今回は、教会内で使われる用語(?)を聞き間違えていた、あるいは勘違いしていた、という話。名誉のために言っておくと、もちろん教会に通いはじめたばかりの頃の話である。
ちなみにあらゆる教派の教会で使われている言葉でなく、たぶん新興プロテスタント系の教会でしか使われない言葉も含まれている。
・「ミナニヨリキヨメラレ」
これは漢字を入れると「御名により清められ」となる。「イエス・キリストの御名によって(罪から)清められる」的な意味になるけれど、 私はこれを賛美の歌詞ではじめて聞いた。歌詞が表示されていなかったので(あるいは単に見ていなかっただけかも)、上記のような漢字入りの文章として認識できなかった。
それで私がどう聞き間違えたかというと、
それで私がどう聞き間違えたかというと、
「南より清められ」
だった。
あれ、方角的に南って清いんだっけ? じゃあ北は悪いの? 北枕とか言うし? キリスト教って風水みたいな要素あるんだっけ? とかグルグル考えたものだけれど、「御名に」と「南」と聞き違えてましたって話。
あれ、方角的に南って清いんだっけ? じゃあ北は悪いの? 北枕とか言うし? キリスト教って風水みたいな要素あるんだっけ? とかグルグル考えたものだけれど、「御名に」と「南」と聞き違えてましたって話。
もっとも一部の教会では、方角的にどうこうなんて風水的な話を真面目にしているけれど。
・「自由献金」の「自由」の意味
よく集会なんかで「入場無料です。ただし自由献金があります」みたいな文言を目にする。「自由」だから払っても払わなくてもいいのかな、とはじめは思っていたけれど、クリスチャンでこれを払わないのは現実的ではない。なぜなら集会の中で「献金の勧め」みたいな時間があって、要はこんな話をされるからだ。
「無料でこの集会に参加してるんだから、献金して当然だよね? 払わない・・・なんてことないよね? 会場費だって運営費だってかかってるんだよ? タダなわけないよね?」
もちろん、厳密に言えば「自由」である。しかし所属教会の礼拝なんかで「献金は自由だから今日は払いません」みたいなことをしていて、それを公言していると、そのうち牧師室に呼ばれるハメになる(そういう教会がある)。
つまり「自由」だけれど、クリスチャンのモラル(?)、教理(?)として、献金するのは当然とされているのだ(それは基本的に間違っていないと思うけれど)。
つまり「自由」だけれど、クリスチャンのモラル(?)、教理(?)として、献金するのは当然とされているのだ(それは基本的に間違っていないと思うけれど)。
わかりやすく言うと、「自由」というのは「金額は自由」「多ければ多いほど良い」という意味であって、「払う・払わない」の自由なのではない。
という勘違い(?)。
という勘違い(?)。
もちろん教会によっては完全に自由のところもあると思うけれど(そっちの方が正常であろう)。
・「トクサン」の謎
伝道集会なんかを開くとき、「じゃあ今回のトクサンどうしようか」みたいな話になる。
クリスチャンになったばかりの人はこの「トクサン」の意味がわからなくて、困惑したことだろう(たぶんすぐわかると思うけれど)。私もそうだった。
クリスチャンになったばかりの人はこの「トクサン」の意味がわからなくて、困惑したことだろう(たぶんすぐわかると思うけれど)。私もそうだった。
この言葉から私が勝手に想像したのは、たとえば「地域の特産(トクサン)品」 を毎回の集会で披露する習慣があって、今度はどこの特産品にしようか、みたいな話である(なにその習慣)。あるいは「特別3号」とか呼ばれる何かがあって、略して特3(トクサン)と呼んでいるのか、みたいな話だ(ますますわからない)。
まあ要は「特別賛美」のことで、会衆みんなで歌う賛美でなく、一応歌のうまい人が舞台に立ってカラオケみたいに賛美の歌を熱唱することである。
プロの歌手が来て歌ってくれるならコンサートとして体を成すだろうけれど、素人に毛が生えた感じの人(おっと失礼)が額に汗して熱唱したところで、会衆は個人のカラオケに付き合わされるのと同じである。それでハレルヤとかアーメンとか、内輪で盛り上がるのは結構だけれど、 それを新来者がくる集会でやるのはまずいだろう、というのは私の個人的意見である。
・オマケ
「トクサン」の話でちょっと書きたいことがある。
たぶん、上記の記事を読んで、「素人でも一生懸命頑張って賛美するんだからいいじゃない。神様は受け入れてくれるわ」みたいな意見を持つ人もいると思う。
それについて補足しておくと、べつにそれ自体が悪いのでない。ただ何も知らない新来者に素人の歌を聴かせるのだから、「歌ってあげている」という態度でなく、また「神様に捧げているんだから多少下手でもいいんだ」という態度でもなく、「人様に聴いていただいている」「人様に時間を割いていただいている」という態度が絶対必要だ、と私は思う訳である。
ある牧師がいて、音楽をちょっとかじった経験があったせいか、「僕は音にはうるさいよ」などと普段から言っていた。それで伝道集会のたびに音響を入念にチェックして、リハーサルをしつこいくらい重ねて、「音作り」に励んでいた。だから信徒らはみんな、「ああこれが良い音なんだな」とか思っていた。
ある時もそんな感じで集会の本番が始まり、特に問題なく終わった。そこへ信徒の母親がたまたま(義理で)来ていた。実は彼女はいわゆるコンサートマニアで、プロのライブに通ってウン十年という経歴の持ち主だった。 だから耳が肥えていた。すごく。
そんな彼女が帰り際に言ったセリフを、私は今もはっきり覚えている。
「まあ(歌っている人たちは)頑張って練習したんだと思うけど、音響がちょっとひどかったわね。キンキンして聴けたもんじゃなかったわ」
という訳で未信者の方がはるかに高い基準を持っていることがあるから、教会の方も自己満足レベルではいけないのである。もし、本気で未信者を獲得したいと思うなら。そうでないなら内輪受けでも何でもいいのだけれど。
>「イエス・キリストの御名によって(罪から)清められる」
返信削除ブログ主さんの取り上げ方の問題ではないのですけど、
「御名」って普通「ぎょめい」と読みますよね。
辞書ひくと「天皇の名前」<例・御名御璽>と出ているのに、
福音派のみならずプロテスタント教会全体がそれを「みな」と読んで
「三位一体の神(特にイエスキリスト)の名前」にしているのが、
なんだか日本語の単語を横取りして読みを変えて意味を差し替えている気がして、
いやいや、「表現」ならまだいいのですけど、
石丸新先生の書かれたブックレットのなかで、
54年版讃美歌には、このような旧天皇制の遺物が
用語として存在する、とのように書かれてしまうと、
じゃ、「御名」を「みな」と読むのもやめない?
って思いませんか?
ほかにもあると思いますけど。
んまぁ~、そしたらほかにも「求道」「悪霊」とかあるよね。
返信削除どちらも日本の仏教や神道で(ぐどう)(あくりょう)でしょ。
私が行ってた教会に「本当は聖書の『主』を神と言ってはいかん!神は日本語だし、八百万の仲間になっちまうダロ!」と声高に言う人が居たっけ…。
勘違いした言葉と言えば、「終末」ですねー。
やっぱり「ウィークエンド」かと思っちゃいます。
>「本当は聖書の『主』を神と言ってはいかん!神は日本語だし、八百万の仲間になっちまうダロ!」
削除だから、わざわざ「創造主訳」とかいう聖書が出現したと。
いっそ、「父なる神」を「父」、イエスキリストは「キリスト」、聖霊は「聖霊」(←御霊、ではない!「御霊」も神道用語だし)といえばスッキリするのに。
「神」が神道用語で一緒にしたくないのなら、「父」でよかろうにね。イスラム教の礼拝の対象は「アッラー」で認知されているし。
あと、「御心」も「御言葉」も本来は天皇陛下のそれなのに、「御言葉」なンか、国が気を使ってくれたのか「おことば」と読むし。
ついでに「アガペー」も「御大切」にすればいいのに。
や、言葉狩りではなくて、そうして「神道用語」を取り除いたのが「讃美歌21」です、とか言われると、辛くて辛くて(苦笑)
新興宗教系プロテスタントが愛(アガペー)をご大切と訳すことは絶対にしないと思いますよ。だって焼香拒否をみればわかるでしょうに。彼らは他者の大切にしているものを絶対に尊重することはありませんからね。
返信削除彼らは入信時に創価学会や顕正会と同じように謗法払いをします。学会がお守りや学会以外の仏壇を捨てさせるように、新興宗教系プロテスタントでは仏壇をハンマーでめちゃくちゃに壊しておたきあげをすることが神の御心にかなうと思っているのです。
釈迦は誕生した時に「天上天下唯我独尊」といいました。これは一般に「すべては自分のもの」という傲慢な解釈をされているようですが、本当の意味は「この世に生きとし生けるものは、すべて同じように大切なものだから尊重されなくてはならない」という意味なのだそうですよ。
つまりご大切とは天上天下唯我独尊なのです。神も仏も生きとし生けるものをありのままで受け入れて大切にする方だということなのです。こんな解釈を新興宗教系の宗教団体は絶対にすることはないでしょうね。
子供がカトリック幼稚園に通っていた頃の話です。
返信削除七五三のお祝いの後に「おメダイ」を頂きます、とお知らせプリントに書いてありました。
「おメダイ」って何だろう…?
鯛のお頭でもご馳走してくれるのかな?
お祝いだしきっと「お目出鯛」って事で…(笑)。
じゃあお箸持参なのかなぁ~?
当日、念のためお箸を持って行きました。
訳を話したら先生方みなさん大爆笑!
恥ずかしかったけど、良い思い出です。
「おメダイ」ってこういう物だったのね(笑)。