クリスチャンと「許し」

2015年8月30日日曜日

クリスチャンと「許し」

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 キリスト教の中心的なメッセージ、などと大それたことを書くつもりはないけれど、その特徴として挙げるべきは「許し」であろう。
 キリストが全人類の罪の身代わりとなって下さったから、彼を信じる者は全ての罪が許される。だからクリスチャンは罪許された者として、他の人々の罪も許してあげるべきだ、みたいなことは教会でもどこででも、クリスチャンの集まるところで言われている。

  それはすごく良い知らせである。悪いことをしてしまって、叱られると思っていたら許してもらえた、みたいな感動体験は多くの人がしていると思う。人は「許される」と、すごくホッとする。叱られて当然と思える状況で、謝るしかない時、意外にも「いいんだよ」と許してもらえて、むしろ優しくしてもらえると、その人の為なら何でもしよう、恩返ししよう、と思える。
  かの『レ・ミゼラブル』でも、主人公ジャン・バルジャンの生き方を劇的に変えたのは、ミリエル神父からもらった「許し」によった。このように人を育てるという視点でも、「許し」はけっこう効果的なようだ。

 というわけで「許し」は本来良いものなのだけれど、これもカルト化教会にかかると凶器に変貌する。

 たぶん実例を挙げるとキリがないけれど、たとえば中学生のAくんが学校でイジメに遭っていて、ひどく葛藤していた。教会でも次第に元気をなくしていき、ずいぶん経って牧師もようやく気付いた。それで話を聞いてみると、イジメに遭っているという。先生、僕どうしたらいいですか、頑張って生きる意味がわからなくなりました、と真摯に問いかけるAくんに対して牧師が一言。「相手を許しなさい。でないと君も許されない。でないとイジメもなくならない。とにかく許すことが君にとって勝利なのです

 という訳で真面目なAくんは、イジメっ子たちを毎日許すことにした。すなわち抵抗しないでイジメに甘んじた。結果イジメはエスカレートし、Aくんはついに登校拒否に。それで家に引きこもって、「許せない自分はダメな奴だ」と変に自分を責めて抑うつ状態になった。

 ちなみに「許し」とは関係なくなるけれど、この話の続きはこうだ。牧師がやってきてAくんに一言。「許してもイジメがなくならないのは、君に何か罪があるからだ。罪を全部告白しなさい」「うつ状態なのは悪霊にやられているからだ。霊の戦いで悪霊たちに立ち向かいなさい
 という訳でAくんは幼少期まで遡っていろいろな罪を告白させられ、挙句に何時間も「悪霊追い出し」を祈られて、心身ともに憔悴しきった。それでもどうにもならなくて、最後は心療内科にかかって一時期薬漬けになった。
 以上、下手に牧師に介入されると人生台無しになるから注意が必要って話。

 だから「許し」は良いもののはずだけれど、「許さなければダメだ」という方向に持って行かれると、悪いものになる。何でもそうだけれど、強制されるとロクなことにならない。

 許すことは確かに大切で、精神衛生的にも必要になる。たぶん多くの人が、人間関係を円滑にするために、毎日誰かとのちょっとしたシコリを許したりスル―したりしているだろう。許さないと関係がギクシャクしてしまって、結果自分が困ることになるからだ。だから許さないより許す方が良いのは間違いない。

 けれどそれはあくまで一般論であって、全てのケースに当てはまる訳ではない。たとえば身内を殺された遺族は、犯人を許せとか言われても許せるものではない。そこに神とか聖書とか持ち出されて「許さなければならない」とされても、自分を偽る以外にその要求に応える術はない。

 すごく究極的な話をすると、どんなひどいケースであっても最終的には許すことが必要なのかもしれない。それがクリスチャンとして推奨される生き方なのかもしれない。けれど時間のかかる事柄は存在する。理屈でわかっているからすぐ実行できる訳ではない。最終的に許すべきだとしても、すごく長いプロセスを時間をかけて通っていくこともある。時間をかけないと到達できないこともある。

 そういうのもひっくるめて全て「許しなさい」と言うのは、信仰でないし聖書的でもない。単に聖書的と思える理想を押し付けているだけだ。人間の当然の心理がわかっていない。そういう人が「愛」とか「許し」とか講壇の上から偉そうに語る資格はないと私は思うのだけど、違うだろうか。

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