2015年7月30日木曜日

ネットを断てば『真理にある自由』を得られる、という錯覚について・その2

 某ホームスクーリング団体が提唱する「ソーシャルメディア断食」について。2回目。

 前回は、ネット断ちしたからって『真理にある自由』が得られるんじゃありません、って話だった。
 今回は、その「ネット断ち」の方法について。

 彼らが言う「ネット断ち」の方法は、「キリストの恵みと聖霊の力によって鎖を断ち切る」ことらしい。
 これがどういうことかわかりやすく翻訳してみると、「具体的な策は何もありません。とにかくネットを我慢するだけです」ということ。

 だから挑戦者は普段使っているスマホやSNSを、自分なりのやり方で使わないようにし、1日我慢できたかできなかったか、事務局にメールを入れるのである(たぶんその時スマホを使うんだと思うけど)。

 だからその努力も結果も「本人次第」である。まあ強制されるより良いけれど。

 これの何が問題かと言うと、ソーシャルメディアがそんなに悪いもので、聖霊の力で断ち切らなければならないほど深刻な事態なのなら、方法論としてダメすぎるってこと。つまり断ち切らなければならないほど危険なのに、ただ「個人の努力で我慢するだけ」じゃダメでしょって話。

 たとえばアルコール依存症の治療を真剣にするのであれば、抗酒剤の内服とか教育指導とか、リハビリとか自助グループ参加とか、イロイロある。けれどそれらをバラバラにやっても無駄で、基本的に専門施設に入院しなければならない。それで強制的にお酒から遠ざかる状況(どうにもお酒を入手できない状況)にすることから始めて、専門家と一緒に何か月もかけてリハビリをしていく。それくらいしないと(ふつうは)依存症から抜け出せない。というか、そこまでしても結局元に戻ってしまうこともある訳で、依存からの脱却は決して簡単なことではない。そこでは「個人の我慢」などタカが知れている。

 もちろんスマホとかネットとかを1日我慢するのとは事情が違うし、そこまでしなくてもって話だろうけれど、じゃあなんで「あらゆる支配力からの自由体験」とか「聖霊に力によって鎖を断ち切る」とか、「『真理にある自由』の体験」とか、そういう大それた話になるのだろうか。ちょっと我慢してできることなら、そんな必要ないだろうに。

 逆にスマホ断ちやネット断ちが難しいことで、ちょっと笑えない状況になっているのなら、やっぱり「個人の努力」だけではダメなのである。キリストの恵みとか聖霊の力とか言うけれど(決してそれらを軽く見るつもりはないけれど)、具体的な策がなければ、ただのキレイごとでしかない。どうしても断ち切らなければならないなら、確実にできるという見込みのある方法を取るのが普通だろう。

 もう一つ書いておくと、「聖霊の力によって鎖を断ち切る」と言っておきながら、「失敗してもOK」と言うのは、むしろ聖霊の力を軽んじているように思える。できたらラッキー、ダメでもともと、みたいなノリじゃないだろうか。そこに神様ってなんか関係あるんですか。

 こういう「個人の我慢」はべつに信仰的なことではない。そもそもLINEとかツィッターとかを使わないことが神様を喜ばせることにはならない。むしろ神様が許容しているから存在しているソーシャルメディアにダメ出ししている訳で、そっちの方がどうなんだと思う。もちろん使う使わないは個人の自由だし、神様はそういう選択の自由を良しとしていると思うけれど。

 その意味で、ネットやソーシャルメディアを悪とみなすのも自由である。けれどそれで「ソーシャルメディア断食」をするのなら、あやふやな「個人の我慢」に任せるのでなく、徹底的にやるべきだろう。たとえば「ソーシャルメディア断食大合宿」とか企画して、あらゆる通信機器の持ち込みを禁止し、早寝早起き3食昼寝つきの規則正しい生活でもさせてみたらどうだろうか。それらが悪であって、自分たちの大事な子どもを守りたいと思うなら、それくらいやっても罰は当たらないと思うけれど。

2015年7月28日火曜日

ネットを断てば『真理にある自由』を得られる、という錯覚について

 某ホームスクーリング関連団体が提唱する、「ソーシャルメディア断食」について。

 その団体によると、「ソーシャルメディア断食」をする意義は次の通り。

あらゆる支配力からの自由体験をするため、キリストの恵みと聖霊の力によって鎖を断ち切る、『真理にある自由』の体験です。失敗してもOK。

 というわけでホームスクーリングの若者たちに参加を呼びかけて、ソーシャルメディアをやらないで1日過ごせたかどうか、毎日メールで報告させる。というのを2週間とかそこら続ける。成功したらハレルヤ、失敗したらまた頑張ろう、みたいな話。

 先に断っておくと、その実情は「ソーシャルメディア断食」というより「ネット断食」と言った方がいい。まあさほど違いはないかもしれない。

  またもう一つ断っておくと、「ネット断食」そのものは悪いものではない。むしろネットに繋がった生活が日常化した今日においては、良い気分転換にさえなるだろう。それはたまに連休をとって遠くへ旅行するのに似ている。

 ネットに限らず何にでも言えることだけれど、日常化したモノからしばし離れてみると、人は新たな視点を持てたり、気付けたりする。たとえば普段の通勤路を少し変えてみるだけでも、こんな風景あったっけとか、こんな公園あったっけとか、イロイロ発見があるはずだ。そしてそれは案外大事なことだと私は思う。
  だからソーシャルメディアでもネットでもいいけれど、「断食」そのものは悪いことではない。

  そのうえで書くけれど、一方のネットもソーシャルメディア自体も、べつに悪いものでも何でもない。某ホームスクーリング団体はどうもそれらを「悪」とみなしているようだけれど、ネットは単なるツールであって、悪魔などではない。

 たぶん彼らが本当に問題視しているのは、ネットとかSNSとかというより、それらに対する依存状態についてである。スマホを手放せない、ネットの関係を切れない、最新の情報でないと気が済まない、みたいな心理状態についてだ。

 そしてそれは一般社会でも問題になっていて、なにもキリスト教界の若者たちに限った話ではない。また若者たちだけでなく、大人たちにとっても深刻な問題となっている。だから狭いキリスト教界の、更に少ないホームスクーリングの子らにだけ絶対必要な「断食」なのではない。

 また彼らが言う『真理にある自由』というのが、すごく怪しいと私は思う。
 単にネットを我慢して、空いた時間で聖書を読んだり祈ったりして、それがすなわち『真理にある自由』だと彼らは言う。もちろん聖書を読んだり祈ったりするのは悪いことではない。けれどそれがイコール『真理にある自由』だとしたら、それはどれだけ聖書を読んだか、どれだけ一生懸命祈ったか、という量的な問題にもなってしまう。しかしそれは努力して神に近づこうとすることであり、律法主義と言う。恵みはどこへ行った。

 前述の通り、ネットが日常化している生活の中で一時的にでもネットを断つことは、気分転換とか解放感とかをもたらす。その「非日常感」が新鮮で、ある意味心地よくて、何か特別なことをしているように錯覚するかもしれない。でもそれは聖書の言う『真理にある自由』ではない。単なる解放感である。

 逆の立場で考えてみる。たとえば未開の地のネットを利用したことのない人が、いきなり大都会で、ネット漬けの生活をしてみる。すごいギャップで面白いエピソードが沢山生まれそうだけど、とにかくその人にとってネット環境は、大自然の中にはない新たな「自由」であり、「解放感」となるだろう。きっと特別な感覚になると思う。でもそれは単なる新鮮さ、自由さであって、『真理にある自由』ではない。

 だからネット環境が聖書的自由をもたらすのでなく、ネット断ちがそれをもたらすのでもない。そもそもネット環境と『真理にある自由』とは関係がない。

 要は『真理にある自由』とは何かという話だろう。そして某ホームスクーリング団体が「ソーシャルメディア断食」で相手にしているのは、単なるスマホ中毒、ネット中毒でしかない。もちろん教育的には大事なことだけれど、そこからの解放を聖書とか信仰とかに絡めて『真理にある自由』とか呼ぶのは誤りだから、やめた方がいいと私は思う。

 ネット断ち・スマホ断ちがイコール聖書的・信仰的な何かなのではない。けれどそういうことを自分の頭で考えず、言われるままに真理だ自由だと喜ぶのはいかがなものか。某団体を信奉している人たちには、是非そのあたりを考えてみてほしい。

2015年7月23日木曜日

教会用語(?)の聞き間違い・勘違いについて

 今回は、教会内で使われる用語(?)を聞き間違えていた、あるいは勘違いしていた、という話。名誉のために言っておくと、もちろん教会に通いはじめたばかりの頃の話である。
 ちなみにあらゆる教派の教会で使われている言葉でなく、たぶん新興プロテスタント系の教会でしか使われない言葉も含まれている。

・「ミナニヨリキヨメラレ」

 これは漢字を入れると「御名により清められ」となる。「イエス・キリストの御名によって(罪から)清められる」的な意味になるけれど、 私はこれを賛美の歌詞ではじめて聞いた。歌詞が表示されていなかったので(あるいは単に見ていなかっただけかも)、上記のような漢字入りの文章として認識できなかった。
 それで私がどう聞き間違えたかというと、

南より清められ
 
 だった。
 あれ、方角的に南って清いんだっけ? じゃあ北は悪いの? 北枕とか言うし? キリスト教って風水みたいな要素あるんだっけ? とかグルグル考えたものだけれど、「御名に」と「南」と聞き違えてましたって話。
 もっとも一部の教会では、方角的にどうこうなんて風水的な話を真面目にしているけれど。

・「自由献金」の「自由」の意味

 よく集会なんかで「入場無料です。ただし自由献金があります」みたいな文言を目にする。「自由」だから払っても払わなくてもいいのかな、とはじめは思っていたけれど、クリスチャンでこれを払わないのは現実的ではない。なぜなら集会の中で「献金の勧め」みたいな時間があって、要はこんな話をされるからだ。

無料でこの集会に参加してるんだから、献金して当然だよね? 払わない・・・なんてことないよね? 会場費だって運営費だってかかってるんだよ? タダなわけないよね?

 もちろん、厳密に言えば「自由」である。しかし所属教会の礼拝なんかで「献金は自由だから今日は払いません」みたいなことをしていて、それを公言していると、そのうち牧師室に呼ばれるハメになる(そういう教会がある)。
 つまり「自由」だけれど、クリスチャンのモラル(?)、教理(?)として、献金するのは当然とされているのだ(それは基本的に間違っていないと思うけれど)。
 
 わかりやすく言うと、「自由」というのは「金額は自由」「多ければ多いほど良い」という意味であって、「払う・払わない」の自由なのではない。
 という勘違い(?)。
 もちろん教会によっては完全に自由のところもあると思うけれど(そっちの方が正常であろう)。

・「トクサン」の謎

 伝道集会なんかを開くとき、「じゃあ今回のトクサンどうしようか」みたいな話になる。
 クリスチャンになったばかりの人はこの「トクサン」の意味がわからなくて、困惑したことだろう(たぶんすぐわかると思うけれど)。私もそうだった。

 この言葉から私が勝手に想像したのは、たとえば「地域の特産(トクサン)品」 を毎回の集会で披露する習慣があって、今度はどこの特産品にしようか、みたいな話である(なにその習慣)。あるいは「特別3号」とか呼ばれる何かがあって、略して特3(トクサン)と呼んでいるのか、みたいな話だ(ますますわからない)。

  まあ要は「特別賛美」のことで、会衆みんなで歌う賛美でなく、一応歌のうまい人が舞台に立ってカラオケみたいに賛美の歌を熱唱することである。
 プロの歌手が来て歌ってくれるならコンサートとして体を成すだろうけれど、素人に毛が生えた感じの人(おっと失礼)が額に汗して熱唱したところで、会衆は個人のカラオケに付き合わされるのと同じである。それでハレルヤとかアーメンとか、内輪で盛り上がるのは結構だけれど、 それを新来者がくる集会でやるのはまずいだろう、というのは私の個人的意見である。

・オマケ

「トクサン」の話でちょっと書きたいことがある。
 たぶん、上記の記事を読んで、「素人でも一生懸命頑張って賛美するんだからいいじゃない。神様は受け入れてくれるわ」みたいな意見を持つ人もいると思う。

 それについて補足しておくと、べつにそれ自体が悪いのでない。ただ何も知らない新来者に素人の歌を聴かせるのだから、「歌ってあげている」という態度でなく、また「神様に捧げているんだから多少下手でもいいんだ」という態度でもなく、「人様に聴いていただいている」「人様に時間を割いていただいている」という態度が絶対必要だ、と私は思う訳である。

 ある牧師がいて、音楽をちょっとかじった経験があったせいか、「僕は音にはうるさいよ」などと普段から言っていた。それで伝道集会のたびに音響を入念にチェックして、リハーサルをしつこいくらい重ねて、「音作り」に励んでいた。だから信徒らはみんな、「ああこれが良い音なんだな」とか思っていた。

 ある時もそんな感じで集会の本番が始まり、特に問題なく終わった。そこへ信徒の母親がたまたま(義理で)来ていた。実は彼女はいわゆるコンサートマニアで、プロのライブに通ってウン十年という経歴の持ち主だった。 だから耳が肥えていた。すごく。
 そんな彼女が帰り際に言ったセリフを、私は今もはっきり覚えている。
「まあ(歌っている人たちは)頑張って練習したんだと思うけど、音響がちょっとひどかったわね。キンキンして聴けたもんじゃなかったわ」

 という訳で未信者の方がはるかに高い基準を持っていることがあるから、教会の方も自己満足レベルではいけないのである。もし、本気で未信者を獲得したいと思うなら。そうでないなら内輪受けでも何でもいいのだけれど。

2015年7月21日火曜日

「真理の回復」と銘打たれた、ただの「ムーブメント」について

 当ブログへ流入する検索ワードに多い言葉が二つあって、一つは「インナーヒーリング」、もう一つは「ダビデの幕屋の回復」である。
 どちらもペンテコステ派とかカリスマ派とか第三の波(なにそれ)とか、そういう聖霊派系の教会が実践している事柄だ(もちろん全ての教会がという訳ではない)。当ブログはそれらの問題点について書いているので、検索にひっかかるのは当然かもしれない。

 今ここでそれら一つ一つについて細かく書くつもりはない。けれど一つ言えるのは、どれもムーブメントであり、流行り廃りがあるということだ。たとえば「インナーヒーリング」が突然教会に入ってきて、みんな熱にうかされたように自分の過去をほじくり返し始めたけれど、次に「和解の務め」が入ってくると、今度は我先にと仲違いしている関係を清算し始める。その次もまた同じことが起こる。

 仮に「インナーヒーリング」が完全に終了して「記憶の癒し」(なにそれ)がなされ、過去において一切のわだかまりがなくなったとする。それからタイミングよく「和解の務め」が入ってきて、今度はうまくいかない人間関係が完全に改善されハッピーになったとする。
 そういうふうにして自分の中の「欠け」が一つ一つ回復していくのなら、その人は10年もしたら完全無欠の聖人になっているかもしれない。それなら何も文句はない。

 けれど現状を見る限り、そういう教会の人々は10年経っても20年経っても根本的に何も変わっていない。もちろん長く生きた分だけ知恵や処世術が身に付いたかもしれないけれど、人格的にまったく問題ないなんてことはないし、あらゆる人間関係が良好だってこともない。むしろいつも同じような問題を起こすし、問題とまで行かなくても、同じような傾向をもった振る舞いを続けている。多少改善しているとして、それが「インナーヒーリング」のおかげだとか、「和解の務め」のおかげだとか言うこともできない。

「インナーヒーリング」をしきりに勧めてくるクリスチャンが、「自分は変わった」「過去に受けたこれこれの傷が癒されて楽になった」とかよく言うけれど、イザとなると案外ひどいことを平気で言ったりしたりする。つまり普段は癒されたような感覚でいるけれど、実は何も変わっておらず、いかに癒されていないかを時々露呈するのである。本人は「たまたまだ」とか「調子が悪かったからだ」とか言うけれど、人の本性は平時でなく緊急時にこそ現れる。

 だからそういう全てはムーブメントであり、聖書的な行いに見えるかもしれないけれど、結局は一時的な流行にのっかっているだけ、ということが案外多い。あれだけ「インナーヒーリング」にハマっていた人が、今はまったく見向きもせず、「和解の務め」とやらに勤しんでいる、なんてことはザラだ。

 たとえばマザーテレサとその功績は誰もが知っているだろうけれど、彼女は「インナーヒーリング」も「和解の務め」も「ダビデの幕屋の回復」もやってない。その他のあらゆる「聖書の真理の回復」(?)と呼ばれる行いも一切していない。けれど彼女は、おそらく世界で一番影響を与えたクリスチャンの一人である。キリスト教の品格(と言うべきかどうかわからないけれど)を引き上げてくれた一人でもあろう。
 ということは、立派な(とまで行かなくてもマトモな)クリスチャンであるためには、上記のムーブメントなんか全然必要ないということである。

 また何度も言っているようにそれはムーブメントであり、流行り廃りがあるという時点で、聖書教理とは関係ない。大事なことなら途中で始まったり終わったりしないし、そもそもとっくの昔から言われているはずだからだ。「終わりの時代だから真理が回復したのだ」とか彼らは言うだろうけれど、今が終わりの時代であるというその確証そのものがすごく怪しい。終わりの時代について聖書が何と言っているか、もう一度読んでみるべきだろう。また終わりの時代だからと言って何かが回復するとも書いていない訳で、もうその論理から滅茶苦茶である。

 だから教会に入ってくる「新しいもの」には注意が必要だ。そもそも2000年くらい続いてきた宗教に今になって「新解釈が与えられた」とか、「昔は○○だったけれど今は真理が回復したから××だ」とか、新しい方法論が展開されるとか、そんなことはない。それはもはやマスメディアであり、常に新しいものを流していなければ商売にならない何かのビジネスと同じだ。それらにいちいち飛びつくのは信仰でなく、聖書的でもない、と私は思う。

■おまけ・キリスト教新興プロテスタント系によくみられるムーブメント(ワード)

・インナーヒーリング
・和解の務め
・ダビデの幕屋の回復
・後の雨(ラターレイン)
・リバイバル
・レストレーション
・トランスフォーメーション
・トランジション
・天国(地獄)を見てきた
・天使の羽、金粉、歯、等々
・預言的アクション(各種)
・霊の戦い(各種)

 他にもあるだろうけれど、とりあえず。

2015年7月18日土曜日

台風被害も利用する、神学なき牧師について

 台風11号がゆっくり日本にやってきて、四国と中国を通り、各地にじゃんじゃん雨を降らせて、今日未明にようやく熱帯低気圧に変わった。だがまだまだ大雨による土砂災害などが懸念されている。

 今回の台風も、例によって主に西日本に被害をもたらした。昨夜は関西で満員電車が線路上で立ち往生してしまい、大変な目に遭った方々が多数いたとのこと。すみやかに回復されることを願う。

 ところで私は学生時代から地学が好きで、気象の分野などけっこう楽しんで学習した。
 だから熱帯の海上で低気圧が発生して、成長していわゆる台風になり、偏西風でカーブしながら日本にやってくる、という基本的な理屈は一応知っている。
 日本は東西に伸びているから、台風はどうしても西側から上陸する。そして上陸すると衰えるから、結局東側にはあまり被害をもたらさない。だから多くの台風は西日本で猛威をふるい、東日本はそのおかげで守られる、みたいな構図になっている(もちろんケースバイケースである)。

 それは地理的にそうなのであって、たとえばエベレスト山脈があるせいで日本に梅雨があるのと同じく、避けられない。けれどごく一部の牧師や教会に言わせると、「日本は歴史的にずっと東西の霊的対立があって、特に西側の罪が大きいのだ」ということになってしまう。有名で大きな神社仏閣が西日本に多いのも影響していると思う。なんの根拠があって言うのか、全然わからないけれど。

 だから関ヶ原の合戦で負けたのも、原爆を落とされたのも、全て「西日本の歴史的な罪のせい」ということになってしまう。 もちろん滅茶苦茶な話である。
 滅茶苦茶ついでに言うと、「東西の霊的和解を」みたいなコンセプトで「西日本伝道旅行」みたいなイベントを敢行しちゃう教会なんかもあって、中の人々はどうしてこれが大真面目なのである。

 だからそういう教会の人々からすると、今回の台風11号が西日本で猛威を振るったのも当然である。「さもありなん」とか「西日本の(あわれな)人々のために祈りましょう」とか、まあ言いたい放題である。

  けれど台風の話だけみても、上記のような地理的要因で西日本の被害が多いのであって、霊的要因などまったく定かでない。当然聖書に書かれているわけもなく、なんの根拠も証拠もない。ただの言い掛かりである。

 彼らは「霊的」であることにこだわるけれど、結局のところ、目で見える部分でしか判断できていない。なぜなら前述の関ヶ原の戦いとか、もっと遡ると南北朝時代とか、そういう歴史的事実の積み重ねから「東西の対立がある」みたいな結論を導き出しているに過ぎないからだ。いかにもそれらしく語るけれど、神様から直接聞いたはずがない。というのも、西日本を拠点とする牧師でそういうヨタ話をする人は(私の知る限り)1人もいないからだ。仮に東西の問題が本当にあるとして、東側の人にだけ語られるというのもおかしな話ではないだろうか(もっともその前に、神様が今も直接的で具体的な語りかけをするのか? という問題があるだろう)。

 仮に彼らの話が正しいとして、では東日本大震災はどう解釈されるべきだろうか。東日本の罪、あるいは東北の罪とでも言うのだろうか。西日本の罪はどこへ行ったのだろうか。

 けれどそういうことを言い出すと、本当にキリがなくなる。何か悪いことがある度、その地域やある集団や歴史的出来事との因果関係が持ち出されるからだ。
 たとえばある小学校に刃物男が乱入し、複数の児童生徒を傷つけるという悲惨な事件が起きたとする。それを見たある牧師は、こう言うかもしれない。「その小学校は以前、百姓一揆の首謀者らがさらし首にされた場所だった。文献には残っていないけれど、これは神に語られた霊的事実だ」

 そういうことを言い出すといろいろ言えるわけで、じゃあその百姓一揆が起こった原因も、その地域のもっと古い歴史的な何かに関係しているのか、みたいな話になってしまう。けれどそれはもはや確かめようがないし、際限なく過去に遡って事実を探求しなければならなくなる。キリストの十字架で全てが贖われた、という本来の福音はどこへやら。

 だいいちそれは因果応報の考え方であって、たとえば父親が罪を犯したから子がその報いを受ける、みたいな話である。けれど聖書が言うのは、親の罪で子が裁かれてはいけない、だ。まったく逆の話だ。

 だから冒頭の台風被害が多いのは西日本の歴史的罪のせいだ、みたいなことをしたり顔で言う牧師は、聖書も福音も実は知らない可能性が高い。牧師なのに聖書を知らない、というのはすごく致命的な気がする。けれど案外問題視されておらず、のうのうとやってる牧師が多いのもいかがなものかと、私は常々思っている。

2015年7月13日月曜日

アンチでもなく、批判でもなく

■コメントについてお願い

 いつもコメントをいただき、本当にありがとうございます。

 コメントのページでも書いていますが、無用なトラブルを避けるため、コメントは承認制にしています。ですが、反対意見だから承認しないとか、気に入らないから承認しないとか、そういうことはありません。実績として、コメント者様本人が非公開を希望する場合を除いて、ほぼ全て承認させていただいています。 ちゃんと計算していませんが、9割9分9厘は承認していると思います。

 というわけで賛成反対含めていろいろなコメントを掲載させていただいていますが、それは単純に、いろいろな意見があっていいと思うからです。世界にはただ一つの正しいものがあるのでなく、いろいろな選択肢の中に正しさが含まれているからです。また「正しさ」の概念も視点を変えればいろいろ変わるわけで、唯一絶対の、これでなければならない、という選択肢はさほど多くはないでしょう(中にはそういう選択肢もあるでしょうが)。

 そういうふうに考えるのは、カルト化教会を通しての反省でもあります。 カルト化教会はあらゆる事柄において「これだけが正しい」「この選択肢以外に御心はない」「他は全て間違っている」と教えます。そしてあの手この手を使って、信徒を「ただ一つの道」に追いやっていくのです。それは多くの場合「教会献身」であり、「教会内時間無制限奉仕」であり、「牧師絶対主義」であります。

 しかし事実はその逆で、世界は多くの良いものと、数少ないダメなものとでできています。ちょうどエデンの園がそうだったように。
 だから世界にはいろいろな木があっていいし、いろいろな木の実があっていいのです。いろいろな形の花が咲いていていいのだし、色は赤でも黄色でも青でもいいのです。
 当ブログのコメント欄も、そうであってほしいと思います。

 というのが前置きで、ここから本題。

 コメントをいただけて本当に感謝なのですが、時々、
「○○なんてダメだ!」
「こんなのは××でけしからん!」
 みたいな、ちょっと激しい体育会系なノリのコメントをいただきます。
 この2年半、そういうコメントをほぼスルーして掲載してきました。それは一重に、コメント者様本人の素直な気持ち、正直な感情の表れをそのまま掲載すべきと思ったからです。またあるコメントは承認してあるコメントは承認しないとか、そういう情報統制みたいなこともしたくありませんでした。

 ただ個人的には、あまり関わりたくない種類のコメントでしたが。

 けれど最近、ちょっと事情が変わってきました。と言っても大した変化ではないのですが、「アンチ・キリスト教系のブログからここにたどり着きました」みたいなコメントが散見されるようになったのです。どうやら私のブログは、「アンチ・キリスト教系ブログ」に数えられている(?)のかもしれません。

「そりゃそうだろう、さんざん人の文句ばかり書いてるんだから」とかいうツッコミが入りそうですが、正直なところ、すごく心外です。私はキリスト教そのものを否定しようとは思いませんし、神もキリストも否定しようなんて思ったこともないからです。だた牧師や教会について「それって違うんじゃね」ということを書いているだけです(もしかしてそれがアンチの定義なのでしょうか? よくわかりません)。

 とにかくアンチというのは事実と違いますので、もしそういうイメージを持たれているのであれば、訂正したいと思います。基本姿勢を変えるつもりはありませんが、何か違うアプローチがあるのなら、少しずつでも変えていこうと思っています。
 同時に、上記の「○○なんてダメだ!」系の激しいコメントは、できたらご遠慮いただけたらと思っています。コメントをいただいている立場でこういうことを書くのも、本当に恐縮なのですが。

 ■アンチでもなく、批判でもなく

 また私のブログはよくこう言われます。
「人の文句ばっかじゃん」
「問題を挙げ連ねるだけで何の解決も提示してないよね」
「いったいどこに向かっているのかわからない」

 人の意見は様々なので、そういう意見があってもいいと思います。また事実を含んでいるとも思います。

 けれど、文章力・表現力の不足もあると思いますが、私は基本的に文句を言いたいのでなく、批判したいのでもありません。どちらかと言うと、カルト化教会の被害者や、そこまでいかなくてもそれに近い境遇にある人たちについて、書きたいと思っています。こういう被害がある、でもその被害は見えにくい、その理由は○○だ、みたいなことをいつも書いているつもりです。そしてその流れの中で、必然的にカルト化牧師やそれに近い牧師、問題の大きい教会についても触れることのなるのですが。

 物事にはいろいろな面があって、一概に良い・悪いを言うことはできません。善人に悪い面がないのでなく、悪人に良い面がないのではありません。すごい不良少年と思われていた子が案外優しい一面を持っている、なんてドラマの定番もあります(その逆もしかり)。それにだいたい、善人も悪人も見方次第で微妙に変わってくるものです。もっと言うと「善人」「悪人」という言葉さえも疑わしいです。

 たとえば「チャーチスクール」というのがあって、15年くらい前にちょっとしたムーブメントを起こしました。「教育界の革命」みたいなかなり言い過ぎなキャッチフレーズまで付けられて、キリスト教メディアに取り上げられました。それで一応の発展を見せたのですが、数年前からあちこちで問題が発覚し、もはやかつての勢いはありません(それでもたぶん現場レベルでは頑張ってらっしゃると思います)。
 今はチャーチスクールと言うと、「素人経営の怪しい宗教教育」というのが一般的な認識ではないかと思います。

  それでチャーチスクールは悪い悪いという話になるのですが、私個人はそこまで大きな声で悪いとも言えません。
 もちろん問題は沢山あって、無認可だとか、教師の大部分が無資格だとか、カリキュラムが定まっていない(つまりやりたい放題)だとか、卒業後の進路があやふやだとか、挙げればいろいろ出てきます。
 けれどそれでもチャーチスクールには一定の存在価値があると私は思っています。たとえば公教育になじめず、いじめの対象となり、親にも理解されず、もはや(精神的に)死んだも同然な子どもたちのセーフティーネットは、現在ほとんど整備されていません。そういう子がもしチャーチスクールと接点を持てたなら、少なくとも居場所にはなるでしょうし、社会とのつながりを保つことになるでしょう。受け入れられるほとんど唯一の場所かもしれません。その場合、そのチャーチスクールが(一般的に見て)どれだけ問題が多いとしても、その子にとっては唯一の救いとなるのです。

 もちろんそれがどうしてもチャーチスクールでなければダメだったかと言えば、そうではないと思います。民間のフリースクールなんかでも良かったかもしれませんが。

  とにかくそのように、「○○は完全に悪い」「滅び失せてしまえ」と断言できるような事柄は、それほど多くはないと思います。だから私が普段書いているのは、物事の中に含まれる悪い面・問題な面についてであり、それそのものを完全否定したいのではありません。なので「アンチ」とか「批判するだけ」とか言われるのは、私としては心外なわけです。

■解決策を提示しろ?

 最後になりますが、「批判だけでなく解決策も提示しなければダメだ」というコメントについて。
 批判と同時に解決策も挙げろ、というのは企業の会議なんかでよく言われる言葉です。けれどカルト化教会について言えば、簡単に解決できるなら初めから問題はないわけで、そんな単純な話ではないと思います。簡単な解決策があるなら、とっくに書いているでしょう。というか誰もカルト被害に遭わないでしょう。
 もっと言えば、その解決を私一人に求められても困るわけです。むしろ本ブログの記事を読んで下さった皆さんで考えるのが筋ではないでしょうか。
 だから「解決策も挙げろ」と言う人に対しては、こう答えましょう。「あなたには何のアイディアもないんですか?」

2015年7月11日土曜日

【雑記】残念なクリスチャンの残念な対応

 クリスチャンと言ってもいろいろな人がいて、たぶん教団教派によって基本的な立ち位置が違う。それに教理ウンヌンを度外視しても、人間としての種類も様々である。そしてそれは一般社会の一般人とまったく同じだ。
 だから中には残念なクリスチャンもいて、なかなか残念なことをしてくれている。今回は私が実際に見聞きした、残念なクリスチャンの残念な対応(行動)について書いてみる。

■あるクリニックにて

 クリスチャンであることを前面に出してクリニックを経営している人がいる。

 経営状態がどうなのか知らないけれど、もう長いことやっている。本人は「いい人」で、悪い評判は聞かない。施術の終りに時々キリスト教関係の話を振ってくる以外、いたって普通のクリニックである。何も問題なさそうだ。

  Aさんはそこで定期的に施術を受けていて、そこの経営者とは長い付き合いだった。といっても気心が知れた訳ではない。お互いクリスチャンで、教会がどこで、仕事が何か知っているくらいだ。けれどその経営者はいつも温厚だし、多少の融通は利かせてくれるし、Aさんにはそれで十分だった。

 ある日Aさんが、急な用事で予約をキャンセルした。電話で謝意を表して、別の日に予約を取り直した。経営者の方も何も言わず、特に何もなかった。
 しばらくして、また同じように急用でドタキャンすることになった。Aさんにとって不可抗力な事態で、すぐに電話できなかった。結局予約時間を少し過ぎてから電話した。その経営者のことだから、いいですよと簡単に言ってくれるはずだった。だが、その日は違った。
「Aさん、困りますよ。この予約時間はあなたの為に取ってるんですから」
「・・・はい、本当にすみません。急な用事だったもので・・・」
「この前もそうでしたよね。こんなことが続くとうちとしては大変困ります」
「すみません・・・」
「今後、こういうことがないようにしてもらえませんか」

 まるで別人のようだった。とAさんは後から思った。今まで見知ってきた経営者と声は同じだったけれど、全然違う人間のようだった。たまたま機嫌が悪かったのだろうか。それとも自分が何かとんでもない粗相でもしてしまったのだろうか。いずれにせよAさんは恐くなって、また気まずくて、以来そのクリニックには行っていない。

 後日、同じようにそのクリニックを利用しているBさんと話す機会があった。Aさんは大変ショックだったので、事の顛末をBさんに話した。
 Bさんは不思議そうに言った。「私なんて、この前予約をすっかり忘れて2回もすっぽかしちゃったんだけど。べつに何も言われなかったよ」

  あれ?、とAさんが思ったのは言うまでもない。
 ちなみにAさんは男性、Bさんは女性である。 余計な情報だけれど。

 ■注文の品を送ったけれど

 ある教会が海外から講師を招いて、セミナーを開いた。あちこちの教会から人が集まって、それなりに盛り上がって、無事終わった。

 教会はその講師のメッセージをDVDで売ることにしていて、注文書を来場者らに配った。メッセージに感動した人たちが、こぞって注文し、代金を払っていった。
 ある有名教会の牧師も注文しいった。けれど「あいにく今手持ちがない。後日振り込むから」とのこと。それで振込先を教えた。 本来なら代金と引き換えなのだけれど、教会どうしの付き合いもあるし、そこそこ有名な牧師でもあるし、カタいことは言えない。

 さて後日、教会スタッフが頑張ってDVDを発送した。例の有名牧師のところには、再度振込額と振込先を書いて送った。けれど一週間たっても二週間たっても振込まれない。担当者はすごく迷ったけれど、その有名教会に電話してみた。スタッフが電話に出たので、事情を説明した。では牧師に伝えます、どうもすみません、ということで話を終えた。

 それが数年前の話なのだけれど、いまだ支払われていないのは想像通り。

■誤解なんですけど

  ある人がブログで教会のことをいろいろ書いていたら、知り合いからメールが届いた。「私のこと書いたでしょ。何も知らないくせに、よくあんなこと書けたもんね。すぐ削除しなさい。さもないと法的手段に出るから」
 その人は返事を書いた。 「あなたのこと知らないので、何も書きようがありません。誤解じゃないですか」
 するとその知り合いから返信があった。「あんなふうに他人を貶めて、あなたの神経が理解できません」
 その人のブログの記事が他人を貶めるものかどうかはさておき、誤解したなら謝るもんじゃないのかな、と私はそれを聞いて思った。法的ウンヌンとか脅しもしたんだから。
 けれど結局、何の謝罪もなかったようである。

2015年7月6日月曜日

カルト被害者の回復を阻むもの・その2

 精神科医のキューブラー=ロスが提唱した、「死の受容段階」という考え方がある。
 末期患者の心理状態を分析・分類して一応の順序を付けたものだ。つまり自分がもうじき死ぬとわかった人間が通る(とされる)心理状態で、以下のような段階がある。

①否認と孤立
 ショックを避けるため「まさか自分が本当に死ぬわけない」と否認する。

②怒り
 死が現実であると認めざるを得なくなり、「なんで自分なんだ」という怒りの感情を経験する。

③取引
 どうにかして生きるための方法を考え、「もう財産はいらないから命だけは」というような取引をする。

④抑鬱
  病状が悪化し、死を避けられないと知り、無力感、絶望感から抑鬱状態になる。

⑤死の受容
 死という現実を受け入れながら、残された人生を静かに見つめ、前向きに生きようとする段階。

 もちろんこの通りの順番で段階的に進んでいくとは限らない。ある人はある段階に留まりつづけ、ある人はある段階をスキップする。複数の段階が混在することもあるだろう。
 これは医療分野であればおそらくどんな職種でも学ぶことだと思う。だから知っている人も多いだろう。

 ところでこの「死の受容段階」をカルト被害者に当てはまようとする、余計なお世話な(おっと失礼)牧師がいる。
 彼いわく、「カルト被害者もこの段階を通るのだと思う」とのこと。
  それでこの被害者はこの段階、あの被害者はこの段階、そっちの被害者は・・・よくわからない、みたいなことを言う。

 なんか勘違いしているようなので書いておくけれど、カルト被害者は死を宣告された患者ではない。むしろカルト被害から脱した訳で、ベクトル的に逆方向なことが多い。もちろん被害は様々だから一概に言えないけれど、カルト被害から脱した後に、それ以上の死の危険を感じて絶望する、なんてそうそうない。

 だからカルト被害者に上記の受容段階を当てはめることはできない。死が目前に迫っているのではないのだから。そんなの当たり前なのだけれど、なぜそんな勘違いをするのだろう。そっちのほうが不思議である。

  現に私自身もそうだし、知り合いたちもそうだけれど、上記の段階など通っていない。
 少なくとも私は現実を否認しようなんて思わなかったし、「なんで自分なんだ」と怒ることもなかった。取引する理由も必要もない。また最後の「抑鬱」と「受容」は、むしろカルト化教会時代に感じていた段階だ。つまり永遠に終わらない奉仕に追われて抑鬱状態だったし、それでも神様を信頼せねば、という前向き思考だった。

 そこから解放された訳で、「受容段階」など関係ない。
  たぶんその牧師は、カルト被害について実際には何も知らないのだと思う。だからそういう勘違いをするのだろう。知らないなら勘違いしても仕方ないけれど、だったら初めから黙ってろって私は思う。

  またそういう牧師が、この被害者はこの段階、あの被害者はこの段階、みたいなトリアージをするのも馬鹿げている。いったい何がわかってるんですか? と私は思う。そしてそれ以前に、そういう段階づけにいったい何の意味があるのだろうか。 少なくとも回復には関係ない。むしろ間違った段階づけなだけに害がある。

 カルト被害者は何かを受容しなければならない存在ではない。むしろ何も受容しなくていいこと、義務に感じることなど何もないことを知るべき存在だと私は思う。 カルト化教会あるいは牧師から、さんざんいろいろなものを受容させられてきたのだから。

2015年7月3日金曜日

【雑記】映画「レフトビハインド」・同性婚合法化とその影響

■映画「レフトビハインド」が酷評

 いわゆる「携挙」を題材にしたクリスチャン小説「レフト・ビハインド」が、この度また映画化された。

 主演はあのニコラス・ケイジ(最近はクセのあるB級映画にばかり出ている。本作もたぶんそう)。お金もかかっているようだ。だからハリウッド的パニックスペクタクルになりそうで、それなりに(映画として)楽しめる気がする。けれど巷のレビューを見るかぎり、残念な結果に終わっているようだ。

 未見だから映画のデキをどうこう言うつもりはないけれど、やはり内容的に宗教映画という括りから抜け出ることはないだろう。だから本国アメリカはともかく、日本で一般受けすることはないと思う。日本の配給会社もそれはわかっていて、予告篇は明らかにパニック映画路線の作りになっている。キリスト教など微塵も感じさせない(だからパニックものを期待して観に行く人は大いに肩透かしを食らうことになると思う)。

「レフトビハインド」予告篇↓


 デンゼル・ワシントン主演の映画「フライト」だと、ペンテコステ派クリスチャンを明らかに変人扱いしている。韓国映画「ザ・タワー」も同様である。それが一般的な傾向なのかどうか知らないけれど、「クリスチャン=変人=理解不能」みたいな見方は一般に存在する。本作のレビューにも「劇中のキリスト教徒が狂人にしか見えない」という意見があるから、同様の傾向があるんだと思う。
 あるいは、映画としてクリスチャンを正しく描いているとしても、それを鑑賞した一般人(未信者)が、「クリスチャンってやっぱおかしい」みたいな感想を持つのかもしれない。

 だから宗教映画はあくまで宗教映画の枠から出られない訳で、どうしても観る人を選ぶ。「携挙」を信じるクリスチャンらは盛り上がって本作を観るだろうけれど、彼ら自身の信仰が一般に受け入れられないように、その映画も一般に受け入れられることはない。なのに「この映画良いから観て」と、クリスチャンが一般人にこういう宗教映画を勧めるのは、余計にその宗教を倦厭させることになりかねない。と私は思う。

 ちなみにこういう終末映画には「旬」があって、現代の社会背景、現代のテクノロジー、現代の流行の中でしかリアリティを持つことができない。だからもし10年後、100年後の今からは想像もできない世界の中で終末が訪れたとしたら、「ああ、レフトビハインドって単なる想像の産物だったのね」という話になる。とするなら、その映画を作ることも見ることも宣伝することも、キリスト教信仰とは何の関係もないってことになる。
 また仮に今から数か月後に終末が訪れるとしても、その様相は本作とまったく同じはずはないので、「やっぱり想像の産物だった」という話になる。
  だからこういう映画を大絶賛して真顔で押し付けてくるクリスチャンには要注意。

■同性婚合法化とその影響

 アメリカの連邦最高裁が、全州で同性婚の合法化を認めた。その決定は世界を巡り、ここ日本でも似たような動きが起こり始めている。賛否両論いろんな議論を起こしながら。

 いずれにせよこの動きは、LGBTの方々にとって少なからず追い風であろう。もちろんまだまだ障害は沢山あると思う。けれど人権問題という観点からみて大きな前進ではないかと思う。おそらく事情は国によっていろいろだと思うけれど。

 ただそういう動きには反発も付き物で、同性婚を認めたくない人や団体がいろいろ声を上げている。そして特に声が上がっているのは、キリスト教界においてだ。

 産経ニュース記事のデータをそのまま引用させていただくと、アメリカ合衆国で自らをクリスチャンとするのは全体の70.6%で、およそ1億7300万人いることになる。そのうち同性婚を支持するのはカトリック教徒の56%、プロテスタント教徒の40%だそうだ(ピューリサーチセンター、2014)。
 およそ半数近くが支持していることになる訳だけれど、無宗教の人々の同性婚支持率が85%であるのを見ると、やはりキリスト教界においては同性婚はまだハードルが高いということがわかる。

 それを示唆するような記事があったので簡単に紹介してみる。こんな話だ。ワシントン州に花屋を営むプロテスタント教徒がいる。彼女は普段から同性愛の顧客にも花を売り、同性愛の従業員を雇用していた。けれど2013年、合法化された同性婚の結婚式でのフラワーアレンジメントの依頼を断った。

 フラワーアレンジメントは創造性と芸術性を必要とする作業で、自らの信仰心も反映することになる。その信仰心には、結婚は男女のものと聖書が教えている、という聖書観がある。だから同性婚でそういう仕事をするのは聖書に逆らうことになるからできない、というのが彼女の主張。
「法律や裁判がどんな結論を出そうとも、聖書の教えは変えられない」と彼女は言う。
 自分の信条を貫くという点では、尊敬に値する人だと思う。
 けれど「聖書の教えは変えられない」という表現はちょっと違うと私は思う。すなわち彼女が変えられないのは「聖書の教え」でなく、「自分の聖書解釈」だからだ。

 聖書という絶対的な価値基準があって、現代社会の基準がどう変わってもそれだけは変わらない、変えることができない、という話は理解できる。

 けれど聖書に唯一絶対の解釈があるのなら、キリスト教は今日のように分裂していない。解釈にある程度の幅があるからこそ、いろいろな宗派が存在している。

 だから同性愛の是非だけでなく、たとえば什一献金の是非とか、洗礼は浸礼であるべきかとか、預言の是非とか、五役者は本当に回復するのかとか、癒しは現代でも起こるのかとか、そういう各論部分でも解釈が分かれている。
 その中に唯一絶対の、完全に正しいと誰もが認める一つの聖書解釈があるのなら、おそらく誰も迷わない。そして分派の存在しない一つのキリスト教になっているだろう。

 だから「聖書は同性婚を認めていない」というのは一つの解釈であって、まったく反対の解釈もある。もちろん両者に言い分があるのだけれど、どちらが絶対的に正しいかを言い切ることはおそらくできない。

 という訳で「聖書は変えられない」と言う時、それが純粋に聖書の内容は不変だという意味なのか、あるいは自分や自分の教派の聖書解釈に固執しているだけなのか、ちょっと考えてみるべきだと私は思う。