ネットを断てば『真理にある自由』を得られる、という錯覚について

2015年7月28日火曜日

教育

t f B! P L
 某ホームスクーリング関連団体が提唱する、「ソーシャルメディア断食」について。

 その団体によると、「ソーシャルメディア断食」をする意義は次の通り。

あらゆる支配力からの自由体験をするため、キリストの恵みと聖霊の力によって鎖を断ち切る、『真理にある自由』の体験です。失敗してもOK。

 というわけでホームスクーリングの若者たちに参加を呼びかけて、ソーシャルメディアをやらないで1日過ごせたかどうか、毎日メールで報告させる。というのを2週間とかそこら続ける。成功したらハレルヤ、失敗したらまた頑張ろう、みたいな話。

 先に断っておくと、その実情は「ソーシャルメディア断食」というより「ネット断食」と言った方がいい。まあさほど違いはないかもしれない。

  またもう一つ断っておくと、「ネット断食」そのものは悪いものではない。むしろネットに繋がった生活が日常化した今日においては、良い気分転換にさえなるだろう。それはたまに連休をとって遠くへ旅行するのに似ている。

 ネットに限らず何にでも言えることだけれど、日常化したモノからしばし離れてみると、人は新たな視点を持てたり、気付けたりする。たとえば普段の通勤路を少し変えてみるだけでも、こんな風景あったっけとか、こんな公園あったっけとか、イロイロ発見があるはずだ。そしてそれは案外大事なことだと私は思う。
  だからソーシャルメディアでもネットでもいいけれど、「断食」そのものは悪いことではない。

  そのうえで書くけれど、一方のネットもソーシャルメディア自体も、べつに悪いものでも何でもない。某ホームスクーリング団体はどうもそれらを「悪」とみなしているようだけれど、ネットは単なるツールであって、悪魔などではない。

 たぶん彼らが本当に問題視しているのは、ネットとかSNSとかというより、それらに対する依存状態についてである。スマホを手放せない、ネットの関係を切れない、最新の情報でないと気が済まない、みたいな心理状態についてだ。

 そしてそれは一般社会でも問題になっていて、なにもキリスト教界の若者たちに限った話ではない。また若者たちだけでなく、大人たちにとっても深刻な問題となっている。だから狭いキリスト教界の、更に少ないホームスクーリングの子らにだけ絶対必要な「断食」なのではない。

 また彼らが言う『真理にある自由』というのが、すごく怪しいと私は思う。
 単にネットを我慢して、空いた時間で聖書を読んだり祈ったりして、それがすなわち『真理にある自由』だと彼らは言う。もちろん聖書を読んだり祈ったりするのは悪いことではない。けれどそれがイコール『真理にある自由』だとしたら、それはどれだけ聖書を読んだか、どれだけ一生懸命祈ったか、という量的な問題にもなってしまう。しかしそれは努力して神に近づこうとすることであり、律法主義と言う。恵みはどこへ行った。

 前述の通り、ネットが日常化している生活の中で一時的にでもネットを断つことは、気分転換とか解放感とかをもたらす。その「非日常感」が新鮮で、ある意味心地よくて、何か特別なことをしているように錯覚するかもしれない。でもそれは聖書の言う『真理にある自由』ではない。単なる解放感である。

 逆の立場で考えてみる。たとえば未開の地のネットを利用したことのない人が、いきなり大都会で、ネット漬けの生活をしてみる。すごいギャップで面白いエピソードが沢山生まれそうだけど、とにかくその人にとってネット環境は、大自然の中にはない新たな「自由」であり、「解放感」となるだろう。きっと特別な感覚になると思う。でもそれは単なる新鮮さ、自由さであって、『真理にある自由』ではない。

 だからネット環境が聖書的自由をもたらすのでなく、ネット断ちがそれをもたらすのでもない。そもそもネット環境と『真理にある自由』とは関係がない。

 要は『真理にある自由』とは何かという話だろう。そして某ホームスクーリング団体が「ソーシャルメディア断食」で相手にしているのは、単なるスマホ中毒、ネット中毒でしかない。もちろん教育的には大事なことだけれど、そこからの解放を聖書とか信仰とかに絡めて『真理にある自由』とか呼ぶのは誤りだから、やめた方がいいと私は思う。

 ネット断ち・スマホ断ちがイコール聖書的・信仰的な何かなのではない。けれどそういうことを自分の頭で考えず、言われるままに真理だ自由だと喜ぶのはいかがなものか。某団体を信奉している人たちには、是非そのあたりを考えてみてほしい。

QooQ