【雑記】映画「レフトビハインド」・同性婚合法化とその影響

2015年7月3日金曜日

雑記

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■映画「レフトビハインド」が酷評

 いわゆる「携挙」を題材にしたクリスチャン小説「レフト・ビハインド」が、この度また映画化された。

 主演はあのニコラス・ケイジ(最近はクセのあるB級映画にばかり出ている。本作もたぶんそう)。お金もかかっているようだ。だからハリウッド的パニックスペクタクルになりそうで、それなりに(映画として)楽しめる気がする。けれど巷のレビューを見るかぎり、残念な結果に終わっているようだ。

 未見だから映画のデキをどうこう言うつもりはないけれど、やはり内容的に宗教映画という括りから抜け出ることはないだろう。だから本国アメリカはともかく、日本で一般受けすることはないと思う。日本の配給会社もそれはわかっていて、予告篇は明らかにパニック映画路線の作りになっている。キリスト教など微塵も感じさせない(だからパニックものを期待して観に行く人は大いに肩透かしを食らうことになると思う)。

「レフトビハインド」予告篇↓


 デンゼル・ワシントン主演の映画「フライト」だと、ペンテコステ派クリスチャンを明らかに変人扱いしている。韓国映画「ザ・タワー」も同様である。それが一般的な傾向なのかどうか知らないけれど、「クリスチャン=変人=理解不能」みたいな見方は一般に存在する。本作のレビューにも「劇中のキリスト教徒が狂人にしか見えない」という意見があるから、同様の傾向があるんだと思う。
 あるいは、映画としてクリスチャンを正しく描いているとしても、それを鑑賞した一般人(未信者)が、「クリスチャンってやっぱおかしい」みたいな感想を持つのかもしれない。

 だから宗教映画はあくまで宗教映画の枠から出られない訳で、どうしても観る人を選ぶ。「携挙」を信じるクリスチャンらは盛り上がって本作を観るだろうけれど、彼ら自身の信仰が一般に受け入れられないように、その映画も一般に受け入れられることはない。なのに「この映画良いから観て」と、クリスチャンが一般人にこういう宗教映画を勧めるのは、余計にその宗教を倦厭させることになりかねない。と私は思う。

 ちなみにこういう終末映画には「旬」があって、現代の社会背景、現代のテクノロジー、現代の流行の中でしかリアリティを持つことができない。だからもし10年後、100年後の今からは想像もできない世界の中で終末が訪れたとしたら、「ああ、レフトビハインドって単なる想像の産物だったのね」という話になる。とするなら、その映画を作ることも見ることも宣伝することも、キリスト教信仰とは何の関係もないってことになる。
 また仮に今から数か月後に終末が訪れるとしても、その様相は本作とまったく同じはずはないので、「やっぱり想像の産物だった」という話になる。
  だからこういう映画を大絶賛して真顔で押し付けてくるクリスチャンには要注意。

■同性婚合法化とその影響

 アメリカの連邦最高裁が、全州で同性婚の合法化を認めた。その決定は世界を巡り、ここ日本でも似たような動きが起こり始めている。賛否両論いろんな議論を起こしながら。

 いずれにせよこの動きは、LGBTの方々にとって少なからず追い風であろう。もちろんまだまだ障害は沢山あると思う。けれど人権問題という観点からみて大きな前進ではないかと思う。おそらく事情は国によっていろいろだと思うけれど。

 ただそういう動きには反発も付き物で、同性婚を認めたくない人や団体がいろいろ声を上げている。そして特に声が上がっているのは、キリスト教界においてだ。

 産経ニュース記事のデータをそのまま引用させていただくと、アメリカ合衆国で自らをクリスチャンとするのは全体の70.6%で、およそ1億7300万人いることになる。そのうち同性婚を支持するのはカトリック教徒の56%、プロテスタント教徒の40%だそうだ(ピューリサーチセンター、2014)。
 およそ半数近くが支持していることになる訳だけれど、無宗教の人々の同性婚支持率が85%であるのを見ると、やはりキリスト教界においては同性婚はまだハードルが高いということがわかる。

 それを示唆するような記事があったので簡単に紹介してみる。こんな話だ。ワシントン州に花屋を営むプロテスタント教徒がいる。彼女は普段から同性愛の顧客にも花を売り、同性愛の従業員を雇用していた。けれど2013年、合法化された同性婚の結婚式でのフラワーアレンジメントの依頼を断った。

 フラワーアレンジメントは創造性と芸術性を必要とする作業で、自らの信仰心も反映することになる。その信仰心には、結婚は男女のものと聖書が教えている、という聖書観がある。だから同性婚でそういう仕事をするのは聖書に逆らうことになるからできない、というのが彼女の主張。
「法律や裁判がどんな結論を出そうとも、聖書の教えは変えられない」と彼女は言う。
 自分の信条を貫くという点では、尊敬に値する人だと思う。
 けれど「聖書の教えは変えられない」という表現はちょっと違うと私は思う。すなわち彼女が変えられないのは「聖書の教え」でなく、「自分の聖書解釈」だからだ。

 聖書という絶対的な価値基準があって、現代社会の基準がどう変わってもそれだけは変わらない、変えることができない、という話は理解できる。

 けれど聖書に唯一絶対の解釈があるのなら、キリスト教は今日のように分裂していない。解釈にある程度の幅があるからこそ、いろいろな宗派が存在している。

 だから同性愛の是非だけでなく、たとえば什一献金の是非とか、洗礼は浸礼であるべきかとか、預言の是非とか、五役者は本当に回復するのかとか、癒しは現代でも起こるのかとか、そういう各論部分でも解釈が分かれている。
 その中に唯一絶対の、完全に正しいと誰もが認める一つの聖書解釈があるのなら、おそらく誰も迷わない。そして分派の存在しない一つのキリスト教になっているだろう。

 だから「聖書は同性婚を認めていない」というのは一つの解釈であって、まったく反対の解釈もある。もちろん両者に言い分があるのだけれど、どちらが絶対的に正しいかを言い切ることはおそらくできない。

 という訳で「聖書は変えられない」と言う時、それが純粋に聖書の内容は不変だという意味なのか、あるいは自分や自分の教派の聖書解釈に固執しているだけなのか、ちょっと考えてみるべきだと私は思う。

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