精神科医のキューブラー=ロスが提唱した、「死の受容段階」という考え方がある。
末期患者の心理状態を分析・分類して一応の順序を付けたものだ。つまり自分がもうじき死ぬとわかった人間が通る(とされる)心理状態で、以下のような段階がある。
①否認と孤立
ショックを避けるため「まさか自分が本当に死ぬわけない」と否認する。
②怒り
死が現実であると認めざるを得なくなり、「なんで自分なんだ」という怒りの感情を経験する。
③取引
どうにかして生きるための方法を考え、「もう財産はいらないから命だけは」というような取引をする。
④抑鬱
病状が悪化し、死を避けられないと知り、無力感、絶望感から抑鬱状態になる。
⑤死の受容
死という現実を受け入れながら、残された人生を静かに見つめ、前向きに生きようとする段階。
もちろんこの通りの順番で段階的に進んでいくとは限らない。ある人はある段階に留まりつづけ、ある人はある段階をスキップする。複数の段階が混在することもあるだろう。
これは医療分野であればおそらくどんな職種でも学ぶことだと思う。だから知っている人も多いだろう。
ところでこの「死の受容段階」をカルト被害者に当てはまようとする、余計なお世話な(おっと失礼)牧師がいる。
彼いわく、「カルト被害者もこの段階を通るのだと思う」とのこと。
それでこの被害者はこの段階、あの被害者はこの段階、そっちの被害者は・・・よくわからない、みたいなことを言う。
なんか勘違いしているようなので書いておくけれど、カルト被害者は死を宣告された患者ではない。むしろカルト被害から脱した訳で、ベクトル的に逆方向なことが多い。もちろん被害は様々だから一概に言えないけれど、カルト被害から脱した後に、それ以上の死の危険を感じて絶望する、なんてそうそうない。
だからカルト被害者に上記の受容段階を当てはめることはできない。死が目前に迫っているのではないのだから。そんなの当たり前なのだけれど、なぜそんな勘違いをするのだろう。そっちのほうが不思議である。
現に私自身もそうだし、知り合いたちもそうだけれど、上記の段階など通っていない。
少なくとも私は現実を否認しようなんて思わなかったし、「なんで自分なんだ」と怒ることもなかった。取引する理由も必要もない。また最後の「抑鬱」と「受容」は、むしろカルト化教会時代に感じていた段階だ。つまり永遠に終わらない奉仕に追われて抑鬱状態だったし、それでも神様を信頼せねば、という前向き思考だった。
そこから解放された訳で、「受容段階」など関係ない。
たぶんその牧師は、カルト被害について実際には何も知らないのだと思う。だからそういう勘違いをするのだろう。知らないなら勘違いしても仕方ないけれど、だったら初めから黙ってろって私は思う。
またそういう牧師が、この被害者はこの段階、あの被害者はこの段階、みたいなトリアージをするのも馬鹿げている。いったい何がわかってるんですか? と私は思う。そしてそれ以前に、そういう段階づけにいったい何の意味があるのだろうか。 少なくとも回復には関係ない。むしろ間違った段階づけなだけに害がある。
カルト被害者は何かを受容しなければならない存在ではない。むしろ何も受容しなくていいこと、義務に感じることなど何もないことを知るべき存在だと私は思う。 カルト化教会あるいは牧師から、さんざんいろいろなものを受容させられてきたのだから。
信徒が、歩み寄って「ここは・・・これは・・・」と言うと、牧師が信徒に 「牧師を裁くのか?」と怖い剣幕で怒鳴る。誰か、カルト化された教会の牧師を制する見張り人はいないのか?っていう信徒の切実な悩み。
返信削除ひどい話だとは思いますが、残念ながら教会の牧師を制する見張り人はいないといえましょう。
返信削除いえ、いないといえば語弊がありますか。正しくいえば、「見張り人をおくシステムを作り上げるのは、新興宗教系プロテスタントにおいてはきわめて難しいものである」ということになるでしょう。
カトリックと違って本山がありませんので、当然聖職者の階級制度はありません。信者には階級制度を設けても、聖職者に階級制度を作ることが物理的に不可能なのが、プロテスタントというものなのです。その性質から聖職者を管理監督するという発想も出てきません。司祭には司教という見張り人がいますが、牧師には司教にあたる存在がないのです。
なるほど・・・・そういう体制なのか。
削除教えてくれてありがとー。
早々とそこを出ねば・・・