悪い結果を引き起こすことだって多々ある。そういう人間としての弱さを認めず、何事もないように振る舞うのは、たとえるなら、アダムとエバが自分たちの裸を隠すためにいちじくの葉で作った腰の覆いのようなものだ。
 神がそれを見て何と言ったか、クリスチャンであれば当然知っているだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿